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雑感 なんとなく感じたこと雑感 なんとなく感じたこと

日本の明日日本の明日

いろいろと迷走し、暴走し、国民を置き去りにしながらの内部抗争勃発で、すでに表舞台から去ったはずなのにチョロチョロと動きまわり、やっぱり何の役にも立たなかった鳩山元首相の不恰好さだけが目立つ民主党だが、結果的には菅直人、小沢一郎による激突は避けられず、代表選挙が行われることになった。

確かに菅首相が主張したとおり、密室で政治決定されるより透明性の高い表舞台で正々堂々と戦ってくれたほうが見ている側もスッキリするので良かったとは思うが、どうも置き去りにされた感は払拭できず、何のために民主党に政治を託したのか、その意味をあらためて考えさせられたりしている。

党内での権力抗争、政治決定プロセスの不透明化、意思決定の曖昧さなどに嫌気がさして政権交代したはずなのに、党が変わっても同じような場面を見せられるのでは意味が無い。

そして、官僚主導を打破して政治主導を標榜した民主党に日本を任せたはずなのに、菅直人政権では歯車が逆に回り始めたのがハッキリと目に見える。

確かに人気もあり、調整力もあったのかも知れないが、日本のリーダーを務めるには調整力よりも強制力、傲慢なほどのリーダーシップが必要なのかもしれない。

民主党の掲げた未来像が事実上の骨抜きになり、形骸化してしまったのは官僚のしたたかな工作、地ならしによるものだと容易に想像がつくが、それを最終決定したは総理大臣、つまりは鳩山前総理であり菅現総理だ。

何となくあやふやで内容はどうにでも解釈でき、官僚の都合の良いようにまとめられた文章や案を承諾した首相が悪いのであり、そこには確固たる信念、国家ビジョンというものが感じられない。

小沢一郎という政治家を嫌う人は多いし、自分も好きではなく、積極的に応援したいとは思わないが、国が危機的状況にある今、多少は独裁的であったり強引であったとしても力強く日本を明日に向かって誘導してくれる政治家が必要なのではないかと思う。

小泉純一郎という圧倒的人気を誇った政治家も、やったことのすべてが評価されている訳ではなく、むしろ悪く言う評論家やマスコミは多い。

それでも国民は支持し、今でも高い人気があるのは、力強く一定の方向に導く力を持っていたからだろう。

小沢一郎にはどうしてもダーティでグレーな印象がつきまとうが、意志の強さと指導力は小泉純一郎と同等のものを兼ね備えているのではないかと思う。

マスコミ嫌いで話しも上手ではないが、小泉純一郎よりも明確な国家ビジョンを描いているような気もする。

影の総理と揶揄され、裏からゴソゴソと手を回したり地下でモゾモゾと動いて影響力を発揮するよりも、一度は前面に出て表舞台で実力を発揮してみてはどうか。

小泉純一郎が「自民党をぶっ壊す」のを興味津々でながめていたように、小沢一郎が全てを破壊し、新しい政治、日本をつくるところを眺めるのも悪くはない。

なぜなら、どうせこのままだと日本は崩壊し、外圧によって再生するしかないのだから。

それくらいなら日本人の手によってスクラップ・アンド・ビルドされるのを眺めるか、そのプロセスに参加して再生の道を自分の手で築いたほうが楽しくて希望がもてるに違いない。

スズメのお宿スズメのお宿

行きも帰りも雨が予想される中、なんとか晴れ男の面目を保ったまま帰省の日程を終えることができた。

田舎に住む母親も叔母も一年間で極端に老けこんだりするはずもなく、さりとて若返るはずなど有り得もせず、何ら変わらぬ姿で昨年も聞いたような話を繰り返し聞かされ、昨日の昼に聞いたような話を今日の夜に再び聞かされるという、実におぞましい光景が繰り広げられていた。

そこで年老いた母親を小馬鹿にすることなど実に簡単なことではあるが、恐ろしいことに去年の帰省の際に聞かされた話をすっかり忘れており、今年になって再び同じ質問を浴びせる自分もいたりするので、はたから見るとボケの進んだ親子がボケボケの会話をしているとしか思えないことだろう。

そのすっかり忘れていて問いかけ直した内容は、庭の植木やブロック塀の上でスズメが楽しそうに遊んでいる姿を見ながら
「ずいぶんとスズメが遊びに来るんだねぇ」
という他愛もないことであるが、母親の
「軒下をねぐらにしているから毎日のことだよ」
という答えでそれが二年連続の質問であることを自覚した。

そう、毎朝の散歩でスズメを見るのを楽しみにしたりしているが、実家では南向きの窓からボーっと庭を眺めていれば、そこで遊びまわる姿をずっと見ていられる。

どういう建築法なのか知らないが、軒下がコの字になっており、そこにスズメが一列に並んで夜を明かして朝になるとどこかに遊びに行っては日が沈む前に帰ってくるのが日常らしい。

いつの頃からか実家はスズメのお宿状態になっているのである。

眺めていると庭木の枝にとまったり、ブロック塀の上を歩いたり、生垣の中にもぐりこんで涼を取ったりと、何だかちょこまか動いて可愛らしい。

一応はこちらを警戒しているらしく、夜になってカーテンを閉めるまでは軒下のコの字部分に入ることはせず、外から様子をうかがっている。

生前の父は、
「スズメが帰ってくるから早くカーテンを閉めてやれ」
などと母親に言っていたとのことだ。

どうやらスズメを見て楽しむのは遺伝らしい。

母親に何かあったら知らせに来てくれると助かるのだが、実家との距離は直線ですら 250kmほどあるので、それを望むのは無理だろう。

それならば、せめて一人暮らしの婆さんを癒してやっていただきたいと思っている。

テレビ離れテレビ離れ

テレビ離れが言われて久しいが、その傾向に歯止めがかからずテレビ各局は対策に頭を悩ませていることだろうが、今さら何をしようとも焼け石に水状態であり、超悪循環、負のスパイラルからは抜け出せそうにない。

そもそも、これほどの末期症状に陥ったのは、症状が顕著化した初期の段階で効果的な対応を打ち出せなかったテレビ局側に全責任があり、まったくをもって疑いようのない自業自得であるから、このままテレビ業界が衰退したとしても理由を他に転嫁することなどできないはずだ。

しかし、その予兆が現れたとき、業界はテレビゲームの普及を理由にあげた。

家庭用テレビゲームに興じる人が増えたため、同じ映像装置を使うテレビ放送の受信者が相対的に減ってしまったのだと。

それからテレビ離れが加速したとき、業界は解を携帯電話に求めた。

携帯電話を使用している時間の増加とともにテレビの視聴時間が減ったのだから、そこには明らかな相関関係が認められると。

そしてテレビ離れに歯止めがかからない今も外的要因に解を探る。

パソコン、携帯電話、家庭用ゲームが普及、BS、CSを含めた他チャンネル化、趣味の多様化によって視聴者の行動様式は分散化傾向にあり、テレビが娯楽の中心ではなくなったと。

確かに理由の一部としては間違っていないだろうが、全体像としては正しくない。

衰退の理由を外的要因に求めるのではなく、内に見い出さなければ業界に未来はないものと思われる。

現在のテレビ局は単に電波を配信しているのに過ぎず、以前のように責任を持って番組を制作することはなくなってしまった。

企画は吉本興業、ジャニーズ事務所、その他にも大手のプロダクションとか外部組織ばかりで、局内で企画したものなど皆無に近い。

おまけに番組を撮影するためのカメラマン、音響、その他のスタッフに到るまで外部の人間で構成されており、局側はスタジオを貸しているだけだ。

外部の手によって企画された番組が外部の手によって制作され、ただ無秩序に電波に乗る。

とうの昔にテレビ局は番組を制作する能力を失い、単なる電波配信屋さんになってしまっており、魅力的な番組作りなどできるはずもない。

あまりにも吉本興業やジャニーズ事務所への依存率が高まりすぎた結果、どのチャンネルを見ても同じような番組で、しかも演者は吉本かジャニーズで占められている。

芸人がワーワー騒いでいるか、漫画が原作の劇をジャニーズ事務所の誰かが演じているか、質が悪く、薄っぺらで通り一遍の取材しかしていない報道番組しか映し出されないテレビを誰が好き好んで見るのか。

テレビがつまらなくなったのか、テレビの感性についていけなくなったのか考えたこともあったが、それは明らかに前者であろう。

我が家でもテレビ離れが著しく、最近はどんどん見たい番組が減っており、全盛期の半分以下くらいになっているものと思われる。

しかし、テレビの前にいる時間が減っているかといえば、多少は少なくなったかも知れないが半分にまではなっていない。

『独り言』 に何度か書いているように、熱中して海外ドラマを見ているのである。

作る側も演じる側も真剣にたずさわって完成した良質なものは見ているものを惹きつける。

それに目をつけたのは良いが、何を勘違いしたのか、単なる安易な発想なのか、日本のドラマでは海外ドラマのストーリーやシチュエーションをそのまま真似したようなものが横行する始末で、もう開いた口がふさがらない。

堕落したまま何の反省も見られず、日本のテレビ業界が変わろうとしない限り、これからもテレビ離れは進んでいくことだろう。

停電の日には停電の日には

ちょっとだけ心配していた台風 4号は北海道に上陸することなくオホーツク海の彼方に抜けて行き、温帯低気圧に変わってそのエネルギーを失った。

そろそろ台風シーズンなので、これから秋まで 20個程度の台風が現れては日本やその付近を北上するのだろう。

今と昔にどのような技術的な差があるのか分からないが、最近は台風の影響などによる停電というものがめっきり減ったように思う。

大阪に暮らしていた頃は年に何度も台風が近づき、そのたびに強風や豪雨にさらされたし、夕立の回数も多かったので何度も大嫌いなカミナリが発生していた。

それでも大阪で過ごした 13年あまりの間で停電を経験したのは 2-3回ではないだろうか。

電力各社の努力と技術の発展などがあり、倒れにくい電柱、切れにくい電線が広く使われるようになったのかもしれない。

北海道の場合は雪の重みで電線が切れることも頻発していたが、今となってはそのような話しを聞くこともなくなった。

昔は大雪が降っては停電になり、強風で停電になり、事故で停電と、わりと回数が多く、どこの家でも懐中電灯の場所、ロウソクの置き場所は大人から子どもまで把握できていたように思う。

そして、子どもの頃はロウソクで過ごす時間が妙にワクワクしたものだ。

しかし、テレビを観ることもできないので退屈で仕方がない。

親もヒマを持て余しているであろうから、トランプなどをして遊んだりしたかったのだが、ロウソクの明かり程度だと親は 「見え難い」 などと言って遊んでくれない。

子供の目は暗い中でも良く見えるので支障はないが、加齢と共に性能が衰えつつある眼球では辛いものがあるということを最近になって実感できているところではあるものの、当時は理解できるはずもないことなので遊んでもらえないことがひどく不満だった。

きょうだいでもいれば暗い中でもそれなりに楽しみを見つけて遊んだりできるのだろうが、幼くして妹を亡くし、一人っ子同然に育った自分は、ただただロウソクの炎の f分の1ゆらぎをジッと見つめているしかなかった。

そして、普段は何も聞かないくせにヒマなものだから学校のこととか勉強のことを急に親が話しだしたりするので面倒になり、最初はワクワクしていた停電も嫌になって早く復旧しないかイライラしたものである。

時は流れて社会人になってからは停電の回数も激減したが、何年に何度かは仕事中にバチンッ!と社内の電気が消えることがあった。

自分の住む世界はコンピュータ業界、この業界は電気がなかったら終わりであり、どんなに優れた技術者であろうと手も足も出ない。

作業内容はこまめに保存しておかなければいけないということを改めて実感させられる瞬間でもあり、社内が暗くなったとたんに、あちらこちらから叫びとも悲鳴ともつかない微妙な声がもれる。

ここ数時間分の作業内容が一瞬にして飛んでしまった瞬間だ。

しばしの沈黙のあと、深い溜息とともに私語が始まる。

普段はキーボードの音しか聞こえない社内に声があふれ、むしろ人間として正常になったとさえ言える光景が広がる。

電気がなければ本当に何もできないのがこの業界の弱点で、パソコンを使えない開発者はもちろん、今は手描きの書類など皆無に等しいので営業職、事務職、総務から経理まで一切の業務が止まってしまう。

停電が長引くと 「どうせ仕事にならないんだからゲームでもするか」 などと言い出す間抜けな奴がおり、パソコンの電源に指を置いたところで電気のないことに気づき、周りの皆んなから大笑いされたりしていた。

その当時、今は幻となってしまった MSXという規格のパソコンのような玩具のような機器があり、それは乾電池数本で駆動させることができた。

ゲームもできるその機器で遊ぼうとするのだが、画面は普通のテレビを AV端子入力で使う設計になっているため、電気がなくては映像を映し出すすべがない。

それでもスピーカーだけは備えていたので、プログラムさえすれば音は出せる。

名機 MSXを開発者が囲んで精神を統一し、画面を見ることもできないまま頭の中に映像を思い浮かべ、プログラミングしながら音楽を奏でて喜んだり喝采を浴びたりしていたものだ。

今は携帯ゲーム機でも携帯電話でもあるので退屈はしないだろうが、昔、停電の日には、親子、同僚、人と人のコミニュケーションを深めることができる時間でもあったのである。

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過去の記憶

まだ幼稚園にも通っていなかったと思われるので 2-3歳の頃だろうか。

前回と似たような光景だが、勤めを終えた母親が老夫婦の家に迎えに来たので自転車の荷台の子供用イスに座って帰り道を走っていた。

異なる点は、それが冬ではなく春か夏、道路脇の雑草の緑が濃い季節。

周りはまだ明るく風景がはっきりと記憶に残っているので日の長い夏のわりと早い時間だったのかも知れない。

前から車が来た訳ではない。

猫や犬が急に飛び出してきた訳ではない。

なぜだかハンドルを握る母親の手がガクガクと揺れだし、蛇行を始めたかと思ったら自転車は右へ右へと進んで道路から少し低くなっている草むらに向かう。

もう道路はなくなり、自転車が右に大きく傾いて倒れ始めた。

不思議なことに、ここから先は超スローモーションの映像として脳に刻まれている。

バランスを崩して倒れかけた自転車。

母親は左にハンドルを切って何か叫んでいる横顔が見える。

自分の左足が高々と上がり、その先には青空が重なって見える。

右に眼をやると道路より低くなっているところに生える雑草が徐々に大きくなって迫ってくる。

子どもをかばおうとしたのだろう、体を抑えようと母親の右手が後ろに伸びて右腕を強くつかむ。

地面に叩きつけられるという恐怖と、握られた腕の痛さが同時にやってきて気絶しそうになる。

ここからは通常の速度の映像に戻り、ガサガサ、ゴロゴロと雑草の中を転がる自分と母親。

大量の草がクッションになったのか、思いのほか衝撃もなく、フワフワした感じで着地した。

そしてヨロヨロと立ち上がり、少し気が落ち着くとズキズキとした痛みが。

それは、どこかを強打した痛みでもなく、草などでどこかを切った痛みでもなく、母親が力任せに握った右腕の痛みだった。

ワンワンと泣く自分に駆け寄り、母親は
「どうしたの?どこか怪我したの?どこが痛いの?」
と矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。

正直に握られた腕が痛いと言うと、母親はムッとして
「お母さんが助けたから怪我もしなかったんだからね」
とか
「男の子なんだったら少しくらい我慢しなさい」
などと言いながらズンズンと斜面を登って自転車にまたがった。

心の中で
「こんなにやわらかいなら何もしなくても怪我なんかしない」
などとブツブツ文句を言いつつも、そんなことを口に出そうものならゲンコツが飛んでくるのは火を見るより明らかだったので黙ったまま自転車の後ろに乗った。

それから長い間、父親や叔母、近所の人達に話をするたびに
「私が守ったから」
的な発言を繰り返していた母親のそばで
「違うって」
と心の中でささやかに突っ込んでいたりする日々が続いたのであった。

記憶

デジタル化の波 Signal-4デジタル化の波 Signal-4

デジタル化の波 ~目次~

とうとう我が家にも MP3再生可能な機器が導入され、手持ちの CDをすべてデータ変換してメモリに保存した。

今更ではあるが、その利便性の高さにあらためておどろかされるのと同時にデジタルデータ化による恩恵を思う存分に味わってみたりしているところだ。

そうだ、そうなのである。

以前から人が要望していたのはこういうことであり、単に音楽データがデジタル化されただけではなく、そのデータを蓄積して自由に扱えるようになると格段に利便性が向上するというものだ。

まずはダビング。

レコードからカセットテープに録音していた頃は、それなりの大きさの機器が必要であったし、60分間の録音には 60分という同じ時間が必要だった。

CDからカセットテープの場合は機器がコンパクトになったものの、録音時間は同じ。

CDから MDへは 4倍速での録音が限度。

CDから CD-Rへは 24倍速くらいで約 10分間くらいだが、CDのドライブが 2台なければ、まずは CDの内容を記憶して、それを CD-Rに焼くという手順になるため 10分では終わらない。

ところが CDからメモリへのデータコピーは、ものの 3分もあれば終わってしまう。

そして、音質は劣化してしまうものの MP3形式にするとデータ容量が小さくなり、8MB程度のメモリに約 2000曲ほど蓄えることができる。

これからがデジタル機器の特筆すべき点だが、以前から抱いていた欲求が高い確率で満たされるのが嬉しい。

レコード、CDの時代からの願望、それは曲の連続再生だ。

レコードの時代は盤を多量にストックしておけるジュークボックス、CDの時代は複数枚を格納して連続再生が可能 CDチェンジャーというものがあったが、それらの機器には限界があった。

レコードや CDを大量に格納しようとすれば、それに比例して機器も大きくなるが、メモリに蓄積させるのであれば大きさはさして必要ない。

長距離のドライブをしている時、長時間に渡る徹夜マージャンをしている時など、何度も CDを交換するのは面倒だが、約 2000曲も格納されているのであれば 1曲 4分として 130時間以上も交換の必要がないし、メモリ容量を 16GBとかにすれば約 4000曲、260時間、つまりは 10日間以上も聴き続けられる訳だ。

便利なことこの上なく、とっても満足しているので保有していた CDだけでは飽き足らずに中古 CDを買ってきてはせっせとデータ保存していた。

その際、CDの売り場面積が驚くほど縮小されている事実を目の当たりにして愕然とした。

大手のチェーン店で、書籍からテレビゲーム、レンタル、中古販売を含めた CD、DVD、BDなどを扱っているが、新品、中古CDの販売コーナーは当初の 4分の 1程度になってしまい、その陳列棚すらスカスカした感じがする。

数年前から音楽 CDの出荷数が減り始めて歯止めがかからないと言われ、違法コピー、ダウンロード販売の影響が取り沙汰されていたが、そのダウンロード販売も減少傾向をたどり始めたということは、趣味が多様化したことと、お金を出してまで手に入れたい魅力的な楽曲が減少してしまったということだろう。

様々な思いに浸りながら気に入った中古 CDを手に入れてはデータの蓄積にはげんでいたのだが、何度か店に足を運んだ際にやっと気がついた。

レンタルすれば最新のものまですぐに入手でき、購入するよりも圧倒的に割安であると。

何とか時代に追いついた気になっていたが、頭の中は超アナログレコード 33回転のままで、骨董品に近づきつつあるため少々壊れかけているらしい・・・。

デジタル化の波

ワンプの話ワンプの話

独り言に何度も書いている狸顔の犬、名をワンプという。

ワンプのほし』 という絵本に描かれている平和な星に暮らす草食動物であり、犬を指す名前ではないのだが家にやってきた当時はまだ小学生だった息子さんが命名したのか、奥さん、または他の家族が命名したのか、犬は謎の生物と同じ名を持つことになってしまった訳である。

奥さんの知り合いの家で飼われている犬が子を産み、貰い手を探していたので生後間もない子犬を引き取ったらしい。

血統書などなく、単なる雑種なのだが実に可愛らしい顔をしている。

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その容姿、ワンプという名の響きからオスだと思われがちなのだが、実のところは家族に愛される箱入り娘なのである。

普段は家の庭にある小屋で飼われているが、冬の寒い時期になると家の玄関に入れてもらい、下に使い捨てカイロ入れてもらったポカポカと暖かいマットの上で丸まっている。

ワンプはとても大人しい犬で、ここに住んで二年以上になるが、数えるほどしか吠えたのを聞いたことがない。

誰に対しても激しく吠えたり威嚇するような吠え方をしないので、きっと番犬という役は務まっていないだろう。

最初は隣の家の敷地ギリギリの所から犬の姿を探し、目が合うと手を振ったりして交友を深めていたのだが、奥さんから敷地への立ち入りと犬との交流を許可されたので、今は散歩から帰ってくるたび、毎朝のように庭の犬小屋まで行って声をかけている。

旅行などで家を留守にするときは、奥さんの実家に犬を預けて出かけるのだが、
「散歩くらいなら連れて行ってあげるのに」
と、いつも 『お買い物日記』 担当者と話しをしていた。

それを奥さんに告げると
「それじゃあ」
ということになり、まずは慣れさせるために日課の散歩に同行させてもらうことになった。

触れたり散歩するようになって気づいたのだが、このワンプ、犬としては実に変わっている。

吠えないのは人に対してだけではなく、他の犬に吠えまくられてもツンとしており、まったく我関せずといった感じで無視するのである。

何度目かの散歩ではワンプが急に立ち止まり、一箇所をジーッと見ているので何かと思ったら、その視線の先で子猫が固まっていた。

犬と猫といえば仲が悪い代表格のような存在だと思うのだが、子猫はまだ犬の怖さを知らないのか、怯えて動けなくなったのか、身じろぎもせず目を見開いて見ており、ワンプも猫を追う訳でもなく、吠えかかる訳でもなくジーッと見つめていた。

そしてこのワンプ、犬だというのに尻尾をふって甘えるようなこともしない。

普通、これだけ仲良くなれば顔を見かけたりした際に尻尾を振って吠えるなり、愛想をふりまくなりするのが犬というものだが、ワンプはそばまで行っても横目でこちらをチラ見する程度で尻尾はユラリともしない。

そして、それは飼い主に対しても同様で、奥さんが近づいても声をかけても尻尾をふって甘えるようなことをしないのである。

散歩から帰ってきて少し遊ぶこともあれば、プイッと小屋に入ってしまうこともあり、奥さんは
「本当に気まぐれなんだから」
と困った顔をしている。

その性格や行動は、犬というよりも猫のように気まぐれだ。

何度か一緒に散歩してお互いにかなり慣れた昨日の 7月23日、隣は奥さんが遠くまで出かけ、ご主人は酒宴があって帰宅が遅くなるとのことで、夕方の散歩を任されることになった。

『お買い物日記』 担当者と自分は朝から楽しみにしていたのだが、問題は、そんな気まぐれワンプが一緒に散歩してくれるかどうかだ。

小さな雨粒がポツリポツリと落ちる決して良くないコンディションの中、恐る恐るワンプの首輪にリードを付け、少しだけ引いてみたところ、実にあっさりと小屋から出てトコトコと歩き出した。

いつもは真っ直ぐ散歩に行くのに、少しだけ家の玄関に立ち寄って奥さんが来ないのか確認していたが、人の気配がないことが分かると何かを吹っ切ったようにスタスタと歩き出した。

そしていつもより 500メートルほど短く近所を回って帰宅した。

我が家とワンプの飼い主ぬきでの初散歩。

これからも帰りが遅くなる日や一泊程度の外泊の際にはワンプを散歩に連れて行き、ちょっとだけ飼い主気分を味あわせてもらえそうである。

ワンプ

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過去の記憶

あれはいくつくらいの時の記憶だろう。

その日は午後から雪が降り、夜にはすっかり雪景色となって道路には幾筋もの自動車のタイヤの跡が伸びて大蛇のように見える。

両親が共稼ぎをしていたため仕事中に面倒を見てくれていた老夫婦の家からの帰りだろうか。

ひどく母親は不機嫌だった。

自転車の後ろの荷台から話しかけても返事はなく、ただガシガシとペダルを踏み、雪の中を少しよろけながら自転車は進む。

自分が何かやらかしてしまったので怒っているのか、職場で嫌なことがあって機嫌が悪いのか理由は分からないが、とにかく怒りのオーラが背中から立ちのぼっているように見える。

幼いながらも、こんな日は何を言っても無駄であり、まともに会話などしてくれないことを十分に思い知らされていた自分は、老夫婦の家から持ち帰ったオモチャを手に気を紛らわせていた。

自転車が揺れたのか手を滑らせたのか定かではないが、遊んでいたオモチャが手から離れて落下し、白く積もる雪に穴をあけた。

母親にとまってほしいと言ったが聞き入れられず、自転車は先へ先へと進んで雪にできた穴はどんどん遠くなる。

もう一度とまってくれるように言ったが母親は返事もしない。

たぶんお気に入りのオモチャだったのだろう、動いている自転車の荷台からズリズリと滑り落ちるように着地し、よろけてお尻をしこたま打った。

お尻が痛いやら、オモチャがなくなって悔しいやら、母親が口を聞いてくれないのが悲しいやらで大泣きしながら、それでも這いつくばって落としたオモチャを必死に探した。

異変に気づいて母親が引き返して来たが、一緒に探してくれる訳ではなく鬼のような顔をしたまま無言で腕をつかんで自転車に乗せようとする。

どうしてもオモチャを探したかったので必死に抵抗すると、母親の目がますます吊り上がり、それまでの倍以上の力で腕を引っ張って幼い体を振り回す。

そんな母親と家に帰るのが嫌だったのか、どうしてもオモチャを探したかったのか覚えていないが、自分も負けじと抵抗していた記憶がある。

その後、オモチャを探すことができたのか、どうやって帰ったのかまでの記憶はなく、ただ悲しくて泣きながら抵抗しているまでの記憶だ。

あれはいくつの時の記憶だろう。

そしてあの日、なぜ母親は機嫌が悪かったのだろう。

記憶

投票前日投票前日

いよいよ明日は参議院議員選挙の投開票日だ。

夜はテレビ各局とも速報番組を放送するので見事なくらいラテ欄がスッカスカになっている。

選挙の時は毎回であるが、自分が立候補している訳でもなく、また各党の選対責任者でも党本部の役員でもないのに、なぜだか結果が気になって深夜まで観てしまい、翌日は寝不足になるということを繰り返してしまう。

今回はそうならないよう、早めに切り上げて就寝するつもりではいるが、民主党にせよ自民党にせよ各党が掲げている勝敗ラインに届くか届かないかスレスレの状態で推移すれば、やはり気になって仕方ないので深い時間までテレビに付き合ってしまうかも知れない。

それにしても、今回の争点がすっかり消費税となってしまい、沖縄普天間基地の件や八ッ場ダムの件が小惑星イトカワよりも遠くに行ってしまった感が否めず、地元の人の心中を察すれば怒髪天を衝くのを通り越して落胆だけが残っているのではないかと思われる。

八ッ場ダムの件に関しては、民主党としても今さら工事再開とは言い難いだろうし、あくまでも計画中止という線で推し進めて地元住民の感情を逆なでするのも得策ではないだろうから、それを争点にすることは極力は避けたいだろう。

自民党にしても事業仕分けで無駄遣いの内容が一分とは言え国民の目にさらされ、今までの自民党政治がいかに無力で議員が無能だったか気づいた国民の前で、大きな意味を持たないことが明らかになって凍結状態にある巨大公共工事を再開させるとは大きな声で言い難いだろうし、自分たちが推し進めた計画であるからこそ、今さら無駄を省くために 「中止します」 とも言えないというジレンマを抱える。

普天間基地の件に関しても民主党は腫れ物に触るような扱いしかできないし、自民党は今さら県外・国外移転など主張できるはずもなく、その話題には触れない方が得策というものだ。

世の中を変える、仕組みを変えるというフレーズだと、こんな世の中にした自民党よりまだ民主党の方がマシと言われるのがオチだ。

では今の時代、何を争点として選挙戦に挑むのか。

ここで、格好の攻撃対象となる消費税に関することを菅総理がポロッと口走ってくれたものだから、一気に選挙の争点を消費税問題にロックオンしたに過ぎない。

ズルズルと自民党を始めとする野党のペースに引き込まれてしまった感のある民主党だが、実は今回の選挙で消費税など論点にすべきではないだろう。

民主党は無駄の削減が第一、実際に消費税率を変更するのは最短でも 3年後、ただし、その税率と税収の配分に関しては 1日や 2日で決められるものではないので今から議論を進めるべき、実効税率がどうなるか分からないが、まずはたたき台として 10%だったらどうなるかというところから話し合いを始めたいと言っているに過ぎない。

何も明日から消費税率が上がるとか、来年から上げるとかという話しではないのに、野党はあたかも今回の選挙で消費税の行方が決まるような口ぶりで選挙戦に挑み、頭の悪いマスコミはそれに乗せられてワーワー騒いでいる。

実に情けなく、実に幼稚な選挙戦。

少し前の雑感に書いたように、日本の危機的状況を救うのは、揚げ足取りで重箱の隅をつつくような消費税の話しではなく、この日本をどうやって再構築し、日本はどこに向かうべきなのかを明示することである。

日本を崩壊の危機から救ってくれそうな党はどこなのか、明るい未来を提示してくれる党はどこなのか、それをしっかりと見極めたいところだが、どの党も消費税のことばかり。

そんなことはどうでもいいと思っているので、どの党も将来について主張しないのであれば投票などしたくない。

いや、そんな中でも一番まともそうな政党を応援してやることにしようと思うので、やはり投票場に行って一票を投じてこよう。

どの党も信用できなければ白票でも入れるとするか。

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2008年2月の大阪から北海道への引越しの際に惜しみつつも捨てることになってしまったが、我が家にはずっとマサルの布団があった。

マサルの所有物でも何でもないのだが、いつもマサルが泊まっていくときに使っていた布団だったので、いつの間にか 『マサルの布団』 と命名されてしまったものだ。

過去に何度も書いたように、独身の頃から何度となく遊びにきては宿泊していくことを繰り返していたので、ついにはマサル専用の布団、専用のシーツ、枕カバーなど、寝具セットが出来あがってしまい、マサルが突然やってきても宿泊の準備は万端に整っている状態で常備されることとなった。

何の目的もなく、ただブラっと遊びに来ては泊まっていき、ロックのライブを二人で見に行っては泊まっていき、仕事の研修があるからと一週間ほど泊まっていったりを繰り返していたものだ。

当時はまだ若く、体力もヒマもあり、お互いの住む町が遠いとは言え車での移動が可能だったこともあって、そんな無謀とも言えることが出来ていたのだろうが、あれから何年もの時を経て若さも体力も失い、なんだかんだと忙しくしていてヒマもなく、決定的な要素としては互いの生活拠点に安易に移動不可能なほどの距離が生じてしまったため、もう何年も顔を合わすことなく、年賀状もこちらからの一方通行という状態になっている。

北海道に帰ってきたのだから、大阪、東京と離れて暮らしているより地元が近い分だけ少しは会いやすくなったとも思えるが、マサルは仕事が不規則だったり世間と同じタイミングで休んだりもできないので、お盆だから、正月だからと帰省できる訳でもなく、また、自分もそうだったように物理的な距離が遠くなるとなかなか帰省する気にもなれず、5年も 10年も実家に顔を出さないなどというのは当たり前になってしまうので、さっぱり北海道に帰ってくる気配がない。

さらに自分も気楽な仕事をしているがゆえに、交通機関や道路が混雑しているのを覚悟してまで、わざわざ盆や正月に帰省することもなく、『お買い物日記』 担当者の定期検査のついでとかに合わせて帰るようにしているので世間一般の行動パターンとは明らかに異なる。

それだけ余計に互いのタイミングが合わず、なかなか地元で合流することもできずにいるが、よく考えてみれば自由気ままに休むことのできる自分がマサルに合わせれば良いのではないかという思いに至り、マサルに帰省する気があるのであれば、それに同調して里帰りするのも悪くないのではないかと思う。

で、話を元に戻してマサルの布団だが、大阪で荷物の整理をしているときに捨てるべきか持ち帰るべきか大いに悩んだ。

しかし、『お買い物日記』 担当者の生まれ故郷に住むことになれば、そこはマサルと縁もゆかりもない土地であるため訪ねてくることもないだろうし、自分の生まれ故郷に住むことになれば、そこはマサルの生まれ故郷でもあり、実家もあるため専用の寝具を用意する必要はないだろう。

大阪の暑い夏を一度だけでもマサルに体験させてやろうと目論んでいたが、それが実現しないまま大阪を離れることになり、マサルの布団を捨ててしまうことになるのは心残りであったものの、可能な限り引越し荷物を圧縮するのを目標にしていたので心を鬼にして捨てることにした。

あれから 2年と 5カ月、捨てた布団は埋め立てられて朽ち果て、土へと返る過程にあるだろうか。

それとも焼却処分されて煙となり、偏西風に乗ってアメリカ大陸まで行っただろうか。

もしかすると地球を一周し、今、この空を漂っているだろうか。

マサルノコト