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雑感 なんとなく感じたこと雑感 なんとなく感じたこと

マサルノコト scene 26マサルノコト scene 26

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北海道に帰ってきたのが原因なのか、このところ良く少年時代のことを思い出す。

やはり強烈な印象として残っているのはマサルと同じクラスで過ごした中学二年と三年のころで、他のどの時代よりも楽しく、そして虚しく、心も体も子供から大人に変わるその期間、生や性について考えたり悩んだりしたものである。

自分は生と死に関して深く興味を持ちつつも当然のことながら答えなど見つかるはずもなく、いろいろ考えているくせに命を大切にする訳でもなく、「いつ死んでもいいや」 などとうそぶきながら不良仲間とムチャクチャなことをして遊んだり優等生のマサルと付き合ったりと実に不安定な生活を送っていた。

徹底的に悪くはならないように自分を引っ張ってくれたり叱ってくれたりしながら見守ってくれたのは以前に書いた通り当時の担任とマサルだった。

そのマサル自身に悩みがなかったのかと言えば、同じ思春期を過ごす者として一人だけ安穏とした日々を送っていたはずもなく、マサルはマサルなりの悩みがあったに違いない。

常に自分のお目付け役を演じ、実年齢も精神年齢も上であったマサルに何か相談されることなど数えるくらいしかないが、こと恋愛に関してはとことん臆病で慎重であるがゆえに何度か相談されたことがある。

修学旅行で行った先の宿、みんなが寝静まってからもマサルと二人、延々と話し続けて空が白々と明るくなってきたこともあった。

宿についてから食事をとり、就寝前までは恒例のマクラ投げやら何やらでドタバタと暴れまくり、他の同級生たちは疲れきって眠ってしまった。

何せ担任が火災報知器を指差し、「あれはホコリも感知するんだから暴れたら警報が鳴るぞ」 と脅かされていたのを無視し、天井にある器具にビニール袋をかぶせてテープで固定し、ホコリを遮断してまで騒いでいたのである。

おまけに深い時間になると電気を消して廊下に見張りを立たせ、有料テレビの硬貨投入口に針金を突っ込んで操作しながらアダルトビデオを鑑賞し、夜遅くまで目をランランと輝かせていたのである。

深夜の時間帯になると一人、また一人と脱落者が現れはじめ、とうとう起きているのはマサルと自分だけになってしまった。

そこでボソボソと話しをしていて同級生を起こしてしまうと申し訳ないことと、あまり人に会話の内容を聞かれたくないこともあり、二人でそっと部屋を出て各部屋にある玄関のような狭い場所にあぐらをかいて話し続けた。

今から思えば実にたわいのない話しだったり悩みだったりするのではあるが、マサルが想う彼女の真意がどこにあるのか、仮に彼女がああ思っていたら、こう思っていたらなどと、現実と想像、妄想の中で遊んでいた。

当たり前のことではあるが、その会話で答えなど見いだせるはずもなく、鳥のさえずりを聞いてから布団にもぐりこみ、それから泥のように眠った。

翌日からの移動中や観光地めぐりなど、一切の記憶が残っていないのは言うまでもない。

マサルノコト

記憶 Memory-02記憶 Memory-02

過去の記憶

まだ乳幼児だったのでハッキリとした記憶が残っているわけではないが、以前の雑感にも書いているようにとにかく体が弱く、小児ぜんそく持ちだったのに加えて世の中で流行する風邪のすべてに感染するほどの病弱者で、頻繁に病院通いをしていたらしい。

医者にもすっかり顔を覚えられ、「また来たか」とか「毎度さん」などと言われていたとのことだ。

そんな会話のことなど記憶にあるはずないが、窓際に置かれたスチール製の机、その横にある患者が座る用の椅子、左側の壁にはガラス扉のついた棚があり、中には本とか分厚い辞典のようなものが入っている風景だけはボンヤリと脳の片隅に残っている。

今ほど医学も医療器具も発達しておらず、銀色の装置の中にはシュンシュンとお湯が沸き、その中に何本もの注射器が並べられている。

たぶん当時は使い捨てではなく、熱湯消毒して何度も注射器を使い回していたのだろう。

あれだけ病院に通い、まだ赤ちゃんなので腕が細すぎるという理由から、太ももの筋肉が今でも陥没しているくらい何度も注射されたのに、肝炎ウイルスに感染しなかったのは奇跡的なことかも知れない。

それだけ注射をされたなら、普通の子供であれば病院に行きたがらず、看護師さんや医者の白衣を見ただけで恐怖におののき、呼吸困難になるのではないかと心配されるくらい大声で泣き叫び、体の水分がなくなるのではないかと思われるくらいの涙を流しそうなものであるが、どういう訳か人見知りもせず医者や看護師の顔を見てニコニコと愛想をふりまく赤ちゃんだったらしい。

さすがに注射で針を刺された瞬間は 「ギャッ」 と泣くものの、それが終われば何事もなかったように機嫌よくしており、みんなから可愛がられたのだと言う。

そう言えば今でも病院に行くのは面倒であるものの、体を診られること自体は嫌でも怖くもない。

きっと赤ん坊のころから通い詰め、病院に対する抵抗感が皆無に近いのだろう。

実は男のくせに便秘気味であることは、この雑感や独り言でたまに触れている通りである。

それは持って生まれた体質らしく、幼児のころから便が出ずに親も困っていたらしい。

確かに記憶しているのは、オマルにまたがった自分を母親も父親もニコニコする訳ではなく、必死の形相で 「ほれ、う~ん!ってしなさい」 とか言っている姿だ。

一人でトイレに行けるようになってからも、あまりにもお通じが悪いのでドアを開けたまま母親が仁王立ちになって 「もっと頑張んなさい!」 などと激昂を飛ばしたりしていた。

ただでさえ便意をもようしていないのに、たとえ母親であれ人に見られたままの状態で、ガンパレと言われたからと言ってブリブリっと出てくれるほど人間の体は単純にできてはいないのである。

そんなことが何日も続くと、いよいよ病院に連れて行かれ、見ただけで気絶しそうになってしまうほど大きな注射器みたいなもので浣腸される。

少しして腸の当たりがボコボコと音を立て始めると、愛想も色気もない単に白いオマルに座らされて看護師さんがニコニコしながら 「でるかなぁ~?」 と優しく声をかけてくれる。

その横から椅子に座ったまま体を斜めにし、真剣な顔つきでこちらを凝視する母親。

その視線を無視し、やさしい看護師さんの顔を見ながら 「う~ん」 とすると、カランコロンと妙に乾いた音がした。

看護師さんはオマルの中を見て 「まるでウサギのウンチみたいだね」 と笑う。

確かに、こそにはパチンコ玉より少し大きい程度の真ん丸な黒い物体が三粒ほど転がっていた。

この話しにオチはないが、この記憶はいったい何歳くらいの出来事なのだろう?

忘れなければ次の帰省の際にでも母親に聞いてみようと思うが、昔のことは覚えているクセに最近のことや、やらなければいけないことなどは次から次に記憶の彼方に消えてしまう今日この頃なので、きっと聞くのも忘れてしまうに違いないと予想される。

記憶

メガネ装着時間メガネ装着時間

メガネ生活を始めてから約 2カ月が経過した。

当初はまったく馴染めず少し苦労したが、最近は装着している時間が少しずつ長くなってきた。

最初はテレビを見る時だけだったが、今は家の中を移動する時もはずさずに歩けるようになった。

メガネをしたまま歩くと、どうも平衡感覚か距離感が普段と異なり、ちょっと歩を進めるのが怖かったのだが今は部屋の中もトイレまでも寝室へもスタスタ歩ける。

しかし、今はまだそこまでで、外に出るときはメガネを外さなければ怖くて歩けない。

きっと慣れの問題なのであろうから、外でもメガネをしたまま歩く練習をしなければ、いつまで経っても恐怖心が抜けないであろうことくらいは分かっているのだが、正直なところあまり必要性も感じていないのが事実なのである。

いったいどういう具合なのか理解できないが、ある一定以上の距離になると何の問題もなく見えるので、メガネがなくても困らない。

いくつか先にある遠くの信号機でも青なのか赤なのかハッキリ認識できるし、道路標識に書かれている文字も読むことができる。

遠くの山に雪が積もっているのも、その山肌を走る道路だって見えるし、生えている木が紅葉したり葉が落ちて枝だけになっているのも労せずして判別可能だ。

もちろん道路を横断する際に遠くから車が来ていれば分かるし、遠くの空を飛ぶ鳥だって見える。

そんなこんなの理由から、外でメガネをする必要性はまったく感じられず、むしろ感覚が狂って歩くのが怖いのであれば、しない方が良いということだろう。

家の中では装着している時間が少しずつ長くなってきたとは言え、やはり食事中は邪魔になるし、パソコン画面を見るときもメガネをしていると老眼が仇となり、見難くて仕方がない。

つまり、食事中とパソコン操作中、入浴、洗顔、就寝中は裸眼で過ごし、それ以外の時間にメガネをするので、つけたりはずしたりが忙しく、そのたびにメガネケースに入れたり出したりするのは面倒なので、現在はアクセサリーとして売られているチェーンというかヒモを装着して首からぶら下げるようにしている。

せっかく購入してテレビも見やすくはなったが、自分は一日の大半をパソコンの前で過ごしているので、メガネをしている時間は残念ながらなかなか長くなりそうもない。

進化の袋小路進化の袋小路

また日本はデフレに入ったかも知れないなどと言われているが、実のところバブル崩壊後のデフレから抜け出せていないのではないだろうか。

2002年の雑感にも書いたようにデフレと言う名の病魔は簡単に克服できるものではなく、何十年と言う歳月を要するものらしい。

事実、イギリスは産業革命によって我が世の春を謳歌していたが新興経済国の台頭によって競争力を失い、1873~1896年もの長期不況に陥った。

その後も競争力を回復させられないまま20世紀に入り、二度の大戦と世界恐慌を経て、1970年代にサッチャー政権が登場するまで、経済の長期衰退が続いた。

その期間は実に 100年。

はるか昔にローマ帝国がデフレになった時も克服するのに 50年くらいかかったという。

日本は大不況を経験してからまだ 20年しか経過していないので、デフレの病巣を突き止め、摘出しきれていない可能性がある。

2000年くらいから経済が持ち直して好景気だったと言われているが、庶民には何の実感もなかったのが事実だ。

実は好況になどなっていなかったのではないだろうか?

数十年先に現状を分析すれば、ずっと下降線をたどっていた折れ線グラフが一瞬だけ上向きかけたもののそれは10年とかのスパンであり、50年、100年単位で見るとグラフは下がり続けているのかも知れない。

2-3年前から少しずつ値上がりした製品も再び値下げに向かっており、チーズやバターなどの乳製品は下落傾向にある。

そして、にわかに注目を浴びているのは PB(プライベートブランド)商品。

イオン、セブン&アイ、ダイエーなどが販売する、自主企画、独自企画商品と呼ばれるものだ。

その品数は多岐にわたり、現在も増え続けている。

庶民としては同じ品質のものが安く買えるのは嬉しいことだし、販売店も利益が出るのであれば双方にとって好ましいことのように思えるが、NB(ナショナルブランド)と呼ばれるメーカーの利益は相当に圧迫される。

研究開発費を投じて新商品を開発、既存の商品に付加価値を持たせても、すぐに真似されて PB(プライベートブランド)商品が出回る。

消費者は安いものを選ぶのでNB(ナショナルブランド)商品が売れない。

メーカーは少しでも売り上げを伸ばそうと価格競争に入る。

適正な利益が得られないので研究開発費の元がとれないという悪循環になってしまう。

例えば食品用のラップ。

日本製は引き出したラップを切りやすくなっているし、丈夫なので途中でちぎれたりもしない。

ところがアメリカやヨーロッパで売られているものは切りにくく、耐久性にも乏しいので箱から引き出している間にちぎれたりもするらしい。

おまけに付きが悪く、ラップをしても剥がれてしまったり、めくれてしまったりするという。

日本の製品が優れているのは、メーカーが消費者の立場になってモノを作り、研究開発が進んでより利便性が高め、発売後にも改良、改善を続けてくれるからである。

どうして日本と同じことができないのかと言えば、それは上述したように巨大資本、巨大な販売力を持つウオルマートみたいな流通業がすぐに PB(プライベートブランド)商品を発売してしまうのでメーカーが適正な利益を得られないまま価格競争に突入してしまい、改良、改善する費用も情熱も失ってしまうからだ。

そしてメーカーの力はどんどん衰え、新商品、改良品が生み出されなくなる。

そして、より便利に、より使いやすくという概念が失われ、進化の袋小路に入ってしまう。

それはメーカーにとっても消費者にとっても不幸なことではないだろうか。

我が家でも PB(プライベートブランド)商品を選んで買ってしまうこと多くなっているが、それはジワジワとメーカーを苦しめているのかもしれない。

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新年になって 9日も経過したが、やっぱりマサルからの年賀状は届かない。

正月に一通の賀状も届かないのは寂しかろうと今回も出してやったのだが、それの返事すら届かず、メールや電話の一本もないので来年からは放っておこうかという気分になっている。

知り合った中学生の頃、何度となくマサルの家に遊びに行ったが、部屋もきちんと片付けられており、とても几帳面な性格だったと記憶している。

授業で使うノートもキレイに書かれていたし、当時は音楽の記録媒体だったカセットテープも見事に管理されていたし、本棚には整然と小説などが並べられていた。

scene 7 に書いたように、ある日突然、何の前触れもなくアパートを急襲したこともあったが、まるで所帯持ちのように掃除が行き届き、整理整頓されている部屋に住んでいたマサルである。

筆不精かと言えば決してそんなことはなく、scene 16 に書いたが、まだパソコンもなく手書きするしかない時代に、もの凄い量の演劇用の台本を一人で書き上げたりするマサルだ。

そんな奴がどうして年賀状を出すのを面倒がるのかイマイチ理解できないのだが、それは面倒とかいうよりポリシーの問題なのかも知れない。

いつかの電話で
「新年の挨拶なんてくだらねー」
とか
「年賀状のやりとりなんかしてどうなる」
などと言っていた。

確かに普段は何の付き合いもなく、年に一度、その賀状でしか近況を知ることがない程度の知り合いと、延々と文字だけの、それも正月だけの関係を継続すべきかと問われれば必要性を疑問視せざるを得ないのは確かだ。

良く顔を合わせ、付き合いの深い人にこそ年始の挨拶をすべきであって、それも直接訪問しての挨拶が昔の主流で、その訪問ができないからこそ賀状というものが必要だったと推測される。

その点を考慮すればマサルの言っていることはもっともであり、正しいように思えてくるが、それにしてもわざわざ賀状を出してやっているというのにナシのつぶてというのは何たることか。

腹立たしいことではあるものの、わざわざ電話したりメールしてまで文句を言うのも面倒だ。

そう言えばもう 10年もマサルと会っていない。

電話で会話したのも 2007年の元旦が最後だ。

いろいろな事情はあったものの、結果的にはせっかく北海道に帰って来たのだから、たぶん今でも東京に住んでいるものと思われるマサルさえ飛行機に乗ってくれば、生まれ育った町で合流するのも以前より容易なはずだ。

何かのタイミングで久々に会うのも悪くはないと思っているが、何せ我家の場合は筆不精ではなくても出不精ときている。

余程のことがない限り、これから先もマサルと会う機会は訪れないかも知れない。

マサルノコト

2010年の始まりに2009年を思う2010年の始まりに2009年を思う

先週、勢いだけで雑感を書き、草稿を書き終えたと思った瞬間に気づいた。

それが 2009年最後の雑感であることを。

2001年の終わりから02年03年04年05年06年07年08年と、その年の最後の雑感は 『20xx年の終わりに』 というタイトルで締めくくってきたのにコロッと忘れて普通のネタにしてしまったのである。

で、今になって去年を振り返ってみようと思っているのであるが、個人的にはそれほど大きな出来事などなく、どちらかと言えば世の中の動きのほうが激しくて、それについて行くのがやっとという感じだったように思う。

年の始めの 1月、そして 2月まで 『お買い物日記』 担当者の病気治療は続いており、そのための入退院を繰り返していたので何となく落ち着かない日々だったのは確かだが、それも今となっては思い出になりつつある。

それでも 2009年の出足として興味深かったのはアメリカでオバマ氏が大統領に就任したことで、白人以外の大統領が誕生するなんてソ連とかドイツの社会主義国が崩壊したのと同じくらいのインパクトがあった。

3月の思い出は何と言ってもワールドベースボールクラシック(WBC)で日本が二連覇したこと。

4月は SMAPの草なぎ剛氏が逮捕された件で、当時の報道では警察はやりすぎだとの批判もあったが、昨今の芸能界麻薬汚染を思うと当時から何らかの情報がもたらされていたための神経質な捜査、対処になったような気がしないでもない。

そして、今も尾を引く新型インフルエンザがメキシコ、アメリカで感染者数を増やし始めたのもこの 4月だった。

5月は当時の自民党政権が景気対策の一環として始めた 1000円高速道路の影響で大渋滞が発生したことと裁判員制度がスタートしたこと、そして新型インフルエンザ感染者が国内で初めて確認されたのが印象深い。

個人的にはこの 5月にビジネス上の新しいブレーンと知り合い、仕事の幅が少し広がった喜ばしい月でもあり、好きだった忌野清志郎氏が亡くなって悲しい月でもあった。

6月はアメリカ自動車最大手の GMが破綻したのに驚かされ、マイケル・ジャクソンが急死したことにも驚かされた。

7月にはやっとのことで麻生政権が解散し、総選挙への号砲が打ち鳴らされたのと日本では 46年ぶりに皆既日食が観測されたことが強く心に残っている。

8月は何と言っても衆院選での民主党の圧勝で、このインパクトはあまりにも大きく、世の中が大きく変る分岐点となったはずで、なかなか成果が見えないとか何とか結論を急ぎがちの日本人やマスコミではあるが、来年度からの政治、日本の経済、世の中は恐ろしい速度で変わっていくに違いなく、時代に取り残されないようにしようと思う。

もう一つ忘れられないのは薬物関連で押尾学氏や酒井法子氏が相次いで逮捕されたこと。

少し前に相撲界の大麻汚染が問題になっただけに世の中どうなっているのかと呆れたものだ。

9月は民主党政権になって揺れ動く八ツ場ダムの話題に持ち切りで、なぜ八ツ場を 「やんば」 と読むのかというでっかいクエスチョンマークは頭上に浮かびっ放しだったが、イチローが 9年連続 200安打というメジャー新記録を樹立してくれてモヤモヤした気分が吹き飛ぶ。

10月は先の衆院選で落選した中川昭一氏の急死に驚かされ、北海道日本ハムファイターズがプロ野球パ・リーグ優勝を決めてくれて喜び、三遊亭円楽氏の死去に悲しむという忙しい月。

11月は何と言っても整形してまで逃亡を続けていた市橋容疑者の逮捕劇と、民主党政権が公開ではじめた 『事業仕分け』 での蓮舫氏の張り切りが目を引いた。

そして 12月は政治がガタガタし始め、鳩山の由紀夫ちゃん邦夫ちゃんともママから浮世離れしたお小遣い貰って非難の的になったかと思えば小沢氏の元金庫番が在宅起訴されたりと忙しく、いろいろあった事件や事故のニュースがかすんでしまった感がある。

個人的にはこの 12月にもビジネス上の新しいブレーンと知り合い、仕事の幅が一段と広がったという実に喜ばしい月になった。

そして年が明けて 2010年。

今年がどんな年になるのかまだ 2日目なので何とも言い難いが、この歳になるととにかく健康が一番だというのが真っ先に頭に浮かぶ。

朝の散歩、例の体操も続け、毎日一歩ずつ進んでいこうと思う。

仕事も私生活も着実に一歩ずつだ。

テレビ出演テレビ出演

過去に一度だけテレビに出演したことがある。

とは言ってもテレビで演技した訳でも唄を歌った訳でもない。

実は NHKのニュースに出たのである。

とは言っても別に罪を犯したわけでも被害者になった訳でもない。

若い頃に務めていた会社に NHKのテレビクルーが取材にきた際、そのあちらこちらに映り込んだのであって、決して自分中心に取材を受けた訳でもインタビューされた訳でもない。

その会社はゲーム制作会社で、当時は任天堂のファミコンが発売されて大人気となり、パソコンも少しずつ普及し始め、職種としてはわりと脚光を浴びていたこともあって現場の様子を取材に来たのだった。

それは NHKのローカルニュースで放映される特集だったが、VTRを作成するのに昼から夕方までかかってしまい、ろくに仕事にならなかったことが思い出される。

そして、ニュースだとかドキュメンタリーとは言え、所詮は作り物でしかないという事実を身をもって体験することができた貴重な時間でもあった。

最初は仕事場の風景を撮影していたのだが、この業界の仕事などコンピューターに向かってひたすら入力作業を続けているだけなので何の動きもなく、映像としてはひどくつまらないものにしかならない。

背中越しにコンピュータのディスプレイを撮影したり、一般人とは比較にならないくらい高速な指の動きを撮影したりしていたが、すぐにネタは尽きてしまう。

そこでカメラを止め、
「ゲームの開発はどうやって始まるんですか?」
などと質問される。

そりゃあ勝手に作り始めるのではなく、一応は企画会議などもあるし、そこでまとまった企画をもって上司や営業職の人たちに向けてプレゼンし、実際に商品化に向けて開発を始めるかどうか検討する。

その旨を伝えると
「その会議のシーンがほしいんですけど」
などという無茶を言い出す。

そこで、今はプレゼンする企画もなく、すでに開発が始まっているものに関しては当然のことながら会議が終わっていることを伝える。

すると NHK社員は
「以前にボツになった企画でもう一度会議をしてほしいんですけど」
などとぬかす。

以前にボツになったものをもう一度プレゼンしたところで採用されるはずはなく、結果が分かっているので会議などしても無駄にしかならないではないか。

それでも NHK社員は
「どうしても会議のシーンがほしいんですよね」
と食い下がるので、その粘りに負けて架空ではないものの、撮影のためだけの会議が開催されることになった。

当然のことながら会議は紛糾するはずもなく、さりとて企画が採用されるはずもなく、ただ淡々と始まり粛々とボツにされて終了。

それでも NHK社員は満足そうで、次にパソコン以外の趣味は何ぞやとか、休日は何をして過ごしているのかなという仕事とは何の関係もない話題に移った。

社員の一人が休日は海に行って素潜りをし、貝やウニを獲って食べると話すと、こともあろうか NHK社員は
「今から海に行ってそのシーンを撮影しましょう」
などと言い出す始末。

平常日の、しかも勤務中に、なぜ海に行って貝を獲って食べなければならないのか。

国営放送は何でもありで、一般人はその撮影に協力するのが当たり前だと言わんばかりの態度に腹がたったが、上司が許可をしてしまったので話しをした社員と、それと仲良くしている社員の二人はロケバスに乗せられて海に連れて行かれてしまった。

夕方になってドヤドヤと帰ってきたが、それからは少し真面目にゲームについて話しをする。

地球外生命体やモンスター、ゾンビなどを相手に戦うゲームは多いが、人が人を殺すようなゲームだけは作りたくないと言うと深く納得してテレビクルーたちは引き上げて行った。

数日後、NHKのニュース番組で撮影された特集が放映された。

仕事をしている風景、せわしなく動く指、次々に映し出されるプログラムの文字列。

ナレーションでゲームの製作過程が説明され、プレゼン会議のシーンが 10秒ほど・・・。

社員の生活に話しは移り、海面に顔を出し、手に貝殻を持った社員の姿が 5秒ほど。

あれだけ長々と取材して VTRもさんざん回しておきながら放送時間は 5分程度・・・。

忙しいのに半日も奪われた時間を返せと言いたくなった。

NHKであっても、いくらニュース番組であっても、『ヤラセ』 とまでは言いたくないが、わざわざ撮影のためだけに会議を開いたり、仕事を中断してまで休日のシーンを撮影したりするのである。

それを身をもって体験してからというもの、ニュースで会議のシーンなどが放映されると
「このシーンのためだけに会議をやらされているんだろうな」
などと思ってしまい、イマイチ内容を全面的に信じられなくなっているのである。

楽なほうへ楽なほうへ

北海道のテレビに出ている芸人には関西弁を使う人がわりと多い。

大阪帰りの自分としては馴染みのある言葉なので聞いていて違和感はないのだが、よくよく考えてみるとどうして北海道で関西弁なのか。

関西から北海道の大学に入る人は皆無ではないものの、その数は極めて少なく、また、そのまま北海道で芸人を目指すことなど考えにくい。

うがった見方をすれば、お笑いのレベルが高い大阪ではさほど面白なくても、北海道であれば勝負できるかもしれないという安易な考えでやって来る人が多いのではないかという疑問が頭をもたげる。

強豪ひしめく大阪や奈良の高校で野球やっててもレギュラーになれないからと他都道府県に転向する生徒もいるが、それと同じような発想なのではないかと。

昔のスポ根マンガ、巨人の星やアタックNo.1、エースをねらえ!のように努力して、努力して、血のにじむような練習をして・・・などというのは流行らないのか。

楽をして上に行くことばかり覚えると
「社会に出てからどえらい苦労をするんだぞ」
と言ってやりたい。

かく言う自分は学生時代に何のクラブ活動にも参加せず、努力などという言葉とは無縁の生活をしていた。

いや、中学一年生のほんの一時期だけサッカー部に身を置いたことがあるが、2-3回だけ顔を出した後は完全無欠なる幽霊部員と化していた。

それは努力するのが嫌だとか練習が辛いとかいう種のものではなく、単に友達と遊んでいる方が楽しかっただけなので少し違うようにも思えるし、肉体的に自分をいじめ抜いて鍛えるとか快感を覚えるなどというドMな性格ではないこともあり、もともとスポーツにはむいていないのだとも思うが、実際には楽な方へ、楽しい方へと流されただけなのかも知れない。

しかし、今の仕事も日々技術は進化するので、それを追いかけるのもなかなか大変なことであるし、分からないことだらけだったりするのだが、必死に調べて身につけようと努力はしているつもりだし、頭から煙を吹き出しそうになりながら苦しみ、のたうち回って完成させることだってある。

もちろん、放っておいては仕事にならないし、できないことばかりだと生活に支障が出るので背に腹は代えられず仕方なしに頑張っている面も否定はできないが。

そういう点においても最近の若者は楽なほうを選びがちなように思える。

ちょっと調べたら分かるようなことでも聞いてくるので、いちいち手を止めて答えねばならない。

今はネットで検索すれば多くの情報を得られるので減ったかも知れないが、自分が会社組織の中にいた頃はそんなケースが多々あった。

しまいには腹がたって
「自分で調べろ」
と言ってみたり、結論ではなくどの本を見れば答えを得られるか教えたりしていたので、後輩から怖がれたり冷たく思われたりしたものだ。

しかし、自分で調べるクセをつけず、安易に聞いて答えを得るといつまで経っても覚えないし、何度も同じこを教えなければならないこちらも時間の無駄になる。

実は偉そうに言いながらもネット時代の今、自分も楽な方へと流されてしまっている。

日本語にしても英単語にしても分からなければチャチャっと検索すれば解を得られる。

そして、その解を安易にコピペ(コピーして貼り付け)してしまうので、いつまで経っても身につかず、同じ単語を何度も調べては、その都度
「ああ、これか」
と思い出したりするのだが、次に使おうとするとやっぱり漢字やスペルが思い出せない。

昔は何人もの友達の電話番号を記憶していたものだが、今は携帯電話にメモリーしているので自宅の電話番号すらなかなか覚えられない。

炊飯器に洗濯機、食洗機に電子レンジ。

人は楽なほうへ楽なほうへと流されるようである。

オプトイン/オプトアウトオプトイン/オプトアウト

オプトインは何もしなければ断る設定で、選ぶ場合は意思表示する必要がある。

オプトアウトは何もしなければ選ぶ設定で、断る時に意思表示する必要がある。

前者であるオプトインのビジネスといえば新聞配達が典型か。

契約期間が終了しそうになると勧誘がやってきて洗剤だの何だので気を引きつつ、さらに一年の契約を得ようと必死にならなければならない。

後者のオプトアウトはライフラインである電気、水道、ガス料金、固定電話に携帯電話、プロバイダなど多岐にわたる。

断らない限りは、たとえ使わなくても延々と基本料金を徴収される。

そして 『ひかりTV』 のお試しもそうだ。

実は今、NTTの勧めで機器を借り、2カ月間の試用をしているところである。

お試し期間の 2カ月を過ぎる前に断らなければ自動的に本契約となってしまう。

接続したのが 12/01なので契約を断る場合は来年 1月末日までに、その旨の連絡をNTTの担当者にしなければならない。

月額 4千円弱の料金で大量のテレビチャンネルを視聴でき、いつでも観られる映画や過去に放映されたドラマなども豊富であり、なかなか便利なので今のところは続けるべきか止めるべきか悩んでいるところである。

このように金額が決して安いとは言えない場合は悩んだりもするが、これが月額数百円程度のサービスであれば迷わず契約し、たとえ使わなかったとしても契約を解除するのが面倒でダラダラと料金を払い続けるに違いない。

例えるなら固定電話のキャッチホンなどがそうで、月額 300円程度ではあるものの、実際には通話中に他の要件の電話がくる確率など極めて低く、年に何度か、いや、数年に一度もあるかないかであるにも関わらず、そして話し中だったからと言って大きな支障などあるはずないのに一度サービスを申し込んでしまうと解約するのも面倒だったり、申し込んでいることすら忘れて放置される結果となる。

少額であれ、サービスを提供している側からするとチリもつもればマウンテン状態であり、あきらかにオプトアウトのモデルのほうがビジネスとして成功しやすいものと思われる。

携帯ビジネスも栄枯盛衰が激しいが、モバゲータウンにしてもグリーにしても、サイト内で何かを購入する意思表示がない限り収益にはならない。

そして、どちらも壁にぶち当たって業績が伸びずにいる。

ここは数百円の料金でも月額固定で徴収できるシステムを構築すべきだろう。

月に数百円であればユーザーの負担も軽く、あまり利用しなくても契約解除するのが面倒で放置される可能性が高い。

そういうユーザーが多ければ多いほど経営は安定する。

500万人も会員がいるのだから、毎月100円を徴収するだけで安定的に月額 5億円を得ることができる計算だ。

今更ビジネスモデルを再構築するのは難しいのかも知れないが、何か対策を講じなければ株価は下がり続けるものと思われる。

何かオプトアウト型のビジネスでも始めてひと儲けできればと思わないでもないが、残念ながら自分にはそのような商才はなく、どうやら他社のビジネスに対してブツブツと文句を言っているのが関の山なようである。

メガネ生活メガネ生活

唯一他人に誇れることができた視力2004年から若干の衰えを感じ始め、2005年には低下してきたものと思われる。

最初は徐々に進行したのだろうがこのところの変化は著しく、その落差に体と頭がついて行かず、目にゴミが入ったのだと思ってしきりにこすってみたり、疲れ目が原因なのだろうと目薬に頼ったてみたりしていたが、実は激しく視力が落ちていたことを眼鏡屋さんで遊びのつもりで受けた視力検査によって自覚させられた。

そのときの診断では視力が 0.6、近視系の乱視に老眼まじりという結果だったが、おなじ 2008年の末に受けた健康診断での検査結果は 0.5、それから約一年後には 0.3と、急な坂道を転げ落ちるような勢いで悪化を続けていた。

すでにテレビに映し出される文字が見え難くなっていたのは事実で、最初はプロ野球中継を見ていて今が 6回なのか 8回なのか、はたまた 9回なのか、そして 0点なのか 3点なのか、はたまた 6点なのか分からなくなり、それから徐々に 1なのか 7なのかも判別困難、しまいにはある程度の大きさがなければ映し出される文字が読めなくなってしまった。

それでも 『目が悪い』 ということが果たしてどういうことであるのか、『見えない』 とはどういう状態であるのか生まれてこのかた経験したことがないので、それが視力の低下に起因することだと頭でも体でも理解できずにいた。

ずっとパソコンに向かうと夜には著しく視力が低下していたものの、翌朝にはある程度回復していたので加齢による眼精疲労が顕著になってきたのだろうという意識が強かった。

ところが正式な検査の結果は明らかな視力の低下であり、マッサージや目薬で回復できる種のものではないと断定されてしまったのである。

そこで11月 27日、ついにメガネの購入と相成った訳であるが、若い頃に遊びで伊達メガネをかけてみた程度の経験しかなく、自分に似合うメガネ、使いやすいメガネとは何ぞやという基本知識がない。

お買い物日記』 担当者からの情報によるとレンズ部分が大きいほうが視界も広くて不便がないということだったが、メガネにも流行というものがあるらしく、デビューしたての大江千里がしていたような昔で言うところのアラレちゃんメガネは店頭で扱っていなかったのでどうしてもレンズの小さなものになってしまうが、車を運転する訳でもなければ仕事に必要な訳でもなく、ただテレビを見るときにのみ使用するようなものなので大きな問題はないだろうと判断した。

今、この文章を作成するにあたり 『アラレちゃんメガネ』 を検索したところ、人気復活の兆しがあるらしいので少し驚いたが、化粧でもファッションでも数年のサイクルで流行を繰り返したりするものなのでメガネにも同じことが言えるのだろう。

ファイル 3087-1.jpg話を元に戻して結果的に購入したメガネはご覧の通り、とても普通のサラリーマンにはできそうもない代物で、在宅勤務であるがゆえに何の配慮もすることなく即決で購入することが可能というものであるが、これは自分の好みではなく店員さんと 『お買い物日記』 担当者の意見に従った結果なのである。

最初はおとなし目のフレームを手にとって見ていたのだが、実際にかけて 『お買い物日記』 担当者の顔を見るとブンブンと首を横に振る。

黒縁メガネ、縁無しメガネ、銀色メガネに金色メガネ、どれをかけてみても 『お買い物日記』 担当者の表情はイマイチだったが、このメガネをかけると 「うむ」 と首を縦に振り、店員さんも 「こちらが良いですね」 と言うので素直に従ったまでだ。

12月 1日に出来上がったメガネを受け取り、ついにメガネ生活が始まった。

メガネをした顔を見慣れないからか、『お買い物日記』 担当者はじーっとこちらを見てはニヤニヤしている。

まだ慣れない自分はメガネをしたまま立ち上がって歩こうとしてはクラクラしたり、メガネをするのを忘れたままテレビを見てボンヤリした字を眺めたりと何だか生活に溶け込めずにいる。

そして、注がれたコーヒーを飲み干そうとカップを傾けるとメガネにコツンと当たったりして慌てる。

どうやら今までと同じ感覚で飲んではいけないようで、ずっとメガネをかけている人は自然にそういう動作が身についているらしい。

テレビを見ながらの食事に関しては 12/02の独り言に書いた通り、どうも勝手が違って望むような快適さを得られずにいる。

何かと不便なことも多いが、見え難くなってなっていたテレビの文字もクッキリ見えるようになったことだし、視力の低下を招いたのは若い頃からの酷使が原因と思われ、何のケアもしてこなかったがための自業自得でもある訳なので、これから少しずつメガネ生活にも慣れて長く付き合って行こうと思う。