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デジタル化の波 Signal-3デジタル化の波 Signal-3

デジタル化の波 ~目次~

まだテレビを買い換えておらずアナログ電波を受信し続けている訳であるが、放送が終了するのが 2011年の 7月であるから、いよいよタイムリミットまで 1年余りとなってしまったということであり、いいかげんにデジタル薄型テレビの購入を真剣に検討せねばならない時期になってきているのだが、今はそれほどテレビを見るわけでもなく、録画しておくにしても HDD/DVDレコーダはデジタル放送を受信しているので大きな問題を抱えておらず、ついつい先延ばしになっているのが現状である。

この街に二軒ある家電量販店のうちの一軒が不採算店の整理統合を進めていることから撤退が決定し、7月の末日で閉店になるので現在はセール期間となっており、もしビックリするくらいの在庫処分価格になっているのであればそれを機会に買ってしまうのも悪くないと店内を見回してみたが、店頭価格から 5-10%の値引きがされている程度であり、もう一軒の量販店の方が安かったりするのを目の当たりにすると、競争に負けて撤退を余儀なくされるのも致し方ないと深く納得させられたりした。

タイムリミットが近づいてはいるものの、まだ一年以上も先であるし、年末には新製品の入れ替えがあってまた価格に大きな変動がある元の予想されるので焦って購入する必要はない。

それにしても、アナログ放送が終了してしまうことに関しては感慨も一入で、生まれてからずっとお世話になっていた方式が終わりを告げることに一抹の寂しさも感じたりする。

白黒でテレビ放送が開始され、カラー化、ステレオ化、二か国語放送、文字放送と進化してきたが、デジタル化に関しては進化ではなく生まれ変わりに等しいほどの変革だ。

デジタル化によって映像と音声だけではなく、様々な情報まで送受信可能になるし、電波の届かない地域であっても電話回線さえあればインターネット経由で視聴できるようになる。

アナログ電波で起こっていたノイズもなく、画面が乱れたりガサガサの映像になったり、映像が二重に見えるゴースト現象もないクリアな映像を見ることができるなどメリットも多い。

ただし、メリットだけではなくデメリットもあり、なんとかギリギリで電波を受信できていたような場所ではまったく映らなくなってしまうので、山間部やビルに囲まれた場所で映像が悪いながらも何とか見ていた家では受信することができなくなってしまう。

大阪で暮らしていた頃は阪神タイガースの試合がみたくて目が痛くなるのをこらえながらサンテレビをなんとか見たりしていたが、デジタル放送になると基地局を設けなくては受信できなくなる可能性が高い。

受信可能な電波であればノイズのないクリアな映像を楽しめるが、ノイズが多すぎる微弱な電波は受け付けることができず、単に真っ黒な画面が映し出されて「受信できない」旨のメッセージが表示されるだけになってしまうだろう。

それは何とも味気ないことか。

アナログ電波のようにザーッと砂の嵐にならず、真っ黒な画面。

中学生の頃、真夜中に放送されている 『砂の嵐』 という番組は、あんなコトやこんなコトがナニでアレで、子どもなどに見せられないようなもの凄い放送だと噂され、眠い目をこすりながら必死に睡魔と戦って夜中の 1時 2時まで起きていたことを思い出す。

これからの時代、そんなアナログな話しが子どもたちの間で噂されることもなくなるのだろう。

時代の流れとは言え、それはそれで何だかちょっと寂しい気がしてしまう。

デジタル化の波

何もしたくない日何もしたくない日

今日は午前中から法事のための来客があり、愛想笑いなんぞをしてみたり、とりとめのない話に耳を傾けたりしている段階で多少の疲れを覚えていたのだが、共にした昼食の席で同じ話しを何度も聞かされたり、さらなる愛想笑いで疲れが蓄積されたのに加え、日の高いうちからビールを勧められて飲んだりしたものだから雑感を書く気にならず、ボーっとパソコンの前に座ったりしていたが、せめて一行でも二行でも書いておこうと、やっとキーボードに手を置いたところである。

ここまで何もしたくないというのも珍しく、せめてテレビを見るとかゲームをするとか何かしらの暇つぶしにも興味は向かず、今はただ、床のジュウタンの模様の一箇所をただひたすら見つめながら思考のおもむくままにボーっとしていたい気分であり、何かを順序立てて考えたり構成を考えながら文章など書く能力も意志も完全に欠落している状態で、パソコン画面を見てはいるものの焦点が合っているんだか合っていないんだか、ときおり意識が 『はやぶさくん』 が行って来たイトカワの浮かぶ 23万km の彼方まですっ飛んでしまう。

おまけに昼に食べた蕎麦のつゆが家で食べるものより塩辛かったのが原因なのか、それともアルコールを摂取したからなのか、やたらとノドが乾くので何度も水を飲むのに立ち上がり、キッチンで料理の下準備をしている 『お買い物日記』 担当者と話をしてみたりするので余計に考えがまとまらず、さらには天ぷら蕎麦にしたのが悪かったらしく、なんだか胃もたれというか胸やけというかモヤモヤした状態が続いており、数年前だったらとっても美味しく食べていたはずなのに、一人前の天ぷらを口にしただけで胸やけしてしまうとは何とも情けないなどと意気消沈したりする。

そして今日は気温が上がって部屋の温度は 27度を超えており、北海道にしては暑いという領域に達しているので余計に思考が鈍っているものと思われ、普段であれば 『はやぶさくん』 とか 『参院選』 という 『お題』 さえ浮べば、人から 「長い!!」 と言われるほどダラダラと文章を書くことができるのに今日は考えるのすら面倒で、キッチンから香ってくるニンニクの臭いに胸やけも忘れて食欲をそそられたり、開け放った窓の外から聞こえてくる鳥の声に耳を傾けたりしてしまう。

という訳で、今日は何もしたくないので何を書こうかなぁ~と考えるまでを文章化してみたが、たまにはこんな日があっても良いのではないかと、相変わらずボーっとした頭で思ったりしているところである。

日本の終わり日本の終わり

05/08の雑感にも書いた通り、経済学者によれば日本はこのままの状況が続くとあと 4-5年で破綻するであろうことは現実的であり、そんなことは政治家も官僚も知っていることであるにもかかわらず、政治家は選挙が怖くて消費税の値上げを声高に主張できないし、官僚は保身のために無駄遣いを減らすことができずにいるため最悪のシナリオは着々と進んで破滅へのカウントダウンは確実に進んでいる。

菅総理大臣が誕生して多少なりとも軌道修正されることを願ってはいるが、日本の産業も衰退して技術力も失われ、韓国や中国、そのうちにインドやベトナムにも追い越されてグローバル経済下で競争力を失ったら法人税も目減りするのであるから国の予算は大量の赤字国債を発行しなければ成立しないと言うことになる。

そうなったら破綻までの時間はますます短くなり、延命の手段すらないだろう。

それにしても、なぜ日本はこのような状況になってしまったのか不思議でならず、どう考えても納得、理解できないことの一つとして毎年の国家予算が挙げられる。

無駄遣いが多いとかいうのはもちろんのことだが、それ以外にどうしても理解出来ないのはもっと低レベルな足し算、引き算の話しで単純化すれば小学生にでも分かりそうなことである。

車の販売台数は激減し、経済規模は 30年くらい前の水準まで縮小し、デフレで物価が上がらないどころか下がってしまい、人口も減り始めた今、なぜ国家予算だけは増え続けなければいけないのか。

今の日本が 30年前程度のものであれば、単純には予算だって 30年前と同額で差し支えないはずだと思うのは自分だけだろうか。

1980年の一般会計予算は 21兆円、特別会計予算 90兆円で合計 111兆円くらいであり、2010年度の一般92兆円、特別122兆円を合わせた 214兆円の半分くらいで済んでいる。

当時から無駄遣いはアホほどあっただろうから、なんだかんだで 100兆円もあれば足りるのではないかと思われる。

当時とは異なり、少子高齢化、格差が進んでいるので福祉や医療、社会保障などは予算が膨らんでも仕方がないとしても 120とか 130兆円で何とかしてもらいたい気分だ。

前述した通り車の数が減っているのだから、これ以上は道路拡張する必要性は低いだろうし、高速道路などは百年の計で考えなければならないと偉そうに言っても 100年後に自動車がタイヤを転がしながらアスファルトの上を走っている保証などどこにもなく、スイスイと空を飛んでいるかも知れないので必要性の判断は難しい。

とにかく徹底的に無駄を省いて必要最低限のことをやれば予算を半分くらいに出来そうだと思うのだがどうだろう。

このまま無能な政治家と志の低い官僚に国の将来を任せていたら日本が破綻するのは間違いなさそうだ。

だとしたら海外に脱出しようかとも思うが、日々の糧を日本に依存しているので自分だけ脱出してもクライアントが破綻したら報酬を得ることができなくなる。

円が紙くずになっても困らないようにユーロとかドルの外貨預金をしておくべきかも知れないとも思うし、今はユーロに対してもドルに対しても円が強く、安く外貨が買えるのでチャンスと言えばチャンスなのだが、経験がないのでちょっと不安だ。

おまけにアメリカの先行きだって安泰ではないだろうし、ヨーロッパ圏はもっとガタガタしている。

ここは中国の元かとも思うがバブルが弾けるのも時間の問題だろうから今は手を出しにくい。

何となく、ずっと落ち着いているオーストラリアドルなんか良さそうだが、全世界が不況になったら観光客も畜産、穀物の輸出量も減るだろうから安泰ではいられないだろう。

つまり、ネガティブに考えると何をしてても一緒ということになるし、そもそも外貨預金するほどの資産も持ち合わせていないという悲しい事実もあったりする。

来月には確実にあるであろう参議院選、普天間も政治とカネの問題も大事だとは思うが、日本経済を立て直してくれる政策を打ち出し、実行力のありそうな政党を支持しようかと考えている。

先祖返り先祖返り

SPA(Speciality Store Retailer of Private Label Apparel)とは、ユニクロにみられるような日本語では 『製造小売業』 と呼ばれるビジネスモデルであり、元々はアメリカの衣料品小売大手 GAPが開発した手法であるため、ファッション、アパレル業界に向けた用語だったが、企画から製造、販売までを垂直統合させることによってムダを省き、消費者のニーズに迅速に対応できるということから、多くの業態にその手法が取り入れられ、今では家具のニトリ、靴のABCマートなど多岐に渡っている。

大手スーパーが自主企画商品として発売しているPB(プライベートブランド)商品だって大きく広い目で見ると企画、製造、販売までしているのだから SPAの一種なのではないかと思われる。

庶民にとって品質の良いものを安く提供して頂けるのであればどんな手法のビジネスであれ、これほど嬉しいことはないし、事実として今のところは消費者も支持して商品が選ばれ、企業も利益を得られているのだから双方にとってプラスの結果をもたらしていると言えよう。

しかし、それはそれとして不思議に思うこともある。

企画、製造、販売をすべて手がけるというのはニュービジネスでも最先端のビジネスモデルでもなく、消費者に喜ばれるものを作りたいと思い、原材料の仕入れから製造、そして販売までを手がける昔ながらの豆腐屋さん、わらび餅屋さんなどと何ら変りなく、商売の先祖返りに他ならないのではないだろうか。

もっと原点に立ち返れば漁師さんが捕ってきた魚を自分で売る、農家の人が育てて採った野菜を自分で売るというのも同じことのように思う。

昔はそういうビジネス、商売ばかりだったのが効率を求めて分業化し、作る人、仕入れる人、それを運ぶ人、運ばれたものを売る人など、それぞれがビジネスとして独立していったはずだ。

そして、その小売がバラバラに存在するよりまとまっていた方が買う側にとって効率的であることから、百貨店やスーパーという形態が生まれ、様々な売り場を誘致したことから巨大化していったのだろう。

それが今、再び分裂した訳だが、それぞれの小売がひとつの商業施設に誘致され、例えばユニクロ、ニトリ、ABCマートが軒を連ねるようになり、ヤマダ電機とかビックカメラなどの家電量販店も、ドラッグストアもホームセンターまでもまとまったら再び巨大な百貨店とかスーパーとかが誕生することになるのだろうか。

食事にしてもそうだが、ラーメン店、寿司屋、洋食屋などバラバラに存在するより家族で行って、何でも好きなものを注文できたほうが便利だということでファミリーレストランが誕生したのだろうが、今は絶滅危惧種に向かってまっしぐらなのではないかと不安視されるほど業績が低迷しており、むしろ中華なら中華、牛丼なら牛丼、カレーならカレーの専門店に消費者が流れている。

この業態を SPAとは呼ばないが、客に好まれるであろう料理を考案し、それを作って販売する流れは製造小売業と同質のものであるような気がする。

この飲食店業界も数年先になると、やっぱり一箇所で様々なのものを食べられたほうが便利だということになり、再びファミリーレストランのような業態が脚光をあびたりするのだろうか。

離散集合を繰り返して組織やビジネスというのは大きくなっていくものであるが、はたしてこれから先、どんなビジネスが生まれてくるのだろう。

大は小をかねるか?-2大は小をかねるか?-2

何かの知識や技術があると神のように崇められ、まるで万能であるかのように思われることがあるものだ。

学校の先生もそうであり、人にものを教えるくらいだから何でも知っているであろうし、何でも知っていなければいけないような雰囲気にすらなる。

しかし、実際には教師といえども得意科目はあるだろうし、実は体育が苦手だとか音楽が苦手だとか美術などセンスのカケラもないという人だっているだろう。

毎日のように子どもと接しているのだから、当然のごとく子どもの扱いに慣れているだろうと思われているだろうし、さぞかし躾(しつけ)や教育に関しても完璧なのではないかと思われるだろうが、実際には教師の家庭に生まれた子のすべてが人格者になり、高度な知識を身に付けるかといえば決してそんなことはなく、不良になる子もいれば犯罪者になってしまう子どもだっている。

医者なども同様で専門分野以外の知識に乏しく、分野の異なる疾患に関しては手も足も出ないというケースはざらにある。

もちろん一般人よりも豊富な知識はあり、一通りの教育は受けているはずなので専門外のことに対して無知ではないだろうが、医者だからと言ってすべての病気を治してくれる訳ではない。

弁護士にしても得意分野というものがあり、夫婦間のトラブルに強かったり事件、事故関係が得意だったり IT分野ならお任せあれという人もいるだろう。

逆に苦手な分野もあるのは事実で、とくに IT分野は著作権が絡んだり専門用語、技術用語のハードルが高く敬遠されがちで、何年か前までは案件を引き受けてくれる優秀な弁護士というのは少なかった。

今は時代の流れからパソコンも普及し、一般の人でも用語を理解できるので若い弁護士であれば問題ないと思われるが、十数年前ともなると音楽の CDとパソコンで使う CD-ROMの違いから説明しなければいけなかったので大変だったのである。

ここまで挙げてきたのは俗に“先生”と呼ばれる職業だが、我々コンピュータ関連でも同じようなことが言える。

例えばこの雑感に何度も登場しているマサル、今は内勤になっているが数年前まではコンピュータ端末の修理のため現場を飛び回る仕事をしていた。

かかえる顧客が高齢であり、さらに離島に暮らしている場合もあったりするが、そんな技術者をめったに目にすることのない人たちは、ここぞとばかりに関係のないことまで依頼してくるらしい。

テレビの映りが悪い、CDで音飛びがする、やれ炊飯器だ冷蔵庫だと、様々な不満をぶちまけては修理してほしいと言ってくるのだそうだ。

彼らにしてみたらコンピュータみないな精密で複雑なものを修理できるのだから、テレビや冷蔵庫を直すなど造作もないことであると思い込んでいる。

しかし、構造から何からまったく異なる機器をチョチョイと修理できるはずもなく、断るのに一苦労するということだった。

ひるがえって自分。

パソコンを使う仕事をしていると、それに関わることは何でも知っていると思われているようだ。

その相談内容はパソコン本体が起動しなくなったということから急に動作が遅くなったという相談、アプリケーションの使い方からウイルスの駆除まで多岐に渡る。

この業界で何年も仕事をしているので一般の人より若干の知識はあるが、いままで述べてきたように決して万能ではない。

とくに初めて見るソフトウェアの使い方を聞かれても答えられるはずもなく、さらには画面を目にすることすらできない電話相談されても質問内容自体を理解することができないではないか。

設計などで使用される CADとか医療系のものなど、専門色の強いもの以外、パソコンのソフトなどというのは操作方法から使用される用語まで似たり寄ったりのものが多いので、ちょっと考えれば何とかなったりするものではあるが。

とりあえず、一緒に考えながら操作してみて使い方を導き出せてはいるので、何とか役には立てているものと思われるが、何でも知っていて当然とばかりに安易な質問をしてくるのだけはやめていただきたいものである。

人は決して万能になどなれはしないのだから。

大は小をかねるか?大は小をかねるか?

いよいよ本気でテレビの買い換えを検討せねばならない。

来年の 7月でアナログ放送は終了するし、今年の 12月でエコポイント制度も終了するとあっては、否が応でも買い換えなければならないし、どうせならば 12月までに購入するのがお得だと言えよう。

若い頃は朝起きてから寝るまで家にいるときはテレビを点けていたが、今はそれほど見たい番組もないし、少なくともパソコンに向かっている間は画面を見もしないのでエネルギーの無駄だと思い、積極的にスイッチを切ることにしている。

これは年齢とともにテレビに興味がなくなってきたことも一因ではあろうが、昔と違ってテレビがつまらなくなったことが要素の大部分を占めるだろう。

いくら視聴時間が短くなったとは言え、やはりテレビのない生活というのは考え難いのでデジタル化を進めなければいけない。

生活の中で大きなウエートを占めなくなったテレビなのだから、それほど高機能であったり大画面であったりする必要はなく、今のブラウン管テレビが横長になった程度のサイズで良いだろうと思っていたのだが、どうやらそういうものでもないらしい。

機能はさておき、画面だけは大きなものを選択すべきだと義兄から教えられた。

テレビ番組内の表示に使われる文字を読もうとしたり、デジタル放送特有の情報表示などを利用しようとした場合、小さな画面では文字が読みづらいとのことなのだ。

なるほど確かにそうかもしれない。

今でさえ野球の試合で画面の端に表示されているスコアを見ようとすると、ジリジリと尻で歩いてテレビに近づかなければいけない。

縦のサイズが同じで横に広がった程度の画面の大きさだと表示される文字は今よりも小さくなる可能性が高く、内容を把握するのに苦労すること必至だ。

やはりここは 『大は小を兼ねる』 という先人達が残した偉大なる助言に従い、予算と部屋の大きさの許す限り大きな画面を選択すべきであろうと考えてはいる。

しかし、デジタル革命によって製品寿命はどんどん短くなり、昔と違って家電を 10年も 15年も使うかと問われれば決してそんなことはなく、いまは高付加価値となっている 3D(3次元(飛び出す映像))テレビだって 3年もすればごく一般的なものとなり、映画のみならず地上波のテレビだって対応になっている可能性も否定できない。

そうなれば今年の新製品だろうと数年後には陳腐化し、買い替えの必要性に迫られることも十分に考えられるのではないだろうか。

そうであれば何も予算の上代で選択する必要はなく、そこそこの金額でそこそこのサイズのものを買っておけば良いということになる。

はてさてどうしたものか。

この小さな悩みは年末になるまで続いていくに違いない。

政治不信政治不信

政治が腐敗して実行力も政策立案能力も衰え、改革の意志も見えなくなった自民党が下野したのは当然のことであり、民主党への政権交代は起こるべくして起こったものであろうが、国民の期待とは裏腹に公約として掲げたものの中で、その原型を崩さず確実に実行、実現されたものはひとつもない。

沖縄米軍基地問題もしかり、高速道路無料化、子ども手当も中途半端に進みつつあって、何だかよく方向性が見えなくなってしまっている。

高速道路の無料化などは財源をどうするのか、民営化された道路公団は何を収入源とすべきなのかなどの問題も多く、実現できるはずがないというのが自民党を始め、マスコミや多くの国民がいだく感情だったが、
「い~や、できる」
と大見得を切って分厚い資料まで作成し、
「ほ~ら、こうすれば可能だ」
と言い切ったのは民主党だが今はすっかりトーンダウンしている。

子ども手当も財源が問題視され、実現困難との見方が大勢を占めたが、
「い~や、できる」
と言い張っていたのは民主党だ。

当初から給食費の不払いなどが社会問題化しつつあるのだから、高校の授業料無償化をするくらいなら金を国民にばらまくのではなく、小学校、中学校も給食費、授業料を無償化し、保育園、幼稚園の無料化も進めた方がマシだろうという見方もあった。

家庭に金を支給したところで給食費を払わない馬鹿は間違いなくいるだろうし、子供の生活や学習環境が豊かにならずギャンブルや飲食費に消える家庭も多いだろう。

それだったら間接的な支援に国費を回し、保育制度を充実させて待機児童の数を減らすとか学童保育まで充実、さらに低価格化や無料化を実現すべきだろうと思う。

そいう意見に耳を貸さず、何が何でも金を支給する方向で進んでいたはずなのに、ここに来て
「ちょっと全額支給は無理かも」
などと言い出し、先行き不透明になりつつある。

とにかく、大きな花火を打ち上げてみては上空でそれが花開かず、ショボショボのまま落下するという状態が何発も続き、一応は派手に見せている事業仕分けだけは国民の支持を得ているものの、実のところ中身を細かく精査すれば官僚にとって痛くも痒くもない部分だけが切り落とされて核となる部分は温存状態にあるというごまかし、イリュージョンショーを見せられているだけだ。

こんなことで支持率など上がるはずもなく、下降線の一途を辿るのは当たり前のことだが、これからも挽回のチャンスは何度もあると思われるのでこんなことでは政治不信になったりしない。

鳩山由紀夫、小沢一郎の両氏とも政治資金にまつわる巨額の不明瞭会計が問題視されているが、そんなことは今に始まったことではなく、自民党時代から何度も見せられてきたドタバタ劇であるし、今さらどうでもいいことだと思うので不信の原因にはならない。

マスコミや野党は小沢氏に対して説明責任を果たせと詰め寄るが、記者会見や国会の証人喚問をしたところで警察に話したこと以上のことを言うはずもなく、聞くだけ無駄だし時間と経費の無駄でもある。

政治家なんぞまともな神経や金銭感覚で務まるものではないだろうから、たとえ個人が何をしても国民のための仕事をして結果を出せば文句はない。

ここにきて政治への興味も関心も急速に薄れつつあるのは、この夏の参院選に向けた候補者の擁立に大きな原因がある。

何を考えているのか、いわゆる著名人、タレントとか元スポーツ選手の名が多数あがっている。

■ 民主党
長塚智広 (競輪選手)
岡部まり (タレント)
池谷幸雄 (体操選手)
岡崎友紀 (女優)
桂きん枝 (落語家)
庄野真代 (歌手)
谷 亮子 (柔道)
原田大二郎 (俳優)

■ 自民党
石井浩郎 (元プロ野球選手)
田島みわ (元女優(麻生真宮子))
堀内恒夫 (元プロ野球選手)
三原じゅん子 (女優)

■ 国民新党
西村 修 (プロレスラー)
敏いとう (歌手)

■ たちあがれ日本
中畑 清 (元プロ野球選手)

「国民を愚弄するのもいい加減にしろ!」
と声を最大ボリュームにして言ってやりたい。

今まではせっかくの休日なのだから遊びたいとか、ダラダラしていたいという気持ちを抑えて投票してきたが、こんな不真面目な選挙の投票などしたくはない。

こんな奴らへの報酬やら国会運営費、政党交付金に充てられる税金など払いたくもない。

こんな日本に住んでいたくもない。

今日現在までは頭の悪いことをしていない渡辺喜美氏のみんなの党か、地方自治体の首長らが結成した日本創新党にでも頑張ってもらい、国会を乗っとっていただきたいものである。

世も末世も末

ギリシャ問題に端を発する金融不安が大きな広がりを見せて世界同時株安、同時不況の様相を呈してきた昨今、比較的順調な経済指標を誇るオーストラリアや中国でさえどうなることか先が見えなくなってきているが、この事態がただでさえ景気の悪い日本に重大な影響を及ぼす事になるのは火を見るより明らかであり、もしかすると多くの経済学者が指摘している通り日本は一気に破滅への道をたどるのではないかという最悪のシナリオさえ頭をよぎってしまう。

一言でいってしまえば財政破綻であり、今のギリシャと同じだ。

ギリシャと異なり、さらに悪いのはEU加盟国でもユーロ圏でもないので破綻したところで誰も助けてなどくれない。

以前の韓国のようにIMFの管理下に置かれ、行政サービスから何まで徹底して削られて不便な生活を強いられることになるだろう。

どの経済学者、経済評論家の話しを聞いても一致しているのは、このままの状態が続けば 5年以内に日本は財政破綻するということであり、それを回避する唯一の策は増税しかないという点で、それは消費税 15%前後であろうという線においても意見が揃っている。

このままの状態、それは行政に無駄が多く支出ばかり増えて、少子化に歯止めがかからず人口が減る一方であるため税収も減り、企業はデフレを克服できず国際競争力も衰えて収益が悪化する結果、国が徴収する法人税も減り続けるという現状。

政治家が無能なのでアメリカやヨーロッパのように新エネルギーの創出とか環境産業の育成に向けた国策として方向性を示し、国民が一丸となって目標に向かい、将来の一大産業となることを見据えて投資を呼び込みヒト、モノ、カネを吸い寄せると言うビジョンもなく、中国のように南米やアフリカに資金援助や技術供与をして現エネルギーや資源を確保するという戦略もない。

日本の経済が破綻して円の価値が暴落してしまった場合、原油も天然ガスも高くて買えないので輸入は不可能、60%を依存している食料も買えず、家畜を飼育するための餌すら買えない。

つまり、乱暴な単純計算をすれば現人口の 40%しか日本国内で生活できないことになる。

金の価値が下がるということは悪性のハイパーインフレに陥るということであり、今は 100円で買えるものが 500円になったり 1000円になったりする訳で、生活物資や食料さえも手に入れるのが困難になるだろう。

金の価値が 1/10 になった場合、今日現在で 1バレル(約159リットル)当たり 75ドル(約7000円(1ドル=93円))の原油を約7万円で買わなければならないということだ。

財政が破綻して良いはずがないことは官僚も政治家も分かっている。

そして、日本が危機的状況にあることも分かっている。

それなのになぜ、どうして 「少なくとも4年間は消費税を上げない」 などと言っていられるのか不思議でならない。

これほど危機的な状況にありながら、なぜ日本がギリシャのようにならないのかは、1500兆円にも及ぶ金融資産があるからだと言われるが、それはあくまでも個人資産であって国の借金を肩代わりする担保ではないだろう。

五百三十六歩譲って 1500兆円のおかげだと認めたとしても、何を考えているのか預貯金が流動化しないから個人消費が上向かないと言い出し、どうやって金を使わせるかの議論をする始末。

国民が開き直り、あるいはヤケクソになって金を使い、資産が 1000兆円を割り込んだ途端に海外から信用不安の目で見られて国債が暴落し、前述した破綻の道へまっしぐらとなるだろう。

もう誰もが分かっているように、頭のおかしな官僚とのしがらみを断って無駄遣いを徹底的になくすと同時に公務員の数を減らして減給し、その上で消費税を 7%、10%、15%と 2年おきくらいに段階的に引き上げるしか日本を救う道はないのである。

それができる政治家は鳩山でもなければ谷垣でもなく、それができる政党は民主でも自民でもないように思う。

せっかくの政界再編、新党ブームなのだから、強烈なリーダーシップを発揮して一定期間であればたとえ独裁者的に主導しても構わないので日本を明るい未来に導いてくれる政治家、主導者が現れないだろうか。

味覚の変化味覚の変化

子供の頃は美味しいと思わなかったのに大人になると美味しく感じるというのはよく聞く話し。

小学生の頃からニンジン、ピーマン、玉ねぎ、長ねぎと、何でも食べて親からべた褒めされていた自分も決して好きではなかったのが山菜類だ。

まだフキなどは苦もなく食べられたが、ワラビとかゼンマイともなると自ら好んで手を出すこともなく、あってもなくても一向に構わない食材であり、出されれば心の中でブツブツと文句を言いながら仕方なしに口に入れるという程度のものだった。

それは大人になってからも変わらず、料理屋さんのメニューにあったとしても山菜系のものを注文することはなかったし、店の棚に並んでいても、あえて購入することもなかった。

時は巡って単なる大人から少しは円熟味を増したオッサンへと変貌を遂げ、スーパーで見かけた山菜ミックスのパック詰めを手にしたとき、もしかすると蕎麦にトッピングして山菜蕎麦として食べると美味しいのではなかろうかと思うに至り、意を決して購入してみて試したところ、これが予想を遥かに上回る美味しさで、いたく感激してしまったものである。

まだ試してはいないが、きっとタラの芽やフキのトウの天ぷらなんぞも、そのちょっとした苦味が美味しく感じたりするのだろう。

以前の雑感でも触れたように、今は頻繁にセロリを食べるようになった。

元々セロリは好きとか嫌いとかいう次元のものではなく、口に入れたことすらなかったので実際にはどんな味がするのか、それが自分が好む味なのかどうなのかすら分からなかったのである。

自分が子供の頃はセロリなどというハイカラな名前の野菜は近所の八百屋で売られていなかったし、焼き物や煮物がメインの食卓にセロリを必要とするようなオシャレな料理が乗ることすらなかったので、食する機会など皆無だったと言っていい。

大人になってから洋食やイタリアンを食べた際に食材としてセロリが含まれていたことはあっただろうが、相変わらず店で売られていても横目で見る程度であり、わざわざ購入してまで食べる必要性を感じていなかった。

ところがある日、何を思ったのか急にセロリがどんな味がする野菜なのか気になり、最悪の場合は捨てることも覚悟して見切り品となって極端にダンピングされているものを買ってみた。

そしてそれを恐る恐る口に入れてみるとこれが実に美味であり、それからというもの冷蔵庫の中には常にセロリが入っていることになった。

最近になって何かのテレビ番組で知ったのだが、子供のうちは、苦いもの、酸っぱいものに対して拒否反応を示すのが自然なのだそうだ。

それは、多くの場合において腐った物や毒素をもったものに酸味と苦味があり、間違ってそれを口に入れてしまったとしても吐き出して食べてしまわないようにという人間の本能であるらしい。

苦くても毒性のないものには、魚の内臓だったり香味野菜だったり山菜、ビールなどがある。

酸っぱくても腐っていないものには梅干や酢の物、柑橘類などがある。

これは繰り返し口にしたり教えられることで学習し、警戒心が薄れて食べられるようになる。

そして、酸味や苦味、甘味や旨味などの様々なパターンの組み合わせで子供の頃は食べられなかったものが美味しく感じたりするようになるらしい。

つまり、子供の頃は苦手でも大人になると美味しく感じるというのは当然のことであり、むしろいつまで経っても好き嫌いが激しいのは親の躾(しつけ)が悪かったか、教育がなっていなかったか、あるいは本人の学習能力が劣っているかのいずれかではないかという結論に達する。

そう思われないためにも好き嫌いはなくした方が賢明だと思われる。

してはいけないことしてはいけないこと

『してはいけないことは、できてはいけない』

これは、コンピュータ業界でよく言われることである。

ソフトウェアには不具合がつきものであり、それを完全に払拭することなど不可能に近いことで、どんなに動作検証をしたとしても世に流通して広く使われるようになると、思いもよらぬ手順で操作をする人が現れて検証では発見できなかった不具合が表面化することは多い。

そこで利用者から怒りのクレームがサポートセンターに寄せられたりするのであるが、その際に
「そういう操作はしないでください」
などと言えないのは当たり前だ。

一定の手順で問題が発生するのであれば、そいう操作ができない仕組みを施さなければならないのである。

ソフトウェアをインストールする際に使用許諾に同意するか否かの質問があり、[ 同意する ] というボタンをクリックしなければ先に進めないという手法は広く採用されているが、それと同じことで Bという作業をしてから Aを実行して不具合が発生するのであれば、Aが終わらない限り Bの作業ができてはいけない。

一社に限らず日本製品全体の品質まで問われる事態になりかねないトヨタ車の世界的なリコール問題にしてもそうで、自動車の床に敷くフロアマットが原因でアクセルが戻らなくなるとしても、トヨタは利用者に対して
「フロアマットは敷かないでください」
などと言えるはずもないだろう。

『してはいけないことは、できてはいけない』 という仕組みは、メカニックやソフトウェアであれば組み入れることが可能だが、現実社会ではなかなか難しい。

これから季節が進んで暑い時期になると水の事故なども増えてくると思われるが、毎年のように子供が 『立ち入り禁止』 区域に入って幼い命を失う事故があり、そのたびに管理者責任を問われたりもするが、『入ってはいけない所へは、入れてはいけない』 と要求するのは無理ではなかろうか。

立ち入ってはいけないのではなくて、立ち入れないようにすれば良いのは分かっていても、それが屋内であればドアに厳重な施錠をするなどの対策が可能だが、野外で広い土地ともなれば現実的には困難である。

危険区域を塀で囲もうが、有刺鉄線で取り囲もうが、子供などと言うのは好奇心の塊であるがゆえに、どんな手を使ってでも中に入ろうとするものだ。

塀は乗り越えるわ、有刺鉄線のすき間を狙うわと、大人が想像できないことをしでかす。

普通、大人であれば塀があれば入ってほしくないから塀があるのだと理解するし、その塀を乗り越えるなどというのはちょっとした犯罪者気分にならなければ実行できないものであるが、子供に対してそういう大人の常識は通用しない。

ちょっとした突起物でもあれば足をかけて塀をよじ登るだろうし、大人には小さく見える穴でもくぐり抜けてしまうので、莫大な予算を投じて危険区域を立派な塀で囲いでもしない限りは子供の侵入を防ぐのは無理だろう。

自殺の名所で自殺するなというのは難しく、『自殺してはいけないのなら、自殺できてはいけない』 と当てはめるのは無理がある。

包丁で人を切ってはいけないのだから、切れてはならない。

麻薬を使用してはいけないのだから、使用できてはならない。

人を殺してはいけないのだから、殺せてはならない。

授業中に騒いではいけないのだから、騒げてはならない。

電子レンジに猫を入れてはいけないのだから、入ってはならない。

・・・。

どれこもれも不可能なことばかりであり、しつけや教育の問題である。

最近では何でもかんでも管理者責任、製造責任などが問われるが、余程の欠陥を除き、使い方でなんとかなるものなら工夫して使えば良いし、自分のしつけや教育が悪いくせに、その責任を学校や管理者に押し付けるのはやめてもらえないだろうか。

このままだと世の中は、工夫することも考えることもできないバカばっかりになってしまう。