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精神鑑定

世も末なのか、訳の分からない犯罪が多発するようになった。 最近になって特に多いのが家族間殺人で、なぜ家族同士が殺し合わなければならないのか不思議でならない。 顔も見たくないほど憎かったり恨みがあるのであれば、殺す前に家を出れば良い話ではないのか。

自立できない子供が精神に異常をきたして殺人を犯すのであれば、ある程度は致し方ないような気もするが、30歳にも 40歳にもなったニートが親に 「働け」 と言われて逆上するのはなぜなのか。 全面的に依存している親を殺してしまっては、その後の生活が成り立たなくなることすら分からないのか。

殺人などという大罪を犯す時点でまともな神経だと思えないが、最近の裁判では弁護側が精神鑑定を依頼するのが常套手段となっているのもどうかと思う。 責任能力の有無を問うて何になるのか。 もっと以前からあったのかもしれないが、自分が記憶している限りで一番有名なのは 88~89年に埼玉と東京で幼女 4人が殺害され、世間を震撼させた連続幼女誘拐殺人事件だ。

殺人罪などに問われた宮崎勤被告に対し、弁護側が精神鑑定を求めて刑事責任能力が問えるか否かが争点となった。 結果、2006年の 2月に責任を問えるとして死刑判決が下ったが、逮捕後 16年もの歳月が費やされてしまった。 たとえ加害者であっても人権、人命を尊重すべきであるとは思うが、4人もの幼い命を奪っておきながら責任能力が無いなどということは許されまい。

先に書いたように、どんな状況下にあっても人の命を奪うことはまともな精神状態で行なえるはずがなく、多かれ少なかれ異常を来たしているものと思われる。 極度の興奮状態になっており、前後の見境なく行動しているか、頭の中が真っ白になって自分が何をしているのかすら分からない状態になっているかであると想像する。 むしろ沈着冷静に人を殺している方が怖いではないか。

精神鑑定によって刑事責任能力が問えないとすると、事件が大きければ大きいほど無罪になる確率が高くなるということになりはしないだろうか。 例えば 1971年に発生した大久保清事件。 わずか 41日の間に 8人もの女性を殺害し、死体を遺棄した事件だが、この時の犯人の精神状態はどうだったのか。 まともな神経の持ち主が人を殺せるとは思えないし、ましてや 8人もの被害者がでるはずがない。

この文章を書きながら大久保清事件について調べてみると、精神鑑定が行なわれていたことが分かった。 それにも関わらず死刑が宣告されたということは責任能力があると判断されたのだろう。

精神鑑定によって刑事責任を問えないと判断された場合、加害者は刑罰を受けることなく病院送りになるだけなのだろう。 仇討ちが認められていない以上、被害者の家族は事実を受け止めねばならず、怒りや悲しみをどこに向けたらよいのか。

やがては退院し、殺人を犯した人が一般社会に出てくる。 宮崎、大久保の両名もそうだが、事件が発覚するまでは一般社会で生活していた訳だ。 そんな人であっても国家資格の運転免許を保有し、ホームセンターに行けば簡単に包丁も買える。

それを思うとき、背筋が寒くなるのは自分だけだろうか。

尺度

物事には様々な判断基準、尺度というものがあり、それは時として人を喜ばせたり悲しませたりする場合もある。01/08 の独り言にも書いたが、福岡県で起きた飲酒運転 3児死亡事故に対する判決は、遺族にとって受け入れ難いものだろうし、遺族の心情を察すれば納得できない部分も多いが、「危険運転致死傷罪とは何ぞや?」 という観点から司法が下した判断も尊重しなければならないのだろう。

昨年の 『ビリーズブートキャンプ』 ブームに象徴されるように、エクササイズとかダイエットに励む女性は多い。 それは当然 「痩せたい」 という願望があるのだろうが、はたして本当にやせる必要があるのか疑問に思える人まで熱心になっている。 それは女性の尺度だったり、自分の尺度で太っているとか痩せているかを判断した結果だろう。

実際には女性が思っているほど痩せている人が好まれる訳ではなく、世の男性の多くはガリガリの人よりも中肉を好み、「お願いだから、それ以上は痩せないでくれ~」 と心の中で叫んでいる。 ところが男性を意識したものではなく、女性の一方的な尺度や自分だけの基準で判断し、理想とする体型を追求するから必要のないダイエットをしてしまう。

野放しに脂肪を蓄えている人もどうかと思うが、大半の人は無理にダイエットなどする必要はなく、健康的に食べたいものを食べたら良いのであって、体に変調をきたすような食事制限や運動などする必要はないのである。 特に若いうちはパッツンパッツンに張っていようと、多少コロコロしていようと、若さがそれを十二分に補ってくれる。

極端な食事制限などしていると歳をとってから体に異常がでる危険性が高いので、直ちに中止すべきであると声を大にして言いたいが、痩せていることが良いことであると盲信している人の耳には届かないのだろう。 「将来、辛い思いをするよ~」 などと言っても聞く耳を持たず、食事制限を続けて肌がカサカサになり、骨粗しょう症への道をまっしぐらに進むのだろう。

本人の価値観などに左右されるものと違い、基準となる尺度が必要なものは世の中に多い。 時間や貨幣価値、距離や速度、大きさなどがそれに当たるが、写真に写ったものの大きさを示すために以前はタバコが並べられていることが多かったのに最近はそれを見ない。 やはり喫煙者の人口が減り、タバコはだれでもが知っていて比較対照となっていた時代は終わったのか。

昔は対象物の横には必ずタバコが置かれており、それを見てアバウトな大きさを把握できたものだが、現在は健康被害がどうしたとかこうしたと、うるさいのでタバコを置くわけにはいかないのだろうか。 しかし、何かと不便なのでタバコに変わるものを見つけてほしいものだ。 誰もが大きさを掌握できるものって何だろう。

世帯普及率が 85%を突破した携帯電話も有力だが、機種によって大きさが違う。 リンゴや卵などは似たような大きさなものが多いので候補となりうるが、食べ物を並べて写すのに抵抗がある場合もある。 何かタバコにとって代われる良いものはないのか。

結局、良い案は浮かばないが、何となくそんなことを考えて書き始めた雑感が、毎度の長文になってしまった事実の方が重大だ。 今年からはなるべく短く終わらせようと思っているので、この辺でやめておくことにする。

2008年初の

2008年初の雑感である。 言わば雑感の書き初めであり、今年一年の方向性を占う上で重要な文章となりえるのではないかと考えると身が引き締まる。 ・・・などと大袈裟なものであるはずもなく、今まで通りに無理せず気張ることなく、今年もダラダラと続けていこうと考えている。

今年は北京オリンピックなどのビッグイベントがあるため、昨年から 2008年の話題が多く取り上げられていたのが原因なのか、2008年という西暦には違和感がないが、平成 20年には少し驚く。 あまり和暦を使うことがないため、いつの間に平成も 20年まで来てしまったのかという感じだ。

この調子で時間が経過すると、千里丘駅横の高架下や道路の拡張工事が終わる 22年などあっという間に到来するのかも知れない。 最初は完成予定が遥か先の未来のような気がしていたが、もう目の前に迫ってきたと言うのが実感だ。

今年は一日に初詣に行き、二日には初買い物にも行って来た。 もちろん日常の初洗顔、初歯磨き、初風呂、初トイレなども経験済みであり、明日の午前中には今年初となる例の体操、夜には初バックアップをすることになる。 そして翌日には初仕事となって、新年になってすべてのことが出揃う。

例年であれば、どれが初夢なのか記憶が定かではなくなるのだが、今年は一日の夜にしっかりと初夢を見た。 初夢で見ると縁起が良いものとして、一富士二鷹三茄子 (いちふじにたかさんなすび) と言われるが、それは富士はその形から末広がりで子孫や商 (あきな) いの繁栄を、鷹は高く舞い上がるから機運上昇を、ナスは毛がないので「怪我(けが)無い」と洒落て家内安全を表すらしい。

他にも 「富士」 は日本一の山、「鷹」 は威厳のある百鳥の王、「茄子」 は“生す”“成す”で物事の生成発展するさまを言い表わしているという説もあるが、いずれにせよ縁起が良いということにおいて変わりはない。 一般的に知られているのはそこまでだが、実は続きがあって四扇五煙草六座頭 (しせんごたばころくざとう) なのだそうだ。 扇は末広がり、煙草は煙が立ち昇る、座頭は毛が無いことから、一富士二鷹三茄子と同義であると思われる。

生まれてこのかた、その六種類が夢に登場したことなどないし、それを初夢で見たという人にもお目にかかったこともない。 世の中でその初夢を見られる人はよほど運が良いものと思われるし、宝くじ的確率でしか見られないとすれば、それはそれでとってもありがたい夢であるのは間違いなさそうだ。

で、自分が見た初夢の内容はと言うと、何をしているの分からないが、とっても国家にとって重要であろう組織の一員となって、ある建物のある部署に配属となり、初めて出勤するところから夢は始まる。 その部屋には大勢の人がおり、多くのコンピュータが稼動している。 今後、自分が仕事をする席に案内され、30インチほどの大画面に映し出されている内容の説明を受ける。

どこの地方か分からないが、画面いっぱいに地図が表示されており、細かく区切られた地区それぞれに 『QUIET』(平穏、静か) という白い文字が並んでいる。 どうやら様々な地区を監視しているらしい。 席についてコンピュータのキーボードに触れた途端、表示されている文字が次々と 『CONFUSION』(混乱状態) という赤い文字に変わっていく。

何かいけない操作でもしてしまったのかと思い、慌てて周りを見ると、すべての画面が 『CONFUSION』 という文字で赤く染まり、職員たちも大騒ぎになっている。「何か日本国内で大変なことが起こっているらしい」 と皆が慌てふためく中、自分だけはなぜか冷静で、「これはコンピュータが暴走しているに違いない」 と確信し、「冷静になれ!」 と叫ぶ。

すると奥の自動ドアが音もなく開き、福田総理大臣と町村官房長官が姿を現す。 二人は足早に目の前を通り過ぎ、別の部屋に向っていく。 そこで、町村官房長官が立ち止まって振り返り、自分に向ってニッコリと微笑みなら、話しかけてきた言葉は 「さっそく君の出番だな」

「はぁぁぁ~!?」

・・・・・ 絶叫して目が覚めたが、いったい何を啓示する夢だったのだろう。 今年、自分の身に何が起こるのだろう。 期待と不安に胸をドキドキさせながら目覚めた 2008年最初の朝。

2007年の終わりに

もう早や一年の終わりだ。 早い。 早すぎる。 いや、早いなんていうものじゃない。 うかうかしていると、あっという間に 100歳くらいになってしまいそうな勢いだ。 以前の独り言に書いた 『ジャネーの法則』 なのだろうが、本当に歳を重ねるごとに一年が早く過ぎ去る。 記憶では先月くらいに桜が咲いており、先週くらいまで暑かったような感じだ。

しかし、この雑感や 『管理人の独り言』、『お買い物日記』 で使っているブログのシステムを新しくしたのは今年の初めで、それを書き始めてから一年と考えると、ずいぶんと長く感じるもので、やっぱり時間の感覚というのは適当でいい加減なものだとしみじみ思う。

『管理人の独り言』 を読み返してみると、なんと濃淡のない生活をしているのかと我ながら呆れかえってしまうが、それに反して世の中では本当に色々なことがあった。 新聞やテレビで今年の重大ニュースを取り上げているが、自分が最も印象に残っているのは今年の漢字にも 『偽』 が選ばれているように、原材料の偽装や賞味期限の改ざんで食の安全が脅かされ、崩壊したことに尽きる。

正月気分も抜けない年初に 『不二家』 の件が発覚し、それ以降は雪崩をうったように次から次へと様々な食品に関わる不祥事が続き、主に中国からの輸入食品からは規定以上の薬品が検出されたりするケースが多く、スーパーなど小売業でも賞味期限の改ざんが行なわれる事態にまで至っては、いったい何が安全で何を食べたら良いのか分からなくなってしまった。

それでも我々消費者は、少し賞味期限などに神経質になりすぎているかも知れない。 前にも書いたかも知れないが、以前の生活に賞味期限などという言葉はなく、1976年から一部の食品で表示が義務化され、1997年から対象の食品が広まった歴史の浅いもので、それまでは視覚、味覚、嗅覚によって自ら賞味期限を判断していたものである。

食べてみて少し酸味を感じたり、妙な臭いがすれば 「危険だ」 と判断して食べるのを止める。 結果、そのギリギリまで食べていたことになるが、それによって腹をこわすとか食中毒になるということも少なかったように思う。 今は賞味期限が一日でも過ぎると捨ててしまう人も多いだろうが、それを口にしたからといって死ぬ訳でもなく、捨てる必要などないのである。

昔は食パンにカビが生えた程度であれば、その部分をちぎり捨てて食べたものであり、お年寄りからは 「青カビはペニシリンの原料だ」 などと訳の分からない理論で言いくるめられ、文句を言いながらも食べていたものである。 だからと言って腹が痛くなった記憶もないので、必要以上に気にする必要などないのだろう。

それでも慣れというのは恐ろしいもので、そんな自分でも賞味期限を過ぎたものを食べるのはテンションが下がる。 いっそのこと賞味期限や消費期限の表示を止めてしまったらどうだろう。 昔のように野菜や魚の鮮度を見分ける知恵をつけ、五感をフル活用して食べられる常態か判断すれば良いのではないだろうかとすら思う。

日本は食料品の 60%も輸入に頼り、その 28%も廃棄している頭の悪い国民だ。 買い物のテクニックとかを磨く前に、いかに無駄をなくすかを考慮すべきだろう。 来年から様々なものが値上がりするが、それでもまだ廃棄物を減らすことなく無駄な消費を続けていくのだろうか。

何だか来年の抱負もなく、ぼやいて今年の雑感を終えることになってしまったが、物価の高騰に耐え、来年も何とか生き抜いていこうと小さく決意したりしている年末である。

威厳

何が端緒となったのか忘れてしまったが、今日の午前中に 『お買物日記』 担当者と学校や教師について話し込み、「昔は良かった」 というオッサン、オバハンの常套句を連発する事態に至り、崩壊しつつある現代教育の矛盾と危険性について深く認識してしまった。

そろそろ冬休みだと思うが、夏休みにしても冬休みにしても共稼ぎの両親を持つ子供は休みの期間、どうやって生活をしているのだろう。 共稼ぎの両親を持つ自分が子供の頃は、知り合いの家で昼御飯を食べさせてもらい、それ以外は朝から晩まで遊び呆けていたものだ。 家に親がいようがいまいが、そんなことは一向に関係がなく、それなりに充実した休みを過ごしていたものである。

また、遠く離れた土地に住む祖父母の家に行き、そのまま夏休みや冬休みが終わるまで帰らなかったことも一度や二度ではない。 最初は両親に連れられて祖父母の家に行き、そのまま滞在するというのがパターンだったが、小学校の 3-4年になると一人で電車に乗って行って休みが終わったら一人で帰ってくるという、今で言えば 『お子様一人旅』 の走りのようなことをしていた。

現代の子供は塾通いもあるだろうから、祖父母の家に長期滞在することは難しいだろう。 ましてや超過保護に育てられている子供が一人で旅することなどできないだろうし、第一に親がそれをさせたがらないのではないか。 だとすればなおさら、共稼ぎの親を持つ子供はどうやって休日を過ごしているのか。

昔は学校のグラウンドや校庭に行けば必ず誰かがいて、暗くなるまで砂ぼこりを立てながら遊んでいたものである。 そして、休みであるにも関わらず、必ず学校には一人や二人の教師がおり、大喧嘩が始まるとどこからともなく現れて子供たちを叱りつける。 子供の側も、誰かが怪我でもした場合、職員室に行けば必ず先生がいてくれるという安心感があった。

しかし今は安全上の問題からか、休日の校門は固く閉ざされている。 宿直制度もなくなった学校には教師もいないことだろう。 仮に今でも休日の学校が開放されており、教師がいたとしても子供を叱ることなどできないかもしれない。 下手に子供を叱ったり、ましてや平手であっても頭を殴ろうものなら鬼のような形相をした親が怒鳴り込んでくるに違いない。

かなり以前の雑感に、「母親が父親を馬鹿にしておいて子供の教育などできるか」 と書いたが、それは教師に対しても同じことが言える。 昔の親は教師を尊敬し、子供に対しても 「先生は偉い」 と説いたものである。 たとえ自分より年下の新任教師であろうと教師は絶対であり、叱られたり殴られたりした場合は 「おまえが悪い」 と言われたものである。

現在のように教師を教育産業の従業員としか見なさない態度で、子供の教育まで押し付けようというのが間違っており、そのような態度や力関係を子供も敏感に感じ取っているから教師の言うことなんぞ聞かないのだと思う。 よほど酷い体罰でも受けない限りは、教師に殴られようと 「おまえが悪い」 と子供に教えれば良いし、先生は偉いものであると諭さなくてはならないだろう。

そういう根本部分から考え直さなければ、学校教育の崩壊を食い止めることはできないし、真っ当な子供も育たないだろう。 すぐに手を出す子供にとって怖い先生だって必要だ。 親が何を思おうと、そんな先生の周りに集まる生徒だって多かった。 悪いことをすれば叱られたり殴られたりするのは当り前のことで、普段は頼りになる優しい先生だと子供自身が知っている。

自分は教師から叱られたことも殴られたことも数知れず、親はそんな教師に文句を言うどころか御礼まで言っていた時代に育った。 それでも今から考えると、「昔は良かった」 と思えるのだから、それは何も間違っていなかった証拠ではないだろうか。 現在の子供たちが大人になったとき、今の教育者が本当に自分にとって良い先生だったと記憶に残っているだろうか。

そして、そんな子供が大人となって親となり、子供が学校に通い始めると、今よりもっと酷い馬鹿親になって教師達を怯えさせるに違いない。

CMの明日

過去の独り言で 『小林製薬』 や 『マクドナルド』、『ナショナル』 に 『アート引越しセンター』 のテレビCMに文句を書き、 『エステー』 や 『セコム』 のCMが嫌いだと書きなぐったりしてきたが、まだ他にも嫌いなCMはある。 以前の雑感にも書いたが、DonDoko 山口 (智充) 氏が登場するCMのすべてが好きになれないし、エプソン社のCMはどれを見てもパッとしないように思う。

エプソンは過去から現在におけるまで、その時々の一線級のアイドルや大物芸能人を起用している割にはイマイチ感がほのかに漂い、どうしてこうもダサダサのCMしか作れないのかという哀れみすら湧いてくる。 クライアントであるエプソンにセンスがないのか、広告代理店にセンスがないのか、同じ家庭用プリンタのCMなのにキヤノンとは大違いである。

池田模範堂の手荒れによるパックリ®割れ治療薬 『ヒビケア軟膏』 のCMも大袈裟で嫌いだ。 特殊メイクとも呼べない幼稚なひび割れを手の何箇所にも作り、大袈裟に宣伝する内容に嫌悪感すら覚えてしまう。 とにかく過剰演出がどうしても好きになれないのである。

CMで気になっているのは森永製菓で、エンゼルマークの表示とともに流れる 「ピポピ」 のシグナル音は、「ピポピポ」 の 4音が復活した。 1967年から 1985年まで 4音だったのに 1986年のマーク変更とともに 3音に変わり、それまで馴染んできた者としては何だか拍子抜けするような、しっくりこないような違和感を覚えたものだが、4音に戻したのには何か訳があるのだろうか。

その他に気になっているのはビール業界のCMである。 タレントを起用するようになったのはいつの頃からか。 昔はどこかの劇団員のような見たこともない人が登場するのが常であり、どのビールメーカーもそれは同様だった。 それが今では名のあるタレントや、矢沢永吉氏のような大物まで起用している。 消費が落ち込み、他社との差別化を図るためには止むを得ないのかもしれないが。

ブレンディの CM といえば原田知世氏だ。 あのCMは一度流れ始めると、それが新しくなるまで長期間放映される。 それは決して予算がない訳ではなく、あえて長期間の放映をしているのだという。 その刷り込み効果は著しく、原田知世 = ブレンディ、インスタントコーヒー = ブレンディと潜在意識に深く刷り込まれているようで、アンケート調査では回答者の多くがインスタントコーヒーと言えばブレンディと答えたそうだ。

さらに驚くべきことに、そのCMは 2001年にまとめ撮りされ、つい最近まで、放送されていたという。 どうりで歳をとらないはずだし、これほど徹底したキャラクター管理は執念とさえ言える。 現在放映されているものは今年になって収録されたものらしいが、いった何年分までまとめ撮りしたのだろう。 これから 10年間くらいは歳をとらない原田知世氏が見られるかもしれない。

最近はネット広告の伸びが著しく、テレビCMの数や予算は減少していると言われている。 しかし、それでもネット広告への予算は数%にすぎず、テレビCM予算の 70%とは比較すべくもない。 そして、ラジオや雑誌、屋外(看板)広告など様々な宣伝方法はあれど、日本コカ・コーラ社の壮大な実験結果によると、駅構内や電車内における交通機関広告が最も費用対効果が高かったらしい。

今後、CMがどこに向うのか分からないが、視聴率の低迷が続くテレビ業界から離れ、ますますネットへの流出や費用対効果の高い他の媒体に移行していく可能性は否定できない。 その時、我々消費者の目には、どんな映像が飛び込んでくるのだろう。

行動心理

YAHOOGoogle を代表とする検索エンジンで何らかの解を求めて検索する行動と、人に相談をする行動は似ているように思われ、それは取りも直さず己が求めていること、求めている方向への導きを望んでいるのであり、本当に迷い、悩んだ挙句に自分では解を得られず、困り果ててネットや人に頼るということは少ないのではないかと想像する。

まず仮説ないし自分の中で決めている方向性があり、それを後押ししてくれる結果を望んでいるだけであるから、その際は否定的意見は排除し、肯定的意見を見つけては 「やっぱりね」 とか 「ほらね」 などと納得して自分の判断に間違いがないような錯覚におちいり、結果、それが間違っていた場合には他人のせいにして自己への負担を軽減させる絶大なる効果をもたらす。

もちろん、自分の知らないことを調べるためにネットで検索したり人に訊いたりすることもあり、その場合は全面的に得た情報を信頼することもあるが、もっと心理的な部分においては己に近い意見を尊重するもので、例えば UFO とは何ぞやと調べた場合、それは未確認飛行物体 (Unidentified Flying Object) であると正確な解を得られるが、UFO が存在するや否やという案件になると、少しでも存在を信じたい場合は肯定派の意見を尊重し、否定派の意見は無視となる。

例えを低次元にまで落とし込んで展開すると、彼氏との仲がうまくいっていないが、自分の中では 「別れたくない」 という漠然とした思いがある女性が友人に恋愛相談を持ちかける場合、「辛いこともあるけど頑張りなさいよ」 という後押しがほしいのであって、「そんな男となんか別れちゃえば?」 などと言われようものなら、泣くは叫ぶはの大騒ぎとなって友人を閉口させるのは確実であり、「だったら最初から相談すんな」 的雰囲気が辺りを漂うことうけあいである。

それよりも重大な人生相談であった場合も、程度の差こそあれ己である程度の方向性に傾いている場合が多く、人からはそれを後押ししてもらうことを望み、一歩踏み出すきっかけを欲していることがほとんどであり、悩んでいるふりをして、自分が進もうとしている道と異なる意見を言われると気分を害し、肯定的意見を聞くと 「やっぱりね」 と気分良く納得して 「いやぁ~相談して良かったわ」 などと、会った時のゲッソリ感など微塵もなく、相談相手の疲労感など無視して晴れやかな顔を見せる。

ネットの閉鎖性により思想が偏ることを危惧する人がいるが、ヒューマンコミュニケーションだって大差はなく、結果的に人は自身の判断に基づいて進むべき道を模索し、方向性を決定しているものと思われるので、思春期以前ならともかく成人は自己責任を前提に前に進めば良いのである。

そうする自信もなく、自身で決断することすらできない人は、カルト宗教の餌食になりそうな気がするので少し心配であり、むしろそちらの方を心配すべきではないかと考える今日この頃である。

マサルノコト scene 17

夜の学校は不思議な雰囲気だ。 普段であれば、絶対にいるはずのない時間、クラブ活動をしていた生徒も帰宅し、教師すら数人が残っているだけの校内。 演劇の通し稽古をするために体育館のステージに集まる仲間たち。 体育館はただでさえ声が響くが、それをかき消す他の生徒の声もなく、一切の雑音がない静寂の中に一人ひとりの声だけがこだまする。

熱心に台詞を覚える仲間を横目で見ながら、自分は美術担当として舞台をどうやって作るか頭を悩ませていた。 物語の中心は学校の教室。 誰も見たことのない場所が舞台であれば、想像の世界なので抽象的な背景で済むが、場所が教室だとそうはいかない。 おまけに物語りの 99%は教室のシーンなので長く人の目に触れることになる。

机や椅子は実際の教室から運び入れれば良いのだが、問題は教室の壁だ。 そこで、角材とベニヤ板でステージ一杯のセットを作り、教室の壁をすべて再現することにした。 黒板やそこに書かれている日直などの文字、壁の色から板張り部分の木の一枚から木目まで、ペンキや絵の具を使ってすべて忠実に描きこむ。 一部に出入り口のスペースを確保し、実際に教室の戸を外してはめ込んだ。

劇の方は冒頭に喧嘩のシーンをもってきて派手なアクションから始め、観る側の関心を一気に惹きつけようという作戦だ。 動きを指示するマサルの声にも力が入る。 顧問である女教師からは 「早口すぎるから、もっとゆっくり台詞を言うように」 という指示があった程度で、それ以外のすべては自分たちの手で一から作り上げた。 いや、たった一点をのぞいては・・・。

冒頭の喧嘩のシーンで一人が大怪我をしてしまい、救急車が駆けつけるというストーリーなのだが、そのサイレンの音を入手しなければならない。 そこで学校側が消防署に掛け合い、録音させてもらうことになった。 マサルと自分は、それぞれに忙しかったので女教師に録音してきてもらったのだが、その件で担任から 「教師を使うとは何ごとぞ」 とこっぴどく叱られてしまった。

しかし、こっちはこっちで本当に忙しかったのである。 学校祭の日は刻々と近づき、美術担当の自分も脚本兼、演出担当のマサルも頭が一杯で、授業なんかうけていられないくらいだ。 出演者も授業どころではなく、机の下に台本を隠して何度も何度も読み返している奴もいるくらいだ。 そんな時にわざわざ消防署になんて行っているヒマなどないのである。 ヒマそうなのは女教師だけだったのである。

毎日夜遅くまで学校に残り、時には真っ暗になった校内で肝試しをして遊びながらも、勉強の数百倍もの努力と練習を重ね、いよいよ学校祭の当日となった。 学校内の話なので特別な衣装など用意する必要がなく、いつもの制服で芝居をするのだが、ただ一つだけ問題が持ち上がった。 不良役にしている一年生の女の子が真面目な生徒なので当時の不良の定番であった長いスカートなど持っていない。

そこで、不良をしていた同級生と一年生のスカートと交換させることにした。 同級生は死ぬほど嫌がっていたが、そこは不良仲間の自分が説得したり脅したりして無理矢理にでも着替えさせる。 ここで女教師が自分に白羽の矢を立てた理由がいかんなく発揮されたのである。一年生にスカートを履かせると、思った通りバリバリの不良に見える床を引きずるくらいの長さになった。

そして、いよいよ本番の幕が静かに上がった。 舞台に再現された教室のセットを観て会場からはどよめきが起こる。 そして冒頭の喧嘩のシーン。 殴られ役の生徒が並べてある机や椅子が壊れるほどの勢いで転がり、場内に驚きと歓声が上がる。 そして照明が暗転すると、近づいてくる救急車のサイレンの音。 場内が騒然となり、一気に物語へと引き込むことに成功。

物語の主人公はマサルとともに、いつも一緒にいたノブアキだ。 途中、台詞を忘れて必要以上に沈黙が流れるなどのアクシデントはあったものの、順調に芝居は進んでラストシーンへ。 最後は友達や友情がどれほど大切なものかを切々と語って幕が下りる。 そこで大きな拍手は貰ったが、それで終わらせる自分たちではない。

再び少しだけ幕の中央を開け、エンディングの音楽が流れる中、模造紙を何枚も繋ぎ合わせて作った出演者や裏方の名前を左から右にゆっくりとスクロールさせる。 そう、映画やテレビドラマのエンドロールのように、演劇に関わった人たちの名前が一人ひとりスポットライトに照らされる。 そして最後に -THE END- の文字。 場内は割れんばかりの拍手と喝采に包まれた。

自分とマサルを誘った女教師から全員に感謝とお褒めの言葉をいただいたが、木枯し紋次郎のように 「あっしには関係のねえことでござんす」 といった雰囲気で、成功の余韻に浸ることもなく翌日から何事もなかったように普通の生活に戻っていった仲間たちがカッコイイ。 大人になった今とは違い、人からの評価など気にすることもなく、ただ一つのことに向って何かをやり遂げる。

代償や評価を求める現在とは異なり、子供の頃は全員がそういうものだったのかも知れない。

マサルノコト scene 16

中学二年のある日のこと、学校で一番若い女教師にマサルと一緒に呼び出された。 教師から呼出をくらうことに慣れていた自分は平気だったが、マサルにはそんな経験がなく、いったい何ごとかと不安そうにしている。 自分も体育教師に殴られたり担任に叱られたりすることはあったものの、その女教師とは何の接点もないので心当たりすらない。

二人で会いに行き、話を聴くと学校祭の演劇をやってほしいと言う内容だ。 そんなものにまったく興味もなく、まして不良をしている自分は、その話を持ちかけられること自体が不思議でならないのと、そんな恰好の悪いことなどできないという感情から、「ふざけるな。ば~か」 と相手にしなかった。 それでも 「お願い」 と頼んできたが、「うるせぇ」 と突っぱねていた。

不良だった自分が人前で劇をするなど恥ずかしくて死んだ方がましだ。 どんなに頭を下げられようと、引き受ける訳にはいかないのである。 第一、どう考えても頭を縦に振る見込みのない自分に話を持ちかけるのが理解できない。 切羽詰って女教師の頭がおかしくなったのか。 「どうして俺達なんだ?」 と訊くと、マサルには人望があり、人が集められそうで、自分はそれを統率できそうだと答える。

そう言われて悪い気はしなかったが、どう考えても乗り気になれず、態度を保留して席を立ち、マサルと 「どうするよ」 と話し合った。 女教師の話によると、演劇部というクラブはあるのだが、所属部員は一年生の女子が二人いるだけで、とても演劇などできる状態ではないということであり、せめて学校祭の時だけで良いから人数を集めて何とか演劇をしたいのだと言う。

マサルも自分も、人から頼られたり何かをお願いされると断われないという部分があり、そんなに困っているのなら一肌脱いでやるかと重い腰をあげることにした。 女教師にその旨を伝えると、顔がぱっと明るくなり、気が変わらないうちにと一年生の女子二人を引き合わせ、演目を何にするかと学校教材でもある演劇のシナリオを並べ始めた。

手にとってみると、それは文学全集の中から抜け出てきたような世界観の劇であり、とてもじゃないけど恥ずかしくて人前で披露できる代物ではない。 そんなものに興味がないのは自分だけではなく、おそらく全校生徒の大多数が興味を示さないものと思われる。 ただでさえ、演劇など始まっても誰も関心を示さず、ペチャクチャと話をしたり、席を立ったりするものが多いのに、教科書どおりの劇など誰が見るか。

マサルと自分は、どうせやるなら生徒が関心を持ち、最後まで観てもらえるものにしてやる宣言し、当時から多くの小説を読み、文章を書く能力が高かったマサルがシナリオを学校祭用に書き下ろすことにした。 その辺の作業はマサルに任せっきりだったので、マサルがどのように悩み、どれだけ苦しんで台本を書いたのか分からないが、数日後に書きあがったばかりの台本を読ませてもらった。

それは 『青春学園サスペンス友情物語』 とでも表現すれば良いのか、とにかく中学校で起こる事件を探偵役の生徒が解決に導くという内容で、同世代が登場人物なので話が解りやすい。 さらに適度な謎解きとサスペンスが散りばめられた 『火曜サスペンス劇場』 の中学校版ともいえる内容は、生徒も興味を持って観てくれるに違いない。 とりあえずは 「よくやった」 とマサルを誉め称えておいた。

事前に事情を説明したり半ば脅したりして、演劇への参加者を募っていたので、登場人物は探偵役の一名を除いてすべて実名だ。 同級生にとってもこんなに解りやすいことはない。 おまけに、各クラスのそこそこの人気者を半強制的に集めたので出演者にも華がある。 マサルは脚本と監督に専念し、自分は美術担当を買って出たので二人は裏方に徹し、表には一切顔を出さないという作戦だ。

そして、クラスの人気者や優等生、不良まで入り混じるという錚々たる面々が集結し、学校祭に向けての準備が開始されたのであった。

- つづく -

キャッチコピー

企業にはキャッチコピーというものがあり、その多くは一言で企業イメージを表している。 世の中にはコピーライターなどという職業もあって、そのライターが寸暇を惜しんで頭をひねった結果が、短いコピーの中に企業のイメージや消費者へのメッセージを込めた、まるで暗号とも呪文とも思えるようなインパクトの強い文字列へと昇華させるのだろう。

自分のような文才のない者にとって、それは芸術品のようであり、見事なまでの美しい光を放って目や心に飛び込んでくる。 小説や詞のように文字数の制限を受けないのであれば、主義主張や思いを読み手に伝えることができるのかもしれないが、たった一行、それも数文字で心に響く言葉を綴るなど神業としか思えない。 世の中には、素晴らしい才能の持ち主がいるものである。

■ 『お口の恋人』(ロッテ)

これはもう、子供の頃から目や耳に馴染んでおり、今さら何も言うまい。

■ 『目のつけどころがシャープでしょ。』(シャープ)

最初は何を言っているのかと思ったが、90年代の終わりから 「家庭用テレビをすべて液晶にする」 と宣言し、事実、業界をリードしてきたシャープを思うと、このコピーが何年ごろから使われだしたのか分からないが、「確かにあんたは鋭いぜ」 と認めざるを得ない。

■ 『ココロも満タンに』(コスモ石油)

原油価格の高騰でガソリン代も大幅に値上がりし、なかなか満タンにはできないかもしれないが、このコピーは心温まるものがある。

■ 『お金で買えない価値がある。』(マスターカード)

「二人で過ごした時間・・・Priceless」 などと、こちらも心に染み入るコピーだ。 マクドナルドの Smile は¥0だが、なんか Priceless の方が美しい感じがするのが不思議だ。

■ 『一瞬も 一生も 美しく』(資生堂)

これも素晴らしい。 男の自分でさえ 「う~む」 と唸ってしまうのだから、女性の心には強く響くものがあるのだろう。

■ 『水と生きる』(サントリー)

飲料系が主体となっている会社で、ここまで強く宣言されると、その決意の固さと水に対する思いがヒシヒシと伝わってくる。 きっと水の汚染などにも気を使い、浄化などにも積極的に取り組んでいるのではないかと、勝手にプラスの想像が働く。

■ 『味ひとすじ』(永谷園)

こちらも力強い宣言だ。 もう何もかにもなく、とにかく徹底的に味にこだわるのだろう。 企業である以上は、いろいろなことにこだわったり、色々なことを考えているのだろうが、余計な文言は一切排除する思い切りの良さが嬉しくすらある。

■ 『あしたのもと AJINOMOTO』(味の素)

ちょっぴりダジャレ系である。 あしたの ”元気の” もとなのか、あしたの ”活力” のもとなのか、アミノ酸を主に扱う会社なので ”健康” のもとなのか。 いろいろな意味が込められているとは思うが、ラップのように韻を踏んでいるのが、ちょっとオシャレだ。

■ 『からだにピース CALPIS』(カルピス)

こちらもダジャレ系。 それでも決して悪ふざけしているのではなく、直訳すれば 『体に安心』 ということであり、これも韻を踏みながら見事に企業姿勢を現している。

誰が考えたのか分からないが、どれもこれも本当に素晴らしいキャッチコピーだと思う。 消費者に伝わるメッセージもあれば、社内の意思統一にも一役かっているに違いない。 食の安全を脅かす不祥事が相次いでいるが、それらの企業に理念などがあったのだろうか。 キャッチコピーを調べてみようと検索したら、『石屋製菓』 と 『赤福』 はお詫びのページ(11/17現在)なっていて分からなかった。

キャッチコピーで、もう一つ気になっているのが、日本通運。

■ 『With Your Life』(日本通運)

たしか、With Your Life というキャッチは、ギフト販売のシャディが使っていたのではなかったか。 気になって調べてみると、シャディは今年の 6月に UCC(上島珈琲)の完全子会社になっており、キャッチコピーも変わっていた。

■ 『ギフトの国に、ギフトのお店』(シャディ)

シャディは、昔のキャッチを他社が使っても気にならないのか。 日通は他社が使っていたことを気にしないのか。 双方とも、

■ 『そんなの関係ねぇ!』(© 小島よしお

と言ったところか。 ちなみに上記はキャッチコピーではなく、単なる 2007年流行語大賞候補であって、来年には忘れ去られる危険性が最も高いものと思われる。