大阪府摂津市JR千里丘駅周辺密着情報!!

真の恐怖 第二夜

一年以上も前に真の恐怖について書いたが、その時の話しとは別件で怖い思いをしたことを思い出した。 それは 10年以上も前、ラスベガスで開催されたコンピュータ関係の展示会に会社命令で行かされたときのことだ。 会場はカジノやホテルが立ち並ぶ場所から遠く離れており、通常は送迎バスに乗って移動するのだが、ホテルまでの帰りのバスに乗り遅れてしまった。

同行していたK氏と二人で、次のバスを待つべきか、歩き疲れたのでタクシーに乗って帰るべきか相談していたところ、遠くからバンバンいう音と共に 「Hey!○×△◎?♂」 という怒鳴り声が聞こえてくる。 何ごとかと驚いて目をやると、イエローキャプの運転席から身を乗り出してドアを平手でバンバン叩き、運転手である兄ちゃんがこちらに向って 「乗れ!」 と叫んでいる。

K氏に (どうする?) とアイコンタクトで問いかけると、何だか分からないけど疲れたので乗って帰ろうということになり、二人でタクシーに乗り込んだ。 行き先であるホテルの名を告げると、「ずいぶん良いホテルに泊まっている」 などと言ってくるので 「会社経費で泊まっているんだよ」 などと返事をし、「あのホテルのスロットは揃いやすいから今夜は儲けてね」 などと労いの言葉をもらったりしていた。

もちろん、英語で交わされるその会話はK氏に任せ、自分はニコニコしているだけだ。 その後も何だかんだと話し、妙に明るくてテンションの高い兄ちゃんだと思っていたのだが、少し車が渋滞してくると急にイライラしてきたようで、クラクションを激しく鳴らし始めた。 車の列が先に進まなくなるとクラクションの鳴らし方に激しさが増し、窓を開けて何かを怒鳴り始める。

そして、信号待ちの列があると対抗車線を暴走し、無理矢理に列の前に進むようなことまで始めた。 信号が青に変わると制限速度など無視して爆走し、曲がり角ではタイヤが 「キキキー!」 と軋み音を発する。 何が何だか分からず、K氏と必至になって前のシートにしがみつき、「どうしたのだ」 「何があったのだ」 と運転手に聞いても返事はなく、無謀な運転が繰り広げられる。

赤信号でやっと車が停まると、運転手の兄ちゃんがブツブツと独り言をしゃべり、「げふっ」 とが 「んげげ~」 とゲップを連発し始めた。 アメリカではオナラよりゲップの方が失礼だとされているが、そんなことはお構いなしに 「んごふっ」 と続けている。 そして、助手席にマクドナルドの食べ残しがあり、そこからポテトをとって口に入れ、クチャクチャと音を立て食べながら 「げふ~」 と再びのゲップだ。

兄ちゃんは振り返って呆気に取られているこちらを向き、「食べるか?」 と勧めてくる。 「いらない」 と断わると、再び助手席に手を伸ばし、怪しげなタバコを勧めてきた。 「それは何か」 と尋ねると、なんとそれは 「マリファナ」 だと言う。 もちろん 「いらない」 と答えると、「そうか」 と少し残念そうな顔をしていたが、急にニヤ~っと笑い、何とマリファナを口に入れてムシャムシャと食べだした。

あまりのことにK氏と二人で 「あわわわ」 と声にならない声をだし、ただ驚いていると車はタイヤの音と共に急発進し、もの凄いスピードで爆走し始めた。 マリファナを食べた兄ちゃんは、すっかりテンションが上がってしまい、「ひゃっほ~!」 などと奇声をあげなら蛇行運転まで始める。 いつ他の車と接触して事故を起こしてもおかしくない状況だ。

「ああ、自分はアメリカで死ぬんだ」 とか、「これで死んだら労災あつかいになるだろうか」 などと様々な思いが頭をよぎる。 そんな不安にかられながらK氏を見ると、顔面蒼白になりながら、じっと目を閉じており、何か覚悟を決めたようだ。 このまま事故を起こさないまでも、どこか遠くに連れ去られ、無事に日本に帰れないのではないかなどと考えているうちに車はホテルに到着した。

とりあえず無事に帰れた喜びと、安堵の気持がゴチャゴチャになり、ヨロヨロと車を降りる。 兄ちゃんは 「Good luck!(幸運を)」 と言い残し、タイヤの音をたてて急発進しながら走り去っていく。 遠ざかる黄色い車体に向って 「あんたもな」 と小声でささやきながら、ホテルに入り、K氏とヒシと抱き合いながら、「怖かったよ~」 「日本に帰りたいよ~」 と涙に暮れたのであった。

テレビの行方

地デジ(地上デジタル放送)が始まり、ノイズのないクリアな映像を楽しんでいる人も多いだろうし、デジタル・ハイビジョンで超鮮明画像を見ている人もいるだろうが、我家では未だにブラウン管テレビでアナログ放送を観て、ビデオテープに録画している。 薄型テレビも DVDレコーダも低価格化が進んだので買い換えても良いのだが、いろいろと思う所があるのである。

『納得!買っとく?メモっとく』 にも書いているが、薄型テレビでは液晶でもなく、プラズマでもなく、有機ELが量産体制を確立し、低価格化が進むのを待ちたい。 DVDは 120分しか録画できないので、HD-DVD と Blu-ray(ブルーレイ)Disc の規格争いが決着するのを待ちたい。 おまけに現在はコピー制限によって一度しか録画できないデジタル放送が来年には 10回までに緩和されるので、それを待ちたい。

それもこれも、『管理人の独り言』 にも何度か書いているように、アメリカに住む義兄に日本のテレビ番組を録画して送っていることも大きな要因となっている。 現在は 120分のビデオテープを 3倍速で使い、計 6時間分を録画して、それを何本もまとめて発送しているのだが、DVDだと 120分しか録画できないので無駄が多い。 おまけにコピー制限があると、我家でも保存しておきたいというのが不可能だ。

そこで、長時間録画が可能な HD-DVD か Blu-ray が普及し、コピー制限が緩和された 『ダビング10(テン)』 規格のレコーダが発売されるのを何が何でも待ちたいところなのであるが、この計画を進めるためには義兄にも再生機を購入してもらう必要があり、だとすれば廃れる技術よりも普及が確実な方を選択せねばならず、したがって一刻も早く規格争いに終止符を打ってもらいたいと願っているのである。

しかし、こうやってあれこれと考えていること自体が無駄になる可能性も否定できないのが技術の進歩の早さだ。 アメリカでは 『joost(ジュースト)』 というインターネット上のサービスが爆発的に広まりつつあり、それが日本への上陸を目指している。 このサービスは 1万5千以上のテレビ番組を好きな時間に観られるもので、CMを早送りで飛ばすことはできないが、すべて無料で見ることができる。

日本からでも会員登録すれば 『MLB(メジャーリーグ)』 の試合を観たり、『MTV』 で最新の音楽情報を観れたりもする。 しかも、各番組は一カ月間程度は ”保存” されているので、好きな日の好きな時間に観ることができるのである。 このサービスが日本上陸を果たせば、番組を録画してアメリカに送る必要がなくなるだろう。 すでに日本のテレビ各局と交渉に入っているらしいのでサービスの開始は近いかもしれない。

『joost』 のサービス開始を待たなくても日本のサービスで 『Gyao(ギャオ)』 とか 『ドガッチ』 という無料番組配信サービスもあるし、各テレビ局が配信する 『第2日本テレビ(日テレ系)』、『みんなで特ダネ!(日テレ系)』、『動画6.1チャンネル(TBS系)』、『テレ朝bb(テレ朝系)』、『あにてれ(テレビ東京系)』、『ワッチミー!TV(フジ系)』 などや、マイクロソフトの Windows Vista で利用できる 『メディアオンライン』 でのサービスが拡大され、テレビなどなくても全番組が観られるようになるかもしれない。

プロテクトによって録画ができず、保存版にできないのが難点ではあるが、単に番組を楽しむ分には願ったりかなったりのサービスであり、録画したものをアメリカまで送る必要がなくなるかもしれない。 言語の違いこそあれ、各国が同様のサービスを開始すれば全世界で全世界のテレビが観られるようになり、仕事の関係や留学で海外に暮らす人にも便利な環境になるだろう。

そして、わざわざ基地局を建設しなくても、ネットを経由すれば全国、全世界に番組を配信できるのだからテレビ局の負担も少なく、『joost』 のように CM料が分配される仕組みであれば収入も得られるので、そういったサービスに番組を提供するテレビ局は加速度的な広がりを見せるかも知れない。

テレビ放送を受信する必要性が薄れたとき、視聴率競争などというのが無意味になり、ビデオリサーチ社の存在意義も問われることになるかもしれない。 何せ、ネットであれば、どれだけの人が視聴したのか正確な数字が把握できる。 テレビ局は多くの人に見てもらえる良質な番組を作ることに専念し、それの配信はネット業界がやって利益を分配する。

これこそが楽天の三木谷氏や元ライブドアの堀江氏が思い描くのとは異なり、真の相乗効果が発揮できるネットとテレビの融合ではなかろうか。

謝罪

お買物日記』 担当者が近所の方と話しをしていると、「最近はテレビを見ると誰かが謝ってばかりいる」 と仰っていたという。 確かにその通りで、『白い恋人』 の石屋製菓、伊勢名物の赤福など有名ブランドや老舗までが利益追求を優先する余り、賞味期限を改ざんするなどして企業価値を大きく損ねる結果となってしまい、代表者が深々と頭を下げることになった。

すっかり古い話題だと思っていたが、不二家のずさんな商品管理が問題になったのは今年一月のことであり、どうしてそれを教訓にするなり、その問題を受けて改めるなりしなかったのか。 どんなに有名なブランドでも消費者の信用を裏切れば自力での存続が困難であることが証明されたわけであり、同じ業界に身を置くものであれば、余計に実感できたはずである。

同じような業界でミートホープがデタラメなことをしていたことが大騒ぎになったのも古い話題のようで、実は事件が発覚したのが今年の六月と、記憶に埋もれるには短すぎる期間だ。 同業であればなおさら、まだまだ身を引き締めている期間であるはずなのに秋田県の比内地鶏、宮崎県の産地偽装ウナギやら地鶏やらと、同種の事件が後を絶たず、代表者が頭を下げまくっている。

謝るのは負けを認めることと、意地を張り通していた亀田一家も謝罪していた。 この件に関しては 『管理人の独り言』 にも書いたので何であるが、謝り方も人それぞれであり、世間的には通用し難くとも意地だけで生きてきた人が、たとえ数センチでも頭を下げるというのは相当な心の葛藤を経てのことであろうと予想され、この話題に飽きたこともあるが、もう騒がなくても良いのではないかと思う。

会社更生法を申請した英会話の NOVA も、受講者に対して頭を下げているが、その端緒となった解約金問題に関しては少し複雑な思いで見ている。 予約が取り難い状況だったのに 「簡単に予約が取れる」 などという嘘はいけないし、クーリングオフの期間を偽っていたのも罪ではある。 しかし、判決が出た解約金の件に関しては異論というか疑問を感じざるを得ない。

多くの回数券を低価格で購入し、短期で解約すれば受講者が一方的に得をするというのは、いかがなものだろう。 10回で 10,000円のところを 50回であれば 30,000円だと仮定した場合、50の回数券を購入し、10回だけ使って解約すれば、1回当たり 600円になる。 100回で 50,000円という回数券があれば 1回当たり 500円だ。

そのシステムを悪用するユーザ(生徒)だっていると思われるので、解約の際は 100回 50,000円の回数券でも 10回分しか使っていなかったら 1回当たり 1,000円と見なして清算するという、 NOVA 方式を悪と決め付けて良いものだろうか。 まともな金額で回数券を購入した受講者が不公平感をもつだろうし、受講する全員がシステムを悪用したら会社もやっていけないと思われる。

いろいろな謝罪が続いている世の中ではあるが、年金問題で大騒ぎになった社保庁や、薬害肝炎問題で炎上した厚労省に対しては少しの同情心も湧いてこないのが不思議だ。 どんなに大きな不祥事が発覚しようと、ミートホープ社のように倒産する訳でもなく、不二家のように他に吸収される訳でもないので緊張感というものが不足しているからか。

おまけに担当者や責任者がクビになる訳でもなく、誰も責任を取ろうとしない組織など同情の余地すらない。 さらに事後処理に使われる経費は税金であり、腹立たしさは増幅されるばかりである。 担当者や責任者、各省のトップは亀田選手のように丸坊主になって謝罪し、父上のように省から追放されて復帰不可能にするべきだ。

若い力士が亡くなって大騒ぎになっている大相撲関係、不適切な報道、表現を繰り返すテレビ局など、謝罪ばかりだし、その他にも食品業界で頻発する異物混入、電気業界で続く発火事故、車のリコールなど新聞は謝罪広告であふれている。 いったい、この国はどうなってしまったのか。

いろいろな謝罪がある中で、納得できないのは 「大変なご迷惑、ご心配をおかけし・・・」 というくだりで、「誰もお前のことなんか心配してねーよ!」 と言いたくなる。 謝罪の中に、この 「ご心配」 という文言が入ると、感じられる誠意が半減してしまい、何だか腑に落ちず、逆に腹立たしく思ってしまうのは自分だけなのだろうか。

バスの車窓から

昨日は仕事の用事で外出してきたのだが、久々に、本当に久々に大阪市内を循環するバスに乗った。 毎年恒例にしている京都参りでは、駅からバスに乗って目的地まで向うのだが、大阪で乗ったのは実に 15年ぶりくらいのことだと思われる。

目的地が吹田だったので、近畿コカコーラの近くにあるバス停まで歩き、雨が降り続ける中でしばし待つ。 少し遅れて到着したバスに乗り込もうと足を踏み出すと、その乗り口がとても低く、昔のように足を高く上げて 「どっこいしょ」 とする必要がない。 きっと、お年寄りとか子供でも楽に乗れるように配慮されているのだろう。

車内は人もまばらだったので空いている席に腰をおろす。 前方にある料金表をみたり、乗り込む際にとった整理券をみたり、車内広告を見てみたりと何だか落ち着かない。 あまりにも久々のバスなので少し緊張してしまっているようだ。 しばし車内を観察して人心地がつくと、後ろの席に陣取るオバチャンの会話が耳に入ってきた。

どうやら家ではパソコンを使って子供さんとメールのやり取りをしているようで、「いちいちパソコンを立ち上げるのが面倒だ」 などと言っている。 そして、となりのオバチャンも同様にパソコンを使うらしく、話しはシャットダウン(パソコンの終了)の仕方に移っていく。

スタートボタンをクリックして終了させるところで意見は一致したようだが、そのスタートボタンの場所を一人のオバチャンが 「画面の左下」 だと言い、もう一人のオバチャンは 「いや、左上」 だと食い違う。 スタートボタンのあるツールバーは、画面の下だろうと上だろうと、はたまた左右だろうと、好きな場所に移動できることを知らないらしい。

さんざん話し合った後に、パソコンメーカーの話題になり、「うちは富士通」、「うちはソニー」 と違いを見いだし、「だからスタートボタンの場所が違う」 という結論を導き出していた。 心の中で、「違うんだよ~」 と叫び、「パソコンは違っても OS は一緒なんだよ~」 と続けてみたが、そんな心の声がオバチャン達に届くはずもなく、二人は 「そうかも知れない」 と深く納得しあっていた。

バスは次の停留所に到着していた。 乗り込んでくる人が一人しかいないのに車体がグラグラと揺れる。 「なんと柔らかいサスペンションか」 と思いながら揺れに身を任せていると、何だか少し気持が悪くなってしまった。

バスが走りだし、再びオバチャンの会話が耳にはいると、今度は携帯電話の話しに変わっていた。 どうやら携帯電話でもメールのやり取りをしているようだ。 最近のオバチャンはハイテク機器も使いこなし、なかなか順応性が高いようだと感心していると、子供からのメールが受信できないという内容に話しは移り、「たくさんの機能があっても使いこなせない」 と小言を言い始めた。

隣のオバチャンも賛同し、携帯キャリアの話に進む。 オバチャン二人は au で、「一緒だ」 と喜び合い、受信できないメールを送信してくる子供のキャリアを聞かれたオバチャンが DoCoMo だと答えたところで、「会社が違うから受信できないのでは」 という、あらぬ方向に会話が進む。 同じキャリアの端末同士でしか送受信できない方式も確かに存在するが、E-mail は全キャリア共通である。

「違うんだよ~」 という心の叫びは、またしてもオバチャン二人に届かず、「そうかも知れない」 という一言で、省電力化と高性能という相反する課題を克服し、小型化まで実現した高度技術の結晶である端末と、同じく高度な技術で次々と高速通信を可能にしている移動体通信網を根底から否定するがごとくの結論が、今まさに導き出されようとしている。

本当に必要な部分が欠落し、別の要素が増幅された彼女達の情報がオバチャンの間で瞬く間に伝播し、その内容は見事なほどに欠落と増幅を繰り返すこととなり、根本的な精度を失いつつも、ある程度の信頼性をもって受け入れられ、最終的には原型をとどめず、「ソフトバングの携帯電話が良い」 などという訳の分からないことになっているかもしれない。

そうこうしている間にバスは次の停留所へ。 ドアが開くのと同時に再び車体が揺れる。 そこで冷静になって周りを見てみて驚いた。 なんとバス自体が意思を持って傾いているではないか。 車体の右側が高くなり、左側が低くなって外の風景が斜めに見える。 つまり、乗り口を低くして乗客を迎え入れている訳である。 どうりで乗車するときに、足を高く上げなくても良いくらい低い位置に乗り口があったはずだ。

人が乗り込み、ドアが閉まると 「ウイ~ン」 というかすかな音をたててバスの姿勢がもとに戻る。 何だか巨大ロボットに乗っているみたいで少しワクワクする。 知らぬ間にバスもハイテク化し、人が気付かぬ気配りをしてくれているらしい。

バスが走り出してオバチャン達の声に耳を傾けると、話しは 「整理券をとるのを忘れていた」 という内容に移っていた。 「始発からの料金を払わなければならないだろうか」 と一方のオバチャンは気をもんでいたが、もう一人のオバチャンの 「何とかなる」 という一言に勇気付けられ、「そうかも知れない」 という例の一言ですべての結論が出たようだ。

バスの車窓から、雨が降って悲しく濡れた街並みをながめながら、つくづく思った。 こうして彼女達の一日は過ぎていくのだろう。

マサルノコト scene 15

いつも遊んでいた仲間の一人、セイジが転校してからは自分とマサルとノブアキの三人組となってしまったが、その三人の絆はむしろ深まったような気がする。 セイジが新しく暮らすことになった土地は、遥か 2,000km の彼方であり、簡単に会いに行ける距離ではない。 当時の電話料金からいって、頻繁に話ができる距離でもない。 かと言って、手紙を書くのも面倒だ。

そこで考え出したのが、当時はメジャーな媒体であったカセットテープに声を録音して送るというものだ。 現在であれば、簡単に E-mail で連絡を取り合ったり、その気になれば写真だって動画だって送信できるが、当時は手紙以外の連絡手段で、思う存分に近況を伝えることができるものと言えば、カセットテープに声を吹き込んで送るのが最善の手段だった訳である。

マサルとノブアキが、それぞれ自分のカセットテープレコーダーを持って我家に集合し、それぞれの機器を接続して BGM を流したり、好きな曲を録音したりしながらマイクに向って、あーでもない、こーでもないとしゃべり続ける。 単純に言えば、ラジオ番組の真似事をしながら、A面、B面合わせて 120分くらの声の便りを作成したのである。

それが一カ月に一度の割合だったのか、二カ月に一度の割だったか覚えていないが、まるで定期行事、義務でもあるかのように録音し続けた。 120分の録音時間とは言え、途中で曲を録音したり休憩したりするので、午後から始めた作業が終わるのはいつも夕方おそくになってからだ。 しゃべり疲れ、笑い疲れ、いつもクタクタになってしまうが、それはとても楽しい時間でもあった。

それ以外にもマサルと二人でノブアキの家に遊びに行き、父上のゴルフクラブと練習用の飛ばないスポンジ製のボールで飛距離を競ってみたり、ゴミを捨てるポリバケツのフタをフリスビーの代わりにして投げあって遊び、ノブアキが右手の小指に何針も縫う大怪我をしたり、それなりに男の子らしく、やんちゃで元気な生活を送っていた。

大晦日の夜は三人で待ち合わせして、年が明けると同時に神社まで初詣に行き、すぐに別れて帰宅するのもつまらないので、ノブアキと自分は喫茶店にでも行って話しでもしようと提案するのだが、scene 11 にも書いたような、クソ真面目なマサルが同調するはずもなく、初詣の帰りは我家に集まり、朝まで話しをしたりするのが毎年の恒例となった。

夜通し遊び、早朝に帰宅することになるからマサルもノブアキもフラフラで、すぐに布団に入って爆睡状態になるものだから、それぞれの家族が元旦の朝に顔をそろえることがなく、「いつも正月らしい朝を迎えられない」 とマサルの親からもノブアキの親からも半分冗談で嫌味を言われていた。

それほど仲良くしていても、クラス替えというのは非情なものであり、中学三年生になるとノブアキは違うクラスになってしまった。 おまけに三年生ともなれば高校受験が目の前に迫っており、自分などは先のことなど考えずに遊んでいたが、優等生だったノブアキは受験勉強を優先し、日常的に遊ぶ機会は大幅に少なくなってしまった。

しかし、セイジに向けた声の便りだけは、それからも三人で定期的に録音し続けたのであった。

相性

自分はどうやら本当にオバチャンとの相性が悪いらしい。 昨日の夜、自転車で近所をウロウロしていると、脇道からもの凄い勢いで自転車に乗ったオバチャンが飛び出してきたのである。 驚いてブレーキを強く握ると、自転車は 「ギギギギー!!」 と大きな音をたてて急減速し、かろうじてオバチャンのとの衝突を回避することができた。

オバチャンは謝るどころか、まるで 「そっちが止まるのが当然だ」 とでも思っているかのような態度で、自分より大きく広いであろう背中で、これまた立派で広い肩幅の盛り上がった肩をいからせ、大きな尻をブリブリさせながら、こちらを見もせずにズンズンと進んで行く。

あまりにも腹が立ったのでオバチャンの自転車の後方 30cm くらいまで近づき、オラオラとあおってやったが、それに気付いているのか気付かないのか、まったく気にする様子もなく、ただひたすらに進行方向だけを見つめてペダルをガシガシ踏んでいる。 相手にされない寂しさと、アホらしさが入り混じった微妙な感情が心を支配したので後を追うのを止めたが、腹立たしさは胸に残ったままだった。

8月に自転車で近所をウロウロしていたときもそうだった・・・。 脇道から車に乗ったオバチャンが、本線に入ろうと様子をうかがっていた。 自分より太い腕でガシッとハンドルを握りしめ、本線の車が途切れる瞬間を狙っている。 ちょっと嫌な予感がしたので少しスピードを落としながら車に近づいて行ったのだが、オバチャン号は車が途切れても発進しようとしない。

ずいぶん慎重だと思いながらオバチャン号の前を通り過ぎようとした瞬間、ブォンとという音と共に動き出すではないか。 慌ててハンドルを切り、衝突を回避するのと同時にオバチャン号も慌てて止まる。 腹が立ったので睨みつけてやったが、オバチャンは堂々と真っ直ぐ前を見据えたまま目を合わそうともしない。 かえって同乗者の方がワタワタと慌てているくらいだ。

それだけだったらまだしも、後ろを走っていた 『お買物日記』 担当者が前を通り過ぎようとした瞬間、同じようにオバチャン号が発進しようとしたので 「キキキ!」 という甲高い自転車のブレーキ音を、あたりに響き渡らせる結果となってしまった。

オバチャンには学習能力というものが備わっていないのか! ヒヤッとした瞬間を記憶する能力がないのか! そもそもヒヤッとする感覚を持ち合わせていないのか! 周囲に目を配れず、正確な状況判断もできないオバチャンに対しては、警察も免許を交付しないで頂きたいものであり、自転車であれ車であれ、走る凶器と化す可能性があるものを与えないでいただきたい。

自転車のオバチャン、車のオバチャンとも、よく今まで事故を起こさずに済んだものである。 そして、ああいうオバチャンが事故を起こしたときは、何だかんだと機関銃のようにじゃべりまくり、まるで自分が被害者であるかのような論理を展開し、当たり屋よりも性質(たち)の悪い相手に遭遇してしまったことを、本当の被害者に思い知らせたりするのだろう。

そういう意味では、事故にならずに済んだ自分の幸運を喜ぶべきなのか・・・。

神の領域

2006年に世界保健機関 (WHO) から発表された世界保健報告によると、日本女性の平均寿命は約 86歳、男性は約 79歳で、ともに世界一となっている。 『人生五十年』 などと言われていた昭和初期から 100年足らずで 1.6倍にもなったことになった訳だ。

不治の病と言われていた結核など薬で治る時代だし、白血病も治療法が確立した。 一番の死亡原因であるガンですら早期発見すれば治療は可能だし、近い将来には療法が確立して薬を飲みさえすれば完治させることが可能になるに違いない。

医学の進歩が寿命を延ばし、社保庁や厚労省には少々問題もあるが、保険制度の恩恵によって日本人は公平な治療を受けられる。 糖尿病や高血圧を代表とする生活習慣病に関しても日本人の健康意識が高まり、今後は減少傾向をたどるのではないかと思われる。

急速に発達しつつある再生医療 (医学) では、アゴの骨から歯を再生したり、骨髄細胞から心臓組織を再生した例も報告されており、それほど遠くない将来にはあらゆる臓器の再生が可能になることだろう。 そうなれば、まるで部品交換をするかのように古くなったり、少しガタのきた臓器を再生した新しい物と交換し、百歳でも二百歳でも生きられる時代が来るかもしれない。

腎臓が悪くなり、膨大な時間を費やし、高額な医療費を負担して人工透析を受けている人や、不幸にして視力を失ってしまった人などの臓器や角膜を再生し、普段の生活に戻れるようにすることは重要なことであり、それ自体が間違っているとは思わないが、臓器を人工的に培養して作り出すということに対しては、少し不気味な感覚を覚えてしまう。

遺伝子を操作したり、臓器を作り出すなどというのは神の領域であり、人間が手を出す範囲を超えているような気がするのは自分の考えが古すぎるからだろうか。 食物にしてもそうだが、様々な組み合わせによる交配を繰り返し、寒さや病気に強い品種を作り出すのではなく、遺伝子を操作して耐性の強化を図るなど、人間は何様のつもりかと思ってしまう。

絶滅の危機に瀕している動植物を人工的な交配によって増やしてみたり、ただ食物連鎖の頂点に君臨しているだけの人間が、神様にでもなったつもりなのだろうか。 人間の手による乱獲や自然破壊によって絶滅の恐れがあるのであれば、それを救うことも必要だろうが、自然淘汰によって絶滅するものまで救う必要があるのか。

過去に何千、何万という動植物が絶滅している地球上で、本来であれば絶滅しなければならない種が、人工的に繁殖させられた場合、未来の生態系や自然はどうなってしまうのか。 だいたい人の手が加わった段階で、もはや自然とは呼べないのではないだろうか。

いろいろと思うことはあるが、自分が大病を患い、臓器の機能が著しく低下して命に関わるような場面に遭遇した場合、そして、その時に再生医療が発達し、一般的に受けられることが可能になっていたならば、本来は終わるはずの寿命を延ばしてもらうことを望むだろう。

結局、人間というのは弱さと利己主義が同居した、地球上で最も情けない生き物なのかも知れない。

マルチ世代

原油価格の高騰でガソリンは勿論のこと、石油製品であるプラスチックなどが値上がりしており、海産資源の高騰から竹輪やカマボコ、穀物価格の高騰からインスタントラーメンや、それに由来する菓子類まで値上がりは広がり、輸送費の値上がりで生鮮食品にまで価格転嫁が始まっている。

安易な値上げなど消費者が許す環境でもないので、各社とも内容量を減らすことによって事実上の値上げを実施しているが、夜食で食べることの多い竹輪が明らかに短くなったことに一抹の寂しさと怒りを覚えつつ、竹輪であれば目立たないように穴を大きくすれば良いのではないかなどと、くだらないことを考えながら生活に忍び寄るインフレに怯えたりしてるところだ。

日本もそろそろ健全なインフレにならなければいけないのではあるが、デジタル家電、機器の価格下落は止まらないようで、それはメーカー各社の予想を大きく裏切る年率 20%以上に達しており、プラズマや液晶テレビなど、あれよあれよいう間に 1インチ 1万円を切り、今となっては 1インチ 5千円以下、3千円以下で売られることも珍しくはなくなった。

メーカーは価格下落を防ごうと、画像の美しさや表示速度を競うだけではなく、様々な機能を盛り込んで付加価値をアピールするが、それら全ての機能を使いこなしている人など何人いるのか問いただしてみたい気分であり、使われもしない余計な機能を付加して高価格で売るくらいなら、シンプル操作のものを安く売ってくれというのが消費者の正直な気持だろう。

少子高齢化のおり、増え続けるシルバー世代向けに、機能を絞り込んだ簡単操作の家電や携帯電話などが続々と発売されているが、低付加価値なのに価格が変わらないのはどうしてなのか納得できない部分もあり、メーカーに小一時間くらい問い詰めたくなったりするが、まだ需要が大きくないため小ロット生産になってしまうのが原因なのだろうと勝手に解釈したりしている。

しかし、シルバー世代向けの製品が喜ばれるのも、あと数年間くらいのものではないかと想像され、あまり力を入れて開発しても採算が合わないという結果になりそうな気配を感じているのは自分だけだろうか。

現在は、アナログ機器を使っていた人が高齢化し、最先端の技術について行けなかったり、便利さを理解できなかったり、複雑な操作をすることができなかったりすることが簡単操作を望む声となっていると思われ、それ以外の世代は便利に使いこなしているはずであり、決して無駄な機能ではないはずだ。

インベーダーゲームが流行した 1979年頃にゲーム機の上に百円玉を山積みにしていた 20代の人は、そろそろ 50代に突入する頃であり、その後に次々と生み出されるデジタル機器に順応してきた世代であって、ある程度の複雑な操作を厭わない人たちである。

操作パネルやリモコンの文字が大きい方が嬉しいことに変わりはないだろうが、『簡単操作』 を前面に出したものなど 「馬鹿にするな!」 と言って見向きもしなくなる可能性も否定できず、シルバー世代向けの製品寿命はこの先 5-6年でしかないのかもしれない。

そうなれば高齢者向けにターゲットを絞った開発も必要なくなり、ますます差別化しづらい製品が世の中に氾濫し、結局は価格競争に陥る結果となってしまいそうな、メーカーにとっては嫌な流れが世の中に渦巻き、最終的には価格競争力のある韓国製とか中国製、ベトナム製などの製品に家電売場が占領されて日本メーカーが駆逐されてしまうのではないかという危機感がある。

自分に商品企画力などはないが、マルチ世代に受け入れられる商品を開発できるメーカーだけが、数十年後に生き残っていられるメーカーなのかも知れない。

政界再々編

何ともまあ、拍子抜けして開いた口がふさがらないくらいの安倍首相辞任劇で、不運な人だと哀れみを感じつつも、世間で広く言われているように無責任の極みであり、あまりにもタイミングが悪いところなんぞは KY(空気読めない)とギャルばりに責められても返す言葉もないのではないかと思わざるを得ないような失態を世間にさらけ出してくれたものである。

参院選での敗北は、格差社会の広がりと地方の反乱が招いた結果だと分析されているが、安倍政権が誕生した当初は政策の中に 『弱者救済』 『社会的セーフティーネットの構築』 『再チャレンジ支援』 など、格差是正のスローガンも含まれていたはずだが、それがいつの間にか 『美しい国づくり』 『戦後レジームからの脱却』 のみが語られるようになってしまった。

それは安倍首相自身が望んだことなのか、マスコミが導いたものなのか分からないが、『美しい国』 と言われても具体的にはどういうことなのか理解できず、まさか日本中をお花畑で一杯にしましょうと言いたいのではないだろうことくらいは察することはできても、どういうプロセスを経て具体的に何をすれば美しい国になるかを一般人にも分かるように説明する能力に欠けていた。

『戦後レジームからの脱却』 などと言われても 「何それ?」 と思う人が圧倒的多数であろうから、戦争に負けてアメリカに占領された日本が、アメリカの事実上の 『植民地』 あるいは 『属国』 になってしまい、その植民地の運営を自民党が請け負ってきたが、終戦以来続いているそういう政治体制を見直さなければならない時が来ていると、分かりやすく伝えれば良いのである。

俗に言われる BRIC’s (ブリックス)、ブラジル(Brazil)、ロシア(Russia)、インド(India)、中国(China)の成長が目ざましく、ユーロ圏のパワーが世界を圧倒し始めている今、いつまでもアメリカが超大国として君臨できる訳ではなく、日本もそろそろ一人歩きできるようにならなければ、かつて栄えたが今は遺跡しか残らない古代文明のように、都市部にビル群だけが残され、日本という国から人が消え去るかもしれない。

そうならないためには世界に通用する企業を育て、ロンドンやニューヨークのように世界に通用する東京 City を構築し、国際社会で戦える日本にしなければならず、多少の痛みは伴なっても引きかえしたり立ち止まったりしていると、日本という国そのものが吹き飛んでしまうということを分かりやすく説明すべきだった。

そして今、派閥政治の復活とか予算ばら撒き政治の復活などと危惧されているが、小泉元首相の破壊力は凄まじく、事実上の派閥などというのは存在価値を失い、単なる政策グループに過ぎず、昔のように数の論理がまかり通ることなどあり得ないので、その心配は単なる杞憂に終わることだろう。

ばら撒き政治と言われても、地方が疲弊しているのはまぎれもない事実である訳だから、日本も競争力が多少はついてきた現在、都市部に集中している益を少しずつ分配する時期になってきたのは確かだと思われ、以前のように公共事業で必要もない道路を作ったり、山を削ったりするのではなく、何らかのかたちで予算をまわす措置は必要だと思う。

そして、それらをバランス良くできるのは福田氏であろうと思われるので、今の流れのまま首相になってもらうのに反対ではなく、むしろ麻生氏の前に ”いっちょかみ” して頂くのは理想的なのではないかとさえ思えてくる。

なぜなら麻生氏の後に総裁として相応しい人物が自民党内に見当たらず、次の政権が短命に終わると仮定した場合、たとえ衆院選で勝てたとしても次の顔がなくなってしまう危険性が高く、自民党、いや、日本がリーダー不在となってしまうことになる。

いずれにせよ、麻生氏の後に総裁となる人物が見当たらないのであれば、そろそろ自民党による政治支配も終焉を迎えて民主党との二大政党制が確立され、その時こそ本当の意味で 『戦後レジームからの脱却』 となるという、皮肉な結果に終わることになるかも知れない。

栄枯盛衰

栄枯盛衰は世の習いと言うが、百貨店の大型統合が相次ぎ、勢力図を次々に塗り替えている。 村上ファンドがゴニョゴニョしたおかげで阪急と阪神、大丸と松坂屋、三越と伊勢丹などなど、これから先の展開が読めないくらいに賑やかだ。

そもそも、百貨店の売り上げが下降線をたどり、一向に回復の兆しが見えないことが大きな要因だが、どうして消費者の足が遠のいたのかといえば、代表格のイオンが進めているような郊外型のショッピングセンター、スーパーセンターの台頭があり、人の流れが街の中心に向わず、郊外に向うようになってしまったことが大きい。

そして、それを可能にしたのは日本が車社会となり、広い駐車場を確保している郊外店で買い物をする方が便利になったことと、一週間分とかのまとめ買いをして大型冷蔵庫に保存しておくというライフスタイルが定着したことが挙げられる。

今は繁栄を極める郊外店、衰退の一途をたどる百貨店という図式が明確となっており、百貨店業界が経営統合などで生き残りを模索する中、郊外店への投資額は膨らむばかりで今後一層の差が生じるのではないかと懸念する声が多く聞かれるが、果たして本当にそうなのだろうか。

自動車業界に目を向けるとトヨタが生産台数世界一になるのが確実視され、アメリカのみならず、世界中を席巻している日本の自動車産業ではあるが、足元の国内販売は縮小が進み、1970年代と同等の販売数量しか見込めなくなってしまった。 それにはもちろん人口減少による影響が少なくないが、現代人の車離れに歯止めがかからないのが最大の要因となっている。

日本経済がバブル景気で浮かれていた時代、車を持っていなければ彼女もできないと言われ、18歳になった若者が免許を取得して誰も彼もが親のスネをかじって車を購入し、湯水のようにガソリンを消費していたものだが、最近の若者の圧倒的多数が車に興味を示さない。

バブルが弾け、失われた 10年とも 15年とも言われる不況、デフレ時代に育った若者は倹約が身についており、アホみたいに金を使うデートとか、夜景を見にドライブするという習性も習慣もなく、二人で慎ましやかにデートを楽しむ術を知っている。

女性が車を持つ男性のみに興味を示す時代はとうの昔に過ぎ去り、今は電車に乗って映画を見に行ったり、テーマパークに行って遊ぶのも厭わない。 現代を生きる若者にとって、車は必須でもなければ重要なアイテムでもなくなってしまった。

そんな世代が家庭を持ち、週末に買い物に出かける際、郊外店に向うだろうか。 家の近所に大型スーパーがあれば出かけるだろうが、ちょっとオシャレな服を買うとき、たまには買い物をして外食でもしようかと考えたとき、車を持たない家族が向う先は公共の交通機関が発達した街の中心部になるのではないだろうか。

この厳しい状況を百貨店が乗り切って競争力を高め、我が世の春を謳歌している郊外店に消費者が足を向けなくなったとき、勢力図は再び大きく書き替えられ、それぞれの立場も大きく変わることだろう。

栄枯盛衰は世の習い。 そう言った昔の人は、すべてにおいて達観しているのだと心から感心してしまう今日この頃である。