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マサルノコト scene 14

それは、あまりにも突然のできごとだった。 セイジの親は全国の隅々まで、どこに転勤になっても仕方のない仕事をしていたのは事実だが、その事実が伝えられ、一カ月後にはこの街、この学校、このクラスから去って行ってしまうなど、あまりにも時間がなさすぎる。

当時、学級には班というものがあり、自分とマサル、セイジ、ノブアキの男 4人、マミ、マミ、クミ、チズコの女 4人で構成されていた。 その中でセイジとチズコ関係がどこまで進んでいたか詳しくはないが、とりあえずは恋仲であろうことは周知の事実となっており、今後の二人の関係がどうなってしまうのかというのも最大の関心事となった。

自分やマサルとノブアキは、セイジと仲良くしていたものの、転校が決まってしまったのだから仕方がないと割り切って残り少なくなった日々を送っていたと思う。 何も特別なことをする訳でもなく、最後のその日まで普段と変わらぬ学校生活、いつもと同じ休み時間。 余す体力を発散させるように暴れ、声がかれるまで大騒ぎし、涙が出るほど笑っていた。

そしてセイジが登校する最後の日。 記憶が定かではないのだが、出発の時間の都合で何時間目かまでの授業は受けていたような気がする。 そして、次の授業が始まる頃にセイジは両親と共に学校を去って行く。 クラスでセイジを見送らないのかと担任に聞いたところ、「そうするつもりはない」 との回答。 しかし、友達の去りゆく姿を見ることが出来ないのは納得できなかった。

これまでの 『マサルノコト』 では、何度となく 「マサルは真面目だ」 と書いてきたし、事実、それは現在に至るまで変わらないので、持って生まれた気質なのだろう。 とことん反抗期だった自分は、寝坊して学校に遅刻するのも授業をサボるのも平気だったが、その超真面目で曲がったことが大嫌いなマサルは、この日、セイジを見送るために生まれて初めて授業をサボった。

ノブアキも女子 4人も授業を受けず、一緒の班だった全員が通用門でセイジと両親が出てくるのを待っていた。 普段はうるさいくらいに騒いでいる仲間なのに、みんな口数も少なく、どこかうつむき加減で最後の時を待つ。 チズコは何かに耐えるように一点を見つめて動かない。

少しして学校側に挨拶を済ませたセイジと両親が姿を現した。 寂しい気持を抑え、努めて明るくセイジと別れの挨拶を交わしたが、今となっては何を話したのか覚えていない。 セイジとチズコが話すとき、全員が気を利かせて少しその場を離れた。 何を話しているのか聞こえなかったが、チズコの目から涙があふれていたのだけは鮮明に記憶している。

ご両親は、教室に戻らないと先生に叱られると心配してくださったが、誰も戻る者はおらず、校門を出てセイジの姿が見えなくなるまで見送り、最後まで手を振った。

別れの余韻にひたっていると、「ちょっと来い」 という担任の声。 受け持った生徒を見送りに来ていたのだろう。 そのままゾロゾロと職員室の前まで連行され、全員が廊下に並ばされた。 そして、「正座して反省しろ」 との命令を受けて全員で正座し、一人ずつゲンコツをもらってしまったが、その手に力はなく、頭に触れる程度のものだった。

驚いて担任の顔を見ると、「困った奴らだ」 とでも言いたげに目は笑っていた。 近くにいながらセイジを最後まで見送らせてくれたこと、授業をサボったことを本気で叱らなかったことに関しては、今でも感謝しているし、その心意気が嬉しかった。

生まれて初めて授業をサボり、廊下を通る上級生や下級生、他のクラスの奴らにクスクス笑われながら正座を続けるマサルだったが、やったことを後悔はしていないようで、その横顔はどこか誇らしげでもあった。

マサルノコト scene 13

過去に繰り返し書いているように、マサルは真面目を絵に描いたような男であり、真面目の前に ”クソ” がつくほどですらあった。 どちらかと言えば優等生組みの仲間で、マサルのほかに 『セイジ』 と 『ノブアキ』 という友人もいた。 マサルは生徒会の風紀委員長、セイジは生徒会副会長、ノブアキに関しては忘れてしまったが、何らかの役員をしていたはずだ。

当時は不良をしていた自分が優等生組みとも仲良くしていたのは、良く言えば一匹狼で特定の不良グループに所属せず、悪く言えば中途半端で優柔不断であるゆえに、一本芯の通ったバリバリの不良にもなれないねじ曲がった性格だったことに起因するが、マサルを介してセイジやノブアキとも親交を深めていた部分が大きい。

自分と比べると三人とも真面目な優等生ではあったが、そこはヤンチャ盛りの中学生、現代では信じられないほど厳しい内容の校則が生徒手帳に細かく記載されていたものの、それを一から十まで厳守している訳でもなく、教室や廊下を走り回ってみたり、相撲やプロレスの真似をして暴れたりして持て余すエネルギーを発散させていたものである。

中学二年当時の教室は校舎の一番端にあり、最もトイレが遠い場所でもあった。 そのトイレに行って用をたし、帰路はコースを変えて体育館を経由して教室に戻るまでの時間を競ったりもしていたが、風紀委員長という立場から廊下を走る訳にいかないマサルが時間の計測係りを務めていた。

教室の前の廊下に自分とセイジ、ノブアキの三人が並び、クラウチング・スタートの姿勢をとってマサルのゴーサインを待つ。 張り詰めた緊張感の中、マサルの掛け声と共に一斉に体が動く。 その体が伸びきった瞬間、ゴイィ~ンという奇妙な音と共にノブアキが廊下に倒れこんだ。 何事かと思ったら、少し高い位置に備え付けてあった消化器に頭を強打し、その場でのびてしまったのである。

それは幸いにも大怪我には至らず、ノブアキの頭に大きなタンコブができる程度で事は済んだのだが、ある日のこと、廊下でセイジとノブアキが相撲の真似をして遊んでいた際に事件は起こった。 自分は行司を務め、マサルは風紀委員長という立場から取り組みには参加できず、廊下にドッカリとあぐらをかいて審判役を務めていた。

「はっけよ~い、のこった!」 の合図で二人は綺麗な立会い。 両者技の応酬で一進一退の攻防が続く。 セイジがバランスを崩したところでノブアキが一気に攻めに出て上手投げをうった。 それを必至にこらえるセイジだったが、力尽きて後ろに倒れこむ。 その際、太く四角い柱に腰を強打してしまい、打ち所が悪かったのか 「あ゛~!」 という声にならない声とともに苦しみだした。

怪我の名前は忘れてしまったが、それはことのほか重症となってしまい、救急車で運ばれたセイジは入院生活を余儀なくされた。 ことの重大さに最初は青くなっていたノブアキとマサル、そして自分だったが、毎日のようにセイジが入院している病院に見舞いに行き、ゲラゲラと大声で笑っては看護婦さんに 「うるさーい!!」 と叱られたりしていた。

そんな交友関係は卒業するまで続くものだと思っていた。 いや、正確には先のことなど考えたこともなく、時はいつまでも続くような、この瞬間が過去になっていることなど気付かずに生活していた。 時が経過していることなど意識せずに毎日を過ごしていた中、突然、親の仕事の都合でセイジに転校の話が持ち上がった。 ・・・次週へ続く

本義

どうも最近は 『叱る』 と 『怒る』 を混同している人が多いような気がする。 『叱る』 とは 『たしなめる』 とか 『とがめる』 の最上級形であり、相手のことを思えばこそ、言動について良くない点をつい強い口調で指摘したり、大声になってしまったりするのであって、そこには正しい方向に導こうとする善意だったり親心が含まれるものである。

翻って 『怒る』 とは、自分が不満であったり不快なことがあって我慢できず、腹を立てて相手に文句を言ったり大声で怒鳴ったりすることであり、そこには相手に対する不満とか不快感しか存在せず、立場や将来を思いやる感情など皆無である。

よく 「上司に怒られた」 というビジネスマンがいるが、上司は部下に対して社会人としての正しい行いを強い口調で言い聞かせているのであり、間違った言動を、つい強い口調で指摘しているのだから、「叱られた」 というのが正しい表現である。

上司の言葉に 『叱る』 という本義がなく、単に会社に対する自分の立場が不利になるとか、部下の話し方、行動が気に入らないというだけで相手を思いやる気持もなく、感情に任せてグチグチ言ったり怒鳴ったりしているのであれば、そういう時にこそ 「怒られた」 と使うべきなのだが、最近はそんな馬鹿な上司も多いので、「怒られた」 と表現するのが正しかったりするのかもしれない。

「お母さんに怒られた」 という子供がいるが、親は子に対して社会人としての正しい行いを強い口調で言い聞かせているのであり、間違った言動を、ついつい強い口調で指摘しているのだから、「叱られた」 というのが正しい表現である。

親の言葉に 『叱る』 という本義がなく、単に世間体を気にして自分が恥ずかしい思いをするからとか、自分がイライラしているからとか、洗濯をするのが面倒だから服を汚すなとか、夫が気に入らないから八つ当たりしているだけで、子を思いやる気持もなく、感情に任せてグチグチ言ったり怒鳴ったりしているのであれば、そういう時にこそ 「怒られた」 と使うべきなのだが、最近はそんな馬鹿な親も多いので、「怒られた」 と表現するのが正しかったりするのかもしれない。

『叱る』 と 『怒る』 を混同しているのは、それを受ける部下や子ではなく、それをする側の上司や親なのかもしれない。 部下や子はそれを敏感に感じ取り、これは自分のためを思っているのではなく、単に感情論でしかないと察しているのかも知れない。 そして、そういう事例が多いのであれば、優秀なビジネスマンも立派な子も育ち難くなっているのかもしれない。

先週の雑感の続きになるが、「育つのを邪魔しない」 程度に、人間として、社会人として間違った言動には躾 (しつけ) という本義を忘れずに厳しく叱って、正しい方向に導く毅然とした態度が上司や親に求められているのではないだろうか。

本末転倒

ニート (NEET(若年無業者)) という言葉が 2004年に日本に上陸してから早や 3年、バブル崩壊の後遺症から抜け出したと言われる現在も、その数は 20万人程度しか減少しておらず、相変わらず社会問題として取り上げられることが多い。

最新の調査で若者がニート化する大きな要因として、親が 「自分の好きな道を進めば良い」 とか 「自分のことは自分で決めろ」 などと言い放ち、子供の将来に対して真剣に取組まないことが挙げられているが、それを見て 「何を甘ったれたことを言っているのか!」 と腹立たしくすら思った一方で、確かに子供の教育に対して自己矛盾を抱えている親が多いことに思いが巡る。

子が生まれ、幼い間は何をしても我が子は天才ではないかと喜ぶ親。 絵を描いていても親バカ丸出しで上手だと誉め、音楽に合わせて踊っていても、歌っていても、それは才能であると信じて目を細める。 子供は親に誉められるのが一番嬉しい訳であるから、ますます喜んで上達しようとする。

ところが、そんな微笑ましい光景も幼少期の終わりと共に姿を消していく。 早くは幼稚園の頃から、遅くても小学校の中学年にさしかかると絵を描いていても、歌っても踊っても、ましてや外を駆け回っていようものなら、「そんなことしていないで勉強しなさい」 と言われてしまう。

犯罪以外は何をしても悪いということはなく、むしろ人生に何らかの影響を与え、将来的にその才能が開花する可能性があるというのに、その芽は親の手によってことごとく摘み取られてしまう。 「あれをしてはいけない」 「これをしてはいけない」 と、子供を八方塞 (ふさがり) の状態に追い込んでおきながら、いざ人生を決める大学への進学とか就職の際になって 「何をしたいか自分で決めろ」 とは・・・。

才能とか可能性という翼をもがれ、「さあ、飛び立ちなさい」 と言われる子の気持はどうなのだろう。 泳ぎ方を教えられないまま、「大人になったのだから海に潜って自分で餌を探しなさい」 と突き放されたら、ペンギンだって生きて行けないだろうし、他の鳥だって巣立てない。

勉強という意味だけではなく、生き方に関する教育も含め、最近は何かが狂っているとしか思えないが、給食費を払わない親がいたり、ちょっとしたことで学校にクレームを入れるバカ親が子を育てているのだからそれも当然なのか。 中には 『義務教育』 という言葉の意味も分からず、一定水準の教育を受けさせるのは国や教師の義務だと思っているバカもいる。

確かにその一面もあることはあるが正確には、すべての親は子供に一定水準の教育を受けさせる義務を負っているのであり、そのためには給食費を払わなければならず、人の道から逸れたときは教師から殴られても仕方ないのである。

親ももう少し賢くなり、子供の可能性を信じてはいかがだろうか。

「人を育てる」 などおこがましい。
「育つのを邪魔しない」 というくらいの認識でちょうど良い。

by 岡田武史(元サッカー日本代表監督(岡ちゃん))

格差社会

参院選で自民党が歴史的大敗を帰し、安倍総理の去就に関して党内すら二分する議論が交わされており、その行く末をマスコミ各社、評論家まで様々な意見を述べるにいたり、政治的混乱とアメリカ株の暴落から東証一部銘柄も近年まれに見ぬ下げ幅を記録し、経済的にも混乱期を迎えている日本である。

敗戦の責任論として安倍総理辞任を積極的に促す議員もいるが、代わりに誰を立てたら良いのかという具体論はなく、この混乱期に本命の生太郎 (そうたろう (麻生太郎氏の俗称)) 氏をかつぐのはあまりにももったいなく、ワンポイントで谷垣氏をかつごうにも、根っからの消費税値上げ論者である彼を頭に据えると衆院選にすら大敗するのではないかという不安を払拭できずにいるようだ。

今回の参院選の総括として 『小泉改革の光と影』 と称し、影の部分である格差社会に焦点を当てて敗因とする政治家やマスコミが多く、民主党その他の政党も 『格差社会の是正』 をスローガンに選挙戦に勝ったのも事実であるため、所得格差、地域格差に目が奪われがちになっている。

確かに資本主義、自由競争社会の実現に向けて小泉純一郎・竹中平蔵の両氏がひた走り、その結果として所得格差が生じてしまったのは事実ではあるが、それを悪とするのが正論であるかは、はなはだ疑問が残り、資本主義経済における階級的不平等の克服を目的とした社会主義など成り立たないことは歴史が証明していることからも悪とは決め付けられないと思う。

我家は決して勝ち組みなどでなく、将来に不安がないほど潤沢な金融資産を保有している訳ではないが、世に言われる勝ち組み、成功者を恨んだり憎んだり、ましてや妬んだりする意識はなく、もちろん羨むことはあれど、格差が生じるのは成功者にはそれだけの才能があり、努力を怠らなかったのだと素直に認めざるを得ない部分が大きい。

法を犯してまで手荒く利益を追求した元ライブドアの堀江氏や、村上ファンドの村上氏などは厳罰に処されるべきだと思うし、「金儲けがそんなに悪いことですか?」 という村上氏の問いに関しては、「悪くはない。 ただし、正当な方法であれば」 と答えたい。

地域格差問題では地方都市、農村部、過疎地などに不満が広がり、それが多くの票を失う結果になってしまったと分析する議員も多いが、果たしてそれは小泉改革の影なのだろうかという疑問が頭をもたげ、さらに民主党だったら改善されるのかという巨大なクエスチョンマークが頭上でボヨンボヨンと音を立てて跳ね回る。

確かに地方交付税やら何やらと、税金の通り道や使い方を変えようとして、結果的にそれが痛みを伴なうことになってしまったのは事実ではあるが、それは既得権益、省益を保持しようと改革の内容を違うものに組替えてしまった役人が悪いのであり、責められるは中央官庁の公務員ではないのか。

民主党が票田である組合を意識すれば、この問題を解決する能力があるのかに大きな疑問があり、ましてや人員削減を伴なう小さな政府の実現、民にできることは民に任せる構造改革、規制緩和などの実行力があるとは決して思えず、国内外を問わず多くのエコノミストが指摘する、税金のばら撒き行政による一時的なカンフル剤的手法しかとれないような気がする。

そして、小泉改革が改悪だったのであれば、今でも多くの政治評論家、経済エコノミストから小泉待望論が出るはずがなく、海外メディアや評論家までもが小泉待望論を展開するはずがない。

従って、参院選の敗因は小泉改革の影にあったのではなく、安倍首相とその仲間達が招いた政治不信、本人はおろか自民党の支持率まで下げてしまった言動や思想にあったのではないかと思い、全責任は本人も認めているように首相にある訳だから、ここはタイミングを見計らって辞任すべきなのではないかと思う。

ただし、次の総理候補がいないという厳然たる事実に変わりはないが。

何も思いつかない時は

たまにはダラダラと書き始めてみる。 第一、こうも暑いと考えるのが面倒になってしまうではないか。 以前の雑感にも書いたような気がするが、暑いと脳の働きが 80%程度までに低下するらしい。 自分の場合は暑さに弱いので 60%まで低下しているかもしれない。 さらに、普段から 50%くらいしか使っていないので、今は普通の人の 30%程度だと思われる。

いや、書きたいことはある。 『想い出の居酒屋』 のその後もあるし、『マサルノコト』 に書くべき逸話はまだまだ残っている。 しかし、どうにもその気になれない。 過去のことを思い出しながら文章化するには、それなりのパワーを必要とし、それなりに脳も働かせなければならない。 しかし、今日はそのパワーもなければ、冒頭で触れたように脳も働いてくれないのである。

それでも九州よりはマシというものか。 あれだけ季節はずれの台風と刺激された梅雨前線によって水浸しにされた上、ここ一週間くらいは連日の猛暑日を記録している。 まるで水攻め火攻めの拷問を受けているような感覚になっていることだろう。

『猛暑日』 とは今年から気象庁で使われることになった用語で、最高気温が 35℃以上の日を指すが、それにはヒートアイランド現象やら地球温暖化が影響しているのではないかと心配になってしまう。 1日の最高気温が 35℃以上の日が 1990年以降急増しているらしく、それは 1967~76年の 3倍近くに達するという。

つまり、30年前と比較して明らかに暑くなっており、その原因はエアコンの普及による熱放射、緑地の減少などによるところが大きいだろうが、自然環境の破壊によって進む地球温暖化が最大の原因なのではないかと思われる。 ヨーロッパでは 45℃以上の熱波に襲われて多くの人が亡くなっているし、そんなことは異常としか思えない。

これも以前の雑感か管理人の独り言に書いたと思うが、このまま温暖化が進み、異常が日常になってしまい、「明日の予想最高気温は 45℃、平年並みでしょう」 などという天気予報を聞かされたらどうしようかとオロオロしてしまう。 強力な紫外線が降り注ぎ、まるで SF映画のようにプロテクターを装着しなければ外出すらできなくなるかもしれない。

先の新潟県中越沖地震で問題が発生した原子力発電所だが、想定外の大きな揺れに見舞われたにも関わらず、原子炉で大きな事故が発生しなかったことを先に誉めるべきであり、今の報道のように重箱の隅をつついてギャーギャー騒いでも何の解決にもならないだろう。

日本は被爆国という歴史から、原子力に対するアレルギー反応が強すぎる。 石油製品の高騰が進み、原油の枯渇が心配されている今、世界では原子力発電所の建設がかつてない規模で進められている。 安全装置と管理さえ徹底すれば、最もクリーンなエネルギーを精製することができると認識されているからだ。

もちろん、太陽発電や風力発電、そして水素による発電の方が安全でクリーンなのは常識だが、世界が必要とする発電量をまかないきれるほど技術が発達していない。 効率的で究極的な発電方法が確立されるまでの代替措置としては原子力に頼らざるを得ないのが現状である以上、想定外の問題が発生したら対処法を見つけて次に役立てる前向きな議論が必要だ。

・・・ なにも考えずに書き始めたのに長文になってしまった。 暑さでますますボ~っとしてきたし、考えるのも面倒になってきたので、この辺でやめておこう。

新潟地震で思うこと

新潟県中越沖地震が 7月16日10時13分に発生した。 2004年にも新潟県中越地震が発生し、死者 67名、負傷者4,805名という甚大な被害を受けたばかりであり、大きな地震があれば、以降 20年くらいは大丈夫という定説がもろくも崩れた瞬間でもある。

07/18 の独り言にも書いたが、取材のために現地入りするマスコミ関係者の数に驚かされ、それだけの撮影機材などを運搬する能力があるのなら、生活物資のひとつでも運んだ方がよっぽど世の中のためになり、被災された方々の辛い思いも少しは緩和されるのではないかと思う。

そして、偉そうに義捐金や募金を呼びかけるだけではなく、特に高額な報酬を貰っているであろう、みのもんた氏や古舘伊知郎氏あたりは、ギャラの全額か一部を寄付するくらいの気構えを見せてもらいたいもので、ただカメラの前に立って 「一刻も早い復旧作業を」 とか 「被災された皆さんの気持を考えると」 などと言っていても何の説得力も感じない。

被災地にある自動車部品メーカの工場が壊滅的被害を受け、日本の主要メーカが生産停止に追い込まれたが、これはトヨタ生産方式の代表的手法でもあるジャストインタイム、つまり、必要な部品は、必要なときに、必要な分しか取り寄せないという手法が災いし、車を造りたくても部品がないという事態に発展してしまった。

また、多くのメーカが被災した部品メーカ 1社に頼っていたことと、トヨタを見習って部品調達を最小限に控えていたことによって今回の騒動となった訳であり、大メーカだけが潤って下請けが苦労する面も否めないトヨタ方式に限界が見えたのではないかという気がしないでもないが、それによって部品在庫を軽減し、経費を圧縮して世界競争に勝っていくという側面もあるのは確かだ。

しかし、いくら被災した部品メーカが重要だとは言え、各自動車メーカから復興の手伝いとして計 700人もつぎ込むことはないのではないかと思え、それだけの派遣能力があるのであれば、被災した方の家の片付けを手伝う要員も派遣し、その社員には給料も払うなどの措置をとれば、社会貢献もする立派な企業として認められると思うのだが、各メーカーとも自分のことしか考えていないようである。

派遣やパートとして自動車工場で働いている人は生産停止によって給料が減る事態に遭遇している訳だから、ボランティア部隊を編成して現地に送り込み、給料も保証した方が嬉しいはずで、みんなに喜ばれ、世の中の役に立つ会社というイメージを知らしめることだってできるだろう。

それにしても、被災した部品メーカの工場がどの程度の大きさか分からないが、700もの人数が必要だったのか疑問であり、過去の雑感に書いたかも知れないが、独身で荷物も少なかった自分が引っ越しをする際、数人の友達に手伝いを要請したら、その友達がさらに人を集めて狭い部屋に総勢 30人くらいが集結してしまい、かえって邪魔になった事実を思い出す。

おまけに引越し蕎麦を全員に振舞う事態におちいり、出費だけがかさんでしまったのは、今後、部品メーカが各社に御礼をしなければならず、何かと物入りになってしまうであろう事実も連想させる。

自分も新潟に対して何もしていないので偉そうなことは言えないが、親身なふりをしたり利己的な振る舞いをするより、もっと人のためになるようなことはできないものだろうか。

練習の賜物

自分の場合は仕事とゲームにしか打ち込んだことがないので、スポーツ選手などが軽々とやってのけることを 「お~!」 と感嘆の声をもらしながら見ているしかないのであるが、どうも野球を観戦していて選手が打って欲しいところで三振したり、つまらないエラーをしたりすると 「アホか!」 などと罵倒する言葉がでてしまい、選手の凄さというものを忘れがちになってしまう。

自分には 140km/h 以上もの速度で投げ込まれる球を打てるはずもないし、それ以上の速さで飛んでくる打球を捕れるはずもなく、ブツブツと文句を言える立場にないのは重々承知したりしているのではあるが、誉めることより文句を言っていることの方が多い厳然たる事実がそこにある。

しかし、冷静に考えれば走者となって塁にすべり込むことですら勇気の必要なのではないかと思うこともしばしばで、自分であれば硬い地面の上を滑るなど想像しただけで足がすくんでしまうし、ましてや塁を守る選手と交錯する可能性も高いことを加味すれば、その場に向って走ることにすら腰が引け、さらにはヘッドスライディングなど怖さ倍増であることは想像に難しくない。

サッカーでボールをキープするのも勇気が必要だと思われ、相手の選手が鬼のような形相と勢いで奪いにきても、それを冷静にかわしたり味方選手にパスしたりしなければならない訳であり、自分であればちょっと怖そうな顔の選手が向ってきたら、泣きながら逃げ惑ったりする可能性も否定できないので、試合の中継を観ながら文句など言えないのである。

格闘技を観ていてもそうで、堂々と打ち合わずにクリンチにばかり逃げる選手をみると 「アホか!」 とか 「面白くない試合」 などとブツブツ言っているが、筋肉隆々として体も大きく、人相の悪い暴れ者が向ってきたらシッポを 26周くらい巻いて一目散に逃げてしまうのは明白だ。

バレーボールで凄い勢いのスパイクを打たれてボールに向っていくこともそうだし、ラグビーで相手にタックルしたり、されたりするのも、相撲の立会いでゴツンと頭がぶつかるのも、痛いとか怖いと思ったらできることではなく、いや、実際に痛いのは間違いないことなので、いかにして恐怖心を払拭するかと言うことが重要なのかも知れない。

その恐怖心を乗り越えるため、あるいは技術を磨くため、そして体力を強化するために日々練習を怠らないのがスポーツ選手で、自分にはそんな地道な努力をする自信などあるはずもなく、第一、競技を始める前の準備運動でヘトヘトになってしまうこと必至であり、まずは最低限の体力づくりから始めねばならないだろう。

したがって、どんなスポーツであれ、彼ら、彼女らは自分には到底できないような、とてもレベルの高いことをしているのだという自覚を持ち、すばらしいプレーをしたときこそ心から惜しみない拍手を送るべきだということを心にとどめながら観戦すべきなのではないだろうかと思ったりしているが、そんな見方をしたら疲れてしまうだろうことは容易に想像できる。

色々と考えてみたりはしたが、結局はゴロゴロしながら、画面に向ってブツブツと文句を言ってスポーツを観戦する姿勢は改まりそうにない。

たまには時事

会期延長されていた国会も終わり、いよいよ参院選ムードが高まってきており、支持率が下降の一途をたどる安倍政権で今月末の選挙を戦えるのかどうかという不安もあれど、それにしても安倍内閣にはツキがないというか、論功行賞人事をした自業自得というか、発足当初から問題が絶えなかったという感慨が胸に去来する。

佐田行政改革担当大臣は事務所経費の不透明な処理の発覚で昨年末に辞任、年が明けてすぐに柳沢厚生労働大臣の 「女性は子ども産む機械」 発言、5月 28日には松岡農水大臣が自殺、そして先月には久間防衛大臣が原爆投下に関する、まさに爆弾発言で引責辞任と、世間を震撼させる大きな問題も多いが、その他の細かなスキャンダルも合わせると大変な数になる。 《 ウィキペディア参照 》

よくもまあ、これだけ問題が起きるものだと感心してしまうくらいのペースでの量産体制を確立しているようだが、影で誰かが糸を引いているかのように、したたかな工作も見え隠れして傍観者としては実に興味深く、味わい深い内閣だったりもするのが、首相の外見と相まって完全には憎めない雰囲気を醸し出したりしているのではないかと思う。

松岡農水大臣の自殺の引き金とも言われる緑資源機構官製談合事件では、続々と逮捕者まで出る勢いだったのに松岡氏の自殺によって尻切れトンボな状態になりつつあり、政界まで巻き込む大事件に発展することが予想されていたにも関わらず、今となっては報道するマスコミも存在しない。

世間知らずのボンボンが仲良し倶楽部を作ってボ~っとしている裏で、百戦錬磨の爺さんどもが右往左往しながら問題解決に当たっている姿が脳裏をよぎり、なんとなくバカ殿のような壮大なコントを見せてもらっている気分に浸ってしまい、頼りないことこの上ないのではあるが、全否定してまで憎めない。

しかし、そんなボンボンに日本という国の舵取りを任せて良いのかといえば一抹の不安が胸をよぎり、可能なことであれば日本丸という船から脱出してアメリカとかロシアとか中国という巨大な船に乗り換えたいと少なからず思うこともあり、いや、それよりオーストラリアとかユーロ圏などの方が良いかも知れないなどと思いを廻らす日々であっても、実際には行動できない悲しい事実がある。

そして選挙であるが、参院選は衆議員にお灸を据える意味合いが強く、このままでは自民党が苦戦するのは確実であり、もう少し風が吹けば民主党あたりにドッと票が流れるのではないかと思われるが、肝心の民主党に風を起こす実力がないため現在のところは微風でしかなく、さらにまんまと自民党の術中にはまってしまったのではないかと思われてならない。

国会の会期延長により、投票日が 7月 22日から 29日に変更になり、すでに印刷物を刷り終えていた機関などに多大な労力の投入と税金による穴埋めが行われることが問題視されているが、そんな批判を受けてまで会期を延長したのには、それなりの理由があったのだろう。

第一に重要法案を強行採決でも何でも通過させて国民に実績を示すことができ、多少は自民党の印象が良くなるのではないかと期待される点にあるが、あまりにも強行採決が多かったのでこれは逆効果になってしまったのではないかという不安もチラホラ聞かれる。

第二に、7月も 29日となれば学生が夏休みに入り、選挙権を持っていても遊びに行ったり帰省したりして投票しない大学生や若者が山のように現れるのではないかと予想され、そうなれば浮動票に頼らざるを得ない民主党が多くの票を失うこととなり、自民党にとっては好都合なのではないかと思われるので、こちらの方が重要な意味を持つような気がする。

国民の誰しもが現政権に不安を抱きつつも、参院選でお灸を据えることすらできない微妙な空気が流れているような気がしてならないのは自分だけだろうか。

第一印象

過去の雑感に何度か書いたが、第一印象というのは大事なものであり、自分の場合は人から冷たく見られたり、怖そうに見えたりするらしいのでとても損をしているような気がする。 それが誤解であって、実はとっても心優しく人情味あふれる素敵なオッサンであることはなかなか理解してもらえず、付き合いも長くなってから 「第一印象と違いますね」 と言われることが多い。

人に対してのものだけではなく、店であっても最初の印象で好き嫌いが決定してしまう場合もある。 主人や店員のちょっとした仕草や態度で店自体がとっても気に入ったり、「二度と来るもんか!」 と腹を立てたりすることすらあるので接客業は大変だ。

国も同様で、出会った人やその国で暮らす人々から受ける印象で好きにも嫌いにもなる。 そこでオリンピックという一大イベントを目前にした中国がマナーの向上に国を挙げて力を入れている訳だ。 行ったことはないが、伝え聞くところによると順番を守らず列に並ぶことも知らなければ、信号をも守ることも知らず、店で人が手にしている商品を横取りするような人たちらしい。

世界中から人が集まるオリンピック開催期間にマナーの悪さで国の印象まで悪くなれば、その後の観光事業にも影響が出かねないので必死になって人民を教育しようとしているらしいが、今までの蓄積でそれが常識になっているので、残り一年程度で改善するのは難しいかもしれない。 一党独裁の国だから人民への教育が徹底し、見違えるような成果をあげる可能性も否定できないが。

自分が初めて大阪の土を踏んだのは出張で大阪本社に来た十数年前のことだが、その時に受けた印象は今でも忘れない。 空港から一歩外に出ると地獄のように暑い。 シャトルバスの中で女性二人がずっと喋っていたのだが、それがまるで漫才のようだ。 本社のある日本橋でバスを降りるとドブのような臭いとレゲエのオッサンが発する臭いで鼻が曲がりそうになる。

仕事を終えてから酒を飲むことになり、ミナミを歩いていると様々な信じられない光景が目の前に。 ある店の前には自転車が生けてある。 放置自転車に業を煮やした店のご主人が腹いせに積み上げたのだろうが、それがまるで前衛作家の手による生け花のような雰囲気を醸しており、思わず立ち止まってうず高く積まれた自転車を見上げてしまった。

少し先に進むと電柱の足を掛ける突起物に自転車が吊るしてある。 それも普通では手の届かない高い場所だ。 誰が何の目的で吊るしたのか。 さらに道を歩くと交差点の中央分離帯にある白線が引かれた場所、つまりゼブラゾーンに車が停まっていた。 同行した人によると、「場所が開いてるからちゃう?」 ということ。 ナンバープレートもない車が道路脇に停められていたのは 「捨てたんちゃう?」。

なんともはや、凄まじいことである。 帰りはホテルまでタクシーに乗ったのだが、窓越しに見える光景もすごい。 三車線の道路の中央の車線に車が停められている。 昼間は二重、三重の路上駐車になっており、それらが発進してたまたま道路の真ん中にある車だけ残った結果だという運転手さんの話し。 それを聞かなければ普通は理解できない状況だ。

途中、高速に乗ったのだが、その道路の真ん中には日本髪のカツラが落ちていた・・・。

そんなこんなで、大阪の第一印象は決して良いものではなかったが、ここまでデタラメだと好きとか嫌いとかを超越して可笑しさの方が圧倒的に勝り、まるで異国のような感じすら覚えたものである。 縁あって、そんな大阪に暮らすようになって早や十数年。 今では少々のことでは驚かなくなってしまったが、あの時に受けた印象は今でもずっと心の中に残っている。