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デジタル化の波 Signal-8デジタル化の波 Signal-8

デジタル化の波 ~目次~

先週の続きになるが、大きな災害に見舞われたとき、デジタル化しておけば損失を極めて少なくすることができるものが多いので、個人も行政も団体も真剣に導入を検討すべきだと思う。

病院ではカルテを損失してしまったため、治療の継続性が損なわれて困っているケースが多いが、やはり電子カルテをもっと普及させて医師会か厚労省かが数箇所のデータセンターにバックアップ機能を設け、データを管理すべきだと思う。

救出されても持病を抱えていたために命を落としてしまった人が少なからずおられるが、そんなことがあってはいけないし、せっかく救われた命なのだから大切にしなければいけないだろう。

スマートフォンや電子パッド、パソコンで電子カルテの情報さえ引き出せれば、個人がどのような病気を持ち、どのような治療がなされていて薬は何を処方されていたのか一目瞭然だし、不幸にして遺体として発見された場合も、歯医者さんのカルテが管理されていれば、治療の痕跡から身元特定もできる。

これは、ある程度の予算をとってでも実行すべきことではないだろうか。

市役所、区役所などの役場まで水没したため住民台帳や戸籍が消失してしまった地域もある。

賛否両論はあれど、はやり住基ネットから離脱するのは止めて電子化を進め、それを地方自治体、国が分散して管理し、どんな状況でもデータは残るようにすべきだと思う。

一部の反対論に流されて確固たるポリシーもないくせに住基ネットから離脱し、もしも戸籍や住民登録の情報を失ったら誰が責任を取るのだろうか。

以前にも書いたことではあるが、戸籍や住民登録関連の書類が手書きではなく印刷物として発行される自治体は、住基ネットに参加していなくても情報は電子化されており、データベース化されているということは本人が知らないだけで ID番号、つまりは一生の背番号が登録されいる訳である。

日本では、基礎年金番号、健康保険被保険者番号、パスポートの番号、納税者番号、運転免許証番号、住民基本台帳カードなど各行政機関が個別に番号をつけているが、どうせ番号をつけられるなら統一し、アメリカの社会保障番号のように何でも共通で使えるようにしたほうが便利なのに決まっている。

国民総背番号制などと言い、プライバシーだ人権だと騒わぐアホがいるが、バラバラではあるにせよ、すでに番号を付与されているのだから反対しても仕方ないだろう。

今回はネットという電子の世界がずいぶんと活躍した。

震災直後から一定期間、電話が繋がりにくい状態が続いたが、パソコンやスマートフォンで使える無料通話の Skype(スカイプ)は割と繋がりやすかったらしい。

持ち運びに便利なネットブックや電子パッド、スマートフォンを持っているなら Skypeをインストールしておくのが吉だろう。

Twitter(ツイッター)Facebook(フェースブック)も大活躍した。

現状をリアルタイムに知らせるサイト、安否を確認するサイト、避難所名簿の共有サービスなど様々ものが立ち上がり、ネットを使える人と使えない人では情報格差が大きかったものと思われるので、自分のアカウント登録(会員登録)までする必要はないまでも、いざという時に使えるようにお気に入りに登録しておくことをお薦めする。

そして、もうひとつのネットの功績は、ネット募金だけで数十億円という金額が集まったことだ。

それも災害発生から一週間で集まった金額だ。

そして、これは日本だけの集計分であり、世界中で実施されている日本に向けた募金活動の金額を合わせると、数百億円に達するのではないだろうか。

被災地の様子をテレビで見ていると、せめてもの思い出として写真を探している人が多い。

それを物理的な写真として保存するだけではなく、電子化したり、デジタルカメラで撮影した画像データを無料サービスのサーバーにアップロードしておけば思い出を失うこともないだろう。

もうデジタルカメラは珍しいことではなくなったが、そのデータを写真加工してモノとして残すだけではなく、データそのものを残しておいたほうが画質の劣化もなく、場所も取らないので便利であるし、今回のような災害を考えると写真にしたり CDや DVDのメディアにしておいても津波に流されたり燃えたり破損してしまっては意味がない。

もちろん手元に置いておいたり人に見せたりすることを思えば物理的に残すことも必要だが、そうした後にメモリーや HDDからデータを消去するのではなく、外部サーバーに預けておくのが良いだろう。

無料でデータを預かってくれるサービスは色々あるので代表的なものだけ列挙しておく。

SkyDrive(Microsoft提供)- 容量25GB
Windows Live Sync(Microsoft提供)- 容量4GB
Googleドキュメント(Google提供) - 容量1GB
quanp(リコー提供) - 容量1GB
Evernote(Evernote提供) - 容量60MB
SugaSync(BBソフトサービス提供) - 容量5GB
dropbox(dropbox提供) - 容量2GB 英語版のみ

単純に全サービスを利用したとすれば容量合計で40GB(ギガバイト)近くのデータを預けられ、400万画素の高画質写真でも 40GBあれば 2万枚ほど保管できるので十分だろう。

さて、いろいろと書いてはきたが、現代社会はもうデジタル化、ネット化を抜きにしては考えられなくなっているのではないだろうか。

多くの部分がデジタル化される将来においてはなおさらのことだろう。

好むと好まざるとに関わらず、切っても切れない関係にならざるを得ないに違いない。

デジタル化の波

デジタル化の波 Signal-7デジタル化の波 Signal-7

デジタル化の波 ~目次~

音も映像もデジタル化が進み、アナログの持つ温かみが失われつつあると嘆く向きもあるが、今回の大震災でデジタル化の恩恵をつくずく感じることができたのも事実だ。

第一に被災地の状況が、ごく短時間のうちに全国に伝わる。

もちろん、物理的に人が移動して現地の映像を撮影したり音を録音するのはアナログ的作業なので、その体制が整うまでは一定の時間が必要だった。

しかし、準備さえ整ってしまえばハイビジョンの鮮明な映像、生々しい声が届けられるのはデジタル化されたデータが衛星を経由してテレビ局に送信されるからだ。

過去には日付が変わる頃に締切りを迎えていた新聞の原稿も、今は電子写植となったのでデジタルデータがそのまま印刷可能となり、深夜まで編集作業をすることができる。

おまけに記者は情報を新聞社に届ける必要がなくなった。

過去には取材を終えて社に帰り、写真を現像して手書きのメモから記事を起こすというアナログな作業を必要としたが、今では現地で対応できる。

ICレコーダーに録音した記者会見の内容を音声認識ソフトでザクっとデジタル文書化し、それに修正を加えて推敲ソフトで誤字脱字がないかチェックすれば原稿のできあがりで、デジタルデータとなっている写真と共にネット経由で送信すれば完了だ。

テレビ報道では様々な人が撮影した津波に襲われる様子が放映されているが、それもデジタル化が進んだ結果として誰でも容易に動画撮影することができるようになったからだろう。

8ミリの時代、ビデオテープの時代では、これだけ多くの映像は残らなかったに違いなく、小さなムービーカメラ、携帯電話の動画撮影機能があればこその恩恵である。

地震発生時の様子をとらえたテレビ局内の映像、設置カメラによる外の映像、コンビニなど店内の様子が録画されているのもデジタル化のおかげで、映像圧縮技術と大容量ハードディスクドライブ(HDD)の力が大きい。

過去はビデオテープの交換が必要となり、一度に2時間とか3時間しか記録することができず、防犯カメラや定点カメラの映像を何日分も保存しておくことなど不可能だった。

今はHDDに 10日分でも 20日分でも映像を残しておくことができるし、一定期間を過ぎた部分に上書きすることも可能なので物理的に壊れるか、停電にでもならない限りは録画状態のまま放置しておける。

実に便利な世の中になったものだ。

そして、もうひとつ痛感したのは生体認証システムの必要性だ。

災害で通帳、印鑑、キャッシュカードはおろか、クレジットカードまで失い、銀行から現金を引き出すことすらできずに困っている人が多い。

郵便局も含めた各行は本人確認さえできれば 10万円まで、20万円まで預金を引き出せる措置をとっているが、免許証、保険証、パスポートや住基カードなど、身分を証明書するものすら持っていない人が多いだろう。

そこで役立つのが生体認証システムで、目の虹彩、指紋、静脈、人相などで本人確認することができる。

一時期、キャッシュカードの偽造が横行した際に東京三菱銀行を筆頭に ATMへの搭載が進められたが、その後に犯罪が振り込め詐欺にシフトしてしまったことと、カードを再発行するたびに生体情報を登録しなければいけないという煩雑さから普及にブレーキがかかってしまった。

しかし、今回の件を機に認証システムの低価格化、普及スピードが加速することを望む。

たとえ通帳や印鑑、身分証明証、カードがなくても自分の体が役割を果たすことができる。

こちらに越してきてから取引している銀行は生体認証システムを持っているが、面倒なことと必要性を感じなかったことから登録していない。

しかし、万が一に備えて登録しておくべきだろうと 『お買い物日記』 担当者と話しあったりしているところである。

デジタル化の波

プロフェッショナルプロフェッショナル

やはり餅は餅屋、本当のプロというのは凄いものである。

少し前の独り言に書いたように、最近は仕事中にスカパーの音楽専門チャンネルの音だけを聴いていることが多い。

好むと好まざるとに関わらず、一方的に曲を押し付けられる感も否めないが、同じ曲を繰り返し聴いているより飽きないし、なかなか良い具合ではある。

流行している K-POPの少女時代や KARAの曲を毎日のように聴かされるのも何ではあるが、なかなか良くできたメロディーだと感心させられてしまう部分も多い。

一昔前まで韓国の音楽といえば日本の曲をそのまま頂いちゃった系のものだったり、アメリカの曲をキムチ味にアレンジしてみました系のものが大半を占めていたが、国内だけではなく日本市場、アジア市場までも見据えた曲作りができるプロが育ってきたのだろう。

日本では音楽産業の低迷が続いているが、その K-POPと秋元康が率いる AKB48プロジェクト(4KB48、SKE48、NMB48、SDN48)だけは元気がよろしい。

スカパーを聴いていても AKB48関連の曲が実に多い。

しかし、単なる流行、オタク向けアイドルといった偏重や偏見を抜きに AKB48の歌の詩を見てみると、やっぱりプロが創ったものは違うと感心してしまう。

日本の音楽シーンにはジャリタレに毛の生えた程度のアーティスト気取りが横行しているが、まともに詩を書けず、少女漫画の主人公が書く日記みたいなものばかりなのでオッサン、オバチャンには共感できる内容ではない。

たとえば今のシーンズは卒業をテーマにした曲も多く、AKB48も 『桜の木になろう』 をリリースしているが、その詩の世界は奥が深く、校庭に咲く桜の木が視点となっている。

そして、大雑把に言えばその桜の木が心の、そして人生の目印となるという内容だ。

桜の木になろう』(©秋元康/横健介/AKB48)

この卒業をモチーフにした場合、アーティスト気取りの中途半端な芸能人は愛だの恋だの、別れだのと脇腹が痒くなるような詩になるか、とにかく頑張れ人生に負けるなといったメッセージ・ソングになるのがオチだろう。

そんな程度の歌が乱発されるのだから CDだって売れるはずはなく、たとえ単価の安いダウンロードだって数が伸びるはずがないものと思われる。

心に届きもせず、響きもしない詩など聞く価値もない。

日本人も感性が豊かになり、過去とは比べものにならないくらいメロディアスな曲を作れるようになったのは認めるが、詩の内容が幼すぎる感は否めないので、やはりその道のプロフェッショナルに作詞を依頼すべきではないだろうか。

音楽業界もアーティスをを甘やかさず、もっと厳しい目で評価し、育てていくべきだと思う。

東北地方太平洋沖地震東北地方太平洋沖地震

とてつもない規模の地震が発生してしまった。

呑気に雑感など書いている場合ではないのである。

この町も海沿いにあり、海岸近くの地域には避難勧告がでていたほどだ。

今回の地震は阪神淡路大震災の180倍の規模。

それだけではなく、10メートルを超える津波、連鎖する大型地震。

現代日本社会が初めて直面する 『巨大複合型災害』 になってしまった。

地方によって呼び名は異なるようだが、過去の経験から緊急時に食糧や飲料水を支援する協定を結んだスーパーやコンビニも迅速に対応し、システムは機能しているようだ。

地震国なので経験値が高いということもあるだろうが、国民性によるところも大きいだろう。

地震直後、棚から商品が散乱したコンビニで買い物する人たちの姿が映し出されていたが、棚に残った商品から自分が必要な分だけ買い物かごに入れ、きちんとレジに並んでいる。

ここで暴動や略奪がおこったり、他人のことを考えずに食糧などを買い占める人はいない。

さすが日本人。

今回の災害に関しては世界も見守っているものと思われ、そういう日本の国民性をも見ることになるだろう。

まだ余震などが続くものと思われるが、冷静な行動が求められるところだ。

災害の規模、範囲はとてつもなく大型、広域であるため、まだまだ被害の全容は把握できていないが、災してしまった方々のご無事をお祈りするとともに、不幸にして命を落としてしてしまった方々のご冥福をお祈りしたい。

2011年大阪の旅 -3-2011年大阪の旅 -3-

2011年大阪の旅 -2-

大阪滞在三日目。

いよいよ大阪最後の日となったが、ホテルのチェックアウトは 12:00までとゆっくりできるし、飛行機の出発も 16:05と時間にかなり余裕がある。

そこで、大阪の観光でもしようかと思ったが、バスで通天閣まで行ってガイドさんの説明を聞いて戻ってくるというプランだと時間が足りない。

もちろん USJに行って遊ぶ時間も吉本新喜劇を見る時間もない。

そこで、JR大阪駅近辺で時間をつぶそうと、梅田スカイビル最上部の空中庭園に行ってみるか、HEP FIVEの観覧車にでも乗ってみるかと思案したところ、若者向けの商業施設である HEP FIVEであれば、朝から混雑していることもなかろうという結論に至り、ブラブラと地下を歩いて行ってみることにした。

大阪に十数年も暮らしていて、HEP FIVEには足を踏み入れたこともなかったのでたどり着くまで少し迷ってしまったが、何とか 10:00くらいには建物の入口に立つことができた。

ところが案内板を見てみると、すべての営業開始が 11:00となっている。

若者は朝早くから行動しないだろうという読みは当たっていたが、その施設まで朝が遅いというところまでは考えが及ばなかった。

カフェにでも入って 11:00の開店を待とうかとも思ったが、それから観覧車に乗ったりして遊んだ場合、チェックアウト時間である 12:00までにホテル帰ることができるか微妙なところだ。

そうなったら今から空中庭園のある梅田スカイビルまで移動して、庭園を散策してホテルに戻る時間があるのかも微妙な感じになってくる。

しばし考え、目の前にあった 『水野真紀のMaki's魔法のレストラン』 でも紹介されたという店で焼きドーナッツを購入し、とぼとぼと歩きながらホテルに戻った。

それからは、ホテルでボ~っとしていても仕方がないと、さっさとチェックアウトして関空に向かう。

どやらそれが良かったようで、となりのお店ワンプの住む反対隣りのお宅用のおみやげなどを、ゆっくりと時間をかけて見ることができたし、ぼてじゅうでお好み焼きを食べることもできたし、喫茶店に入ってじっくりコーヒーを飲むこともできた。

ぼてじゅうでは隣の席に外国人カップルが座り、ベラベラと英語で会話をしていたので日本語のメニューが分かるのか心配したが、注文をとりにきた店員さんに女性のほうが日本語でオーダーしていた。

おまけに出てきたお好み焼きをコテで切り分け、見事な手つきで箸を使っていたのでなかなかの日本通らしく、余計な心配をして損をした気分になってしまったではないか。

心配された天気も回復して雲の間から青空がのぞき、新千歳空港の雪もあがって離着陸とも問題なさそうだ。

ここでも晴れ男は幸運に恵まれた訳である。

途中で気流が乱れることもなく、順調に飛行できたため予定時刻より少し早く到着したことが幸いし、あきらめていた早い時間の電車に乗ることもできた。

しかし、金曜の夜ということもあって電車はえらい混みようであり、デッキにまで人が溢れている。

これから一時間以上、疲れてはいるが立って帰らなければいけないと覚悟を決めたが、次の到着駅で目の前の座席にいた母娘が降りていったのですぐに座ることができるという幸運にも恵まれたのである。

今住んでいる町に到着したのは 21:00少し前で、昼食をして以降、何も食べていないので途中のコンビニで何か買おうという目論見と、北海道のわりに寒くもなく、風も穏やかだったので駅から自宅まで歩いて帰ることにしたのだが、帰り道の商店街では道路の両側をロウソクで照らす 『キャンドルの小径』 というイベントが開催されていた。

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その中をキャスター付きのカバンをコロコロ引いてゆっくり歩きながら帰宅できたのも幸運だ。

今回の旅は本当に幸運続きで、大きなトラブルもなく目的を達成し、会いたい人に会って来ることができた。

またいつか、何年後になるかは分からないが、大阪を訪れることが出来ればと思う。

それまで皆さん元気にしておられることを心から願いつつ。

2011年大阪の旅

2011年大阪の旅 -2-2011年大阪の旅 -2-

2011年大阪の旅 -1-

大阪滞在二日目。

この日は朝から仕事関連の人と会うことになっており、『お買い物日記』 担当者もよく知っている人なので一緒になんばまで行って落ち合ったが、時間が早すぎて落ち着いて話せそうな喫茶店などが開いていない。

待ち合わせたのは、なんばCITYにあるホテルだったので近くにあるなんばパークスに行ってみることになった。

なんばパークスは大阪に住んでいるときに完成していたが、出不精であるゆえに足を踏み入れることもなく北海道に帰ってきてしまったが、こうして久々に来て施設内を歩くことになるのだから不思議なものである。

いや、近くにあると、いつでも行くことができるという意識が働いてしまい、余程のことがない限りは行かないものなのだろう。

そして、なんばパークス内を歩いていて気づいたのだが、お会いした人の歩くスピードが異常に速く、ちょっと小走り気味にしなければ付いて行くことができない。

そう言えば移動手段として使った地下鉄御堂筋線の構内でも次々と人に追いぬかれた。

そうだ、そうだった。

大阪人は歩くスピードが日本一速いのだった。

以前は人の妨げになってはいけないと同じ歩行速度で歩いて通勤していたはずなのに、ゆったりとした時間が流れる北海道の生活にすっかり慣れ、歩くペースも遅くなってしまったのだろう。

話しが終わってその場で別れ、いよいよ千里丘に向かうことになったが、おみやげを渡したのに相手からも何やら頂いてしまい、バッグの重さはちっとも軽くならない。

みやげ物で重くパンパンになったバッグを持ちながら千里丘駅に到着。

駅構内を歩いても、街の風景を見ても思ったほど懐古の念にとらわれることもなく、ただ久しぶりだと感じる程度だった。

大阪で十数年ほど暮らし、以前に暮らしていた札幌の町を見たときはとてつもなく懐かしかったが、三年程度では懐かしさを感じないものらしい。

千里丘駅の一階にあるレンタサイクルの 『駅リンくん』 で自転車を借りて千里丘周辺をウロウロする。

まずは十数年間もお世話になった借家の大家さんに会いに行く。

ただ単なる貸主と借主の関係ではなく、本当にいろいろとお世話になったので是非にでもお会いしておきたい方なのである。

そこで近況などを報告し、急にバタバタと引っ越してしまったことを詫びて 『お買い物日記』 担当者の病気などについて一通り話し、またいつかの再会を約束して席を立つ。

ここでもおみやげをお渡ししたが、それ以上の頂き物をしてしまい、バッグの中は減るどころかさらに大きく膨らんだ。

ここから自分と 『お買い物日記』 担当者は別行動。

自分は仕事でお世話になっている方々を訪問し、『お買い物日記』 担当者はお世話になった方々や、友だちになった人たちとの再会だ。

別行動をして 4時間後に千里丘駅で合流すると、おみやげのバッグがはち切れそうなくらいバンバンに膨らんでいる。

会う人、会う人、みんなから頂き物をしてしまい、来る時より明らかに大きくなったバッグを持って帰ることになってしまった。

予報では大阪は雨で、当日はどうなることかと思ったが、最後の最後まで天気は持ちこたえて駅リンくんに自転車を返却するころになって小雨が降りだす程度で済んだ。

どうやら晴れ男の面目躍如といったところであるし、これも旅の最初から続いている幸運のひとつであろう。

そして、いよいよ明日は大阪滞在三日目、それが最終日であって夕方の便で北海道に帰ることになるが、予報では大阪も新千歳も悪天候で、この時期は珍しくない欠航や新千歳に降りられずに引き返すなどという事態にならないことを祈るばかりだが、それはまた 2011年大阪の旅 -3- に続くということに。

2011年大阪の旅

2011年大阪の旅 -1-2011年大阪の旅 -1-

その旅は最初から幸運に恵まれたものだった。

となりのお店には事前に旅行のことを伝えることができていたが、ワンプの住む反対隣りのお宅には詳しい日程などを話せておらず、電車に乗ってから携帯電話のメールで知らせようかと 『お買い物日記』 担当者と話していたところ、家を出ると隣の奥さんも外におり、タイミング良く事情を説明することができたばかりか、車で JRの駅まで送ってくれるという。

駅までの道のりは、普段の散歩を考えると何の苦も無く歩ける距離であるため、天気さえ悪くなければいつもテクテクとキャスター付きの旅行カバンを引きながら駅に向かっているのだが、送っていただけるのならそれに越したことはない。

その前日まで苦しんでいた 『お買い物日記』 担当者の頭痛も 80%程度まで回復し、旅に差し障りのないくらいまで元気に復活したのも幸運だった。

独り言にも書いたように、初日は新千歳空港までの移動なので少し頭痛の残る 『お買い物日記』 担当者の負担も軽い。

神戸空港に向かう便が朝の 8:00発であり、その前にチェックイン、搭乗手続きの全てを終わらせようとすると 7:00には空港に着かねばならず、どう頑張っても当日の移動は無理なので前日に到着しておく必要があったのである。

空港に到着して長兄夫妻と合流し、食事の前に大阪でお会いする方々へのおみやげを購入。

何せ自分が仕事関係でお会いする人、『お買い物日記』 担当者が会いに行く人たちを合わせると相当な人数になるので、購入するみやげの数も大量になってしまい、念のために持参した大きめのバッグがパンパンに膨らんでしまった。

その後に食事を済ませ、翌日は朝が早いので早々に部屋に戻る。

一夜明け、バタバタとホテルをチェックアウトして搭乗手続きに向かったが、今は QRコードと呼ばれる二次元バーコードで全てが管理されているらしく、以前のようなチケットらしいチケット、ちょっと厚い紙のような樹脂のような、それっぽいものは存在せず、単にプリンターで印刷した A4の紙の隅のほうにある QRコードがすべてだ。

その紙も事前に旅行会社から受け取った書類の中に含まれているのでカウンターで発券してもらうとか、そういう手続が一切無い。

その紙を持ってスキャナー部分に QRコードをかざし、「ピロリン」 と認証されて手荷物検査を通過し、飛行機に乗り込む前も QRコードで 「ピロリン」 とゲートを通過するだけだ。

今回は紙だったが、携帯電話からチケット予約などすればメールでQRコードが送られてくるらしく、携帯電話をスキャナーにかざして通過している人が何人もいた。

とても便利な世の中になったと思う反面、ちょっと味気ない気がしてしまうのはオッサン化が進んだ証拠か。

飛行中、機体がひどく揺れることもなく、安定した状態で神戸空港に到着。

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まずは三ノ宮まで移動するためポートライナーに乗り込み、先頭車両の最前部の席を陣取ってちょっと運転手気分。

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JRに乗り換え、新快速で一気に大阪駅まで。

会社勤めしていた頃は毎日利用した駅なので懐かしさが込み上げてくるかと思いきや、改修工事がなされて中は様変わりしてしており、初めて見る光景だった。

宿泊先は第一ホテル、つまりは丸ビルであり、その外観を見たときはさすがに少し懐かしい感じがした。

ホテルではチェックインする時間には程遠かったが、大荷物で京都に行くのも大変なので今日の宿泊客であることを告げて荷物を預かってもらうことに。

ちょっと身軽になって再び大阪駅に行き、新快速で一気に京都。

京都駅でタクシーに乗ったのだが、その運転手さんはプロだけが知っているような、車もすれ違えない細い細い裏道をビュンビュンと通り抜けて行く。

北海道のようなおおらかな土地で、とても広い道幅を走る優良ドライバーである長兄は、運転手さんの隣の助手席でカチカチに固まっていた。

狭い道路を 40キロ前後で走り、前と接触するのではないかというくらいの狭い車間距離しか保たない関西人の運転は恐怖だったらしい。

お寺の前で車を降り、直ぐ目の前にある蕎麦屋さんで昼食。

ここは過去に何度も入った店で、その味はさすがに懐かしい気がした。

無事に法事も終わり、ぶらっと茶わん坂を歩いて目についた喫茶店で休憩。

帰り道では雑誌か何かの撮影で、舞妓さんがモデルとなっていたので便乗してパチリ。

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何度も京都に行ったが、こんなに近くで舞妓さんを見るのは初めてであり、そのタイミングで偶然にも通りかかったのも幸運だった。

何だかんだとしている間に、すっかり夕方になったので京都観光をすることもなく新快速で再び大阪駅まで一気に進み、ホテルのチェックインを済ませて一休みし、丸ビルの地下にある居酒屋さんで呑み食いして一日が終わった。

2011年大阪の旅 -2- に続く。

2011年大阪の旅

自分解体新書 - 4 -自分解体新書 - 4 -

自分解体新書 ~目次~

■ 脳 - その2 -

以前、会社勤めをしていたころは毎日スーツを着用し、ネクタイもしていた。

毎日、毎日、来る日も来る日も、年間 250日くらいネクタイを締め続けていたのだが、どういう訳だか数年に一度か二度くらいの割合で、毎日しているはずのネクタイの締め方が分からなくなることがあった。

どうやったらネクタイが結べるのか、何度やり直しても思い出せない。

会社に行く時間は迫り、どうやってもネクタイが結べず、焦りが頂点に達して冷や汗が流れる。

まるで自分が記憶喪失にでもなったような、得も知れぬ不安感、恐怖感に襲われる。

そんなことは自分にしか起こらないのではないかと不安にも思っていたが、世の男性陣の複数人に確認したところ、やはり同じような体験をしている人が多かったので少し安心したりしたものだ。

あの時、脳の中では何が起こっているのだろう。

いや、脳ではなく神経で何かが起こっているのか。

加齢が原因かといえばそうでもないらしく、それは 20代でも 30代でも起こるものらしい。

■ 脳 - その3 -

しかし、確実に記憶力は衰えてきている。

さっき食べた昼飯の内容が思い出せなかったりすることなど日常茶飯事だ。

お買い物日記』 担当者に訊いても記憶力の低下具合は似たようなもので、二人揃って腕組みをしながら 「う~む」 と考え込む事態に発展してしまう。

これは加齢が原因であり、誰にも起こる自然なことである。

いつかのテレビで、どこだかのお医者さんがこう言っていた。
「何を食べたかを忘れるのは誰にでも起こること」
「問題なのは食べたことすら忘れてしまうこと」

そう、少なくとも朝、昼、晩の食事をしたか否かくらいは覚えているので少々の記憶力低下くらいは甘んじて受け入れなければいけないのだろう。

■ 鼻

相変わらず慢性的に鼻炎は続いている。

鼻炎用の点鼻薬はかかせないし、就寝前にはヴィックスヴェポラップを鼻の周りに塗っているのも相変わらずだ。

掃除機でホコリが舞えば鼻も目もグシュグシュになるし、風邪気味になれば一発で鼻に来る。

こんな体質で花粉症になっていないのが不思議なくらいだ。

しかし、その割に嗅覚に問題はないらしく、散歩中に漂ってくる香りを嗅ぎ分け、
「味噌汁を作っているらしい」
とか
「玉子焼きの臭いだ」
「サバを焼いている」
「白身魚のフライを揚げている」
などと 『お買い物日記』 担当者と話し、腹をグーグーいわせている。

スーパーの近くを通れば惣菜の煮物やらミートボールやら中華のあんかけ系の匂いやらがしてきて野生に返りそうになるが、『お買い物日記』 担当者が一番に反応するのはミスタードーナツの仕込みの匂いだ。

賞味期限に関わらず、まだ食べられるか否かの判断を下すくらいの嗅覚は慢性鼻炎であっても備わっているので、今のところ問題なく生活できている。

自分解体新書

おもてなしの心おもてなしの心

日本人はなんて優しいんだろうと思う。

以前は韓国や中国に買い物ツアーに出かけていた日本は、経済規模で逆転されて逆に観光客を向かい入れる立場になっている。

日本人は変化を好まないとか言われるが、明治維新、敗戦を経て日本文化など失ってしまったに等しいくらいの変貌を遂げたのも日本人だ。

立場が逆転しても、したたかにビジネスチャンスを伺うたくましさをも持つ。

そこで発揮されるのが 『おもてなしの心』。

中国人の観光客が増えれば必死に中国語を勉強する。

アメリカ人の観光客が増えたら必死に英語を勉強する。

観光案内から店内のPOP、飲食店のメニューも日本語、英語、韓国語、中国語を併記してお客さんが困らないように気を配る。

2002年ワールドカップでカメルーンの準備キャンプ地となったからといって、中津江村の人たちは必死に公用語であるフランス語を勉強した。

全世界を見渡してみても、相手国の言語でコミュニケーションを図ろうとする民族が住む土地など皆無に近いだろう。

日本人が来るからといって必死に日本語を勉強する国がどこにあろうか。

余程のリゾート地ではない限り、日本語が通じるところなどない。

仕事や遊びで若い頃は海外に出かけたが、宿泊施設や商業施設、観光案内、飲食店など日本語の通じる場所などありはしない。

日本人はアメリカに行けば必死に英語を使おうとするし、韓国旅行に行っても店に入れば韓国語で注文しようとするし、中国に行ってもそれは同じだろう。

相手の国に寄せてもらっているのだから当然だと考える。

ところが、アメリカ人にしても中国人、韓国人にしても、日本に来ているのに自分たちの国の言葉を平気で使う。

自分の国の言葉で問いかけ、自分の言語で文句を言う。

それに対して必死になって相手国の言葉で応対しようとする日本人。

アメリカ人など日本に来ているのに英語で話しかけてきて、こちらが分からないと
「なぁ~んだ、英語もしゃべれないのか」
といった仕草をするが、ほぼ世界共通語になりかけている英語圏の人がそうするのは悔しいけれど一定の理解はすることができる。

韓国とか中国からの観光客が同じようにするのは理解できないが、そうされても言葉がわからないことを申し訳なくすら思う日本人は、なんて優しく、なんて小心者なのだろうと思う。

自己主張が苦手だったり、相手の気持をおもんばかることを優先してしまう日本人は、尖閣諸島、北方領土問題の解決、ビジネスシーンでは実に不利であることは間違いない。

しかし、そんな国民性を少しだけ誇りに思うのも事実だ。

日本流のおもてなしで気分を害する観光客はいないだろうし、そういう接客で気分を害する人もいないものと思われる。

つまり、それこそが日本流、日本式のビジネスモデルでもある訳だ。

どんどん観光客が増え、日本のおもてなしの心がクチコミで世界に広まれば、客が客を呼ぶという好循環が生まれる。

そして、その接客術はジャパンモデルのサービス業としてノウハウを輸出することもできるだろう。

時代や環境、立場が変わって初めて気づくこともある。

日本は製造業主体からサービス業主体へと変わる必要があるかも知れない。

マサルノコト scene 28マサルノコト scene 28

マサルノコト目次

一月最終の土曜日だが、やはり今年もマサルからの年賀状は届かなかった。

昨年末、年賀状の準備をしていたとき、さすがにもうマサル宛に出すのはやめようかとも思ったが、ここまで来たらこちらも意地になってしまい、こうなったら最後の最後まで出し続けてやろうと思い直して発送してやった。

宛先不明で帰って来ないところをみると今でも東京に住んでいるのだろうが、何年も会っていないどころか電話すらしていないので正確なところは不明である。

しかし、『便りのないのは無事の知らせ』 という言葉もある通り、急な連絡がない限りは元気に暮らしていることだろう。

今は音信不通に近い状態となっているが、今から何年も前、数カ月間に渡って毎日電話で話をしていた時期がある。

それは互いに話好きで電話していた訳でもマサルから電話してきたわけでもなく、自分の一方的な都合で電話をし、それにマサルが付き合ってくれていたという実に迷惑千万な事情だ。

その時期、自分は精神的に追い詰められ、かなり大きなダメージを負っていた。

食事もノドを通らず、夜も眠れず、酒を呑んでも酔えない地獄のような日々だった。

一人で考え込むと負のスパイラルにはまり込み、冷え冷えとする冬の夜など超マイナス思考に陥って [ 暗い ] → [ 寒い ] → [ ひもじい ] → [ もう死にたい ] という典型的な負の段階論に進みそうになってしまう。

そんな時、何とか踏みとどまって負のスパイラルを断ち切れたのは、マサルが親身になって話を聞いてくれたおかげである。

何とも身勝手な話ではあるが、マサルと話をしながら酒を呑んでいると気が紛れて落ち着きを取り戻し、少し酔いが回ってくると食べ物がノドを通るようになり、腹が満たされて酔いが深くなると眠れるようになる。

くる日もくる日も、夜中の 2時くらいまで話し、酒に酔って寝る毎日。

マサルだって仕事があるのに毎晩つきあってくれた。

マサルの仕事も時間が不規則で帰宅していないこともあったが、留守電にメッセージを残しておくと必ず電話をしてくれた。

タイミング悪く入浴中のこともあったが、それが終わると電話をくれた。

当時は電話会社間の競争もなく、NTTの独占事業だったので長距離電話の通話料金は今と比較して驚くほど高かったのにマサルの方から電話をしてくれた。

普通であれば、「いい加減にしろっ!!」 と叱られても仕方ないほどワガママで身勝手なことをして、一方的にマサルに迷惑をかけているのに気が済むまでとことん付き合ってくれた。

以前に書いた学生時代の恩も合わせ、色々な意味での恩人なのである。

自分はといえばマサルの恩情と共に時間の経過が傷を癒してくれたおかげですっかり元気なり、そこまでの恩がありながら、せっかく遠くから遊びに来てくれたマサルをなかなか家に入れてやらなかったり、憎まれ口をたたいたりして何事もなかったように勝手なことをしていたりする、実にどうしようもない奴だったりするのである。

マサルノコト