大阪府摂津市JR千里丘駅周辺密着情報!!

ご迷惑とご心配

名だたる大企業であるトヨタの経営者が大規模リコールで。

名だたる大企業である日本航空の経営者が事実上の経営破綻で。

大政治家である小沢氏が秘書の逮捕で。

大政治家である鳩山氏が故人献金疑惑で。

その他にも企業の不祥事、犯罪行為、食の安全を脅かすような問題。

そのすべての経営者、当事者が記者会見の場において判で捺したように
「みなさまに多大なご迷惑とご心配をおかけしましたことを深くお詫び申し上げます」
などとぬかす。

まともな謝罪のしかたも知らないのであれば経営者や政治家などやってほしくないものである。

いくら前段に 『多大な』 を付けようと、『迷惑』 などという軽いものではないだろう。

迷惑とは相手に戸惑いを与えたり不快にさせる程度の意味であり、庭の水まきをしていて、そのしぶきが通行人にかかってしまったくらいの、水が乾けば何の支障もないくらい軽微な意味でしかなく、他人の生命に関わったり人生に関わったりするほど重大な過失を謝罪する場で使うに値しない言葉である。

また、それに続く 『ご心配』 とは何ぞや。

このセリフを聞かされる度に
「テメーのことなんか心配するかボケっ」
「従業員以外はお前の会社のことなんて心配してねーよ」
などと心の中で毒づいている。

そもそも、この
「ご迷惑とご心配・・・」
という謝罪は芸能人から始まったと記憶している。

人を死に至らしめる場に居た押尾氏とか覚せい剤に手を出した酒井氏も使っていたが、それが始まりでなく、誰が最初かは忘れてしまったが、もっと軽い場での謝罪だったはずだ。

本人が怪我をして仕事を休んでしまった後の復帰会見だったか、あるいは病気だったと思うのだが、その場で使われたセリフとしては的を得ている。

仕事を休んだことでスタッフや共演者、所属事務所などに 『ご迷惑をおかけし』、応援してくれるファンの皆様に 『ご心配をおかけしました』 ことを深く 『お詫び申し上げます』 という種のものだ。

これなら何の違和感を覚えることもなく
「ああそうだね、元気になって良かったね」
という気分にもなれると言うものだ。

ところが最近では冒頭に触れたように、どんな立場の人であろうと、どんなに重大な過失や案件であろうとみな同じセリフを使う。

直近の話題で、例えばトヨタの場合、『ご迷惑』 などという一言ではなく、一体何をやらかしてしまったのか明確にすべきであり、『ご心配をおかけ』 したのではなく、『不安をあたえ』 たり 『ご心痛をおかけ』 してしまったのだろう。

トヨタの記者会見、あいさつで同社の Webページに掲載されている最初の二行はユーザを軽視、小馬鹿にしたようなものだ。
http://www.toyota.co.jp/announcement/100205.html

本来であれば 『ご迷惑』 などという言葉は使わずに
「お客様の命に関わるほどの重大な欠陥を生み、さらには対応の遅れまでも引き起こし、迅速な処置をすることができず」
と、何に対して謝罪するのかを明確にし、『ご心配』 など誰もしていないのだから
「お客様に不安を与え、ご心痛をおかけしましたことを」
と、正確な日本語に改め、『お詫び』 などという軽いものではなく
「深く謝罪いたします」
と結ぶのが正しい謝り方なのではないかと思う。

どいつもこいつも顧客を軽くあしらっているのか、頭が悪いのか、そんな謝罪の仕方だと事態に対して真摯に取り組む気があるのか疑わしくすらなってくる。

経営者や政治家の周りには高学歴のものもいれば、賢者、老獪な人もいるのだろうから誰か一人くらい注意してやっても良さそうなものだと思うのだが。

超多忙につき

雑感を書くヒマがなかったので更新するのをやめようかと思ったりしたのではあるが、せっかく毎週の更新を休まずに続けていることであるし、ここで更新が途切れるのもいかがなものかと考え、やっぱり数行でも何か書いておくべきであろうという思いに至り、こうして適当なことを綴っていたなら何か面白い話題でも浮かぶのではないかと期待したものの、そんな甘い期待は淡くも消え去って楽しいネタなど思いつかぬまま、ただいたずらに文字数だけをかせいでいる状態であるのは誰の目から見ても明らかだったりするのであって、これ以上は時間の無駄だったりハードディスクの無駄遣いだったりするのであろうから、「いい加減にしろ!」 と叱られる前にやめておいた方が良さそうな気がしないでもない。

一過性のものかも知れないが、とにかく今は超多忙なのである。

犬たちのいる風景 2010年冬の2

今年は例年になく雪の多い年なのだそうで、何度も除雪しなければならないことと、その雪の捨て場所の確保に困り、ずっと格闘が続いている。

しかし去年もそうだったように、今年の冬も雪が積もって楽しいことだってある。

家の前に積もった雪には去年と同様にお母さんと犬の足跡が残っている。

いつも必ずある足跡なので、それがないと心配になってしまうくらいだ。

実はその足跡を目で追うと、隣の家の敷地に入って行く跡と、そこから出てくる跡がある。

お買い物日記』 担当者が隣の奥さんに聞いてきた話しだと、その犬とお母さんは以前の雑感に書いた隣で飼われている狸顔の犬と友達なのだそうで、いつも立ち寄っては少し遊んで帰っていくのだそうである。

で、その狸顔の犬は独り言に書いたようにカラスが怖い。

悪いことに隣の家の角がごみステーションになっているため、ゴミの日となると何羽ものカラスがやって来て塀の上や電線にとまっている。

そうなったら狸顔の犬はもうダメで、「くぅ~ん、くぅ~ん」 と実に悲しげな声で奥さんを呼び、なんとかして家の中に入れてもらおうと必死になるのだ。

散歩帰りにいつも犬小屋を見るのだが、ちょうど同じ頃に散歩に出かけていることが多く、なかなか姿を見ることができない。

逆に奥さんが外にいてゴミ出しの準備をしていたり除雪をしていたりすると犬小屋にいるということになるので、朝の挨拶もそこそこにジッと小屋に視線を送ることが多くなってしまう。

隣の奥さんもそれに気づいているらしく、つい先日も朝の挨拶をした後に犬小屋を見ていたら 「今日は寒いから玄関に入れているの」 と先回りして言われてしまった。

玄関にマットを敷いてあげて、その下に使い捨てカイロを入れてやったところ、ことのほかそれが気に入ったようで、犬はその上でジッとしたまま動かないそうだ。

猫はコタツで丸くなっても犬は喜び庭駆け回るものである。

それがホカホカのマットの上で丸くなって動かないとは何という奴か。

そして、この近所で飼われている犬は血統書などない雑種でもみんな可愛がられて幸せそうだ。

近所にある薬屋さんで飼われていた犬も雑種ではあるもののとても可愛い犬だった。

家の裏の広い範囲が金網で囲まれ、その中で自由に動き回っている犬だった。

昼間は日当たりの良い庭につながれ、夏の日差しが眩しい日などは木陰て昼寝している優雅な暮らしぶりの犬だった。

あまり番犬としては役に立たないだろうが、一度も吠えられたことはなく、ほんの数回しか声を聞いたことがない犬だった。

どこかボーっとしていて横を車や人が通ろうが気にすることなく、いつも遠くを見ている犬だった。

餌を食べていると周りをカラスが取り囲み、すきを狙って横取りされるような間抜けな犬だった。

あまり機敏に動くほうではないのに朝の散歩で通りかかると体を斜めにして家の裏からこちらを見てくれる犬だった。

・・・。

この冬、その犬が姿を消した。

・・・。

例年になく寒い日が続いたので、最初は家の中に入れてもらっているのだと思っていた。

一週間が過ぎても二週間が過ぎても犬は姿を表さなかった。

そして犬が飼われていた場所に雪が積もり、二度と足跡がつくことはなかった。

・・・。

とても大好きな犬だっただけに、居なくなってしまったことはとても悲しいし寂しい。

しかし、愛情いっぱいに育てられたのだから、幸せで満足できる飼い犬生活だったことだろう。

生あるものには必ず死があるのだから現実として受け止めなければいけない。

そして、その他の犬たちには一日でも長く生きてもらって楽しませてくれることを願うとしよう。

犬たちのいる風景 2010年冬の1

この町に住み始めて二年、ずいぶん顔なじみの犬が増えた。

ずっと続けている散歩で良く顔をあわせる犬もいれば、近所で飼われている犬もいる。

散歩帰りに会うのは独り言に何度か書いたポメラニアンだが、最初の夏は毛を短く切られ、生まれたての熊ようにも見える何だか犬種の分からない妙な奴だったのだが、今はフサフサの毛をなびかせて歩く立派なポメラニアンとなった。

片足を上げてマーキングした後に、そのまま逆立ちをして進むのは相変わらずで、もうすっかり見慣れた光景となっている。

小さな体で短い足を高速回転させて狭い通りから姿を表し、次の四つ角までたまに逆立ちしながらチョコマカと進み、少し立ち止まって引き返したかと思うと近くの草むらでプリッと糞をして、後ろ足で土を蹴ってあらぬ方向に飛ばして満足気な顔をしつつ帰ろうとする後ろで、お父さんはせっせと糞をひろってビニール袋に入れて持ち帰る。

その距離、たかだか 100メートルくらいなものだと思われるが、体が小さいので散歩の距離としては満足できるのかも知れない。

なかなかタイミングは合わないが、たまにポメラニアンの帰りとすれ違い、すぐ横を通る際には自分より 『お買い物日記』 担当者に興味があるようで、必ず寄ってきては顔を見上げてみたり、前足で触ってきたりするのが可愛らしい。

そのポメラニアンと別れた後、脇道を通って帰路に着くのだが、その細い道にある家のベランダの窓から、いつもヨークシャー・テリアが外を眺めている。

最初の頃はワンワンと吠えられたが、最近は見慣れたのかジーッとこちらを見ているだけだ。

この犬を可愛がっているのは家のご主人なのだが、たまに散歩帰りの姿を見かけると犬は自分で歩かず腕に抱かれて帰宅する。

トコトコ歩いている姿を見かけたこともあるので決して老犬で足腰が弱っているという訳ではなく、単に甘えているものと思われるのだが、飼い主は抱っこを要求されると半分は仕方なく、そして半分は喜んで抱いているのだろう。

以前の雑感にも書いた近所にある美容室の横で飼われている実にボーっとしており、いらぬ心配をさせられた犬は相変わらずボーっとはしているものの、とりあえずは元気そうだ。

以前は顔を見る度に 「ぼふ」 っと吠えられたが、今年になってからなぜだか吠えられなくなった。

いくら吠えて威嚇してもニコニコと手を振っていたので、「ダメだこりゃ」(©いかりや長介) と諦めたか呆れてしまったかしたのかも知れない。

家の人には相変わらず可愛がられており、雪が吹き込まないように犬小屋の前に塀を作ってもらったり、とても寒い日には中に毛布まで敷いてもらっている。

ところが朝の散歩の時に見ると入り口から毛布が蹴り出されていることもあったりするのだが、寝ていて暑く感じるのだろうか。

朝の散歩の第二コースにいる美形な犬も、少しボーっとしているが相変わらず元気そうだ。

ごく稀に会うゴールデンレトリバーや、まるで熊のようにモコモコで大きな犬も元気にしている。

ただ一匹の犬を除いては・・・続く。

マサルノコト scene 26

北海道に帰ってきたのが原因なのか、このところ良く少年時代のことを思い出す。

やはり強烈な印象として残っているのはマサルと同じクラスで過ごした中学二年と三年のころで、他のどの時代よりも楽しく、そして虚しく、心も体も子供から大人に変わるその期間、生や性について考えたり悩んだりしたものである。

自分は生と死に関して深く興味を持ちつつも当然のことながら答えなど見つかるはずもなく、いろいろ考えているくせに命を大切にする訳でもなく、「いつ死んでもいいや」 などとうそぶきながら不良仲間とムチャクチャなことをして遊んだり優等生のマサルと付き合ったりと実に不安定な生活を送っていた。

徹底的に悪くはならないように自分を引っ張ってくれたり叱ってくれたりしながら見守ってくれたのは以前に書いた通り当時の担任とマサルだった。

そのマサル自身に悩みがなかったのかと言えば、同じ思春期を過ごす者として一人だけ安穏とした日々を送っていたはずもなく、マサルはマサルなりの悩みがあったに違いない。

常に自分のお目付け役を演じ、実年齢も精神年齢も上であったマサルに何か相談されることなど数えるくらいしかないが、こと恋愛に関してはとことん臆病で慎重であるがゆえに何度か相談されたことがある。

修学旅行で行った先の宿、みんなが寝静まってからもマサルと二人、延々と話し続けて空が白々と明るくなってきたこともあった。

宿についてから食事をとり、就寝前までは恒例のマクラ投げやら何やらでドタバタと暴れまくり、他の同級生たちは疲れきって眠ってしまった。

何せ担任が火災報知器を指差し、「あれはホコリも感知するんだから暴れたら警報が鳴るぞ」 と脅かされていたのを無視し、天井にある器具にビニール袋をかぶせてテープで固定し、ホコリを遮断してまで騒いでいたのである。

おまけに深い時間になると電気を消して廊下に見張りを立たせ、有料テレビの硬貨投入口に針金を突っ込んで操作しながらアダルトビデオを鑑賞し、夜遅くまで目をランランと輝かせていたのである。

深夜の時間帯になると一人、また一人と脱落者が現れはじめ、とうとう起きているのはマサルと自分だけになってしまった。

そこでボソボソと話しをしていて同級生を起こしてしまうと申し訳ないことと、あまり人に会話の内容を聞かれたくないこともあり、二人でそっと部屋を出て各部屋にある玄関のような狭い場所にあぐらをかいて話し続けた。

今から思えば実にたわいのない話しだったり悩みだったりするのではあるが、マサルが想う彼女の真意がどこにあるのか、仮に彼女がああ思っていたら、こう思っていたらなどと、現実と想像、妄想の中で遊んでいた。

当たり前のことではあるが、その会話で答えなど見いだせるはずもなく、鳥のさえずりを聞いてから布団にもぐりこみ、それから泥のように眠った。

翌日からの移動中や観光地めぐりなど、一切の記憶が残っていないのは言うまでもない。

記憶 Memory-02

過去の記憶

まだ乳幼児だったのでハッキリとした記憶が残っているわけではないが、以前の雑感にも書いているようにとにかく体が弱く、小児ぜんそく持ちだったのに加えて世の中で流行する風邪のすべてに感染するほどの病弱者で、頻繁に病院通いをしていたらしい。

医者にもすっかり顔を覚えられ、「また来たか」とか「毎度さん」などと言われていたとのことだ。

そんな会話のことなど記憶にあるはずないが、窓際に置かれたスチール製の机、その横にある患者が座る用の椅子、左側の壁にはガラス扉のついた棚があり、中には本とか分厚い辞典のようなものが入っている風景だけはボンヤリと脳の片隅に残っている。

今ほど医学も医療器具も発達しておらず、銀色の装置の中にはシュンシュンとお湯が沸き、その中に何本もの注射器が並べられている。

たぶん当時は使い捨てではなく、熱湯消毒して何度も注射器を使い回していたのだろう。

あれだけ病院に通い、まだ赤ちゃんなので腕が細すぎるという理由から、太ももの筋肉が今でも陥没しているくらい何度も注射されたのに、肝炎ウイルスに感染しなかったのは奇跡的なことかも知れない。

それだけ注射をされたなら、普通の子供であれば病院に行きたがらず、看護師さんや医者の白衣を見ただけで恐怖におののき、呼吸困難になるのではないかと心配されるくらい大声で泣き叫び、体の水分がなくなるのではないかと思われるくらいの涙を流しそうなものであるが、どういう訳か人見知りもせず医者や看護師の顔を見てニコニコと愛想をふりまく赤ちゃんだったらしい。

さすがに注射で針を刺された瞬間は 「ギャッ」 と泣くものの、それが終われば何事もなかったように機嫌よくしており、みんなから可愛がられたのだと言う。

そう言えば今でも病院に行くのは面倒であるものの、体を診られること自体は嫌でも怖くもない。

きっと赤ん坊のころから通い詰め、病院に対する抵抗感が皆無に近いのだろう。

実は男のくせに便秘気味であることは、この雑感や独り言でたまに触れている通りである。

それは持って生まれた体質らしく、幼児のころから便が出ずに親も困っていたらしい。

確かに記憶しているのは、オマルにまたがった自分を母親も父親もニコニコする訳ではなく、必死の形相で 「ほれ、う~ん!ってしなさい」 とか言っている姿だ。

一人でトイレに行けるようになってからも、あまりにもお通じが悪いのでドアを開けたまま母親が仁王立ちになって 「もっと頑張んなさい!」 などと激昂を飛ばしたりしていた。

ただでさえ便意をもようしていないのに、たとえ母親であれ人に見られたままの状態で、ガンパレと言われたからと言ってブリブリっと出てくれるほど人間の体は単純にできてはいないのである。

そんなことが何日も続くと、いよいよ病院に連れて行かれ、見ただけで気絶しそうになってしまうほど大きな注射器みたいなもので浣腸される。

少しして腸の当たりがボコボコと音を立て始めると、愛想も色気もない単に白いオマルに座らされて看護師さんがニコニコしながら 「でるかなぁ~?」 と優しく声をかけてくれる。

その横から椅子に座ったまま体を斜めにし、真剣な顔つきでこちらを凝視する母親。

その視線を無視し、やさしい看護師さんの顔を見ながら 「う~ん」 とすると、カランコロンと妙に乾いた音がした。

看護師さんはオマルの中を見て 「まるでウサギのウンチみたいだね」 と笑う。

確かに、こそにはパチンコ玉より少し大きい程度の真ん丸な黒い物体が三粒ほど転がっていた。

この話しにオチはないが、この記憶はいったい何歳くらいの出来事なのだろう?

忘れなければ次の帰省の際にでも母親に聞いてみようと思うが、昔のことは覚えているクセに最近のことや、やらなければいけないことなどは次から次に記憶の彼方に消えてしまう今日この頃なので、きっと聞くのも忘れてしまうに違いないと予想される。

メガネ装着時間

メガネ生活を始めてから約 2カ月が経過した。

当初はまったく馴染めず少し苦労したが、最近は装着している時間が少しずつ長くなってきた。

最初はテレビを見る時だけだったが、今は家の中を移動する時もはずさずに歩けるようになった。

メガネをしたまま歩くと、どうも平衡感覚か距離感が普段と異なり、ちょっと歩を進めるのが怖かったのだが今は部屋の中もトイレまでも寝室へもスタスタ歩ける。

しかし、今はまだそこまでで、外に出るときはメガネを外さなければ怖くて歩けない。

きっと慣れの問題なのであろうから、外でもメガネをしたまま歩く練習をしなければ、いつまで経っても恐怖心が抜けないであろうことくらいは分かっているのだが、正直なところあまり必要性も感じていないのが事実なのである。

いったいどういう具合なのか理解できないが、ある一定以上の距離になると何の問題もなく見えるので、メガネがなくても困らない。

いくつか先にある遠くの信号機でも青なのか赤なのかハッキリ認識できるし、道路標識に書かれている文字も読むことができる。

遠くの山に雪が積もっているのも、その山肌を走る道路だって見えるし、生えている木が紅葉したり葉が落ちて枝だけになっているのも労せずして判別可能だ。

もちろん道路を横断する際に遠くから車が来ていれば分かるし、遠くの空を飛ぶ鳥だって見える。

そんなこんなの理由から、外でメガネをする必要性はまったく感じられず、むしろ感覚が狂って歩くのが怖いのであれば、しない方が良いということだろう。

家の中では装着している時間が少しずつ長くなってきたとは言え、やはり食事中は邪魔になるし、パソコン画面を見るときもメガネをしていると老眼が仇となり、見難くて仕方がない。

つまり、食事中とパソコン操作中、入浴、洗顔、就寝中は裸眼で過ごし、それ以外の時間にメガネをするので、つけたりはずしたりが忙しく、そのたびにメガネケースに入れたり出したりするのは面倒なので、現在はアクセサリーとして売られているチェーンというかヒモを装着して首からぶら下げるようにしている。

せっかく購入してテレビも見やすくはなったが、自分は一日の大半をパソコンの前で過ごしているので、メガネをしている時間は残念ながらなかなか長くなりそうもない。

進化の袋小路

また日本はデフレに入ったかも知れないなどと言われているが、実のところバブル崩壊後のデフレから抜け出せていないのではないだろうか。

2002年の雑感にも書いたようにデフレと言う名の病魔は簡単に克服できるものではなく、何十年と言う歳月を要するものらしい。

事実、イギリスは産業革命によって我が世の春を謳歌していたが新興経済国の台頭によって競争力を失い、1873~1896年もの長期不況に陥った。

その後も競争力を回復させられないまま20世紀に入り、二度の大戦と世界恐慌を経て、1970年代にサッチャー政権が登場するまで、経済の長期衰退が続いた。

その期間は実に 100年。

はるか昔にローマ帝国がデフレになった時も克服するのに 50年くらいかかったという。

日本は大不況を経験してからまだ 20年しか経過していないので、デフレの病巣を突き止め、摘出しきれていない可能性がある。

2000年くらいから経済が持ち直して好景気だったと言われているが、庶民には何の実感もなかったのが事実だ。

実は好況になどなっていなかったのではないだろうか?

数十年先に現状を分析すれば、ずっと下降線をたどっていた折れ線グラフが一瞬だけ上向きかけたもののそれは10年とかのスパンであり、50年、100年単位で見るとグラフは下がり続けているのかも知れない。

2-3年前から少しずつ値上がりした製品も再び値下げに向かっており、チーズやバターなどの乳製品は下落傾向にある。

そして、にわかに注目を浴びているのは PB(プライベートブランド)商品。

イオン、セブン&アイ、ダイエーなどが販売する、自主企画、独自企画商品と呼ばれるものだ。

その品数は多岐にわたり、現在も増え続けている。

庶民としては同じ品質のものが安く買えるのは嬉しいことだし、販売店も利益が出るのであれば双方にとって好ましいことのように思えるが、NB(ナショナルブランド)と呼ばれるメーカーの利益は相当に圧迫される。

研究開発費を投じて新商品を開発、既存の商品に付加価値を持たせても、すぐに真似されて PB(プライベートブランド)商品が出回る。

消費者は安いものを選ぶのでNB(ナショナルブランド)商品が売れない。

メーカーは少しでも売り上げを伸ばそうと価格競争に入る。

適正な利益が得られないので研究開発費の元がとれないという悪循環になってしまう。

例えば食品用のラップ。

日本製は引き出したラップを切りやすくなっているし、丈夫なので途中でちぎれたりもしない。

ところがアメリカやヨーロッパで売られているものは切りにくく、耐久性にも乏しいので箱から引き出している間にちぎれたりもするらしい。

おまけに付きが悪く、ラップをしても剥がれてしまったり、めくれてしまったりするという。

日本の製品が優れているのは、メーカーが消費者の立場になってモノを作り、研究開発が進んでより利便性が高め、発売後にも改良、改善を続けてくれるからである。

どうして日本と同じことができないのかと言えば、それは上述したように巨大資本、巨大な販売力を持つウオルマートみたいな流通業がすぐに PB(プライベートブランド)商品を発売してしまうのでメーカーが適正な利益を得られないまま価格競争に突入してしまい、改良、改善する費用も情熱も失ってしまうからだ。

そしてメーカーの力はどんどん衰え、新商品、改良品が生み出されなくなる。

そして、より便利に、より使いやすくという概念が失われ、進化の袋小路に入ってしまう。

それはメーカーにとっても消費者にとっても不幸なことではないだろうか。

我が家でも PB(プライベートブランド)商品を選んで買ってしまうこと多くなっているが、それはジワジワとメーカーを苦しめているのかもしれない。

マサルノコト scene 25

新年になって 9日も経過したが、やっぱりマサルからの年賀状は届かない。

正月に一通の賀状も届かないのは寂しかろうと今回も出してやったのだが、それの返事すら届かず、メールや電話の一本もないので来年からは放っておこうかという気分になっている。

知り合った中学生の頃、何度となくマサルの家に遊びに行ったが、部屋もきちんと片付けられており、とても几帳面な性格だったと記憶している。

授業で使うノートもキレイに書かれていたし、当時は音楽の記録媒体だったカセットテープも見事に管理されていたし、本棚には整然と小説などが並べられていた。

scene 7 に書いたように、ある日突然、何の前触れもなくアパートを急襲したこともあったが、まるで所帯持ちのように掃除が行き届き、整理整頓されている部屋に住んでいたマサルである。

筆不精かと言えば決してそんなことはなく、scene 16 に書いたが、まだパソコンもなく手書きするしかない時代に、もの凄い量の演劇用の台本を一人で書き上げたりするマサルだ。

そんな奴がどうして年賀状を出すのを面倒がるのかイマイチ理解できないのだが、それは面倒とかいうよりポリシーの問題なのかも知れない。

いつかの電話で
「新年の挨拶なんてくだらねー」
とか
「年賀状のやりとりなんかしてどうなる」
などと言っていた。

確かに普段は何の付き合いもなく、年に一度、その賀状でしか近況を知ることがない程度の知り合いと、延々と文字だけの、それも正月だけの関係を継続すべきかと問われれば必要性を疑問視せざるを得ないのは確かだ。

良く顔を合わせ、付き合いの深い人にこそ年始の挨拶をすべきであって、それも直接訪問しての挨拶が昔の主流で、その訪問ができないからこそ賀状というものが必要だったと推測される。

その点を考慮すればマサルの言っていることはもっともであり、正しいように思えてくるが、それにしてもわざわざ賀状を出してやっているというのにナシのつぶてというのは何たることか。

腹立たしいことではあるものの、わざわざ電話したりメールしてまで文句を言うのも面倒だ。

そう言えばもう 10年もマサルと会っていない。

電話で会話したのも 2007年の元旦が最後だ。

いろいろな事情はあったものの、結果的にはせっかく北海道に帰って来たのだから、たぶん今でも東京に住んでいるものと思われるマサルさえ飛行機に乗ってくれば、生まれ育った町で合流するのも以前より容易なはずだ。

何かのタイミングで久々に会うのも悪くはないと思っているが、何せ我家の場合は筆不精ではなくても出不精ときている。

余程のことがない限り、これから先もマサルと会う機会は訪れないかも知れない。

2010年の始まりに2009年を思う

先週、勢いだけで雑感を書き、草稿を書き終えたと思った瞬間に気づいた。

それが 2009年最後の雑感であることを。

2001年の終わりから02年03年04年05年06年07年08年と、その年の最後の雑感は 『20xx年の終わりに』 というタイトルで締めくくってきたのにコロッと忘れて普通のネタにしてしまったのである。

で、今になって去年を振り返ってみようと思っているのであるが、個人的にはそれほど大きな出来事などなく、どちらかと言えば世の中の動きのほうが激しくて、それについて行くのがやっとという感じだったように思う。

年の始めの 1月、そして 2月まで 『お買い物日記』 担当者の病気治療は続いており、そのための入退院を繰り返していたので何となく落ち着かない日々だったのは確かだが、それも今となっては思い出になりつつある。

それでも 2009年の出足として興味深かったのはアメリカでオバマ氏が大統領に就任したことで、白人以外の大統領が誕生するなんてソ連とかドイツの社会主義国が崩壊したのと同じくらいのインパクトがあった。

3月の思い出は何と言ってもワールドベースボールクラシック(WBC)で日本が二連覇したこと。

4月は SMAPの草なぎ剛氏が逮捕された件で、当時の報道では警察はやりすぎだとの批判もあったが、昨今の芸能界麻薬汚染を思うと当時から何らかの情報がもたらされていたための神経質な捜査、対処になったような気がしないでもない。

そして、今も尾を引く新型インフルエンザがメキシコ、アメリカで感染者数を増やし始めたのもこの 4月だった。

5月は当時の自民党政権が景気対策の一環として始めた 1000円高速道路の影響で大渋滞が発生したことと裁判員制度がスタートしたこと、そして新型インフルエンザ感染者が国内で初めて確認されたのが印象深い。

個人的にはこの 5月にビジネス上の新しいブレーンと知り合い、仕事の幅が少し広がった喜ばしい月でもあり、好きだった忌野清志郎氏が亡くなって悲しい月でもあった。

6月はアメリカ自動車最大手の GMが破綻したのに驚かされ、マイケル・ジャクソンが急死したことにも驚かされた。

7月にはやっとのことで麻生政権が解散し、総選挙への号砲が打ち鳴らされたのと日本では 46年ぶりに皆既日食が観測されたことが強く心に残っている。

8月は何と言っても衆院選での民主党の圧勝で、このインパクトはあまりにも大きく、世の中が大きく変る分岐点となったはずで、なかなか成果が見えないとか何とか結論を急ぎがちの日本人やマスコミではあるが、来年度からの政治、日本の経済、世の中は恐ろしい速度で変わっていくに違いなく、時代に取り残されないようにしようと思う。

もう一つ忘れられないのは薬物関連で押尾学氏や酒井法子氏が相次いで逮捕されたこと。

少し前に相撲界の大麻汚染が問題になっただけに世の中どうなっているのかと呆れたものだ。

9月は民主党政権になって揺れ動く八ツ場ダムの話題に持ち切りで、なぜ八ツ場を 「やんば」 と読むのかというでっかいクエスチョンマークは頭上に浮かびっ放しだったが、イチローが 9年連続 200安打というメジャー新記録を樹立してくれてモヤモヤした気分が吹き飛ぶ。

10月は先の衆院選で落選した中川昭一氏の急死に驚かされ、北海道日本ハムファイターズがプロ野球パ・リーグ優勝を決めてくれて喜び、三遊亭円楽氏の死去に悲しむという忙しい月。

11月は何と言っても整形してまで逃亡を続けていた市橋容疑者の逮捕劇と、民主党政権が公開ではじめた 『事業仕分け』 での蓮舫氏の張り切りが目を引いた。

そして 12月は政治がガタガタし始め、鳩山の由紀夫ちゃん邦夫ちゃんともママから浮世離れしたお小遣い貰って非難の的になったかと思えば小沢氏の元金庫番が在宅起訴されたりと忙しく、いろいろあった事件や事故のニュースがかすんでしまった感がある。

個人的にはこの 12月にもビジネス上の新しいブレーンと知り合い、仕事の幅が一段と広がったという実に喜ばしい月になった。

そして年が明けて 2010年。

今年がどんな年になるのかまだ 2日目なので何とも言い難いが、この歳になるととにかく健康が一番だというのが真っ先に頭に浮かぶ。

朝の散歩、例の体操も続け、毎日一歩ずつ進んでいこうと思う。

仕事も私生活も着実に一歩ずつだ。