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雑感 なんとなく感じたこと雑感 なんとなく感じたこと

記憶 Memory-01記憶 Memory-01

先月、9年ぶりに帰省して母親と会ってきたが、実は久々の再会を楽しみにするより、ちょっとした恐怖心というか若干の抵抗というものがあった。

何せ会うのが 9年ぶりのことであり、ということは当たり前のことながら、お互いに 9年の歳を重ねたということであり、いったいどれだけ老け込んでしまっているのかと思えば顔を見るのがちょっと怖くもあり、憂鬱でもあったり。

しかし、長いこと顔を見せない親不孝をしていたのは自分であるからして、たとえどれだけ老け込んでヨボヨボの婆さんになっていようと現実として受け止めなければならないのであり、今さら帰省を取りやめることなどできるはずもないのだからと覚悟を決めて実家に乗り込んだ。

実際に会ってみると見た目は以前とさして変わらず、さすがに多少は老けた顔をしているものの、覚悟していたような老け込み方はしていなかったので少し安心したり拍子抜けしたりした。

見かけはさほど老化は進んでいたなかったものの、悲しいかな確実に老化は進んでいるようで、帰るたびに同じ話を何度も聞かされるのは仕方のないことか。

そこで 「それは前に聞いた」 とか 「何回も同じ話をするな」 と言うから喧嘩になるのであって、とりあえず聞いているふりをしていれば丸く収まるということを最近になって学習した自分は聞き役を 『お買い物日記』 担当者に任せてテレビを見たり持参したパソコンに向かったりしていた。

それでも時々は聞こえてくる会話に耳を傾けると自分が子供の頃、赤ん坊の頃のことにまで話が及んでいる。

聞くとはなしに聞こえてくる会話ではあるものの、思考は生まれたばかりの遥か以前の記憶をたどっていた。

たぶん、生を受けてから今までで最も古い記憶、それは目の前に鉄格子のような柵があり、その向こうで父親が床に広げた新聞をあぐらをかきながら読んでいる記憶。

そして、自分がいる場所のすぐ右側からは食器のカチャカチャいう音がする。

たぶん台所があると思われるのだが、位置関係からそれを見ることができない。

その鉄格子を越えて自由に動きたいとか、父親のそばに行きたいとか感じている訳ではなく、ただボ~っとその光景を眺めている記憶。

それは母親に言わせると、生まれたばかりのときに住んでいた官舎であり、台所のすぐ横にあった二階に上がるための階段のことではないかと。

台所仕事をしている時にチョロチョロと動き回ってストーブを触ったりしてはいけないと、ちょうど寸法が一緒だったベビーベッドの柵を外して階段の上り口に取り付け、その中に自分を入れておいたのだという。

まだ自力で階段を登ることはできず、ベビーベッドの柵も越えられないので中に入れておけば安心だったのだそうだ。

それをしていたのは生後半年くらいから一歳半くらいまでの間だったとのことで、母親は 「そんな小さい頃の記憶があるはずがない」 と疑うが、自分の脳にはハッキリとした映像と音声が刻み込まれているのである。

生まれ育った町に帰り、その陽射しを浴び、その空気を吸うと様々な記憶がよみがえってきた。

自分が歳をとって忘れてしまわないうちに、これから少しずつ書き留めておくことにしようと思う。

記憶

老いたるは老いたるは

09/08 の独り言に書いたように、最近は目の疲れが激しく、とうとう目薬に頼るような有り様だ。

7-8年くらい前までは視力の衰えなどそれほど感じておらず、むしろ目が悪いということが何であるかすら分らずに困っていたくらいだったが、今は人に聴かなくても 『見えない』 という状況がどういうことであるかを思い知らされるように経験しているし、パソコン画面から視線をずらすとなかなか焦点が合わなかったり、夕方になると目がかすんできたりするのも嫌と言うほど味わっている。

数年前から視力の衰えと疲労感は意識していたので毎朝のヨーグルトにブルーベリーを入れて食べたりしていたが、ここのところは目の老いる速度が効果を遥かに上回り、一日にブルーベリーを 326オンスくらい摂取しなければ間に合わないのではないかという勢いに迫っている。

そこで目薬の登場と相成ったわけであるが、それまで滅多に使ったことなどないので使用法が分からない。

いや、いくら何でも目薬の入れ方くらい分かっているのだが、一日に何度くらい使って良いものやら見当もつかないのである。

家にあった目薬は何年前に購入したものか分からないが、説明書はおろか外箱も捨ててしまっているので手がかりすらなく、ネットで調べてみても成分などは表記されているものの用法までは載っておらず、あちこちのページを閲覧していたら余計に目が疲れるという間抜けな結果になってしまった。

とりあえず夕方と就寝前の 2回くらい使ってみることにしたのだが、その効果はてき面で、点眼したとたんに視界が広がり、少し離れている物もくっきりとクリアに見える。

日に 2回も使用して良いのか悪いのか手探り状態で点眼していたが、幸か不幸か目薬の残量は思いのほか少なく、すぐに使い切ってしまったので薬局で新しいものを買い求めた。

その際に選択したのは、もちろんオッサン用の目薬であり、若者が 「キターーッ!」 とか叫ぶような刺激の強いものではないが、その説明書を熟読してみたところ、日に 6回、つまり 3時間に一回くらい使っても良いことが分かった。

ならばビクビクしながら点眼する必要などなく、ちょっと疲れたと思ったらドバドバと眼球に流し込んでやれば良いのであり、別に恐れる必要などないのである。

一日に 12時間もパソコン画面を見ていなければならないのは、それが商売であるにせよなかなか過酷なことであり、それを 20代から続けていて良く今まで持ちこたえたものだと思う。

外を歩いたりテレビを見たり、本を読んだりパソコンに向かったり、普通に生活するぶんにはまだメガネを必要とするほどではないので、変な話ではあるが目は丈夫なほうであったのだろう。

2001年の雑感にも書いたように警戒すべきは視力の低下よりも老眼だったのだが、恐ろしいことに確実に老化は我が眼球にもおよび、近くのものが見えなくなってしまったのである。

普通の生活をしていて唯一困ること、それは爪を切るのに時間がかかることである。

何せ近くが見えないものだから、おのずと爪を切る手と切られる手が徐々に目から離れていく。

しかし、あまり離れすぎると今度は遠くて細かな部分が認識できない。

ほとほと自分の目に愛想が尽きて困ってはいたのだが、できることならば最後の手段はとりたくなく、必死に目を見開いて指先を見つめ、怪我などしないように心がけながら爪を切っていたのだが、あまりにも時間がかかって爪切りを握る手が疲れでプルプルと震えだす始末であり、焦点を合わせるためにどんどん遠ざけていた手も伸びきってしまい、これ以上は遠くにできなくなる日も近いのではないかと思われる。

こうなればもう致し方ないだろうと、先日の買い物でとうとう覚悟を決めて老眼鏡を購入した。

自分がどの程度のものであるのかを試すために生まれて初めて老眼鏡をしてみたところ、全身に衝撃が走り、愕然とその場に立ち尽くしてしまった。

手元がもの凄く良く見える。

今まで郵便局や市役所、銀行などの書類を記入する場所に 「ご自由にお使いください」 と老眼鏡が設置されているのを見ても 「ふんっ」 と小馬鹿にしていたものだが、この衝撃を体験してしまうと馬鹿になどしていられない。

まだ書類を書く際に老眼鏡は必要ないが、近い将来、いや、もしかすると明日からでも必要になったりするのかも知れず、その場に設置されていることを感謝するかもしれない。

ついにオッサンの目薬、ついに老眼鏡。

急に衰えを実感できるようになった今、少しずつ自分の体をいたわりながら過ごしていこうと静かに思ったりしているところである。

夏の終わりに夏の終わりに

そろそろ本格的な秋に向かいつつある北海道。

急に寒くなるわけではなく、これから 10月の下旬くらいまで少しずつ、少しずつ日が短くなり、気温も低くなってくる。

大阪に住んでいた頃、何度となく 「春が短い」 とか 「秋が短い」 と 『管理人の独り言』 に書いたものだ。

実際、昨日まで寒かったと思ったら今日は急に暑いとか、昨日まで暑かったのに今日は急に寒いとかいうことがよくあった。

それは北海道の気候は気持ちの良い時期が長いため、余計に感じていたのかもしれない。

ゴールデンウイークあたりから 7月中旬までの 2カ月半、ギンギンに暑くなることもなくポカポカとした陽気に包まれる。

そして 8月中旬から 10月下旬までの 2カ月半、極端な残暑も寒さもなく暖かい太陽の光が射し、乾いた空気が大地を駆け抜ける。

もちろん、日によって多少は暑かったり寒かったりするが、全般的には気持ちの良い気候が続く。

本当に暑く感じる夏は 7月中旬から 8月中旬の約一カ月間だが、それでも真夏日になるのはほんの数日で、猛暑日になることなど数年に一度くらいなものだろう。

冬は 11月から 4月まで半年間も続くが、ずっと寒いわけでもずっと雪があるわけでもない。

以前から言っているように寒さに対しては厚着をするなり暖房するなりして対抗する手段がある。

ところが暑さに対しては薄着にも限度というものがあるし、さらには冷房の空気が苦手な自分にとっては抵抗のしようがない。

つまり自分は暑い場所より少しくらいは寒い場所のほうが生息に適している訳である。

いくら涼しさを好むとは言え、今年の気候は本当に異常だった。

7月は気象庁が異常気象と認定するくらいの日照不足と降雨量で、太陽の姿を見たことなどほんの数日しかない。

8月の後半は例年に近づいたものの、前半は曇りや雨の日が多かった。

お買い物日記』 担当者も独り言に書いているように、せっかく扇風機を準備したのに一度も使わないまま夏が終わってしまった。

寝苦しい夜に備えて冷凍庫にはアイスノンがキンキンに冷されているが、暑くて眠れない夜など皆無である。

いくら暑さに弱いとは言え、やっぱり夏は夏らしく、多少は暑くなってもらわなければイマイチ気分が盛り上がらない。

来年の夏は、異常気象と呼ばれない程度にしっかりと暑くなってもらいたいものである。

審判の日審判の日

審判の日は明日。

第45回衆議院選挙の投票日を迎える。

マスコミが騒ぐほど民主党の圧勝にはならないような気がするが、自民党が敗北するのだけは間違いないことだろう。

何年間も既得権益、私利私欲にまみれて国民不在の政治をしてきた罪に対する裁きを受ける。

今さら明るい未来を描いたマニフェストを用意して自民党なら、自民党だからできるなどと、うわ言のように連呼したところで誰も耳を貸すはずがない。

まるで決戦前から下野したかのごとく民主党批判を繰り返す選挙戦術は下品きわまりなく、窮鼠猫を噛みたくても噛めずにジタバタともがき、負け犬の遠吠えのようにギャーギャーわめいて声を嗄らしているのには哀れみさえ漂う。

ここまで徹底的に無残な姿をさらけ出すと若干の同情票が集まり、投票の当日になって有権者の意識に若干の変化が現れるかもしれないが、今の流れは強すぎて自民党に向かうのはごく僅かでしかないものと思われるので大勢に大きな影響を及ぼすことはないだろう。

民主党が主張する脱官僚は理想だが、政治家だけで国を動かすのも簡単なことではないのだから、上手に官僚を使いこなすか危機感を持たせることが重要だと思われる。

そういう意味からも政権交代は重要で、何も民主党が良いわけではないが、いつまでも自民党の顔色を見て仕事をし、自民党議員を手玉に取っていれば省庁は、国家公務員は安泰だという現実を打破することができる。

それが良いことか悪いことかは別にして、他国のように政権が変わったら官僚も総入れ替えになるくらいの大規模な人事異動をすれば良いのである。

自民党よりの官僚、民主党よりの官僚が総入れ替えになれば、次期選挙で敗北しないように、そして自分の身が可愛いのであればなおさら国を良くするように身を粉にして必死に働き、有権者の支持を得られるように頑張り抜くだろう。

くだらない税金の使い方をしたり、国民を馬鹿にするような政治や仕事をしていると次の選挙では政権交代となって議員はただの人となり、官僚も人事異動で首が飛ぶ。

官僚組織の中に自民派と民主派ができれば互いが互いを監視、悪く言えば足の引っ張り合いをするだろうから天下りや税金の無駄遣いも減るのではないか。

国民が納得し、支持が得られる政治、仕事をしなければ自分の立場がなくなるという緊張感を持てば必死に国を良くしようとするだろう。

そういう意味から有権者さえその気になれば、いつでも政権はひっくり返るのだと言うことを政治家や官僚に見せつけておかねばならない。

とりあえず今回は民主党政権になりそうな勢いだが、それが現実となったら私利私欲を捨てて必死に頑張っていただきたい。

来年には参議院選挙がある。

大きな緊張感とスピード感を持ってやらなければ国民は再び大きな決断をするだろう。

そうなれば衆院民主、参院自民という現在とはまったく逆のねじれ国会になってしまい、政権運営に大きな障害となって重くのしかかる。

政治家でいられること、第一党でいられること、官僚でいられ、税金から給料をもらえることは、すべて国民のための政治をし、国民のために仕事をしての結果だと言うことを胸に刻んでいただきたいものである。

想い出の居酒屋 其の玖想い出の居酒屋 其の玖

想い出の居酒屋 おしながき

その店に最後に行ったのは 1995年、実に 14年もの時が経過してしまっていたが、今まで数々の思い出を残したその店はどうなってしまったのか。

昨年の今日、つまり、2008年の 8月 22日は 『お買い物日記』 担当者の入院二日目で外泊許可がでた日で入院した場所は札幌、あの居酒屋のある町なので、晩御飯をかねて行ってみようと二人で話し合い、地下鉄に乗って最寄り駅に向かった。

その駅は通勤で使っていた駅なので通い慣れているし、駅構内も変わっておらず、出口から外に出て向かうべき方向も体が覚えている。

ところが目の前に広がっているのは記憶にない風景であり、離れていた 14年間で建物がすっかり建て替わって高層化が進んだようで、見える空の面積が極端に狭くなっている。

進んでいる方向に間違いはないはずなのだが、あまりにも町並みが変わってしまったので曲がるべき道が分からない。

店に行くには今進んでいる方向から右に曲がらなくてはいけないのだが、どこの角を曲がるべきか目標がないのである。

それでもそこは通いなれた道、目視に頼ることなく勘と感覚だけを頼りに先に進む。

ビル群を抜け、少し歩くと見慣れた光景が目の前に広がる。

そう、間違いなくあの店がある道だ。

この道をあと数百メートル進むと決して綺麗でもない小さな店があるはずだ。

しかし、ここまで来て急激に不安が胸いっぱいに広がる。

さんざん世話になった店とは言え、その業種は水商売、10年も 15年も続いている保証などあるはずがないし、加えてマスターとママは 『其の肆』 でも触れたようにママが 10歳以上も年上という夫婦であり、二人仲良く暮らしているとも限らない。

まして、この 15年の間にはバブル崩壊、ITバブル崩壊という未曾有の経済危機が日本を飲み込み、飲食店も大きなダメージを受けているので、それらを総合して勘案すれば、むしろ店が残っている確率のほうが極端に低いのではないかとさえ思える。

店に行くのが楽しみなので速く歩きたい気持ちと、もしものことを考えると気が重くて足取りまでも重く感じるような感覚とが入り交じった不思議な状態のまま歩を進める。

店の周りは変わっておらず、昔からあった建物や商店に明かりが灯っているが、目を凝らしてみても店があるはずの建物は薄暗く、看板に明かりが灯っておらず、赤提灯の明かりも見えない。

『お買い物日記』 担当者と二人、「やっぱり・・・」 と言いながら、それでも店がどうなっているのか確認だけはしておこうと近づいて行った。

すると暗い店の前でしゃがみこみ、鉢植えの花に水をやっている人の姿があり、なんとそれはママだった。

ほぼ同時にママもこちらに気づき、ただ呆然とこちらの顔をながめている。

「こんばんは」 と言うと、ママは店に飛び込み、大声で 「めずらしい人が来たよ~」 と叫んだ。

店が暗かったのは、まだ時間が早く仕込みの途中であったことと、折からの不況で少しでも節電しようという意識の表れだと言う。

店内は何ひとつ変わっておらず、マスターもにこやかに迎え入れてくれた。

そう、ここが心の故郷、どんなに小さくても決して綺麗ではなくても心から安心できる空間。

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そして、色んな想い出が詰まり、あふれかえりそうな小さな空間だ。

様々な想い出話に花を咲かせ、久しぶりの味を思う存分に楽しんだ。

そして、札幌に来た理由を話すと、実はママもガンにかかり、大きな手術と抗がん剤治療を受けたのだと言う。

「今の医学だったら大丈夫、絶対に治るよ」 と勇気づけられ、「手術だけで済んだら一カ月後くらいにくる。来なかったら抗がん剤治療を受けるんだと思って」 と言い残して店を後にし、それから丸一年が経過した今も顔を出していないので治療を受けたのだと分かっていてくれることだろう。

来週、遅まきながらの夏休みをとり、帰省した帰りに札幌に寄って一泊する。

そのとき、一年ぶりに店に寄ってくるつもりだ。

店とのつながりが現在進行形になったので、もう想い出の居酒屋ではなくなってしまった。

これの続き、『想い出の居酒屋 其の拾』 を書くのはいつの日になることだろう。

想い出の居酒屋

老化の弊害老化の弊害

08/01の雑感にボケ度合いが進んでいることを書き、それでも二人同時にボケたなら、それはそれで良いのではないか的な意味合いで文章を結んでいるが、果たして本当にそうなのだろうか。

あれからまだ二週間しか経過していないのに、すでに色んなことを何度も忘れ、二人の頭の上には大きなクエスチョンマークがボヨンボヨンと浮かんでは消えたりしている。

今日の昼食は冷麺を食べたのだが、去年は冷麺を食べたのか食べていないのか。

お買い物日記』 担当者の入院などもあり、ただでさえ衰えた記憶力に忙しさが加わって食事のことなど余計に記憶が薄れている。

第一、2-3日前の食事を思い出すのでさえ時間がかかり、脳をフル回転させなければ記憶を引き出すことができないのに、一年前に何を食べていたかなど 1psec(ピコ秒) の記憶もあるはずもなく、逆立ちしたってヘッドバンギングしたって思い出せるはずがないのである。

どんなに記憶力が悪くなろうと、仕事や生活に支障がなければかまわないだろう。

仕事でプログラム命令のスペルを忘れても調べたら分かることだし、約束ごとも手帳にメモするとか携帯電話にでも登録しておけば忘れることはない。

普通に生活していて一週間前の記憶が定かではなくても、それが原因で大きな問題が発生することはないだろう。

しかし、普通ではない状態、たとえば何らかの事件に巻き込まれて犯人と疑われた場合、アリバイを聞かれたところで何も思い出せない可能性が高い。

3日前、一週間前なら油汗を 6ガロンほど流して考えれば何とか思い出せるかもしれないが、一カ月前ともなるとお手上げ状態だ。

おまけに自分の場合は自宅にこもりっきりで散歩とちょっとした買い物の荷物持ちくらいしか外出しない。

薄暗い警察の取調室、ネズミ色したスチール製の机に裸電球のスタンド、金属製の灰皿にはタバコの吸殻が山のようになっており、ネクタイを緩め、くわえタバコの刑事が脚を組んで
「一カ月前の 7月 15日、どこで何をした!?」
などという昭和の刑事ドラマ丸出しのシチュエーションで迫られても何も思い出すことはできないだろう。

「ずっと家の中にいました」
「外出はしていません」
「何を食べたのかも思い出せません」

そもそも家から出ることがないので、ずっと外出していないことを証明してくれるのは 『お買い物日記』 担当者のみであり、第三者がアリバイを証明してくれることなど有り得ない。

仕事に関する e-mail の送受信記録は残っているだろうが、何せデジタルな情報ゆえに本人ではなくても取り扱い可能なのが弱い点だ。

つまり、間違いなく自分が文章を作成し、その時間にみずからの手によって送信したことなど証明できない。

これで記憶が鮮明であれば、昼食は何時から始めて何を食べ、見ていたテレビでは何を伝えており、その時どんな会話をしたのかを事細かに説明し、なおかつそれが 『お買い物日記』 担当者の記憶と寸分の違いもなければ少しは信憑性も増すというものだ。

しかし、まことに残念ながらボケボケ二人組みでは、そんなことは望むべくもなく・・・。

自分の周りで妙な事件などが起こらないことを願うばかりである。

ヒロシマナガサキヒロシマナガサキ

いつもは広島と長崎なのに、この時期は急にカタカナのヒロシマとナガサキになってしまう。

急に遠い土地、遠い国になってしまうような妙な感覚だ。

正直なところ、いつも考えている訳ではないし、いつも心の中にある訳でもない。

日本に原爆が投下されたその日。

その悲惨さや、その後の苦しみは想像以上のものがあるだろう。

その被爆体験はこの時期にテレビなどを通して伝えられるので急激に身近なものとなり、その破壊力や恐ろしさ、その後の土地の荒廃や人心の荒廃、長く続く後遺症など、二度と起こってはいけないことだと実感できる。

本来であれば、一度たりとも起こってはいけないことが日本の広島と長崎で起こってしまったのは、とても不幸なことであるし残念なことである。

核廃絶を唯一の被爆国である日本が世界に向けて訴えなければいけないことも理解しているし、それができるのは日本しかないことも分かってはいる。

そして、世界に向けて核廃絶を訴えるのは広島や長崎の人だけではなく、日本人全員の共通認識となるのが望ましいだろう。

しかしこの時期、広島と長崎がヒロシマとナガサキになってしまう感がどうしても否めない。

それはマスコミにも責任があるのかもしれないが、その地に住む個人の回想をいくら取り上げてもあまり意味がないように思う。

愛する人、愛する家族、大切な友達、思い出の品々を失ってしまった悲しみは良く分かる。

しかし、それは原爆ではなくても喪うものであり、それが病気であっても事故であっても火災であっても悲しみに差がある訳ではない。

原爆ではなくても、あの戦争で命を奪われた人は大勢いる。

戦争が所詮は人の殺し合いである以上、原爆がどれほどの大量殺りく兵器であったとしても仕方のないことだ。

原爆の罪は多くの民間人を殺害したことと、何年間も大地や水を汚染して多くの人に健康被害を与えたこと。

争点を整理して情報を発信しなければ相手に伝わるはずがない。

父親を喪った、子供を喪った、家族すべてを喪ったという話が前面に出て、その後に式典を見せられても、どこか冷めた思いがしてしまうのは自分だけだろうか。

誤解を恐れずに論ずれば、隣の家の法要を見ているようで、どうしても他人事になってしまう。

当人は亡き家族を思い出したりして悲しみもわいてくるだろうが、故人と深い親交でもないかぎりは隣の家で法要がいとなまれていても悲しみを共有することはない。

もっと上手に話を伝え、理解を深めなければいけないのにヒロシマやナガサキの人たちが最後に必ず使う捨て台詞。
「ここで暮らしている者にしか分からない」
「体験した者でなければ分からない」

その意識を捨てなければ。

そして内向きの話ではなく、外に向かって話しをしなければ。

原爆の何が罪なのか私心を捨てて考え、問い直さなければ日本自体が一枚岩になれないような気がする。


こんな時期にこんなことを考えてしまう自分が間違っており、心が冷たいのだろうか。

老化の進行度合い老化の進行度合い

少し前の雑感に書いたように著しく老化は進行している。

最近はそれに益々加速度がついてきたようで、昨夜食べたものすらなかなか思い出せない。

どちらか一方だけの症状であれば今後に関して大きな不安を抱いたり、相手に対して腹が立ったりするかもしれないが、自分も 『お買い物日記』 担当者も同じなので二人でボケボケ状態になって暮らしている。

昨日の晩御飯であればまだ何とか思い出せるが、二日前、三日前となるともうダメだ。

二人そろって頭の上に大きなクエスチョンマークを浮かべてボ~っと一点を見つめたりしている。

最近は何を食べても美味しいので、きっとその時も
「うんまーーい!」
感嘆し、二人そろって
「おいしいね」
と言いながら食べているはずだ。

ところが、その美味しかったものが何なのかがハッキリしない。

頭の中に霧がかかったようにモヤモヤしており、それがイライラするのと同時に底知れぬ恐怖が襲いかかってくる。

「本格的にボケてきたのではないだろうか?」
「このまま記憶が薄れて何も思い出せなくなるのではないだろうか?」
「そもそも物事を記憶することができなくなるのではないだろうか?」

そんな焦りを感じつつも、必死になって思い出そうとする。

人によって記憶を掘り起こすプロセスは異なるだろうが、自分の場合はボンヤリとした色が手がかりになることが多い。

黄色っぽいイメージであれば、卵焼き、オムレツ、オムライス。

赤っぽいイメージであればケチャップを使った料理。

ところが、この歳になると食べ物全般が茶色っぽい。

赤とか緑とかの華々しい色彩はサラダで食べる生野菜くらいなもので、そんな記憶をたどっても主菜にはたどりつかない。

茶色のイメージを増幅させてもなかなか食べたものにたどり着かず、煮物、煮魚、キンピラ、炒り煮とか漠然とした感じで脳が空回りする。

それでも食い意地が張っているのか、食べ物に関しては思い出すのを断念したことはなく、回転の鈍い脳を酷使して何とか思い出すに至るところまでは事態が進む。


問題なのは芸能人、それもカタカナ交じりだったりすると限りなくお手上げ状態だ。

『お買い物日記』 担当者との会話で誰かの名前を言おうとして思い出せず、話を中断して考えるのだが、二人とも 「う~む」 と腕組みしたまま固まっている時間が長い。

しばしの間、あーでもない、こーでもないと二人で手がかりを探し、やっとの思いで脳の奥底からひねり出したときには万歳三唱したくなるほどの喜びだ。

ところが、どこをどうやってひねっても、逆立ちして頭を振っても思い出せないこともある。

途中で思い出すのを諦め、思考も停止しているはずなのに、トイレの中、歯磨きの最中、入浴中など、2-3日後にひょんなタイミングで思い出したりすることもあるのが不思議だ。

しかし残念ながら、それを思い出したときには、もともと何の会話をしていたのか忘れている・・・。


なんだか惨憺たる状況であり、このまま脳がスカスカになってしまいそうではあるが、その進行が同じペースであって二人同時にボケたら介護に追われることもないと思われるので、ある意味では幸せなことなのかもしれないなどと思ったりしている今日この頃である。

味の違い味の違い

義姉に言われて思い出したのだが、こちらの牛乳は味が濃い。

同じ脂肪分のものでも大阪で飲んでいたものとは不思議に味が異なり、こちらの方がコクがあって美味しいような気がする。

もう何年も前のことになるが、父方の親戚が北海道を訪れ、ホテルの朝食で出された牛乳があまりにも美味しく、それまで嫌いで飲まなかった小学生の息子までもが何杯もおかわりをし、親としてはそれが恥ずかしいやら好き嫌いが直ったのが嬉しいやらで、とても複雑な思いがすると話していたのを思い出す。

東京に帰ってからも市販の牛乳を飲むようにはなったが、どうしても北海道の味が忘れられないと、普通にスーパーで売っている市販の牛乳をわざわざ宅配のクール便で送ったことも何度かあったという。

同じメーカーで同じブランド、同じ脂肪分であれば何も変わりようがないと思うのだが、北海道の工場から出荷されて店に並んでいる牛乳はなぜか美味しいのは間違いないと思われる。


味が違うのはビールも同じだ。

ビール党ではないので偉そうには語れないし、微妙な味の差など理解できない自分だが、居酒屋で飲む生ジョッキの味は明らかに異なることを以前、大阪から北海道に出張し、夜の街に繰り出したときに如実に感じたものだ。

たぶん缶ビールとかであれば味に大きな差はないのだろうが、ジョッキで出されるそれはビールに詳しくない自分が飲んでも濃さ、香り、コクの違いがハッキリと分かるくらいに味が違う。


加工品だけではなく食材の味も確実に違う。

魚介類でいえばホタテ貝やイカ、サーモンにタラ、サンマもサケも味も濃い。

野菜の味でいえばアスパラにジャガイモ、ニンジンにナスにキュウリ、カボチャやホウレン草まで何でもしっかり味がする。

これだけ食材の味がしっかりとしていれば、さほど調味料を使わなくても美味しく食べられるというものだが、なぜだか北国の味付けは濃い。

北海道に限らず味が濃いのは田舎料理の特徴ではあるが、これだけ素材が美味しいのだから、その素材の味を十分に生かす調理をすれば良いのに地元の人は何も考えずに調理しているのだから贅沢なことである。


自分たちも一度北海道を離れて戻ってきたから余計に実感しているだけで、ずっと住み続けていたら食材の美味しさを実感することもなかっただろうし、何も考えずに調理もしていたに違いない。

食べ物が美味しいことを実感できるので一度この地を離れ、遠くで暮らすことができたことにも感謝しなければいけないだろう。


最大の難点、それは何でも美味しくてバクバク食べてしまい、体重が増加してもなかなか抑制が効かないことくらいか。

カモの親子がいた風景カモの親子がいた風景

それは 7月 2日の朝のこと。

散歩の途中、公園内を流れる小川の淵をあるいていると、遠くにカモの泳ぐ姿があった。

その公園の中央にある池、散歩の第二コースにしている桜並木の横を流れる小川、水車のある散策路と平行する小川、そして家から徒歩 2分くらいのところにある小川と、あちらこちらにカモの姿があるので実はそれほど珍しいことではなく、単に
「ああ、カモがいるな」
くらいにしか思っていなかったのだが、何やら小さくてホワホワしたものが周りをチョロチョロしているような気がする。

数年前まで視力 2.0を誇った我が眼球も、老化の影響からか、はたまた若いころより酷使したツケがまわってきてしまったのか、最近になって悪化の一途をたどっており、今では乱視混じりの 0.5くらいになってしまっているため、何か動いているような気はするものの、それが何であるかハッキリ見てとることができない。

そこでメガネをかけたら自分よりも良く見える 『お買い物日記』 担当者に
「カモの周りに何かいるのは子ガモかな?」
と聞いてみると、しばし川面をじっと見つめ、
「本当だ!子ガモだ!」
と嬉しそうに指差している。

慌てて近づき驚かせてはいけないと、はやる気持ちを抑えて普段どおりの歩幅で先に進む。

いよいよ近づいて子ガモたちの姿がハッキリ見えるようになると、その可愛らしさに思わず頬が緩んでしまい、二人そろってニタ~っとしたまま立ち止まり、しばしその姿を眺めていた。

その姿は実に愛くるしく、絵やぬいぐるみでは表現できないであろう温かみと情緒にあふれ、ただ泳いでいる姿を見るだけで自然に笑顔が込み上げて来る。

それが 10羽も集まって親ガモの後ろに連なり、時には親を追い越してみたり、時には川べりの草をつついてみたりして集団から遅れてしまい、慌てて追いかけたりする姿が実に微笑ましい。

まだ朝食をとる前の散歩であり、仕事を始めなければいけないこともあって、後ろ髪を引かれるような思いはあったが、それを断ち切るようにして帰宅したものの、頭の中は子ガモのことで一杯になり、ときどき手を休めては朝の光景を思い出してニンマリしたりしていたが、とうとう我慢できず夕方になってから買い物ついでに公園へ

朝見たときは下流に向かって進んでいたので、公園の川の最下流から上流に向かって探してみたが、朝の場所まで行っても見当たらない。

いくら小さな川とはいえ、途中には落差 4-50センチの滝もあり、あの小さな子ガモが登っていけるはずがない。

どこに行ってしまったのだろうと思いつつも上流に向かって進むと、ずいぶん上のほうにカモの一家を発見した。

あの小さな体でよくもこんな所まで来れたものだと感心し、爺さんが孫にでも接するように子ガモたちを褒め称えてやりたくなったりしながら元気に動き回る姿をじーっと眺め、できれば何も考えずいつまでもそのまま見ていたかったのだが、夕方からのタイムサービス目当てで買い物に出たことを思い出し、またまた引かれる後ろ髪をバッサリと断ち切って公園を後にした。

翌日、カモの親子と再会できるかもしれないと、期待に胸を膨らませて散歩に出かけたが残念ながら姿を確認することはできなかった。

そして、その日の夕方、『お買い物日記』 担当者に誘われて再び公園へ。

例によって下流から見てみようと近づくと、ビデオカメラを持ったオッサンが大声で
「カモだ!ほら!カモの親子がいるよー!」
と子供を呼び寄せ、
「早く!ほらカモだ!」
と自分の母親らしき人も呼ぶのだが、彼女は足が悪そうで、杖をつきながらゆっくり歩いて近づこうとしているのに
「早く!早く!」
と手招きまでして実にうるさい。

野生のカモなのだから遠くからそっと見守ってやればいいのに川のすぐわきまで行くものだから、カモの親子は迷惑そうに上流にむかったり下流に向かったりと右往左往している。

ひとしきりギャーギャー騒いだ人間の一家はカモを見るのにも飽きたようで、その場を立ち去ったことでやっと平穏なときが訪れた。

カモたちも安心したようで、川から草むらに上がって親ガモは毛づくろいをし、子ガモたちはおのおのが勝手に、それでも親ガモからあまり遠く離れないところで元気に動き回っていたのだが、その動きがだんだん鈍くなり、一羽、また一羽と動かなくなっていく。

どうやら遊び疲れたのと暖かい初夏の日差しが気持ち良いのとで眠気を我慢できないらしい。

すべての子ガモが眠ったのを確認すると、親ガモまで丸くなって眠ってしまった。

動き回っているカモであれば何時間でも見ていられるが、さすがに眠って動かないカモを見ていても仕方ないので、起こさないようにそーっとその場を後にした。

しかし、残念ながらその姿を見たのはそれが最後になってしまった。

あれからずっと悪天候が続き、散歩に出かけられる日も少なかったが、公園を通るたびにカモの姿を探しているのに一度も会えていない。

「変な二人がじーっと見てて気持ち悪い」
と、引っ越したのでなければ良いが・・・。

野生の生き物の成長は早い。

もう子ガモは成鳥と見分けがつかないくらいになっているだろうが、決して変な二人じゃないので来年もこの地に来て、孫ガモを見せてほしいとできれば会ってお願いしておきたいと思っている。