精神鑑定

世も末なのか、訳の分からない犯罪が多発するようになった。 最近になって特に多いのが家族間殺人で、なぜ家族同士が殺し合わなければならないのか不思議でならない。 顔も見たくないほど憎かったり恨みがあるのであれば、殺す前に家を出れば良い話ではないのか。

自立できない子供が精神に異常をきたして殺人を犯すのであれば、ある程度は致し方ないような気もするが、30歳にも 40歳にもなったニートが親に 「働け」 と言われて逆上するのはなぜなのか。 全面的に依存している親を殺してしまっては、その後の生活が成り立たなくなることすら分からないのか。

殺人などという大罪を犯す時点でまともな神経だと思えないが、最近の裁判では弁護側が精神鑑定を依頼するのが常套手段となっているのもどうかと思う。 責任能力の有無を問うて何になるのか。 もっと以前からあったのかもしれないが、自分が記憶している限りで一番有名なのは 88~89年に埼玉と東京で幼女 4人が殺害され、世間を震撼させた連続幼女誘拐殺人事件だ。

殺人罪などに問われた宮崎勤被告に対し、弁護側が精神鑑定を求めて刑事責任能力が問えるか否かが争点となった。 結果、2006年の 2月に責任を問えるとして死刑判決が下ったが、逮捕後 16年もの歳月が費やされてしまった。 たとえ加害者であっても人権、人命を尊重すべきであるとは思うが、4人もの幼い命を奪っておきながら責任能力が無いなどということは許されまい。

先に書いたように、どんな状況下にあっても人の命を奪うことはまともな精神状態で行なえるはずがなく、多かれ少なかれ異常を来たしているものと思われる。 極度の興奮状態になっており、前後の見境なく行動しているか、頭の中が真っ白になって自分が何をしているのかすら分からない状態になっているかであると想像する。 むしろ沈着冷静に人を殺している方が怖いではないか。

精神鑑定によって刑事責任能力が問えないとすると、事件が大きければ大きいほど無罪になる確率が高くなるということになりはしないだろうか。 例えば 1971年に発生した大久保清事件。 わずか 41日の間に 8人もの女性を殺害し、死体を遺棄した事件だが、この時の犯人の精神状態はどうだったのか。 まともな神経の持ち主が人を殺せるとは思えないし、ましてや 8人もの被害者がでるはずがない。

この文章を書きながら大久保清事件について調べてみると、精神鑑定が行なわれていたことが分かった。 それにも関わらず死刑が宣告されたということは責任能力があると判断されたのだろう。

精神鑑定によって刑事責任を問えないと判断された場合、加害者は刑罰を受けることなく病院送りになるだけなのだろう。 仇討ちが認められていない以上、被害者の家族は事実を受け止めねばならず、怒りや悲しみをどこに向けたらよいのか。

やがては退院し、殺人を犯した人が一般社会に出てくる。 宮崎、大久保の両名もそうだが、事件が発覚するまでは一般社会で生活していた訳だ。 そんな人であっても国家資格の運転免許を保有し、ホームセンターに行けば簡単に包丁も買える。

それを思うとき、背筋が寒くなるのは自分だけだろうか。