大阪府摂津市JR千里丘駅周辺密着情報!!

裁判員制度

裁判員制度が来年から始まるが、本当に日本でその制度が成り立つのだろうか。 仕事を持つ人の場合、事件の内容を詳しく記した資料を読む時間があるのか。 小説のように物語になっているのならまだしも、難しい専門用語が入り混じった面白くもなんともない文章を読んで全容を把握することができるのか。 そもそも裁判所に足を運ぶ時間があり、会社がそれに理解を示すのか。

昨今の妙にショーアップされた報道番組で 『犯人許すまじ』 的な偏った内容を見せられ、被害者がどれほどまで苦しんでいるか、被害者の家族がどれほど悲しみ、犯人を憎んでいるかを見せつけられた後で、先入観なしの冷静な判断など可能なものなのか。 ついつい極刑の判断を下してしまいがちにならないものか不安を覚える。

客観的な判断ではなく、報道番組の主観がたっぷりブレンドされた内容に感化され、本当は無罪の人を 「どう考えても怪しい」 という理由だけで有罪にしてしまうことはないだろうか。 逆にどんな状況であれ罪を償わなくてはならない人を 「今まで不幸すぎたから」 とか 「可哀想な人だから」 などという理由で軽微な刑で終わらせてしまう危険性はないのだろうか。

今の世の中で一切の情報を遮断し、裁判所から提示される資料や公判の内容だけで事件を把握するのは困難きわまりないだろう。 あふれる情報の中から本筋をとらえ、偏った意見に左右されずに自らの意思で判断を下すことなど難しいのではないだろうか。

そして、特に日本人の場合は人の意見に左右されやすく、自分は 「無罪かもしれない」 と思っていても大多数の人が 「有罪だ」 と言えば流されてしまう危険がある。 また、複数の人が集まれば自然にリーダー格の人が現れ、自分の意見に近い路線でまとめようとする動きもでるかもしれない。 威勢のいい人が多く発言し、口下手な人、他人とのコミュニケーションが苦手な人が思ったことを言えないことも考えられる。

似たような制度である陪審制や参審制を導入している欧米各国のように個人主義であり、YES か NO かを明示し、「私はこう思う」 と自身の意見を主張できる国民性が必要だと思うが、そんなことが日本人にできるのだろうか。 勝ち馬に乗りやすい日本人が大多数の反論者を前にして 「これこれこういう理由から私は無罪だと思う」 などとは主張できない人が多いのではないだろうか。

あまりにも情け容赦ない判断ばかり続くのもどうかと思うが、大岡裁きばかりになってしまうのも問題で、その辺の加減も難しい。 そして、そのバランス感覚だけで担当している事件に判断を下すことも避けるべきだ。 やはり、ひとつひとつ個別の事案ごとに極めて冷静かつ客観的な判断が求められる。

めぐり合わせによって、誰がどの事件の裁判員に選出されるか分からないが、もし世間の注目を集めるような大事件に関わったとしたらどうだろう。 『光市母子殺害事件』 のように世間の注目度が高く、情報が氾濫し、なおかつ極めて判断が難しい事案の場合、自分だったらどうするか。

被害者遺族である本村氏の話や、各種報道の内容だけを受け入れた場合、「そんな奴は死刑にしてしまえ」 と短絡的に思ってしまう。 しかし、本当にそれで良いのか。 たしかに当時少年だった加害者側の弁護団には変わった人が多く、法廷戦術も納得できない。 それでも、加害者に反省の情が芽生え、少しでも更生の可能性があるのなら極刑に処すのは避けるべきなのか。

本当にこの日本で裁判員制度が成り立つのか多くの疑問が残るが、制度導入に反対していた人が日本弁護士連合会の会長選挙に落選したことでもあるし、流れは 2009年 5月からの開始に向けて強まっていくのだろう。

その時、自分にだけは順番が回ってこないことを強く祈るだけである。

生活の再認識

北海道に帰ってきて約一カ月、辛いことや悲しいこと、慣れないことや疲れることなど色々あったが、ようやく生活のリズムを取り戻しつつある。 朝は散歩がてらに近所を散策し、どうにか土地勘もついてきた。 もともと知らない街ではなく、法事が主ではあるが何度も訪れていたので最初から違和感はないのだが、生活するとなれば細かな道も知っておいたほうが良い。

もともとが道産子なので最初から知っていたことではあるが、長い大阪暮らしですっかり忘れており、あらためて思い出したり実感したりすることも多い。 最初に実感したのは信号無視する人がいないということだ。 大阪であれば、車も来ない道を信号が赤だからといって待っている人など学校でしつけられている小さな子供くらいなもので、大人では皆無に等しい。

ところがこちらの人は子供であれ大人であれ老人であれ、信号が青に変わるのを待っている。 当然といえば当然なのだが、そのあまりにも当然過ぎることが新鮮だったりする。 そういえばこういうものだった。 最初は大阪の人たちの信号無視に驚く自分がいたが、いつの間にかそれに慣れてしまい、当然のように道路を横断していた。 その感覚は改めねばなるまい。

散歩をしていて妙な感じがするのは風景がスカスカしていることも一因だ。 そのスカスカ感は高い建物がないこともあり、空がやたらと広く見えることもあるが、道幅が広いことも大きい。 北海道は雪対策のため道幅を広くする必要がある。 大雪が降って除雪する際、雪は道路の端に積み上げられるので、あらかじめそれを想定した広さが求められるのである。

そして、歩道も広い。 大阪であれば狭い歩道を人が行き交い、ジリンジリンとベルを鳴らした自転車が人の間を縫うようにして走るというのが日常の光景であるが、こちらではベルを使う必要がないくらいに余裕を持って通行できる。 それほどの人が歩いていないのが現実であったりするのではあるが。

そして、もうひとつのスカスカ感は家と家の間隔が広いことにある。 大阪は家が密集し、その間隔が 30cm くらいしかないところもあり、「いったいどうやってペンキを塗ったのだろう」 と不思議に思えるくらいだったが、こちらは家と家との間が最低でも 3m 以上は離れている。 これも理由は雪にあり、屋根から滑り落ちた雪が隣家の壁を直撃しないようにという配慮だ。

北海道の家には雨どいがない。 そんなものがあったところで、雪が降れば崩壊してしまう。 したがって雨は屋根を伝い、そのまま落下するのでダダ漏れ状態となってしまうが、そんなことは気にしてなどいられない。 雪から家を守るほうが重要なのである。

さらに北海道の家には雨戸がない。 そんなものを閉めていて凍り付いてしまったら、朝から晩まで暗い部屋で過ごさなくてはならなくなる。 そういう事態を避けるためには、最初から雨戸などないほうが良いのである。 ガラス窓であれば、たとえ凍って開かなくなっても日の光は入るので、暗く不便な思いをすることがない。

それ以外にも生活様式の違い、文化の違いなど関西とは様々な違いがあるが、とりあえずは散歩をしながら辺りを見渡し、北海道のことを身近なレベルから再認識している毎日だ。

再認識

今回の引越しに関わる一連のことで、携帯電話の利便性と実力を改めて見直すことになった。 コンピュータ業界に携わり、パソコンの利便性に関しては熟知しているつもりだが、あまりにもそれに浸かり過ぎていたため、携帯電話を過小評価していたのである。

今までも携帯電話は所有していたが、それは携帯などと呼べるものではなかった。 第一、在宅勤務になってからは外出の回数がめっきり減ったので携帯する必要がない。 家に置いてあっても用件は固定電話にかかってくるので電源を入れておく必要すらない。 たまに外出する際も 『お買い物日記』 担当者が携帯電話を持っていれば、自分まで持つ必要がない。

むしろ休日や時間外に仕事の電話を受けるのは面倒だったので、あえて携帯しなかったというべきかもしれないが、とにかく携帯されない電話でしかなく、単に基本料金を払っているだけ馬鹿馬鹿しい無用の長物と化した文明の利器だった訳であり、たまに使うとしても音声通話が主で、E-mail の送受信など年に数通しかない状況だった。

それは主にパソコンを使っていたため、「何も親指だけで文章を作成することなどあるまい」 と思っていたのでり、実際に携帯で文字入力をしようとするとイライラして床に投げつけたくなったりしていた。 おまけにパソコンと比較して処理能力が劣り、「Web ページなんぞ見られたものではない」 と思っていたので使用頻度はますます低下する。

「使い物にならない機器」 という偏見から、機種変更もしなくなる。 いつまでも古い機種を持っているから輪をかけて使用頻度が低くなるという悪循環に陥り、結果的に通話もメールもしなければ、携帯もせず電源も入れない単なる電子部品の塊となってしまっていたのである。

今回は義兄の件があったので、いつどんな時でも連絡の送受信が可能なようにする必要があった。 それまで使っていた携帯端末は機種が古いこともあり、電池の寿命が極端に短くなっていたことと、一世代前の規格だったので通信速度が遅いことなどを理由に新しい機種に変更することにした。

そこで目の当たりにしたのは技術革新が恐ろしいほどの速度で進んでいる事実である。 搭載しているカメラは 500万画素を超え、通信速度はカタログスペックで下り 3.1M 上り 1.8M にも達している。 実際に手にしてみると、それまで使っていたものとは明らかな差があり、E-mail の送受信、ブログへの書き込み速度もストレスを感じないほどになっていた。

ただし、文字入力だけは相変わらずのストレスで、自分の指が思い通りに動かないことがもどかしい。 頭の中で文章を組み立てている速度で文字入力ができない。 しかし、これは機器のせいではなく自分側の問題なので克服するしかない。

機種変更してから新居に電話回線が引かれるまでの数週間、携帯電話は本当に活躍した。 長兄夫妻との密な連絡、各種事務手続きの連絡先としての登録、仕事関連の E-mail 送受信、交通機関の予約や運行時間の調査、そして 『管理人の独り言』 をはじめとするブログの更新。 これだけ使いまくると文字入力にも慣れて、ギャルばりの速さではないにせよ、ある程度の速度で入力できるようにもなった。

ずっと小ばかにしていたが、携帯電話の持つ利便性、その性能、その将来性に今更ながら感服し、今までの偏見を改め、その重要性を再認識しなければならないと心に誓ったりしたところではあったのだが、自宅に光回線が通り、最新のパソコンを導入した今、やっぱりパソコンの利便性や能力、文字入力のし易さはすばらしいと再認識したりしているところだったりするのである。

惜別の後

先週の雑感に書いたように、義兄が他界してから 『お買い物日記』 担当者と二人で遺骨を守っている。 そして、ここは 『お買い物日記』 担当者を含むきょうだいが生まれ育った街だ。 しかし、暮らしているのは 『お買い物日記』 担当者の実家のようで、微妙に違う少し表現が難しい家だ。 本当に実家と呼べる家は別の場所にあったのだが、今は解体されて公園になっている。

この家は、高齢で少し体が不自由だったご尊父が暮らしやすいよう、限りなく段差の少ないバリアフリー、失火のリスクを低減させるオール電化を実現しているが、建築当時はまだまだ世の中にその概念は浸透しておらず、建築業者も注文どおりに施工してくれないため、何度も何度もやり直しをお願いしてクタクタになりながら長兄が建築会社と丁々発止とやりあい、すったもんだの挙句に苦労して完成にこぎつけたものだ。

しかし、残念ながらご尊父が暮らすことができたのはわずか半年、その後に体調を崩され還らぬ人となってしまった。 その惜別の後、人からは借りたいとか売ってほしいとかの話があったようだが。 和室に大きな仏壇もあり、転勤族である長兄が持っては移動できないこと、この街できょうだいが集まる場所がなくなってしまうことなどを理由に人手に渡さずにいた。

わずかな期間でも親が住み、仏壇もあるので 『お買い物日記』 担当者の実家であると定義できるが、本人に思い入れがないのでイマイチ実家とは呼びづらく、単に ”地元にある家” 的な感覚だ。 まあ、自分としては実家らしいところに住むのでは ”マスオさん状態” みたいになってしまうし、あまり実家という実感のないところに住む方が気が楽だ。

ここに住むことを決めたのは、きょうだいが生まれ育った街であること、最期は義兄と一緒に暮らしたいという 『お買い物日記』 担当者の希望があったこと、そして長兄が人手に渡さず空家のまま管理してくれていたからだ。 余命は告げられていたものの、三カ月と言わず、半年と言わず、一年でも二年でも義兄と一緒に暮らせることができればと思っていた。

医者からは入院の必要がなく、好きなものを食べ、安静にしてゆっくり生活するように言われていた。 肝臓は沈黙の臓器とも言われるように、まったくと言っていいほど痛みを伴わない。 他の臓器へガン細胞が転移しないかぎり、苦しむことはないだろうとも言われていた。 ゆっくりと、おだやかに最期を過ごせるのだろうと、長くはなくとも一緒に暮らせると思っていた。 しかし、残念ながらその想いはかなわず、それどころか我々が北海道に帰って三日後に義兄は逝ってしまった。

長期入院を覚悟し、病院から徒歩 5分の場所にマンスリーマンションを半年契約で借りたのに、そこに荷物すら運び入れる前に、そこに二晩しか寝ていないのに。 その日の夜から交代で泊り込むつもりで、病院に許可をもらう書類を提出したのに。 何かあった場合の緊急連絡先を病院に伝えたところなのに。 病室で履くスリッパも準備したのに・・・。

義兄が他界してしまった今、この街にそしてこの家に住む意味を失ってしまった。 むしろ合理的、積極的な理由などないと言って良いくらいだ。 しかし、義兄がこの街に呼んでくれたのだろう。 法的には別の家系に属するが、『お買い物日記』 担当者の実兄であることに変わりはないので四十九日までは遺骨を守り、納骨後も仏壇を守っていこう。

きっと義兄が導いてくれたのであろう流れに身を任せ、この街に根付いてみることにする。 生活の拠点、仕事の拠点を移し、この街で義兄の想い出とともに静かに暮らしていこうと思う。

惜別の日

2月21日の 16時 33分、この 『雑感』 や 『独り言』 に何度か書いたことがあるアメリカに住んでいた義兄が他界した。 そう、『お買い物日記』 担当者の実兄である。 その三日間は本当に悲しく、心がつぶされそうだった。 最善を尽くしたつもりではいるが、後悔がないと言えば嘘になる。 事実を受け入れなければならないのは分かっていても、認めたくない自分がいる。

義兄が体の不調を訴えたのが昨年のクリスマス。 それから、たった 2カ月後のことである。 今年に入り、1月 10日にアメリカで診察、翌日には結果が出て、初期の肝硬変であろうと知らされた。 ところが、すでに腹水が出るほど病状は悪化しており、14日には腹水を抜き、さらに詳細な検査をすることに。 結果は 18日に知らされ、一刻も早く日本に帰るべきだという結論になった。

「一刻も早く・・・」 この一言が重く心にのしかかる。 正確なことを知らされてはいないが、一刻を争うとなれば重大なことである。 気は焦るものの、アメリカでの仕事、生活を清算して帰国するには、それ相応の時間が必要だ。 それでもアメリカで多くの人達の助けを借りて、何とか日本時間の 01/30(水) に成田空港に到着することができた。

実はアメリカでの検査結果を FAX で受信し、日本の医者と相談したところ肝硬変だけではなく、かなりガンが進行しているらしいことは分かっていた。 それでも何とか治療の見込みがないかを調べてもらうために日本で最先端だと言われる 『国立がんセンター』 で検査を受けることになった。 皆がそろって結果を聞きたいということになり、01/31(木)に東京行きを決める。

そして 02/01(金)、義兄の余命が 3カ月と告げられる。 久しぶりに会った義兄はすっかり痩せてしまっており、これが年末まで元気に仕事をしていた人だとは信じられないほどだ。 医者の言葉を借りると、手術をするのも不可能、放射線治療、投薬治療も不可能、このまま静かに余命を過ごすしか方法はないという、論理的かつ合理的でもあり、冷徹、非情でもある宣告だ。

そして、その宣告を本人である義兄も一緒に聞かされた。 これが自分なら泣き叫ぶか、やぶれかぶれに暴れだしそうなものだが、義兄はあくまでも冷静に聞き入れ、これからの過ごし方に関して質問までしている。 その宣告はあまりにも突然で、自分は感情をコントロールできず、ただショックを受けて悲しみすらわいてこない。

その日の夜から翌日、その次の日も 『お買い物日記』 担当者と話し合った。 義兄は長兄夫妻と北海道で過ごす。 何かあった時に飛んで行ける距離ではない。 そして、残された少ない日々、そばにいて、できることなら一緒に暮らしたいと 『お買い物日記』 担当者は言う。 自分はと言えばネット回線さえあれば、どこにいても仕事はできる。 02/03(日) の夜遅く、大阪を離れることを決めた。

それからのドタバタは二月の 『管理人の独り言』 に書いている通りで、普段の何倍も忙しい時間を過ごす中、義兄の具合が悪くなったとの知らせを受ける。 今暮らしているのは長兄、次兄、そして 『お買い物日記』 担当者が生まれ育った地元だが、転勤族である長兄の家で義兄である次兄は過ごしていた。 そのままそちらで過ごすか、地元に帰って過ごすかは義兄の判断に任せるつもりだった。

ところが病状の急変で、そのどちらでもない街の病院に入院することが決まった。 そこで急遽、病院近くのマンスリーマンションへの入居を契約し、そこを前線基地として生活することを決断。 大阪で出した引っ越し荷物は 21日に ”本拠” に届く手はずになっている。 その中から最低限、必要なものをマンスリーマンションに運び、病院での寝泊りをも覚悟して 02/19(火) に北海道に帰ってきた。

病院に着くと義兄はまた痩せてしまっており、東京で会ったときより一段と体力が落ちているようだ。 それでも笑顔を交えて会話し、我々が大阪から北海道に戻ったことを喜んでくれていた。 そして翌日、昨日の元気はなく、少し話はするものの、一日の多くを眠って過ごしている。 前日は少し調子が良かったので、その疲れが出ているのだろうと思っていた。

そして 21日、”本拠” に引っ越し荷物が到着する日だ。 マンスリーマンションから徒歩 5分の病院に行き、長兄夫妻と合流して荷受作業に向かう予定だった。 病室に入ると義兄はこちらに背を向けてベッドに横になっている。 回り込んで様子をうかがうと、吐血しているではないか。 慌てて看護士さんを呼び、処置をしてもらう。 その時はまだ、こちらの呼びかけに対して返事がある状態だった。

長兄夫妻が到着し、今日は引っ越し荷物を受け入れることができるか話し合う。 担当医とも相談した結果、延期した方が良いということになり、引っ越し屋さんにお願いして荷物をストップする。 病室では義兄が一時間おきくらいに吐血している。 呼びかけにも反応がなくなり、いわゆる昏睡状態になってしまった。 しかし、その際にもまだ、義兄は持ち直して一時的にではあっても退院できると信じていた。

ところが時間の経過とともに血圧が低下し、心拍数も低くなり、ついに 16時 33分、医師から臨終を告げられる。 体の不調を知らされたのも、余命を告げられたのも、そして他界してしまうのも、あまりにも突然すぎる。 今日、マンスリーマンションで生活環境を整え、今夜から泊り込みで看病するはずだった。 これから何日も一緒にいるはずだった。 いろんな話をするはずだった。

余命を告げられていた義兄は 「葬儀の必要はなし」 と言い残していた。 30年弱もアメリカで暮らしていた義兄が日本で葬儀をすると、様々な人が遠方から駆けつけることになり、迷惑をかけることになるので 「すべてが終わってから、一部の人だけに連絡してほしい」 と。 そして、長兄夫妻と 『お買い物日記』 担当者、義弟である自分の 4人だけで送ってくれたらそれで良いと。

本人の意思に従い、密葬よりも小さい 『家族葬』 ができる斎場で義兄を送った。 親戚縁者からの申し出も断り、本当に限られた身内だけで義兄に別れを告げた。

そして今、義兄は生まれ育った街に戻り、『お買い物日記』 担当者と自分と三人で静かに暮らしている。

限界

先週は引っ越しの荷物も到着しておらず、あまりにも辛い出来事も重なったため、雑感の更新をすることができなかった。

今日もまだネット環境が整っていないので携帯からの投稿である。

もう二週間も操作しまくっているので、かなり慣れてきたが長文は辛い。

この辺がオッサンの限界である。

体力も限界、気力も限界、携帯操作も限界。

それでも生活するため、荷物整理だけは続けなければならない。

限界を超えて動き続けなければいけないのである。

旅立ちの時

二日後の 18日、月曜日に大阪を離れる。 大阪で書く雑感も今日が最後だ。 部屋の片隅に段ボール箱が積み上げられ、棚の食器や本も消えて生活感を失いつつある中で、ジワジワと寂しさがこみ上げてくる。 この街で暮らすこと 13年と 5カ月、一度も転居しなかったのでこの部屋にも同じだけの想い出がある。

転勤で大阪に来た三カ月後に阪神・淡路大震災を経験し、二年八カ月後に勤めていた会社が倒産。 その後もいろいろあって、多難な生活を送ったが、多くの人とも出会うことができた。 関西の文化を知らない我家に対して親切に教えてくれる人、果物や旅行先のお土産、季節の料理などを分けてくれる人、四季折々の野菜を分けてくれる人、ある一組の夫婦を除いて、やさしい人ばかりだった。

心残りは JR千里丘駅のエスカレーターの完成を見られなかったこと、ダイヘン跡地に阪急の駅が完成し、市の主要機関が集約されるのが見られなかったこと、渋滞著しかった高架下の工事の完成をみられなかったこと、関西ローカルのテレビが見られなくなることくらいか。

いつまでも若いつもりでいたが、先週の夕方に 『お買物日記』 担当者と携帯電話の機種変更をした際、そして不動産会社に出向いて契約を進めている際、若い担当者から 「お父さん」 と呼ばれてしまった。 今までそんなことはなかったのに、最後の最後で 「お父さん」 の二連発である。 大阪で 13も歳をとってしまったのは確かだが、それぞれの担当者に告ぐ! 君らくらいの歳の子を持つほどオッサンではない!

・・・最後にきて関西人に喧嘩を売っても仕方がないが、この際だから言っておく! 引越しの作業疲れで妙に老け込んで見えるだけだ! 半分以上が白髪になっているが、毛染めなど面倒だからしていないだけだ! 最近になって老眼が進行しているが、遠くは良く見える! 腹も出ているが一年に及ぶバランスボール生活で 1.5cm くらい細くなった! 君らが思うより・・・ちょっとだけ若いんだぁ!!。

・・・・・。

多くの人が気付いていると思うが、我々は北海道からこの地にやってきた。 そして今回、その北の大地に帰る。 土も空気も水も、やはり生まれ育った土地のものが良い。 ご近所の方々、当サイトを訪れてくださった方々、いや、大阪の人達、いや、関西人が好きだったが、鮭が生まれ育った川に遡上するように、本能的ではあるが北に向う。

もう千里丘の住民ではなくなってしまうが、今後一年間は縮小しつつも、このサイトを維持していくつもりである。 大阪を旅立つ 18日から数日間は、Webページの更新はできない。 しかし、ヒマを見つけては携帯電話から 『管理人の独り言』 に投稿しようと思う。

『掲示板』 や E-mail で激励していただいた皆さんや、直接お会いしてサイトについてお話を頂いた方々には本当に感謝している。 そして、今後もご協力頂ければ幸いである。

まだまだ引越しの準備があるので、もう時間がない。 大阪で書く雑感はこれで終わりにしようと思う。

旅立ちの準備

最近の独り言先週の雑感で、やけに歯切れの悪い書き方をしてしまったが、結論から先に書くと近日中に大阪を離れることになったのである。 今のところ日付は確定していないが、18-22日の週のどこかで出身地である北に向う。

1994年の 10月に転勤で大阪に来てから 13年と 5カ月、短いようで長い生活だった。 これだけ長くなればバリバリの関西弁になり、ボケとツッコミも習得できそうなものだが、中途半端な ”なんちゃって関西人” のままこの地を後にする。

2000年から始めた 『JR千里丘駅周辺密着情報!!』 も、千里丘の住人ではなくなるので継続が困難になってしまった。 困難である以上はサイトを閉鎖すべきなのかも知れないが、ごく一部の方から惜しむ声を頂いているので senrioka-info.net のアドレスが有効な一年間くらいは細々と運営を続けて徐々に縮小していこうと考えている。

『買得情報』 の中でも新聞折込チラシが情報源だった 『品目別<価格>リスト』、『チラシで見つけたお得な情報』、『応募プレゼント情報』 は継続不可能なので昨日をもって更新終了にした。

『憩いの広場』 の掲示板は、そろそろ役目を終えたような気がする。 最近は mixi (ミクシィ) を代表とするコミュニケーションの場が数多くあり、そこでの情報交換が可能であるため 2ちゃんねる以外の掲示板の存在意義は薄れているのではないだろうか。 それでも管理人の役割としては訳の分からない宣伝書き込みやらエロ書き込みを削除する程度なので、放置状態で存続は可能だ。

『くちコミ情報』 は掲示板の書き込みをまとめているだけなので存続可能。 『時刻表』 関連もネットで調べれば存続可能だが、早く確実にという訳にはいかない。 『ゴミ収集予定表』 は年末年始を除いて継続可能。 その他、ネットを情報源とするものは続けることができる。

千里丘駅周辺情報』 に掲載している店の情報は、営業時間や定休日など実際に足で稼いだ情報が多いのでネットで得られることが少ない。 存続が危ぶまれるところではあるが、何とか有志を募って情報の更新ができるように思案し、それが叶わぬのならば閉鎖するしかないだろう。

先にも触れたが、個人が運営するこんなサイトでも便利に使ってくれていた人がおり、閉鎖を惜しむ声を頂くのは嬉しい限りだ。 飽きもせず毎日の更新を続けてきた甲斐があり、少しは意味のあるサイト運営ができていたのだと慰められる。

引越しを決意したのは 2月3日、今は準備で忙しく、かなりバタバタしており、『立つ鳥跡を濁しっぱなし』 になってしまう可能性もあるが、どうしても急ぐ必要があるので許していただきたいと思う。

転機

人生には転機というものがある訳で。

もしかしたら、今がそれなのかも知れない。

仕事のこと、人生のこと、そして、このサイト、『千里丘周辺情報』 のこと。

考えなければならないことが山積している。

これから先、どうするべきか、どうあるべきか。

脳を使いすぎると耳から煙が出そうになるので今日は寝る。

マサルノコト scene 18

学校祭の余韻を味わうこともなく、ただダラダラとした学校生活が続く。 今にして思えば当時は何を考え、何を楽しみに生活していたのかさっぱり分からない。 授業もまじめに受けず、寝てばかりいたような気もするし、クラブ活動に専念する訳でもなく、虚無な時間を過ごしていたような気がする。

基本的に友達と遊べるので学校は嫌いではなかったが、勉強をする気などさらさらなく、毎日のように遅刻して到着し、授業中は死んだように眠ったり、ボ~っとしながら無益な時間を過ごし、休み時間や放課後に全てのエネルギーを注ぎ込んでいた。 マサルやノブアキと持て余す体力を発散させ、毎日ヘトヘトになるまで遊んでいたような気がする。

当時、ノブアキの家は学校のすぐ近くにあり、学校帰りに寄って遊ぶことも多かった。 ノブアキの父君がゴルフをされており、そのクラブや練習用の遠くまで飛ばないボールなどがあったので、誰が遠くまで飛ばせるかを競い、順番にではあったが何時間もボールを打ち続けたりしたこともある。 よくもまあ、飽きなかったものだと感心するのと同時に、その当時の体力を少し分けてほしいとすら思う。

ある日、ノブアキの家の外に置いてあったポリバケツのフタが、投げるとフリスビーのように飛ぶことに気付き、三人でキャッチボールならぬキャッチフリスビーをして遊んでいた。 だんだんとコツをつかむようになり、カーブやらシュートやらを折りまぜたりしてエスカレートしてきた。

そして、マサルの手から離れたバケツのフタは、空に見事な弧を描きながらノブアキから逸れて行き、側にあったブロック塀に向って進む。 それを何とかキャッチしようと塀に気付かず身を躍らせるノブアキ。 手を一杯に伸ばし、フタに触れたのと右手が塀に激突するのは同時だった。

どういうタイミングでそれが起こるのか分からないが、ノブアキの右手の小指は熟れた果実が弾けたように裂傷してしまった。 切り傷とは明らかに異なる傷口からは、今までに見たこともないような量の血が流れ出し、事の重大さを物語っている。 慌てふためいたマサルと自分は、家の人に知らせて医者に連れて行かなければと玄関に転げ込む。

在宅していたのはノブアキの御祖母様一人だったので 「大変なことになった」 と伝えると、「ありゃ~」 とのんびり構えていらっしゃる。 今の世の中であれば、「大切な孫に何と言うことを」 などと言って大問題になるところだろうが、当時は子供が怪我をすることなど当り前で、多くの子育てを経験された御祖母様にとって慌てるような事態ではなかったのかも知れない。

救急車を呼んだのか、タクシーで病院に向わせたのか、はっきりとした記憶は残っていないのだが、とにかくノブアキが運ばれて行った後に残ったマサルと自分に御祖母様が 「よかったら食べなさい」 と切り分けたたくさんのスイカを運んでこられた。 たった今、大量に流れ出る血を見たばかりなので、赤々としたスイカは食べる気になれなかったが、一切れだけ御馳走になった。

そして、自分にも責任があると感じているマサルと二人、トボトボと家路についた。 いったいどれほどの大怪我なのか心配でならなかったが、ノブアキは翌日から元気に登校してきており、何針も縫うことになってしまったが指は大丈夫だと聞かされてほっと胸をなでおろす。

当時ノブアキと交際していた女の子を 「ノブアキの指は一生うごかないかもしれない」 などと言ってビビらせたり、怪我をした状況を身振り手振りを交えて面白おかしく友達に説明したりと、自分達の責任などコロッと忘れて普段の生活に戻っていく。

暴れられないノブアキをよそに、マサルと自分は落ちていた空き缶を蹴りながら、何の目的がある訳でもなく、ただ蹴りながら、何となく自分が先に止めるのがくやしくて、ただひたすら蹴りながら、お互いに口も利かずに缶をパスしながら交互に蹴り続けながら下校したりもした。

本当に虚無で無益な毎日を過ごしていたものである。