マサルノコト scene 17

夜の学校は不思議な雰囲気だ。 普段であれば、絶対にいるはずのない時間、クラブ活動をしていた生徒も帰宅し、教師すら数人が残っているだけの校内。 演劇の通し稽古をするために体育館のステージに集まる仲間たち。 体育館はただでさえ声が響くが、それをかき消す他の生徒の声もなく、一切の雑音がない静寂の中に一人ひとりの声だけがこだまする。

熱心に台詞を覚える仲間を横目で見ながら、自分は美術担当として舞台をどうやって作るか頭を悩ませていた。 物語の中心は学校の教室。 誰も見たことのない場所が舞台であれば、想像の世界なので抽象的な背景で済むが、場所が教室だとそうはいかない。 おまけに物語りの 99%は教室のシーンなので長く人の目に触れることになる。

机や椅子は実際の教室から運び入れれば良いのだが、問題は教室の壁だ。 そこで、角材とベニヤ板でステージ一杯のセットを作り、教室の壁をすべて再現することにした。 黒板やそこに書かれている日直などの文字、壁の色から板張り部分の木の一枚から木目まで、ペンキや絵の具を使ってすべて忠実に描きこむ。 一部に出入り口のスペースを確保し、実際に教室の戸を外してはめ込んだ。

劇の方は冒頭に喧嘩のシーンをもってきて派手なアクションから始め、観る側の関心を一気に惹きつけようという作戦だ。 動きを指示するマサルの声にも力が入る。 顧問である女教師からは 「早口すぎるから、もっとゆっくり台詞を言うように」 という指示があった程度で、それ以外のすべては自分たちの手で一から作り上げた。 いや、たった一点をのぞいては・・・。

冒頭の喧嘩のシーンで一人が大怪我をしてしまい、救急車が駆けつけるというストーリーなのだが、そのサイレンの音を入手しなければならない。 そこで学校側が消防署に掛け合い、録音させてもらうことになった。 マサルと自分は、それぞれに忙しかったので女教師に録音してきてもらったのだが、その件で担任から 「教師を使うとは何ごとぞ」 とこっぴどく叱られてしまった。

しかし、こっちはこっちで本当に忙しかったのである。 学校祭の日は刻々と近づき、美術担当の自分も脚本兼、演出担当のマサルも頭が一杯で、授業なんかうけていられないくらいだ。 出演者も授業どころではなく、机の下に台本を隠して何度も何度も読み返している奴もいるくらいだ。 そんな時にわざわざ消防署になんて行っているヒマなどないのである。 ヒマそうなのは女教師だけだったのである。

毎日夜遅くまで学校に残り、時には真っ暗になった校内で肝試しをして遊びながらも、勉強の数百倍もの努力と練習を重ね、いよいよ学校祭の当日となった。 学校内の話なので特別な衣装など用意する必要がなく、いつもの制服で芝居をするのだが、ただ一つだけ問題が持ち上がった。 不良役にしている一年生の女の子が真面目な生徒なので当時の不良の定番であった長いスカートなど持っていない。

そこで、不良をしていた同級生と一年生のスカートと交換させることにした。 同級生は死ぬほど嫌がっていたが、そこは不良仲間の自分が説得したり脅したりして無理矢理にでも着替えさせる。 ここで女教師が自分に白羽の矢を立てた理由がいかんなく発揮されたのである。一年生にスカートを履かせると、思った通りバリバリの不良に見える床を引きずるくらいの長さになった。

そして、いよいよ本番の幕が静かに上がった。 舞台に再現された教室のセットを観て会場からはどよめきが起こる。 そして冒頭の喧嘩のシーン。 殴られ役の生徒が並べてある机や椅子が壊れるほどの勢いで転がり、場内に驚きと歓声が上がる。 そして照明が暗転すると、近づいてくる救急車のサイレンの音。 場内が騒然となり、一気に物語へと引き込むことに成功。

物語の主人公はマサルとともに、いつも一緒にいたノブアキだ。 途中、台詞を忘れて必要以上に沈黙が流れるなどのアクシデントはあったものの、順調に芝居は進んでラストシーンへ。 最後は友達や友情がどれほど大切なものかを切々と語って幕が下りる。 そこで大きな拍手は貰ったが、それで終わらせる自分たちではない。

再び少しだけ幕の中央を開け、エンディングの音楽が流れる中、模造紙を何枚も繋ぎ合わせて作った出演者や裏方の名前を左から右にゆっくりとスクロールさせる。 そう、映画やテレビドラマのエンドロールのように、演劇に関わった人たちの名前が一人ひとりスポットライトに照らされる。 そして最後に -THE END- の文字。 場内は割れんばかりの拍手と喝采に包まれた。

自分とマサルを誘った女教師から全員に感謝とお褒めの言葉をいただいたが、木枯し紋次郎のように 「あっしには関係のねえことでござんす」 といった雰囲気で、成功の余韻に浸ることもなく翌日から何事もなかったように普通の生活に戻っていった仲間たちがカッコイイ。 大人になった今とは違い、人からの評価など気にすることもなく、ただ一つのことに向って何かをやり遂げる。

代償や評価を求める現在とは異なり、子供の頃は全員がそういうものだったのかも知れない。