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雑感 なんとなく感じたこと雑感 なんとなく感じたこと

言葉の変遷 2言葉の変遷 2

言葉の変遷 ~目次~

テレビで妙な言葉遣いが広まっていることを伝えていた。

会社で上司なり先輩なりに
「これコピーして」
などと言われると、
「ありがとうございます」
と返事をするのだそうだ。

教科書どおりの返しであれば
「かしこまりました」
と言うのが正しいのだろうが、確かにこれでは硬すぎるような気がしないでもないし、『かしこまりました』 などと、それこそかしこまった言い方をするのも妙にこっ恥ずかしいものと思われる。

しかし、『ありがとうございます』 はあまりにも的はずれな返事だ。

なぜ頼まれごとをされて礼を言わねばならないのか。

私だって忙しいのに雑用なんか頼んでくれて 『ありがとうございます』、他にも新人がいるのに私めなんぞを選んでいただいて 『ありがとうございます』 という嫌味だと受け取られかねない危険性を微妙にはらんでいるような気がするのは自分の性格がひどく歪んでいるからかもしれないが。

そこは素直に
「はい」
と返事すれば良いだろうし、良いお返事をするのが照れるのであれば、
「何枚コピーしましょうか」
とか言って場を繋げば良いだろう。

最近、特に気になっているのは
「~じゃないですか」
「~じゃないですけど」
というやつだ。

言葉を重んじるはずの民放はおろか NHKのアナウンサーまで使い始めており、それが耳障りで仕方がない。

前者は
「明日はひな祭りじゃないですか」
などと使うのだが、普通に
「明日はひな祭りですね」
と言えば済む話であるし、
「明日はひな祭りですけど、家で何かされますか?」
と続ければ良いだけのことである。

それをわざわざ
「明日はひな祭りじゃないですか」
と相手にふっておいて
「はい」
とか
「そうですね」
と返事をさせた上で
「家で何かされますか?」
と会話を続けることが実に多い。

中には
「私ってぇ、家事とかできないじゃないですかぁ」
とか言うアホもいたりするので、テレビ画面に向かって大声で
「そんなこと聞かれても知らんっ!!」
と言ってやりたくなる衝動を抑え切れない。

後者は本当であれば肯定すべきところを否定的に言うパターンで、
「後悔先に立たずじゃないですけどぉ」
「あの時あーすれば良かったとか思ってるんですよぉ」
と、否定したくせに後に続くのは前文を肯定する文言だ。

なぜ素直に
「後悔先に立たずで、あの時は・・・」
とか
「後悔先に立たずと言いますけど、私も以前に・・・」
と話せないのか。

これらは芸能人が使っていたものが若い人に広まったものだが、いつまでも若いふりをしたいオッサンやオバチャンにまで感染しつつあるのが恐ろしい。

今までも、私って、俺ってまだまだ若いでしょと痛々しさ丸出しの中年が若者に迎合して妙な言葉や文化が根付いてしまったことは多い。

きっと、この
「~じゃないですか」
「~じゃないですけど」
という訳の分からない日本語も定着し、肯定文なのか否定文なのかの判断を困難極まりないものにし、日本語習得を目指す海外の人の脳を混乱させることだろう。

言葉の変遷

真性雑感 第四版真性雑感 第四版

真性雑感 ~目次~

例によって、これといった題材がないので今回も思いつくまま気の向くままに。

今月で北海道に帰ってきて丸 5年が経過し、ようやくこの街にも根付いてきた感じではあるが、超高齢となった母親をいつまで一人にしておくかという問題もあり、いつ、どのタイミングでどうすべきかと考えなくもないが、やはりまだ老人と同居するような生活は送れないだろうと思ったりしている。

なにせ母親ときたら、夜の 7時や 8時には床につき、朝の 3時や 4時に起床する生活をしており、一つ屋根の下で生活するのは困難極まりないと言わざるを得ない。

夜の 7時と言えば仕事が一段落し、ブログ更新の準備にとりかかる頃であり、8時から晩御飯というのが今の生活で、それから海外ドラマなどを観て歯磨き洗顔、その日のニュースを見ながらブログ更新し、就寝は 0時を過ぎてからというのが日常だ。

時計の針を動かすように、グリっと 5時間ほど生活パターンをずらせば同居も可能かもしれないが、NHKの 7時のニュースを見ながらブログ更新して就寝という生活パターンを思い描くことすらできない。

昨年の帰省の際に、まだまだ同居する気はないと伝えてあるので母親も期待などしていないと思われるが、その日が来るのが一日でも先延ばしになれば良いと心底願っている。

多少は足腰が弱ってきたものの、実年齢よりはるかに若く見える風貌と、いつまでもよく聞こえる耳、あまり低下しない記憶力、鋼鉄のような胃袋の持ち主であるので当分は一人で生活することが可能だろう。

その若さと記憶力の維持には食生活が大きく関わっているのではないかと想像している。

朝食は、ほぼ 365日間いつも鮭を焼いて食べており、残すのは骨だけで皮もすべて胃に押し込んでしまう。

それを何十年も続けているからか医者からカルシウム不足を指摘されたこともないし、青魚の半分程度とは言え DHAも多く含まれるので視力や記憶力の衰えも表れないのかも知れない。

そこで、少しは母親を見習って我が家でも鮭を食べようと思ってはいるが、何せ朝はパン食なものだから毎日の食卓に登場させることは難しく、どうしたものかと考えているところだ。

早いものでもうすぐ 2月も終りとなる。

少しずつ日が長くなり、もう少しで朝の陽の光で朝刊が読めそうな感じだ。

今は今季最後と思われる寒波が来襲して異常に寒い日が続いているが、これが終われば春は目の前だろう。

ここ数年、北海道にとっての春である 5月くらいから秋まで大葉とバジルを育てているが、今年は大葉をやめてバジルを 2鉢にする計画だ。

大葉は割りと安価で手に入るし、バジルより育ちが悪いので育て甲斐がない。

バジルは生でパスタにしてもよし、天日干しにして乾燥させ、料理に使うもよしという便利さに加え、乾燥ハーブ類は購入すると割りと高額なのにも関わらず、自分で乾燥させたものより風味が劣るので、一度栽培するとやめられないのである。

そして、我が家では毎週パスタを食べるし、朝のパンでバジルを使うことも多く、それ以外にもトマト煮系の料理も好きなのでバジルの消費量が多い。

去年の収穫で乾燥させたバジルはまだあるものの、少し遠慮しながら使っているのも事実なので、今季は倍の量を育てて乾燥バジルも大量に作り、一年を通して遠慮なくふんだんに使おうという魂胆だ。

それと併せて料理にはパセリも使うことが多いので、今年はイタリアンパセリも育ててみようと思っている。

数年前、地元の農家さんが育てたイタリアンパセリを直売場で購入したところ、生のまま 3-4カ月は冷蔵庫で保存できたので、収穫量によっては年をまたいで食べられるかもしれない。

と、ここまで書いて上述した 『ふんだん』 という言葉が気になった。

もちろん、沢山、たっぷり、多くという意味は知って使っているが、どのような漢字を使うのか思い浮かばなかったので調べてみると、『ふんだん』 は 『ふんだん』 であって漢字はないようだ。

絶え間なく続くことを意味する漢語 『不断(ふだん)』 が音変化したものらしく、途切れることなく続くということから物が多くあるという意味になったらしい。

またほんの少しだけ賢くなれたところで真性雑感は終わりである。

真性雑感

浮揚感浮揚感

日本の、そして一部の地域や業界では、いわゆるアベノミクスと呼ばれる自民党安倍政権の景気浮揚策に乗じて投資を拡大して春間近と期待しているようだが、北海道の、それも中心都市ではない田舎に暮らしていると何の実感もなく、浮揚感が地方に波及する前に景気減速におちいるということが過去に何度も繰り返されている。

それでも景気回復を期待するというのは悪いことではない。

『気』 というくらいで、何となく良い方向に進みそうだとか、良いことがありそうだという期待や気分になるだけでも好景気への入り口なのかもしれないし、実際に財布の紐が緩むというものだ。

今どきの財布にヒモなどついているはずもないが、相変わらず財布の紐が硬いとか緩むとかいう表現を使うのは他に適切な表現がないからなのかと思ったら、同義語に財布の口が固い、緩いというのもあった。

どんな財布にもお金を出し入れする口はあるので、現代においては財布の口とするのが良いのではないかと一人で思って納得したりしている。

それはさておき、アベノミクスなどとカタカナで表そうと、実のところは以前までの自民党型バラマキ政策と大きな違いはなく、あいかわらず公共事業に何兆円とか真水で何兆円などと自慢気に中身を披露しているが、真水で何兆円だろうと官僚が支配する財団、公益法人、外郭団体に数兆円が流れ、下流である民間まで流れ着く頃には半分以下に目減りしているに違いない。

景気浮揚策の一つが規制緩和だとか言いつつ、ネット通販の裁判で負けた市販薬の扱いに関して法律で規制しようと動いてみたり、言っていることとやっていることがバラバラなのでイマイチ安倍ちゃんは信用できず、結局は業界団体と、それに寄生する族議員、官僚の呪縛から逃れられなさそうだ。

従来とは異なる手法だの何だの言ったところで、カンフル剤の種類を替えたに過ぎず、世の中の仕組みを根本から組み立て直すというほどの治療ではないので、今回の補正予算で多少は景気が上向いたとしても長続きするとは思えない。

また、過去の轍は踏まないのが賢いやりかたであるにも関わらず、少し景気が持ち直して参院選で勝利すれば完全自民党型政治に逆戻りするばかりか、日銀は金融緩和を控え、消費税の増税の追い打ちで一気に景気が減速するという典型的なパターンになるような予感がする。

バブル景気とまでは言わないが、本格的に景気が回復し、それが持続可能と判断されるまで増税を待つべきだと思うが、財政難を理由に待ったなしで消費税率を引き上げてしまうことだろう。

浮揚感とは、文字通り浮いた感じなので、そもそも不安定な状態でもある。

高速エレベーターの下りで少し体が軽くなったような、絶叫マシンのフリーフォールで一気に落下して体が浮いたような、胴上げされて頂点に達した時のような、気持ちが良いようで実はとてつもなく不安定な状態が長く続くはずはない。

我が世の春を謳歌してきた中国ですら景気に陰りが見え始めたし、信じられないほどの金が動いていたドバイも総崩れした今、シェールガス特需に湧くアメリカの景気回復に賭けるしかない世界情勢ではあるが、日本はその一翼を担うことができるだろうか。

この浮揚感は安倍政権による参議院選挙までの繋ぎ政策であって、そこで大勝すれば官僚の言いなりとなって一気に緊縮財政、増税へと舵を切りそうな気がする。

そんなことをすれば、また政権交代が起こるという恐怖感は今の自民党にはないだろう。

何せ民主党があのザマで、第三極もまとまりきれずにいるのだから。

偏見偏見

育った環境が要因かもしれないが、子供の頃から差別意識や偏見を持つということが一切なく、人が一部の人をなぜ忌み嫌うのか理解することができなかった。

また、北海道は歴史が浅く、大多数の人が移民であるため雑多な文化が入り混じっており、それぞれを尊重するためか、逆に確固たる信念がないためか、文化や作法が違ったとしてもさほど気にすることもない。

それゆえに北海道の人は大らかだと言ってもらえるが、実際には人のことなどどうでも良いだけかもしれないのである。

そんな環境で育ち、そんな環境で暮らしていたので大阪に越して生活を始めた時、周りの人が出身地や家柄に一方ならぬ興味やこだわりを持っていることに驚いてしまった。

どこの誰は、何々家の末えいだとか、どこの誰の何代目だとか、何々藩のどこそこの誰の子孫だとか、自分にはどうでも良い情報を丁寧に教えてくれる。

北海道に住んでいると身近に感じたことなどない部落差別も明らかに残っているようで、誰それはどこそこの出身だとか、先祖はあそこからあっちに逃げた誰だとか、これまた自分には興味のないことを知らせてくれるのだ。

しかし、そもそも差別意識などなく、子供の頃からそういった情報に触れていない自分にとっては誰の先祖がどうだとか、どこそこの出身だとか教えられても、それが意味するところを理解できないので、ポッカ~ン状態となってしまい、それを自慢気に話していた相手は 「ありゃ」 という表情になり、こいつに言っても無駄だと悟ることになる。

障害者に偏見の目を向ける人もいるが、それも理解できない。

自分から積極的に関わる気も福祉に興味がある訳でもないが、だからと言って拒絶する気も否定する気もなく、普通に生き、普通に生活している人としか思っていない。

通った中学校には障害者の通う特別学級が併設されており、校舎を分けることなく同じ建物の同じ廊下に 1組から 6組、そして特別学級の 1クラスが並んでいた。

廊下を歩けば障害者とも会うし、トイレだって洗面所だって体育館だって一緒に使うが、自分も含めて誰も障害者をからかったり、いじめたり、悪口や陰口を言うことはなかったので、成長の過程で偏見や差別の対象にならなかったのだろう。

日本の最北端、稚内(わっかない)市に父方の祖父母が暮らしていたので、夏休みと冬休みにはいつも遊びに行っていた。

今は引き上げてしまったが、当時はアメリカとソ連(当時(現ロシア))が冷戦時代だったこともあり、今の沖縄のように米軍基地や施設が各所に点在する町で、港には軍艦や戦艦も配備されていたものだ。

町では兵隊さんが闊歩し、肌の白いのから黒いのから黄色いのまで様々な人が普通に生活していたのを見ていたので、人種に対する偏見も芽生えなかったのかも知れない。

また、生まれ育った小さな町には他国の生徒が通う学校もなかったので、そもそも接点がなく、差別する機会すらなかったというのが正確なところだ。

したがって、在日韓国人や中国人を差別したり、偏見を持っている人が多いことに驚かされた。

これが一定以上の年齢の人であれば以前の日本の教育水準からして無理もないことかもしれないが、自分よりかなり年下であっても偏見の目を持つ人が多い。

今でこそ韓流スターブーム、K-POPブームなどがあったので差別意識もかなり減っただろうが、つい最近まで自分にとっては驚くほどの人が中国、韓国の人を嫌っていた。

人を嫌うのも悪口を言うのも、それ相当のエネルギーを必要とするので、自分には差別意識などなくて良かったと思っていたのだが・・・。

中国での反日暴動、尖閣諸島をめぐる対応、反日教育、韓国での反日デモや竹島問題を伝える報道を見るにつけ、中国と韓国に対する今までなかった感情が、それも決して褒められたものではない感情、差別意識や偏見が自分の中に生まれつつある。

今までなかっただけに、そんな感情を持つことが実に悲しい。

犬たちのいる風景 2013冬犬たちのいる風景 2013冬

隣に住んでいたワンプが引っ越したのは去年の7月

近所に住む犬のテリーくんは、まだワンプが帰ってくると思っているのか、しばらくの間は散歩の途中に犬小屋のあった場所まで入っていって様子をうかがったりしていたらしく、昨年の暮れまで雪に足あとを残していた。

雪が積もってからは足あとが続くことはなくなったが、奥に進むことができないだけであり、ワンプのことを忘れた訳ではないと思われる。

テリーくんは何年も前に飼われていてすでに死んでしまった友だちのことも覚えていて、いつも散歩の途中に犬が飼われていた場所を見に行くのだそうだ。

北海道に帰ってきてもうすぐ丸五年、その間に近所に住んでいた三匹の顔見知りの犬が死んでしまったが、テリーくんは何匹の友だちを失ったのだろう。

映画 『わさお』 によく似た大型犬をたまに見かける。

もちろん勝手にわさおと呼んでいるが、その犬が神出鬼没で、朝の散歩の途中、買い物の途中、様々な場所を歩いているのを目撃する。

我が家も月曜から金曜まで違うコースを散歩するので神出鬼没だと思われているかも知れないが、きっと飼い主であるお父さんは無理にリードを引っ張ることなく、わさおの気の向くままに歩かせているのだろう。

散歩の第二、第五コースで歩く小学校の裏の遊歩道、それと並行して流れる小川の向こうに飼われている雑種犬も可愛らしいやつだ。

独り言に川向うの犬と書いている犬のことだが、実は間近に見たことはない。

場所は川向うの家の、さらに庭の向こう側、約 50メートルほど離れているだろうか。

毛の長いモッサリした犬で、いつも寝てばかりいるのだが、たまに体を起こして飼われている家の中をじっと見たりしている。

きっと餌をもらえる時間か散歩に連れて行ってもらえる時間が近く、飼い主が出てくるのを待っているのだろう。

お~いと呼びかけても、なかなかこちらを見てもらえなかったが、最近になってやっと匂いを覚えてくれたのか、パンパンと手を叩くと寝ていてもむっくりと顔を上げてこちらを見るようになった。

近所の動物病院で飼われているゴールデンリトリバーは子どもたちの人気者だ。

毎朝散歩しているのだが、いつも通学途中の子どもたちが周りをかこみ、一団となって歩く。

犬も子どもたちを友だちだと思っているのか、一緒に歩道橋を渡り、そのまま学校に向かって行くのだが、どこまで一緒に歩いているのか定かではない。

金曜の散歩道である第五コースの途中、アパートなのに犬が飼われているところがあった。

一般的にアパートは生き物を飼うことはできないと思うのだが、そこに住んでいた茶色の柴犬は他の住人からも可愛がられているようだった。

飼い主が一階に住んでいたので玄関ドアの横に犬小屋を置いていた。

いつも散歩時間が重なるようで、小屋の前にいる姿を数回、散歩している姿を数回しか見たことがなかったのだが、飼い主のお母さんと仲良くしているのが印象的だった。

ここまですべて過去形で書いてきたのは、その犬が、いや、飼い主さんも含めて引っ越してしまったらしいのである。

昨日の散歩は 『お買い物日記』 担当者の頭痛、悪天候、朝マックのためのコース変更などが重なり、昨年末以来、実に一カ月以上ぶりの第五コースだったのだが、その間に犬小屋ごと消えてしまっていた。

黒柴リュウくんのことはいつも独り言に書いているが、今は一番お気に入りの犬である。

リュウくんと飼い主のお母さんとの関係も実に微笑ましい。

最初、リュウくんは交差点に立って子どもたちの通学を見守ったりはしておらず、近くにある寺の広い敷地内を散歩して帰るだけだった。

お母さんはあまり足が良くないらしく、スタスタは歩けないのでゆっくりと散歩するが、リュウくんはリードをぐいぐい引っ張ることもせず、同じ歩調で一緒に歩く。

寺の境内ではリードをはずしてもらってお母さんと遊ぶ。

お母さんは石や小枝を拾い、面倒くさそうにあさっての方向に投げるのだが、リュウくんは必死に走って追いかけ、咥えて戻ってくる。

そのチョコマカと走る姿も本当に可愛い。

いつもの交差点には数人の大人が立って子どもたちが道路を渡るのを見守っているのだが、リュウくんのお母さんはそこで立ち話しをするようになって話す時間がどんどん長くなり、ついには毎朝の日課となってしまったのである。

そしてリュウくんも一緒に子どもたちを見守るようになり、ついにはユニフォームまで作ってもらったという訳だ。

実にキリッとした精悍な顔で、すくっと大地を踏みしめながら堂々と子どもたちを見守ってはいるのだが、リュウくん、実は豆柴なので背丈は大人のひざ下までしかなかったりするのであった。

嫌われる食べ物嫌われる食べ物

両親共稼ぎだったため近所の年寄りに育てられたのが幸いしたのか、子供の頃から割りと好き嫌いがなく、普通の子供が嫌うものも平気で食べられたので給食も残すことなく先生に叱られることもなかった。

直近のものは見つからなかったが、2005年時点での子どもの嫌いな食べ物ランキングがあったので見てみると、10年前の 1995年と様変わりしている。

順位19952005
1ピーマンニガウリ
2ナスレバーなど
3ニンジンナス
4レバーなどピーマン
5セロリトマト
6トマト梅干し
7シイタケ肉の脂身
8タマネギアスパラガス
9グリーンピースセロリ
10ネギ、長ネギグリーンピース
ニガウリ(ゴーヤ)、ピーマンなどは苦味成分が多いので嫌われるのは仕方がない。

人間は良くできたもので、苦味、酸味は毒を持つ物、腐敗が進んだ物に多く含まれる成分であるため、子供のうちは本能的に拒絶するよう遺伝子に組み込まれているのだそうだ。

したがって、ある程度の年齢までは食べられなくて当然であり、それが自然なので無理に食べさせる必要はないのかも知れない。

それでも中学や高校になっても嫌いだと言っているのは考えものであり、大人になっても食べられないのは恥ずかしく、甘やかされて育ったのだと非難されても致し方無いだろう。

自分はといえば、なぜだか小さな頃からピーマンも平気だった。

今は美味しく食べているニガウリなど全国に流通し始めたのは近年のことであり、子供の頃は見たことも聞いたこともなかったが、あのゴジラの皮膚のような外見と強烈な苦味を持つ食材であることから、さすがに食べることができなかっただろうと思われる。

2005年の 2位にランクインしているレバーは大人になっても食べられない人が多いが、これも小さな頃から食べることができたし、割りと好きな食材だった。

3位のナスは 1995年も 2位にランクされているが、苦味も酸味もなく、強い香りもないのに安定的に子供たちから嫌われるのは何故なのだろう。

良く火を通せばトロトロに甘く、たまらない美味しさなのに不思議だ。

これも子供の頃から食べられたので嫌われる理由が分からない。

5位のトマトを最近になって食べられるようになったのは 『お買い物日記』 担当者だ。

嫌いと言うより子供の頃に食べ過ぎて見るのも嫌になっていたらしいのだが、最近は加熱しても生でも美味しそうに食べているので完全に克服したのだろう。

自分は小さな頃から何の問題もなく食べている。

6位の梅干しは前述した通り、子供の苦手な酸味を多く含むので嫌われても当然だが、自分は子供の頃から食べられた。

7位にランクインしている肉の脂身は、さすがの自分もちょっと苦手だった。

今となっては赤身だけの肉などモソモソしているだけで、適度に脂身がある肉のほうが美味しく食べられるが、子供の頃はあのブニュっとした歯ざわりと口の中にモワッと広がる味が好きではなく、まだ上手に使えない箸をグリグリさせながら脂身を分離させようとして親に叱られものである。

8位のアスパラも子供の頃から好きなので嫌われる理由が分からない。

苦味も酸味もないのにどうして食べるのが嫌なのだろう。

9位のセロリも割りと近年のものであり、子供の頃は近所の店でお目にかかれる野菜ではなかったが、あの独特の風味は受け付けなかったのではないかと思われる。

実際、セロリを食べるようになったのは約 5年前に北海道に帰ってきてからで、たまたま近所のスーパーの見切り品で安価に販売されていたものを、抵抗なく食べることができるか試しに買ってみたのが最初だ。

パスタやピザのソースにも使われているので、初めて食べるものではないだろうが、実際に買って生で食すのは生まれて初めてのことであり、かなりドキドキしたのを覚えている。

食べてみると実に美味しく、あの独特の風味もかえって好きなくらいであり、今は常備野菜としていつも冷蔵庫に保存されるようになった。

10位のグリーンピースも子供の頃から何の抵抗もなく食べているので過去から現在に至るまで、ずっと子供たちに嫌われている理由が今ひとつ分からない。

それにしても昔は嫌われ者の王道で、1995年当時も 8位、10位にランクインしているネギ類の姿が 2005年に消えたのはどうしてなのだろう。

品種改良で苦味や香りが抑えられたのか、そもそも好き嫌いの多い親世代が料理に使わなくなったのか。

何でも食べられるのは、それだけ楽しみも多く様々な味、食感、のどごしを経験できることであり、嫌いな食べ物が多い人より得をしているように思う。

幼少のころ、上手にしつけてくれて好き嫌いなく育ててくれた老夫婦に感謝したいと思う。

アクシデント2アクシデント2

何と・・・。

昨年の12/01(土)に続いてのアクシデントである。

前回とは異なるアクシデントではあるが・・・。

午後から草稿した雑感を保存していなかったようだ。

更新しようと原稿のファイルを見ると一行も書かれていない。

・・・。

まあ良い。

長いこと続けていればこんなこともあるだろう。

今週のネタは来週にまわすことにしようと思う。

自分解体新書 - 14 -自分解体新書 - 14 -

自分解体新書 ~目次~

■ 目 その2

視力の低下が著しい。

それは日々衰え、先月と今月では明らかに見え方が異なるほどだ。

以前にも書いたように距離によって見え方が異なるため、ひとつのメガネですべてを補うことができず、用途によって使い分けなければいけないという不便さに閉口している。

相変わらず相当な距離があれば遠くは見えるが少し離れたところは見えない、その乱視用のメガネではパソコン画面が見づらく、老眼のため手元も見づらい。

パソコン用のメガネでは遠くも手元も見えない。

したがって、テレビを見る用、パソコン画面を見る用、手元を見るための老眼鏡と 3種類も必要としている状況だ。

そして、視力の低下に伴ってパソコン用のメガネが合わなくなったので先週の木曜日に検眼と注文を済ませてきた。

一年に一度は眼科に行き、眼圧、眼底、その他もろもろの検査を受けているので緑内障、白内障の心配は今のところないが、目の老化は避けられない。

死ぬまで目は見える状態でいたいので大切に使わなければと思ってはいるものの、仕事がらパソコン画面を見ない訳にはいかないし、スマホのゲームも止められないし、海外ドラマを見るのも止めることができないのが困ったものだ。

■ 爪

以前から季節によって爪が伸びる速さが異なると感じており、それは 『お買い物日記』 担当者も同意見だったのだが、事実、夏場より冬は伸びが遅い。

夏は二週間に一度爪を切っているが、冬場は三週間に一度になる。

ネットで調べてみたところ、爪の伸びる速さは季節や食生活によって変動し、爪周りの皮膚に十分水分があって潤っていると速くなるとのことなので、冬の乾燥時期に指先もカサカサになっているのも伸びが遅くなる要因なのだろう。

個人差はあるが、通常は 1日 0.1ミリ程度伸び、夏季は 10%~15%伸びが早いのだそうだ。

実は昨年末、左手親指の爪の端が縦に割れ、それを放置していたら布に引っ掛けて一部が欠損し、血が流れ出てしまった。

それでも病院に行くことなく放置していると、欠けた部分から今度は横にヒビが入り、それがどんどん長くなってきて何かに引っ掛けると剥がれてしまいそうな怖さがある。

今も病院には行かず、絆創膏を貼って何かに引っかかるのを防止しているが、この冬場の伸びが遅い時期なので、横に入ったヒビが先端に来るまでは少し時間がかかりそうだ。

足の爪は必要か。

唐突ではあるが、たまにそう思うことがある。

歩いたり走ったりするために足の指自体は必要だと思うが、そこに爪がある必要性を感じないのは自分だけだろうか。

手の爪であれば細かな作業をする時、シールなどを剥がす時、人によっては楽器を演奏する時、女性が攻撃を加える際の武器として必要だが、足の爪に課せられた役目など皆無だろう。

むしろ切るのが面倒であるし、場合によっては水虫の温床となってしまうこともあるので無くなってしまったほうが人類のためなのではないだろうか。

自分解体新書

新春新春

謹賀新年であって賀正であって迎春で Happy New Yearである。

そんな訳で今年最初の雑感だが、年の初めから世の中にブツブツ文句をいうのも何であるし、くどくどしたことを書くのも何なので、ここはユルっと始めて今年一年もダラダラと続けていこうと考えているところだ。

年末になっても実感がなく、大晦日になり紅白が始まってやっと年の終わりを実感したと思ったら新年になり、少しだけ正月気分を味わったと思ったら三箇日が終わってもう五日になってしまい、今年も残すところ 361日になった。

一日は神社に初詣をした以外は年末年始に録画したテレビ番組をひたすら観ており、たまに気分なおしに海外ドラマを観たりして時間が過ぎた。

二日は家から一歩も出ることなく、朝から晩まで録画したテレビ番組と海外ドラマをずっと見続け、やっと年末分まで消化完了。

三日は起床すると少し雪が積もっていたので除雪をしたが、外の空気を吸ったのはその時だけで、やはり新春特番の録画と海外ドラマを観て過ごす。

四日になって今年最初の買い物に出かけ、残りの休みを過ごせるだけの食材を調達して空になった冷蔵庫に詰める。

五日の今日は少し早く目覚めたので朝一番で除雪をし、そのままコンビニに行って朝食を調達。

我家の場合、朝はパン食なのだが、昨年の 29日からは夜更かし朝寝坊が続いていたので朝食を抜いており、実に一週間ぶりにパンを食べた。

テレビ番組の録画分は昨日の夜で見終わったので、今日は朝から海外ドラマを観て過ごし、午後からはこの雑感の草稿をしてから再び海外ドラマ鑑賞。

明日は普段と変わらない日曜日になると思われるので、ダラダラっと海外ドラマなど観て九連休が終わるだろう。

長い休みなので映画の 2-3本も消化できるかと思っていたが、まったくの手付かずで終わってしまいそうな感じだ。

2時間弱の短い映画であれば海外ドラマを 2話観るのと時間的には同じなのに、どうしても録画してある DVDに手が伸びないのはなぜだろう。

やはり続けて 2時間というのは多少なりとも気合が必要であり、心の準備が必要になるので躊躇してしまったり敬遠したりしてしまうのかもしれない。

四日の買い物の途中、今年はじめてスズメの姿を見たし、何匹かの顔見知りの犬にも会えたので、新年の挨拶をすることができた。

今朝も除雪の最中に顔見知りの犬と飼い主のお母さんが通りかかり、『お買い物日記』 担当者はお母さんと、自分は犬と新年の挨拶を交わす。

いつもは少しだけこちらの顔を見て通り過ぎる犬なのに、近づいてきたと思ったらちょこんと横に座わったので首筋をグリグリしてやった。

何のまとめも落ちもない雑感だが、我が家の正月などこんなもので、何をする訳でもなく時間が過ぎてゆく。

ただ、そんな時間を過ごせるのはとてもありがたく、実に大切なことだと心から思う。

2012年の終わりに2012年の終わりに

いよいよ今日をもって今年の雑感の更新も終わりだ。

昨年末の雑感に書いていた行動とまるっきり同じような感じで今年も終わろうとしている。

今日の午前中、今年最後の買い物に行き、帰りに今年最後のモスバーガーを食べて帰ってきたのも去年の30日と同じだ。

今回は薬で抑えこんで何とか回避してはいるが、『お買い物日記』 担当者が頭痛気味なのも去年と一緒なのであった。

いつもと代り映えのしない年末だが、去年より少し進んだこともある。

8月31日、焼肉屋さんに行ってきた。

この町に暮らし始めてもうすぐ丸5年、やっと2軒目の焼肉屋さんだ。

行ってみたい店はもう一軒あるのだが、そこで食事をするのは来年か、または 2年後、3年後か。

今年は年末の歯のチェックを終わらせることができている。

爺ちゃん先生に言われた通りに歯を磨いているので、今年は 『お買い物日記』 担当者と二人で合格点をもらうことができた。

そして、今年は少し早めに健康診断を受けたので最後の通院前に結果を受け取る事ができ、それを基に医者と話すこともできたので安心だ。

今年は去年と違って2度ほど朝マックしたが、それは 5月下旬なので半年以上も前のことであるし、散歩途中に行く本当の意味での朝食で利用したのは 1月27日のことなので実質的には一年前のことである。

そして、何年も前から計画しているホテルでのランチバイキング。

とうとう今年もそれは実現しなかった。

実は、あるクラブ会員になれば割引料金で食べられるということだったので、そこに入会までして準備していたのに結局は行かずじまいである。

仕事面では、Webページを作る意思表示を受けていながら一歩も先に進んでいないケースが 2件あり、何の進展もないまま年を越すことになってしまった。

いつも思うのだが、大阪と北海道では圧倒的にスピード感が異なる。

とにもかくにも北海道はのんびりしており、もう絶ち消えたと思っていた案件が忘れた頃に動き出したりするので戸惑うことも多い。

しかし、それがこちらのペースであり、大阪と同じスピードで結果を求めたり仕事を進めようとすると、うるさがられたり煙たがられたりすることもあるので注意が必要だ。

したがって、ずるずると先延ばしになっている 2件も時が来れば動き出すだろう。

年末になって決まり、来年 3月までに制作することになった Webページは少し大きめのプログラムを作成しなければならないので、年内は中途半端に手を付けないでおくことにした。

今年の北海道は 60何年ぶりの猛暑、観測史上初めての残暑、そうかと思えば数日前は 40何年ぶりの寒波、11月には何十年ぶりかの暴風で各地に大きな被害をもたらした吹雪は、知り合いの会社のネットワーク機器をも破壊し、データの損失という金額に換算できない被害までも引き起こした。

これらのことが地球温暖化の影響だとするならば、全世界が一丸となって食い止めなければ数十年の時を待たずとも数年後には大変なことになるかも知れない。

バラマキ過ぎて将来に負の遺産となってしまうのではないかと懸念されるほどの大型補正予算で景気浮揚を図る自民党安倍内閣の目論見通りに来年はデフレを脱却し、景気が回復することを願う。

そして、目標設定と舵取りを誤り、悪性のハイパーインフレにならないことを心から願いつつ、今年の雑感を終わろうと思う。