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雑感 なんとなく感じたこと雑感 なんとなく感じたこと

報道の光と影報道の光と影

4月 27日、福田政権発足後初の国政選挙となった衆院山口2区補欠選挙で民主党が勝利した。 自民党の敗因は 『ガソリン税』 の暫定税率復活と 『後期高齢者(長寿)医療制度』 が 『うば捨て山』 制度と批判されていることだとされているが、どちらもマスコミのミスリードがあったのではないかと思わざるを得ない。

『ガソリン税』 に関しては、確かに道路族議員の暗躍やら何やらで良い印象はなく、必要もない道路を造っているという批判はあるし、もの凄い田舎にもの凄い立派な道路ができて、ろくに車も走らない光景がテレビに映し出される。 たしかにそういう道路は存在するだろう。 しかし、北海道に帰ってきて思ったり話を聞いたりすると、やはり本当に必要な道路はあるようだ。

地方には国道が一本しか通っておらず、天災などがあって道路が寸断されると陸の孤島になってしまい、救援も救助もままならない町や村、集落などが五万とある。 1リットル当たり約 25円の税金が必要か否かは議論の余地があるだろうが、本当にガソリン税によって道路が造られているのだとすれば、必要としている人達は確実にいる。

これは北海道に限らず、大都市以外の地域、地方では同じ問題を抱えているのではないだろうか。 マスコミは畑のど真ん中を立派な舗装道路が貫き、一台の車も走っていない光景を映し伝えるだけではなく、本当に必要としている人の意見も放送しただろうか。 そして、自民党も 「すでに予算が組んであるから」 という理由だけでなく、困っている地域のことを説明しただろうか。

仮に自民党が説明しているにもかかわらず、それが報道されないのだとすれば大きな問題だ。 政策や自民党のやり方を批判するだけではなく、国交省が管轄しているファミリー企業の無駄や箱物にまで道路特定財源が使われている無駄を省き、それでも必要とされている道路を造るのにどれだけの予算が必要で、そのためには何円のガソリン税が適当なのかを伝えてほしい。

『長寿医療制度』 に関しても、やれ 「うば捨て山」 だとか 「年寄りは死ねと言っているのか」 などという話ばかりがクローズアップされ、テレビには困っているお年寄りの姿が映し出される。 しかし、その制度を良く見れば一定以上の収入がある高齢者の負担は増えるが、基礎年金や平均的な厚生年金だけで暮らしておられる方の負担は軽減されることになっている。

それで負担が軽減され、喜んでおられるお年寄りの姿は伝えずに腹を立てて文句を言っているお年寄りや、悲しそうな表情で困惑しているお年寄りの姿ばかりをテレビ画面に映し出すことが公平、公正なことなのだろうか。 マスコミは自民党が負けることを望み、そうなるような報道をしたのではないかと疑いたくもなってしまうし、それに対して愚痴を言う自民党のことも理解できる。

確かに次の衆議院選挙でも民主党が躍進して政権交代が起こったら 1993年の細川内閣の時のように歴史的なことであり、マスコミもお祭り騒ぎになるだろう。 テレビの報道番組の視聴率も上がり、新聞や週刊誌も売れるかもしれない。 何よりもマスコミ自身が楽しくて仕方ないだろう。 しかし、そんなものに付き合うために国民は生活しているのではなく、そんなものに付き合っているヒマもない。

どんなことであれ、すべてにおいて完璧なことなどない。 必ずと言って良いほど光の部分と影の部分は存在する。 それの双方を伝えず、影の部分にのみ焦点を合わせるのはいかがなものかと思う。 自民党が良いとは言わないし、民主党が悪いとも言わないが、マスコミに踊らされることなく冷静に判断する大人の目線が一般市民に求められているのだろうと強く思う。

生態生態

いいかげん、オッサンであるからして、たいがいのことは知っている。 いや、知った気になっていたりするのであるが、実際のところは無知であり、何にも知らないことを思い知らされたりする。 自分が無知であることすら知らないのだから、実におめでたい根っからの阿保だったりするのかもしれない。

以前の雑感に書いたように、大人になるまでどれが薬指なのか正確に把握していなかったし、たまに 『独り言』 に書くように日本語の語源を知って感心することも多い。 自分は世の中のどれだけのことを知っているのだろう、実は何も知らないのではないかと不安になることもあるが、だからといって勉強する気になどならないという体たらくぶりだ。

最近になって義姉から 「タンポポは夜や雨天の日は花を閉じる」 と教えてもらった。 タンポポは子供の頃から良く見る花であり、確かに花が開いているのもあれば、たまに花を閉じているのもあるのは知っていた。 ただそれは、まだ開花前のタンポポなのだろうとしか思っておらず、一度咲いたタンポポが花を開いたり閉じたりしているなど考えもしなかった。

日が沈み、暗くなるまで外で遊んでいたのに昼間咲いていたタンポポが花を閉じていることを意識すらしなかったし、雨の日に花が咲いていないことにも気づかなかった。 子供の頃は花をめでることなどしないので、知らなくても気にしなくても当然かもしれないが、この歳になるまで知らなかったのは恥ずかしい。 そんなことは常識であり、知らなかったことを人に言えば笑われるかもしれない。

北海道もやっと本格的な春らしくなってきたので朝の散歩中にも多くのタンポポを見かけるが、見る目は以前と異なり、日陰になっているタンポポが花を閉じていることも雨の日は花を開いているタンポポが極端に少ないことも十分に意識したり確認しながら歩くようになった。

その散歩中、クルミなどの木の実が落ちていることがあるのだが、その中に人間でも困難であろうと思われるほど綺麗な真っ二つに割られたものも落ちている。 クルミ割り人形があるくらいなので、簡単に殻を割ることはできないし、道具を使って割ったとしても、あれほど見事な真っ二つにすることはできないのではないかと思われる。

いったい誰の仕業だろうと不思議に思っていたのだが、先日のテレビで動物の生態を放送しており、その中でリスがクルミを真っ二つにしているシーンがあった。 そう、04/17 の独り言に書いたリスたちが食べたものなのだろう。 テレビでは様々な動物を紹介しており、リスについて詳しく教えてはもらえなかったが、生態についてもっと知りたくなってしまった。

広く大きな公園に生息する鳥や動物、植物などの生態についていろいろ調べてみたいという欲求が頭をもたげてはいるのだが、以前にもスズメの生態を少し調べただけで、季節ごとに渡ってくる鳥などに興味を持ちつつも詳しく調べることなどしていない有様である。

やはり勉強など自分には向かないようなので、生態についてもの凄く気になったときだけネットでチョコチョコっと調べることにしようと思う。

時の流れ時の流れ

今日は 2月に他界した義兄の納骨がとり行われた。

無理な延命処置はしないと事前に医師と話し合いはしていたが、数時間かけて徐々に低くなる血圧、徐々に弱くなる呼吸、そして徐々に遅くなる心拍数を見ているのは本当に辛かった。

臨終と告げられても実感はなく、ただ呆然とたたずんでいる病室は、狭い空間でしかないはずであり、そこに家族や病院関係者が入っているのだから息切れすら感じてしまうほどの圧迫感があって然るべきなのにやけに広く感じた。

これ以上の悲しみはないのではないかと思われるほど悲しく、ただ辛く、まだ四十代の若さで逝ってしまった義兄を想うと胸が張り裂けそうになった。

家族葬で送ることにしたのが残された者にとって良かったのか、それとも逆だったのか、通夜、告別式とも弔問客がある訳でもなく、慌しさで気がまぎれることもないまま、ただただ深く、底が知れないくらいに深い悲しみに包まれた。

迎えた初七日、お寺さんのお経を聞いている間も元気だった頃の義兄の姿が思い出され、目頭が熱くなる。

七日ごとの御参りで少しずつ悲しみが和らぎ、あれだけ大きかった心の波が小さく小さく、さざ波のように穏やかなものへと変わる。

そして四十九日と納骨。

小さな骨になってしまった義兄が、それでも今日まで一緒に家にいた義兄が墓に入り、この家から居なくなってしまうという寂しさはあるものの、胸を突き上げるような、心の奥底から湧き上がるような悲しみに包まれることはなく、静かに、あくまでも静かに納骨を済ませることができた。

敬虔な仏教徒ではなく、普段はバチ当たりな ”なんちゃって仏教徒” である自分だが、七日ごとの御参りで少しずつ悲しみが和らぎ、四十九日になると人の心は落ち着き、故人が墓に入るのが当然であり、それで故人も落ち着くに違いないなどと思えるようになるのだから、よく考えられた日数だと感心する。

四十九日も経てば・・・というのが統計学的に導き出されたものなのか、お釈迦様の教えであるのかは不勉強であり、なんちゃって仏教徒なので分からないが、時が流れて悲しみが心に染み込み、溢れ出すことがなくなるのに十分な日数であることをつくづく実感した一日である。

マサルノコト scene 19マサルノコト scene 19

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突然ではあるが、マサルは目が細い。 体型はコロコロしている。 お笑いコンビ 『ホンジャマカ』 の石塚英彦、最近では 「まいう~」 でおなじみの彼を想像すると分かりやすい。 キャラ的に似ていることをマサル本人も嫌がってはいないようで、数年前まで届いていた年賀状にはホンジャマカ石塚の顔がプリントされたりしていたものである。

そのマサルの細い目が、常人と比較してどこまで視野が狭いのか気になって計測したことがある。 それはよくある測定方法で、ある一点を見つめたまま、上下左右どこまでの範囲で他の物体を捕捉できるかというものだ。

まずは左右を試してみたが、180度を越えるところまで見えているようなので一般人と変わりはない。 目が細いといっても小さい訳ではなく、横幅は差がないので見えて当然か。 次に上下を計測してみたところ、明らかに常人より視野が狭い。 普通であれば下はアゴのあたりから上は眉毛のあたりまで見えるはずなのに、その範囲が異常に狭いのである。

そんなマサルを馬鹿にして笑い転げていたが、大人だったマサルは 「うるせー」 などとは言うものの、本気になって怒るわけでもなく、一緒になって笑ったりしていた。 ずいぶんと長い付き合いになるが、今まで一度も喧嘩をしたことがないのはマサルが大人で、自分が勝手なことやワガママなことをしても我慢したり許してくれていたからだろう。

scene 13 に書いたように風紀委員長をしていたマサルは鬼の検査官でもあった。 今の中学校の校則がどのようなものか分からないが、同時は人権蹂躙もはなはだしく、服装から髪型まで事細かに規定されており、規定以上に髪を伸ばそうものならハサミを手に生徒を追いかけ回すような、現在であれば大問題に発展しそうな教師までいたくらいだ。

抜き打ちで持ち物検査をしたり、髪形の検査などもあったが、そんな時に率先して働かなければならないのもマサルの仕事だ。 当時、校則なんかくそ喰らえで髪を伸ばし、良からぬ物を隠し持っていた自分だが、カバンの中からコソコソと見つかってはならぬ物を制服のポケットに忍ばせ、伸びた横髪を耳にかけ、後ろ髪を制服の襟の中に隠して斜め上を見ながら嵐が去るのをじっと待っていた。

誰がどう見ても怪しい雰囲気をプンプンに振りまきながら息を潜めているのだが、髪の長さを計る定規を手にしたマサルは自分のところだけは適当に検査しながら、小声で 「おまえ、ええかんにせーよ」 と言って立ち去っていく。 当然、他の生徒たちからは 「きったねー」 とか 「ずるーい」 などと罵声を浴びせられるが、「うるせー」 などと言って毎回のように見逃してもらっていた。

教師もそれに気づいてはいるものの、「しょうがないなー」 とでも言いたげに苦笑いしながら見てみぬふりをしていてくれる。 もちろん、本格的に悪いことをすると教師に呼び出されて何時間も説教をされたし、時には思いっきり殴られもしたが、少々のことには目をつぶって見逃してくれる度量があり、「あなたのクラスの、あの生徒は・・・」 などと他の教師から言われても意に介さずにいてくれた。

勝手気まま、自由な中学校生活を送れたのは、マサルも含めた周りの大人たちの度量と、優しさによって守られていたからであると今になって思う。

裁判員制度裁判員制度

裁判員制度が来年から始まるが、本当に日本でその制度が成り立つのだろうか。 仕事を持つ人の場合、事件の内容を詳しく記した資料を読む時間があるのか。 小説のように物語になっているのならまだしも、難しい専門用語が入り混じった面白くもなんともない文章を読んで全容を把握することができるのか。 そもそも裁判所に足を運ぶ時間があり、会社がそれに理解を示すのか。

昨今の妙にショーアップされた報道番組で 『犯人許すまじ』 的な偏った内容を見せられ、被害者がどれほどまで苦しんでいるか、被害者の家族がどれほど悲しみ、犯人を憎んでいるかを見せつけられた後で、先入観なしの冷静な判断など可能なものなのか。 ついつい極刑の判断を下してしまいがちにならないものか不安を覚える。

客観的な判断ではなく、報道番組の主観がたっぷりブレンドされた内容に感化され、本当は無罪の人を 「どう考えても怪しい」 という理由だけで有罪にしてしまうことはないだろうか。 逆にどんな状況であれ罪を償わなくてはならない人を 「今まで不幸すぎたから」 とか 「可哀想な人だから」 などという理由で軽微な刑で終わらせてしまう危険性はないのだろうか。

今の世の中で一切の情報を遮断し、裁判所から提示される資料や公判の内容だけで事件を把握するのは困難きわまりないだろう。 あふれる情報の中から本筋をとらえ、偏った意見に左右されずに自らの意思で判断を下すことなど難しいのではないだろうか。

そして、特に日本人の場合は人の意見に左右されやすく、自分は 「無罪かもしれない」 と思っていても大多数の人が 「有罪だ」 と言えば流されてしまう危険がある。 また、複数の人が集まれば自然にリーダー格の人が現れ、自分の意見に近い路線でまとめようとする動きもでるかもしれない。 威勢のいい人が多く発言し、口下手な人、他人とのコミュニケーションが苦手な人が思ったことを言えないことも考えられる。

似たような制度である陪審制や参審制を導入している欧米各国のように個人主義であり、YES か NO かを明示し、「私はこう思う」 と自身の意見を主張できる国民性が必要だと思うが、そんなことが日本人にできるのだろうか。 勝ち馬に乗りやすい日本人が大多数の反論者を前にして 「これこれこういう理由から私は無罪だと思う」 などとは主張できない人が多いのではないだろうか。

あまりにも情け容赦ない判断ばかり続くのもどうかと思うが、大岡裁きばかりになってしまうのも問題で、その辺の加減も難しい。 そして、そのバランス感覚だけで担当している事件に判断を下すことも避けるべきだ。 やはり、ひとつひとつ個別の事案ごとに極めて冷静かつ客観的な判断が求められる。

めぐり合わせによって、誰がどの事件の裁判員に選出されるか分からないが、もし世間の注目を集めるような大事件に関わったとしたらどうだろう。 『光市母子殺害事件』 のように世間の注目度が高く、情報が氾濫し、なおかつ極めて判断が難しい事案の場合、自分だったらどうするか。

被害者遺族である本村氏の話や、各種報道の内容だけを受け入れた場合、「そんな奴は死刑にしてしまえ」 と短絡的に思ってしまう。 しかし、本当にそれで良いのか。 たしかに当時少年だった加害者側の弁護団には変わった人が多く、法廷戦術も納得できない。 それでも、加害者に反省の情が芽生え、少しでも更生の可能性があるのなら極刑に処すのは避けるべきなのか。

本当にこの日本で裁判員制度が成り立つのか多くの疑問が残るが、制度導入に反対していた人が日本弁護士連合会の会長選挙に落選したことでもあるし、流れは 2009年 5月からの開始に向けて強まっていくのだろう。

その時、自分にだけは順番が回ってこないことを強く祈るだけである。

生活の再認識生活の再認識

北海道に帰ってきて約一カ月、辛いことや悲しいこと、慣れないことや疲れることなど色々あったが、ようやく生活のリズムを取り戻しつつある。 朝は散歩がてらに近所を散策し、どうにか土地勘もついてきた。 もともと知らない街ではなく、法事が主ではあるが何度も訪れていたので最初から違和感はないのだが、生活するとなれば細かな道も知っておいたほうが良い。

もともとが道産子なので最初から知っていたことではあるが、長い大阪暮らしですっかり忘れており、あらためて思い出したり実感したりすることも多い。 最初に実感したのは信号無視する人がいないということだ。 大阪であれば、車も来ない道を信号が赤だからといって待っている人など学校でしつけられている小さな子供くらいなもので、大人では皆無に等しい。

ところがこちらの人は子供であれ大人であれ老人であれ、信号が青に変わるのを待っている。 当然といえば当然なのだが、そのあまりにも当然過ぎることが新鮮だったりする。 そういえばこういうものだった。 最初は大阪の人たちの信号無視に驚く自分がいたが、いつの間にかそれに慣れてしまい、当然のように道路を横断していた。 その感覚は改めねばなるまい。

散歩をしていて妙な感じがするのは風景がスカスカしていることも一因だ。 そのスカスカ感は高い建物がないこともあり、空がやたらと広く見えることもあるが、道幅が広いことも大きい。 北海道は雪対策のため道幅を広くする必要がある。 大雪が降って除雪する際、雪は道路の端に積み上げられるので、あらかじめそれを想定した広さが求められるのである。

そして、歩道も広い。 大阪であれば狭い歩道を人が行き交い、ジリンジリンとベルを鳴らした自転車が人の間を縫うようにして走るというのが日常の光景であるが、こちらではベルを使う必要がないくらいに余裕を持って通行できる。 それほどの人が歩いていないのが現実であったりするのではあるが。

そして、もうひとつのスカスカ感は家と家の間隔が広いことにある。 大阪は家が密集し、その間隔が 30cm くらいしかないところもあり、「いったいどうやってペンキを塗ったのだろう」 と不思議に思えるくらいだったが、こちらは家と家との間が最低でも 3m 以上は離れている。 これも理由は雪にあり、屋根から滑り落ちた雪が隣家の壁を直撃しないようにという配慮だ。

北海道の家には雨どいがない。 そんなものがあったところで、雪が降れば崩壊してしまう。 したがって雨は屋根を伝い、そのまま落下するのでダダ漏れ状態となってしまうが、そんなことは気にしてなどいられない。 雪から家を守るほうが重要なのである。

さらに北海道の家には雨戸がない。 そんなものを閉めていて凍り付いてしまったら、朝から晩まで暗い部屋で過ごさなくてはならなくなる。 そういう事態を避けるためには、最初から雨戸などないほうが良いのである。 ガラス窓であれば、たとえ凍って開かなくなっても日の光は入るので、暗く不便な思いをすることがない。

それ以外にも生活様式の違い、文化の違いなど関西とは様々な違いがあるが、とりあえずは散歩をしながら辺りを見渡し、北海道のことを身近なレベルから再認識している毎日だ。

再認識再認識

今回の引越しに関わる一連のことで、携帯電話の利便性と実力を改めて見直すことになった。 コンピュータ業界に携わり、パソコンの利便性に関しては熟知しているつもりだが、あまりにもそれに浸かり過ぎていたため、携帯電話を過小評価していたのである。

今までも携帯電話は所有していたが、それは携帯などと呼べるものではなかった。 第一、在宅勤務になってからは外出の回数がめっきり減ったので携帯する必要がない。 家に置いてあっても用件は固定電話にかかってくるので電源を入れておく必要すらない。 たまに外出する際も 『お買い物日記』 担当者が携帯電話を持っていれば、自分まで持つ必要がない。

むしろ休日や時間外に仕事の電話を受けるのは面倒だったので、あえて携帯しなかったというべきかもしれないが、とにかく携帯されない電話でしかなく、単に基本料金を払っているだけ馬鹿馬鹿しい無用の長物と化した文明の利器だった訳であり、たまに使うとしても音声通話が主で、E-mail の送受信など年に数通しかない状況だった。

それは主にパソコンを使っていたため、「何も親指だけで文章を作成することなどあるまい」 と思っていたのでり、実際に携帯で文字入力をしようとするとイライラして床に投げつけたくなったりしていた。 おまけにパソコンと比較して処理能力が劣り、「Web ページなんぞ見られたものではない」 と思っていたので使用頻度はますます低下する。

「使い物にならない機器」 という偏見から、機種変更もしなくなる。 いつまでも古い機種を持っているから輪をかけて使用頻度が低くなるという悪循環に陥り、結果的に通話もメールもしなければ、携帯もせず電源も入れない単なる電子部品の塊となってしまっていたのである。

今回は義兄の件があったので、いつどんな時でも連絡の送受信が可能なようにする必要があった。 それまで使っていた携帯端末は機種が古いこともあり、電池の寿命が極端に短くなっていたことと、一世代前の規格だったので通信速度が遅いことなどを理由に新しい機種に変更することにした。

そこで目の当たりにしたのは技術革新が恐ろしいほどの速度で進んでいる事実である。 搭載しているカメラは 500万画素を超え、通信速度はカタログスペックで下り 3.1M 上り 1.8M にも達している。 実際に手にしてみると、それまで使っていたものとは明らかな差があり、E-mail の送受信、ブログへの書き込み速度もストレスを感じないほどになっていた。

ただし、文字入力だけは相変わらずのストレスで、自分の指が思い通りに動かないことがもどかしい。 頭の中で文章を組み立てている速度で文字入力ができない。 しかし、これは機器のせいではなく自分側の問題なので克服するしかない。

機種変更してから新居に電話回線が引かれるまでの数週間、携帯電話は本当に活躍した。 長兄夫妻との密な連絡、各種事務手続きの連絡先としての登録、仕事関連の E-mail 送受信、交通機関の予約や運行時間の調査、そして 『管理人の独り言』 をはじめとするブログの更新。 これだけ使いまくると文字入力にも慣れて、ギャルばりの速さではないにせよ、ある程度の速度で入力できるようにもなった。

ずっと小ばかにしていたが、携帯電話の持つ利便性、その性能、その将来性に今更ながら感服し、今までの偏見を改め、その重要性を再認識しなければならないと心に誓ったりしたところではあったのだが、自宅に光回線が通り、最新のパソコンを導入した今、やっぱりパソコンの利便性や能力、文字入力のし易さはすばらしいと再認識したりしているところだったりするのである。

惜別の後惜別の後

先週の雑感に書いたように、義兄が他界してから 『お買い物日記』 担当者と二人で遺骨を守っている。 そして、ここは 『お買い物日記』 担当者を含むきょうだいが生まれ育った街だ。 しかし、暮らしているのは 『お買い物日記』 担当者の実家のようで、微妙に違う少し表現が難しい家だ。 本当に実家と呼べる家は別の場所にあったのだが、今は解体されて公園になっている。

この家は、高齢で少し体が不自由だったご尊父が暮らしやすいよう、限りなく段差の少ないバリアフリー、失火のリスクを低減させるオール電化を実現しているが、建築当時はまだまだ世の中にその概念は浸透しておらず、建築業者も注文どおりに施工してくれないため、何度も何度もやり直しをお願いしてクタクタになりながら長兄が建築会社と丁々発止とやりあい、すったもんだの挙句に苦労して完成にこぎつけたものだ。

しかし、残念ながらご尊父が暮らすことができたのはわずか半年、その後に体調を崩され還らぬ人となってしまった。 その惜別の後、人からは借りたいとか売ってほしいとかの話があったようだが。 和室に大きな仏壇もあり、転勤族である長兄が持っては移動できないこと、この街できょうだいが集まる場所がなくなってしまうことなどを理由に人手に渡さずにいた。

わずかな期間でも親が住み、仏壇もあるので 『お買い物日記』 担当者の実家であると定義できるが、本人に思い入れがないのでイマイチ実家とは呼びづらく、単に ”地元にある家” 的な感覚だ。 まあ、自分としては実家らしいところに住むのでは ”マスオさん状態” みたいになってしまうし、あまり実家という実感のないところに住む方が気が楽だ。

ここに住むことを決めたのは、きょうだいが生まれ育った街であること、最期は義兄と一緒に暮らしたいという 『お買い物日記』 担当者の希望があったこと、そして長兄が人手に渡さず空家のまま管理してくれていたからだ。 余命は告げられていたものの、三カ月と言わず、半年と言わず、一年でも二年でも義兄と一緒に暮らせることができればと思っていた。

医者からは入院の必要がなく、好きなものを食べ、安静にしてゆっくり生活するように言われていた。 肝臓は沈黙の臓器とも言われるように、まったくと言っていいほど痛みを伴わない。 他の臓器へガン細胞が転移しないかぎり、苦しむことはないだろうとも言われていた。 ゆっくりと、おだやかに最期を過ごせるのだろうと、長くはなくとも一緒に暮らせると思っていた。 しかし、残念ながらその想いはかなわず、それどころか我々が北海道に帰って三日後に義兄は逝ってしまった。

長期入院を覚悟し、病院から徒歩 5分の場所にマンスリーマンションを半年契約で借りたのに、そこに荷物すら運び入れる前に、そこに二晩しか寝ていないのに。 その日の夜から交代で泊り込むつもりで、病院に許可をもらう書類を提出したのに。 何かあった場合の緊急連絡先を病院に伝えたところなのに。 病室で履くスリッパも準備したのに・・・。

義兄が他界してしまった今、この街にそしてこの家に住む意味を失ってしまった。 むしろ合理的、積極的な理由などないと言って良いくらいだ。 しかし、義兄がこの街に呼んでくれたのだろう。 法的には別の家系に属するが、『お買い物日記』 担当者の実兄であることに変わりはないので四十九日までは遺骨を守り、納骨後も仏壇を守っていこう。

きっと義兄が導いてくれたのであろう流れに身を任せ、この街に根付いてみることにする。 生活の拠点、仕事の拠点を移し、この街で義兄の想い出とともに静かに暮らしていこうと思う。

惜別の日惜別の日

2月21日の 16時 33分、この 『雑感』 や 『独り言』 に何度か書いたことがあるアメリカに住んでいた義兄が他界した。 そう、『お買い物日記』 担当者の実兄である。 その三日間は本当に悲しく、心がつぶされそうだった。 最善を尽くしたつもりではいるが、後悔がないと言えば嘘になる。 事実を受け入れなければならないのは分かっていても、認めたくない自分がいる。

義兄が体の不調を訴えたのが昨年のクリスマス。 それから、たった 2カ月後のことである。 今年に入り、1月 10日にアメリカで診察、翌日には結果が出て、初期の肝硬変であろうと知らされた。 ところが、すでに腹水が出るほど病状は悪化しており、14日には腹水を抜き、さらに詳細な検査をすることに。 結果は 18日に知らされ、一刻も早く日本に帰るべきだという結論になった。

「一刻も早く・・・」 この一言が重く心にのしかかる。 正確なことを知らされてはいないが、一刻を争うとなれば重大なことである。 気は焦るものの、アメリカでの仕事、生活を清算して帰国するには、それ相応の時間が必要だ。 それでもアメリカで多くの人達の助けを借りて、何とか日本時間の 01/30(水) に成田空港に到着することができた。

実はアメリカでの検査結果を FAX で受信し、日本の医者と相談したところ肝硬変だけではなく、かなりガンが進行しているらしいことは分かっていた。 それでも何とか治療の見込みがないかを調べてもらうために日本で最先端だと言われる 『国立がんセンター』 で検査を受けることになった。 皆がそろって結果を聞きたいということになり、01/31(木)に東京行きを決める。

そして 02/01(金)、義兄の余命が 3カ月と告げられる。 久しぶりに会った義兄はすっかり痩せてしまっており、これが年末まで元気に仕事をしていた人だとは信じられないほどだ。 医者の言葉を借りると、手術をするのも不可能、放射線治療、投薬治療も不可能、このまま静かに余命を過ごすしか方法はないという、論理的かつ合理的でもあり、冷徹、非情でもある宣告だ。

そして、その宣告を本人である義兄も一緒に聞かされた。 これが自分なら泣き叫ぶか、やぶれかぶれに暴れだしそうなものだが、義兄はあくまでも冷静に聞き入れ、これからの過ごし方に関して質問までしている。 その宣告はあまりにも突然で、自分は感情をコントロールできず、ただショックを受けて悲しみすらわいてこない。

その日の夜から翌日、その次の日も 『お買い物日記』 担当者と話し合った。 義兄は長兄夫妻と北海道で過ごす。 何かあった時に飛んで行ける距離ではない。 そして、残された少ない日々、そばにいて、できることなら一緒に暮らしたいと 『お買い物日記』 担当者は言う。 自分はと言えばネット回線さえあれば、どこにいても仕事はできる。 02/03(日) の夜遅く、大阪を離れることを決めた。

それからのドタバタは 『管理人の独り言』 に書いている通りで、普段の何倍も忙しい時間を過ごす中、義兄の具合が悪くなったとの知らせを受ける。 今暮らしているのは長兄、次兄、そして 『お買い物日記』 担当者が生まれ育った地元だが、転勤族である長兄の家で義兄である次兄は過ごしていた。 そのままそちらで過ごすか、地元に帰って過ごすかは義兄の判断に任せるつもりだった。

ところが病状の急変で、そのどちらでもない街の病院に入院することが決まった。 そこで急遽、病院近くのマンスリーマンションへの入居を契約し、そこを前線基地として生活することを決断。 大阪で出した引っ越し荷物は 21日に ”本拠” に届く手はずになっている。 その中から最低限、必要なものをマンスリーマンションに運び、病院での寝泊りをも覚悟して 02/19(火) に北海道に帰ってきた。

病院に着くと義兄はまた痩せてしまっており、東京で会ったときより一段と体力が落ちているようだ。 それでも笑顔を交えて会話し、我々が大阪から北海道に戻ったことを喜んでくれていた。 そして翌日、昨日の元気はなく、少し話はするものの、一日の多くを眠って過ごしている。 前日は少し調子が良かったので、その疲れが出ているのだろうと思っていた。

そして 21日、”本拠” に引っ越し荷物が到着する日だ。 マンスリーマンションから徒歩 5分の病院に行き、長兄夫妻と合流して荷受作業に向かう予定だった。 病室に入ると義兄はこちらに背を向けてベッドに横になっている。 回り込んで様子をうかがうと、吐血しているではないか。 慌てて看護士さんを呼び、処置をしてもらう。 その時はまだ、こちらの呼びかけに対して返事がある状態だった。

長兄夫妻が到着し、今日は引っ越し荷物を受け入れることができるか話し合う。 担当医とも相談した結果、延期した方が良いということになり、引っ越し屋さんにお願いして荷物をストップする。 病室では義兄が一時間おきくらいに吐血している。 呼びかけにも反応がなくなり、いわゆる昏睡状態になってしまった。 しかし、その際にもまだ、義兄は持ち直して一時的にではあっても退院できると信じていた。

ところが時間の経過とともに血圧が低下し、心拍数も低くなり、ついに 16時 33分、医師から臨終を告げられる。 体の不調を知らされたのも、余命を告げられたのも、そして他界してしまうのも、あまりにも突然すぎる。 今日、マンスリーマンションで生活環境を整え、今夜から泊り込みで看病するはずだった。 これから何日も一緒にいるはずだった。 いろんな話をするはずだった。

余命を告げられていた義兄は 「葬儀の必要はなし」 と言い残していた。 30年弱もアメリカで暮らしていた義兄が日本で葬儀をすると、様々な人が遠方から駆けつけることになり、迷惑をかけることになるので 「すべてが終わってから、一部の人だけに連絡してほしい」 と。 そして、長兄夫妻と 『お買い物日記』 担当者、義弟である自分の 4人だけで送ってくれたらそれで良いと。

本人の意思に従い、密葬よりも小さい 『家族葬』 ができる斎場で義兄を送った。 親戚縁者からの申し出も断り、本当に限られた身内だけで義兄に別れを告げた。

そして今、義兄は生まれ育った街に戻り、『お買い物日記』 担当者と自分と三人で静かに暮らしている。

限界限界

先週は引っ越しの荷物も到着しておらず、あまりにも辛い出来事も重なったため、雑感の更新をすることができなかった。

今日もまだネット環境が整っていないので携帯からの投稿である。

もう二週間も操作しまくっているので、かなり慣れてきたが長文は辛い。

この辺がオッサンの限界である。

体力も限界、気力も限界、携帯操作も限界。

それでも生活するため、荷物整理だけは続けなければならない。

限界を超えて動き続けなければいけないのである。


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