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最近の若い者は 2

最近の若い者は ~目次~

16日の雑感の続きになるが、オッサンの目から見ると近頃の若い者はいったい何を考えているのか理解し難い。

少し前に雑誌で読んだのは、最近の若者は面倒が苦手であるという内容だ。

菓子メーカーのロッテの根幹を支えてきたガムは 1950年に発売して以来、右肩上がりで市場が拡大してきたのに 2004年をピークに縮小に転じたそうだ。

その主な原因は若い人がガムを噛まなくなったことにあるという。

そして、ガムを遠ざけている驚くべき要因とは・・・。

「個別にされている包装を剥くのが面倒」
「ガムを噛むのが面倒で疲れる」

・・・・・。

「そんなことが面倒だったら一生ガムなんか噛むなあぁぁぁー!」
と、若者の耳をちぎれんばかりに引っ張った上で腹の底から大声を出して怒鳴り散らしてやりたい気分だが、菓子メーカーにとっては由々しき事態である。

そこでロッテが開発したのがフィッツというガムのシリーズで、包装を剥くのが面倒という声に対応してパッケージと包装の一部を接着し、ガムの端をつまんで引き抜くとワンタッチで包装が剥がれるようになっている。

また、噛むのが面倒で疲れるという声に対応し、今までと比較すると考えられないほどガムを柔らかく仕上げてあるとのことだ。

そして、ガムを噛むといつかは吐き出さなくてはならず、捨て場所を探すのも紙に包んで捨てるのも面倒という声に対応し、味を長持ちさせて噛み始めてから 40分間は持続するようにしたという。

消費してもらう立場になれば、ユーザーのニーズを探り、的確な商品開発をするということに徹しなければならないのだろうが、そこまでしなければいけないのかと頭が下がる思いだ。

世の中はどんどん便利に、どんどん楽になっていく。

良く言われることだが、昔と比べて炊事、洗濯、掃除がどれほど楽になり、どれほど時間短縮ができたことか。

炊飯ジャーの登場によって放っておいてもご飯は炊ける。

米を研がずとも無洗米がある。

炊き上がったご飯をおひつに移す必要もない。

電子レンジやオーブンがあれば短時間に、そしてセットさえすれば放っておいてもできあがる。

全自動洗濯機があれば放っておいても衣類は綺麗になるし、自動掃除機ルンバがあれば勝手に部屋の掃除もしてくれるので何もする必要はない。

それらの機器の登場によって手間や時間が軽減され、重労働から解放されたのは事実であり、世の中が便利になったのは喜ばしいことだ。

しかし、噛むのが面倒とか疲れるなどというのは次元が違う。

骨を取るのが面倒だからという理由で魚の消費量が落ち込む。

漁業関係者は魚離れを食い止めるため、骨を取り除いた魚を売る。

食べるのが面倒という訳の分からない要求に対応し、中国人やベトナム人がピンセットを握り締め、安価な労働賃金で必死になって骨を取り除く。

果たしてそれは正しい世の中なのだろうか。

そんなに何もかもが面倒なのなら歩くことも食べることも呼吸することも止めてしまえ。

・・・などと、オッサンは思ったりするのである。

誤解

世界各国では日本全体が放射能汚染され、死の灰や死の雨が降っているかのように誤った伝えられかたをしているらしい。

食料品はおろか、工業製品や電子部品にいたるまで放射能検査してから輸出せよと要求されるのも致し方が無いと言ったところか。

外国人観光客が激減し、閉鎖や一時休業に追い込まれた旅館やホテルもあるが、その誤った情報の伝わりかたに憤ったり怒ったり、嘲笑ったりしても仕方がない。

日本国内であってもさして変わらないではないか。

大震災発生当初から今までの報道を見ていると、まるで東北地方が全滅してしまったかのような錯覚をしてしまう。

もっと軽くても青森、岩手、宮城、福島の4県は壊滅してしまったように思えてしまう。

実際には、その 4県の海岸部だけが集中して報じられているだけで、県のすべてが瓦礫の山と化してしまったわけではない。

あれだけの地震だったのだから建物が倒壊したり道路が寸断されたりして内陸部の被害も相当なものだろうと思われるが、とにかく津波に呑み込まれたのは沿岸部だけのことである。

国内でさえ東北地方全域が破壊されてしまったようにイメージしてしまう報道のされかたをし、普通に生活している方もいらっしゃることを忘れてしまうのだから、海外に日本全体が壊滅したと伝わってしまっても文句は言えないだろう。

もうひとつの誤解といえば放射能に関してだ。

まるで感染するかのような扱いをした自治体の無能さに関しては数日前の独り言で触れたが、生鮮食料品に関する風評被害も止まらない。

最初に出荷を停止されたのは茨城県産の小松菜などだったが、茨城県で生産された野菜はすべて危険であるかのようなイメージを持ってしまった人も多かっただろう。

事実、出荷制限の対象になっていなかった茨城県産のレタスを捨ててしまったのは我が母だ。

手元にあるものは出荷制限の発表がある前に出荷されたものに決まっているし、ましてやレタスは制限されていないにも関わらず、負のイメージだけが脳内で増幅されてしまって廃棄という暴挙に及んだものと思われる。

我が母は元々神経質な面を持ちあわせているが、同様の振る舞いをしてしまった人は少なからずいるだろう。

店頭に茨城県産の野菜などを陳列していても売れ残ってしまうため、販売店も仕入れなくなるという悪循環が生まれて生産者を追い込む結果となる。

どこかで負のスパイラルを断ち切らなければならないが、ヒステリックな報道ばかり見せられると人は萎縮してしまい、間違った考えに偏ってしまう。

やれ人体に与える影響だの、摂取量がどうしたの、母乳への影響、それによる乳児へのリスクなど、恐怖心をあおる内容が 95%で、残りの 5%程度の時間を使って食べても心配するレベルではないと結ぶ。

延々とリスクを並べ立てたあとに 30秒くらいフォローするのが客観的な報道と言えるだろうか。

様々な報道やテレビ番組で何度も言われていることではあるが、放射能の含有量などレントゲンや CTスキャンで浴びる放射線量の数百から数千分の一というレベルでしかない。

その程度のものを腹一杯になるまで食べたところで人体に影響があるはずがない。

そんなことでガタガタ言うなら、一年に何度も X線や CT検査を受けている 『お買い物日記』 担当者はどうなる。

第一、最近になって重宝がられているカット野菜など、異物混入を防ぐために X線装置を通して検査しているのだから、測定したらビックリする量の放射能が検出されるかも知れないだろう。

少しは冷静になって、少しは想像力を働かせて、少しは自分で考えて、報道に振り回されることなく生活していただきたいものである。

最近の若い者は

最近の若い者は ~目次~

オッサン化の象徴であり、禁句とも言える言葉であるが、どうしても口を衝いて出てしまう。

どう考えても今の20歳の若者は自分が20歳の頃と比較して幼い気がしてならない。

それは見かけもあり、思想でもある。

1960年に 67.7歳だった平均寿命も 2008年現在で 82.6歳まで伸び、細胞の活動も伸び伸びになってしまったのだろうか。

つまり、平均寿命が 60歳だった頃の 20歳は人生の 1/3地点であるからして、平均寿命 80歳の現在では約 27歳が 1/3地点であり、精神的にも肉体的にも 50年前の 20歳と同じ成熟度に達するのは 30歳くらいになってからではないだろうかと妙な理論を打ち立ててみたくなるほど若者が幼く見える。

そのくせ、妙にこまっしゃくれており、小学生でも中学生でもテレビのインタビューに堂々と応えたりしている姿は一種異様な感じすら覚えてしまう。

カメラの前で受け答えする内容は、自分が小学生や中学生だった頃と比較して信じられないほどの完成度で、誰かがシナリオでも書いているのではないかと疑いたくなることもしばしばだ。

そのまま育てば、さぞかし立派な成人、大人、社会人になるだろうと頼もしく思えるのだが、どこでどう間違えるのか、どの時点で成長が鈍化するのか、高校生くらいからちょっとおかしなことになってくる。

自分が同年齢の頃は、悪く言えば反抗的で、良く言えば子供なりに自立の道を模索しており、親離れの準備段階に入っていたように思う。

ところが今の子は親の言うことを良く聞き、敷かれたレールの上を何の疑いもなくただ進むか、反抗するにしても部屋に引きこもったりニートになったりと内に入ってしまい、家庭内暴力で精神的にも肉体的にも親を傷つけるくせに家を出たり放って置かれることを拒絶する。

そんなに反抗したければ親の作る食事に手を出さず、自分で作るか外食するか、バイトでもして自分で生活すれば良さそうなものだが、部屋の前にそっと置かれる食事は毎回たいらげるという矛盾。

精神的レベルは幼稚園児かそれ以下でしかない。

男の子、女の子を問わず、大学生になっても見かけは妙に幼い。

パッと見は高校生か、中には中学生にしか見えない子もいる。

一昔前、バブル華やかりし頃の女子大生といえば、何とも淫靡なニュアンスを含んでおり、オッサンが金にモノを言わせて高級外車に乗せて連れ回したりしていたものだが、自分がオッサンになって女子大生を見てみると、決して性の対象になどならない単なる子供にしか見えない。

見かけだけではなく、精神的にも幼いままで中学生や高校生程度の感性しか持ち合わせていない子も多いように思う。

単純な例を挙げると、現、松任谷由実、旧姓は荒井由実が自分の存在を世に知らしめた 【あの日にかえりたい】 という楽曲をリリースしたのは 1975年で、同年にはバンバンというフォーク・グループに 【『いちご白書』をもう一度】 という楽曲を提供している。

その詞の内容、世界観は卓越した才能によって構築されているとはいえ、当時 21歳だった彼女の内の内たる部分から湧き出しているものだろう。

ひるがえって当時の荒井由実と同じ21歳であり、携帯世代の申し子と呼ばれる西野カナの詩の内容、世界観は実に浅く狭く、どの楽曲の詞をみても 「会いたい」「会えない」「会いに行く」「やっぱ会えない」 などと、妙に会いたがる女の子しか登場しない。

実のところ、彼女が成人しているとは外見だけでは信じられなかったし、今でも中学生くらいにしか見えないし、精神年齢も昔の中学二年生の夏休みくらいなレベルだと思われる。

当時の荒井由実と現代の西野カナには外見的にも精神的にも 10歳以上の年齢差があるのではないだろうか。

最近も AKB48のメンバーに 20歳以上の女の子が何人も含まれることを知って腰を抜かさんばかりに驚いたところだ。

どこからどう見ても子どもが学芸会の出し物として演じているようにしか見えなかった。

もちろん、自分がオッサンの領域に入って久しく、その年齢差から若者が幼く見えるのであろうことは否定できないが、現代っ子の成長速度が著しく鈍化し、いつまでも大人になれていないのも少なからず要因となっていると思えてならないのだが、果たしてどうだろうか。

想定外

今回の大震災は五百年に一度とも、千年に一度とも言われる未曾有の危機を及ぼす震度と大津波に襲われるという、まさに想定外の事態となってしまった。

想定外の高さ、エネルギーによる津波ですべてを飲み込まれてしまったため、世界規模で見ても史上 4番目といわれる想定外の大きさの地震による被害がどの程度だったのか明確になっていないが、仮に津波が発生しなかったとしても建物の倒壊や火災、がけ崩れや架橋、高速道路の崩壊によって甚大な被害が報告されていただろう。

まさに何もかもが想定を越える規模で、人智、科学の及ばない大災害となってしまった。

しかし、ここに来て多くのマスコミが論調を合わせるかのごとく、「そろそろ想定外という言葉は使ってほしくない」 などと言い出している。

遅々として進まない被災地の復旧に向けた政府の対応、終りの見えない原発事故に対する東電への対応に向けられたものとは言え、想定外だったものは仕方がないだろう。

今後、将来に向けた対応に対しては想定外を許すべきではないかも知れないが、過去の事柄に対しては批判のしようがない。

原発を作るときに耐震性能をどうすべきかは学者を交え、想定震度を 450ガルと定めて作られていたのに、建屋が今回の 507ガルに耐えたのはむしろ褒めるべきことだろう。

トラブルの主原因となっているのは津波による被害であり、設計時に想定した高さ、約 5メートルを大きく超える 14メートル以上の津波に襲われたのだから想定外という言葉の他に表現のしようがない。

まだ多くの被災者が不便な思いをしているのは事実だが、日本にあるどんな危機管理マニュアルにもこれほどの震度、津波の高さを想定したものはないだろうし、被害の規模が大きすぎて陣頭指揮をとるはずの自治体まで壊滅状態になるとは想像だにしていなかったはずだ。

複数箇所の道路、線路が分断されうることまでは想定できても、全ての陸路が遮断され、港も壊滅状態となって海路も使えず、空港が被災して飛行機も役に立たず、瓦礫の山でヘリコプターも着陸できないため、空路まで断たれるなどという最悪のシナリオを誰が描けただろうか。

警察も消防も被災し、市役所、役場も壊滅した状況下で被害の規模がまったく把握できないことなど誰が想像し得ただろうか。

菅内閣、民主党の対応の遅れを批判するのは簡単だが、時計の針を戻すことはできない。

仮に自民党だったら、谷垣内閣だったら万事が滞りなく進んだのか。

確かに阪神淡路大震災の時も自民党政権ではなく、経験の浅い当時社会党だった村山内閣、今回もヨチヨチ歩きの民主党政権だったのは日本にとって不幸なことかも知れない。

しかし、この想定の範囲をはるかに超え、万策尽きる事態に誰だったら、どの政党だったら国民の不安、不満を伴わずに解決できただろう。

想定外の規模の災害が起こってしまい、過去の遺物が破壊され、流されてしまったことを悔いても仕方がないし、その対策を批判しても仕方がない。

大切なのは、これから先の未来に向けた施策だが、それとて限度がある。

想定外と言わないためには想定できる最大限の対策を施さねばならない。

今回マグニチュード 9.0の地震に襲われたのだから、基準を見なおして建築物の耐震度を 9.5とかにすべきなのだろうか。

今回、最大で約 38メートルの津波に襲われたのだから、防波堤、防潮壁は 50メートルを想定して造るべきなのだろうか。

そんなことをしたらコストは 5倍にも 10倍にも跳ね上がるだろう。

福祉介護、医療、教育などのコストを削ってでも防災に回すべきか。

五百年、千年に一度の災害を想定して高コストな建造物を計画するのは国交省と土木・建築業者を喜ばせ、肥えさせるだけではないだろうか。

ここはヒステリックにならず、どこで線を引くべきかを慎重に見極めるべきだと思う。

デジタル化の波 Signal-8

デジタル化の波 ~目次~

先週の続きになるが、大きな災害に見舞われたとき、デジタル化しておけば損失を極めて少なくすることができるものが多いので、個人も行政も団体も真剣に導入を検討すべきだと思う。

病院ではカルテを損失してしまったため、治療の継続性が損なわれて困っているケースが多いが、やはり電子カルテをもっと普及させて医師会か厚労省かが数箇所のデータセンターにバックアップ機能を設け、データを管理すべきだと思う。

救出されても持病を抱えていたために命を落としてしまった人が少なからずおられるが、そんなことがあってはいけないし、せっかく救われた命なのだから大切にしなければいけないだろう。

スマートフォンや電子パッド、パソコンで電子カルテの情報さえ引き出せれば、個人がどのような病気を持ち、どのような治療がなされていて薬は何を処方されていたのか一目瞭然だし、不幸にして遺体として発見された場合も、歯医者さんのカルテが管理されていれば、治療の痕跡から身元特定もできる。

これは、ある程度の予算をとってでも実行すべきことではないだろうか。

市役所、区役所などの役場まで水没したため住民台帳や戸籍が消失してしまった地域もある。

賛否両論はあれど、はやり住基ネットから離脱するのは止めて電子化を進め、それを地方自治体、国が分散して管理し、どんな状況でもデータは残るようにすべきだと思う。

一部の反対論に流されて確固たるポリシーもないくせに住基ネットから離脱し、もしも戸籍や住民登録の情報を失ったら誰が責任を取るのだろうか。

以前にも書いたことではあるが、戸籍や住民登録関連の書類が手書きではなく印刷物として発行される自治体は、住基ネットに参加していなくても情報は電子化されており、データベース化されているということは本人が知らないだけで ID番号、つまりは一生の背番号が登録されいる訳である。

日本では、基礎年金番号、健康保険被保険者番号、パスポートの番号、納税者番号、運転免許証番号、住民基本台帳カードなど各行政機関が個別に番号をつけているが、どうせ番号をつけられるなら統一し、アメリカの社会保障番号のように何でも共通で使えるようにしたほうが便利なのに決まっている。

国民総背番号制などと言い、プライバシーだ人権だと騒わぐアホがいるが、バラバラではあるにせよ、すでに番号を付与されているのだから反対しても仕方ないだろう。

今回はネットという電子の世界がずいぶんと活躍した。

震災直後から一定期間、電話が繋がりにくい状態が続いたが、パソコンやスマートフォンで使える無料通話の Skype(スカイプ)は割と繋がりやすかったらしい。

持ち運びに便利なネットブックや電子パッド、スマートフォンを持っているなら Skypeをインストールしておくのが吉だろう。

Twitter(ツイッター)Facebook(フェースブック)も大活躍した。

現状をリアルタイムに知らせるサイト、安否を確認するサイト、避難所名簿の共有サービスなど様々ものが立ち上がり、ネットを使える人と使えない人では情報格差が大きかったものと思われるので、自分のアカウント登録(会員登録)までする必要はないまでも、いざという時に使えるようにお気に入りに登録しておくことをお薦めする。

そして、もうひとつのネットの功績は、ネット募金だけで数十億円という金額が集まったことだ。

それも災害発生から一週間で集まった金額だ。

そして、これは日本だけの集計分であり、世界中で実施されている日本に向けた募金活動の金額を合わせると、数百億円に達するのではないだろうか。

被災地の様子をテレビで見ていると、せめてもの思い出として写真を探している人が多い。

それを物理的な写真として保存するだけではなく、電子化したり、デジタルカメラで撮影した画像データを無料サービスのサーバーにアップロードしておけば思い出を失うこともないだろう。

もうデジタルカメラは珍しいことではなくなったが、そのデータを写真加工してモノとして残すだけではなく、データそのものを残しておいたほうが画質の劣化もなく、場所も取らないので便利であるし、今回のような災害を考えると写真にしたり CDや DVDのメディアにしておいても津波に流されたり燃えたり破損してしまっては意味がない。

もちろん手元に置いておいたり人に見せたりすることを思えば物理的に残すことも必要だが、そうした後にメモリーや HDDからデータを消去するのではなく、外部サーバーに預けておくのが良いだろう。

無料でデータを預かってくれるサービスは色々あるので代表的なものだけ列挙しておく。

SkyDrive(Microsoft提供)- 容量25GB
Windows Live Sync(Microsoft提供)- 容量4GB
Googleドキュメント(Google提供) – 容量1GB
quanp(リコー提供) – 容量1GB
Evernote(Evernote提供) – 容量60MB
SugaSync(BBソフトサービス提供) – 容量5GB
dropbox(dropbox提供) – 容量2GB 英語版のみ

単純に全サービスを利用したとすれば容量合計で40GB(ギガバイト)近くのデータを預けられ、400万画素の高画質写真でも 40GBあれば 2万枚ほど保管できるので十分だろう。

さて、いろいろと書いてはきたが、現代社会はもうデジタル化、ネット化を抜きにしては考えられなくなっているのではないだろうか。

多くの部分がデジタル化される将来においてはなおさらのことだろう。

好むと好まざるとに関わらず、切っても切れない関係にならざるを得ないに違いない。

デジタル化の波 Signal-7

デジタル化の波 ~目次~

音も映像もデジタル化が進み、アナログの持つ温かみが失われつつあると嘆く向きもあるが、今回の大震災でデジタル化の恩恵をつくずく感じることができたのも事実だ。

第一に被災地の状況が、ごく短時間のうちに全国に伝わる。

もちろん、物理的に人が移動して現地の映像を撮影したり音を録音するのはアナログ的作業なので、その体制が整うまでは一定の時間が必要だった。

しかし、準備さえ整ってしまえばハイビジョンの鮮明な映像、生々しい声が届けられるのはデジタル化されたデータが衛星を経由してテレビ局に送信されるからだ。

過去には日付が変わる頃に締切りを迎えていた新聞の原稿も、今は電子写植となったのでデジタルデータがそのまま印刷可能となり、深夜まで編集作業をすることができる。

おまけに記者は情報を新聞社に届ける必要がなくなった。

過去には取材を終えて社に帰り、写真を現像して手書きのメモから記事を起こすというアナログな作業を必要としたが、今では現地で対応できる。

ICレコーダーに録音した記者会見の内容を音声認識ソフトでザクっとデジタル文書化し、それに修正を加えて推敲ソフトで誤字脱字がないかチェックすれば原稿のできあがりで、デジタルデータとなっている写真と共にネット経由で送信すれば完了だ。

テレビ報道では様々な人が撮影した津波に襲われる様子が放映されているが、それもデジタル化が進んだ結果として誰でも容易に動画撮影することができるようになったからだろう。

8ミリの時代、ビデオテープの時代では、これだけ多くの映像は残らなかったに違いなく、小さなムービーカメラ、携帯電話の動画撮影機能があればこその恩恵である。

地震発生時の様子をとらえたテレビ局内の映像、設置カメラによる外の映像、コンビニなど店内の様子が録画されているのもデジタル化のおかげで、映像圧縮技術と大容量ハードディスクドライブ(HDD)の力が大きい。

過去はビデオテープの交換が必要となり、一度に2時間とか3時間しか記録することができず、防犯カメラや定点カメラの映像を何日分も保存しておくことなど不可能だった。

今はHDDに 10日分でも 20日分でも映像を残しておくことができるし、一定期間を過ぎた部分に上書きすることも可能なので物理的に壊れるか、停電にでもならない限りは録画状態のまま放置しておける。

実に便利な世の中になったものだ。

そして、もうひとつ痛感したのは生体認証システムの必要性だ。

災害で通帳、印鑑、キャッシュカードはおろか、クレジットカードまで失い、銀行から現金を引き出すことすらできずに困っている人が多い。

郵便局も含めた各行は本人確認さえできれば 10万円まで、20万円まで預金を引き出せる措置をとっているが、免許証、保険証、パスポートや住基カードなど、身分を証明書するものすら持っていない人が多いだろう。

そこで役立つのが生体認証システムで、目の虹彩、指紋、静脈、人相などで本人確認することができる。

一時期、キャッシュカードの偽造が横行した際に東京三菱銀行を筆頭に ATMへの搭載が進められたが、その後に犯罪が振り込め詐欺にシフトしてしまったことと、カードを再発行するたびに生体情報を登録しなければいけないという煩雑さから普及にブレーキがかかってしまった。

しかし、今回の件を機に認証システムの低価格化、普及スピードが加速することを望む。

たとえ通帳や印鑑、身分証明証、カードがなくても自分の体が役割を果たすことができる。

こちらに越してきてから取引している銀行は生体認証システムを持っているが、面倒なことと必要性を感じなかったことから登録していない。

しかし、万が一に備えて登録しておくべきだろうと 『お買い物日記』 担当者と話しあったりしているところである。

プロフェッショナル

やはり餅は餅屋、本当のプロというのは凄いものである。

少し前の独り言に書いたように、最近は仕事中にスカパーの音楽専門チャンネルの音だけを聴いていることが多い。

好むと好まざるとに関わらず、一方的に曲を押し付けられる感も否めないが、同じ曲を繰り返し聴いているより飽きないし、なかなか良い具合ではある。

流行している K-POPの少女時代や KARAの曲を毎日のように聴かされるのも何ではあるが、なかなか良くできたメロディーだと感心させられてしまう部分も多い。

一昔前まで韓国の音楽といえば日本の曲をそのまま頂いちゃった系のものだったり、アメリカの曲をキムチ味にアレンジしてみました系のものが大半を占めていたが、国内だけではなく日本市場、アジア市場までも見据えた曲作りができるプロが育ってきたのだろう。

日本では音楽産業の低迷が続いているが、その K-POPと秋元康が率いる AKB48プロジェクト(4KB48、SKE48、NMB48、SDN48)だけは元気がよろしい。

スカパーを聴いていても AKB48関連の曲が実に多い。

しかし、単なる流行、オタク向けアイドルといった偏重や偏見を抜きに AKB48の歌の詩を見てみると、やっぱりプロが創ったものは違うと感心してしまう。

日本の音楽シーンにはジャリタレに毛の生えた程度のアーティスト気取りが横行しているが、まともに詩を書けず、少女漫画の主人公が書く日記みたいなものばかりなのでオッサン、オバチャンには共感できる内容ではない。

たとえば今のシーンズは卒業をテーマにした曲も多く、AKB48も 『桜の木になろう』 をリリースしているが、その詩の世界は奥が深く、校庭に咲く桜の木が視点となっている。

そして、大雑把に言えばその桜の木が心の、そして人生の目印となるという内容だ。

桜の木になろう』(©秋元康/横健介/AKB48)

この卒業をモチーフにした場合、アーティスト気取りの中途半端な芸能人は愛だの恋だの、別れだのと脇腹が痒くなるような詩になるか、とにかく頑張れ人生に負けるなといったメッセージ・ソングになるのがオチだろう。

そんな程度の歌が乱発されるのだから CDだって売れるはずはなく、たとえ単価の安いダウンロードだって数が伸びるはずがないものと思われる。

心に届きもせず、響きもしない詩など聞く価値もない。

日本人も感性が豊かになり、過去とは比べものにならないくらいメロディアスな曲を作れるようになったのは認めるが、詩の内容が幼すぎる感は否めないので、やはりその道のプロフェッショナルに作詞を依頼すべきではないだろうか。

音楽業界もアーティスをを甘やかさず、もっと厳しい目で評価し、育てていくべきだと思う。

東北地方太平洋沖地震

とてつもない規模の地震が発生してしまった。

呑気に雑感など書いている場合ではないのである。

この町も海沿いにあり、海岸近くの地域には避難勧告がでていたほどだ。

今回の地震は阪神淡路大震災の180倍の規模。

それだけではなく、10メートルを超える津波、連鎖する大型地震。

現代日本社会が初めて直面する 『巨大複合型災害』 になってしまった。

地方によって呼び名は異なるようだが、過去の経験から緊急時に食糧や飲料水を支援する協定を結んだスーパーやコンビニも迅速に対応し、システムは機能しているようだ。

地震国なので経験値が高いということもあるだろうが、国民性によるところも大きいだろう。

地震直後、棚から商品が散乱したコンビニで買い物する人たちの姿が映し出されていたが、棚に残った商品から自分が必要な分だけ買い物かごに入れ、きちんとレジに並んでいる。

ここで暴動や略奪がおこったり、他人のことを考えずに食糧などを買い占める人はいない。

さすが日本人。

今回の災害に関しては世界も見守っているものと思われ、そういう日本の国民性をも見ることになるだろう。

まだ余震などが続くものと思われるが、冷静な行動が求められるところだ。

災害の規模、範囲はとてつもなく大型、広域であるため、まだまだ被害の全容は把握できていないが、災してしまった方々のご無事をお祈りするとともに、不幸にして命を落としてしてしまった方々のご冥福をお祈りしたい。

2011年大阪の旅 -3-

2011年大阪の旅 -2-

大阪滞在三日目。

いよいよ大阪最後の日となったが、ホテルのチェックアウトは 12:00までとゆっくりできるし、飛行機の出発も 16:05と時間にかなり余裕がある。

そこで、大阪の観光でもしようかと思ったが、バスで通天閣まで行ってガイドさんの説明を聞いて戻ってくるというプランだと時間が足りない。

もちろん USJに行って遊ぶ時間も吉本新喜劇を見る時間もない。

そこで、JR大阪駅近辺で時間をつぶそうと、梅田スカイビル最上部の空中庭園に行ってみるか、HEP FIVEの観覧車にでも乗ってみるかと思案したところ、若者向けの商業施設である HEP FIVEであれば、朝から混雑していることもなかろうという結論に至り、ブラブラと地下を歩いて行ってみることにした。

大阪に十数年も暮らしていて、HEP FIVEには足を踏み入れたこともなかったのでたどり着くまで少し迷ってしまったが、何とか 10:00くらいには建物の入口に立つことができた。

ところが案内板を見てみると、すべての営業開始が 11:00となっている。

若者は朝早くから行動しないだろうという読みは当たっていたが、その施設まで朝が遅いというところまでは考えが及ばなかった。

カフェにでも入って 11:00の開店を待とうかとも思ったが、それから観覧車に乗ったりして遊んだ場合、チェックアウト時間である 12:00までにホテル帰ることができるか微妙なところだ。

そうなったら今から空中庭園のある梅田スカイビルまで移動して、庭園を散策してホテルに戻る時間があるのかも微妙な感じになってくる。

しばし考え、目の前にあった 『水野真紀のMaki’s魔法のレストラン』 でも紹介されたという店で焼きドーナッツを購入し、とぼとぼと歩きながらホテルに戻った。

それからは、ホテルでボ~っとしていても仕方がないと、さっさとチェックアウトして関空に向かう。

どやらそれが良かったようで、となりのお店ワンプの住む反対隣りのお宅用のおみやげなどを、ゆっくりと時間をかけて見ることができたし、ぼてじゅうでお好み焼きを食べることもできたし、喫茶店に入ってじっくりコーヒーを飲むこともできた。

ぼてじゅうでは隣の席に外国人カップルが座り、ベラベラと英語で会話をしていたので日本語のメニューが分かるのか心配したが、注文をとりにきた店員さんに女性のほうが日本語でオーダーしていた。

おまけに出てきたお好み焼きをコテで切り分け、見事な手つきで箸を使っていたのでなかなかの日本通らしく、余計な心配をして損をした気分になってしまったではないか。

心配された天気も回復して雲の間から青空がのぞき、新千歳空港の雪もあがって離着陸とも問題なさそうだ。

ここでも晴れ男は幸運に恵まれた訳である。

途中で気流が乱れることもなく、順調に飛行できたため予定時刻より少し早く到着したことが幸いし、あきらめていた早い時間の電車に乗ることもできた。

しかし、金曜の夜ということもあって電車はえらい混みようであり、デッキにまで人が溢れている。

これから一時間以上、疲れてはいるが立って帰らなければいけないと覚悟を決めたが、次の到着駅で目の前の座席にいた母娘が降りていったのですぐに座ることができるという幸運にも恵まれたのである。

今住んでいる町に到着したのは 21:00少し前で、昼食をして以降、何も食べていないので途中のコンビニで何か買おうという目論見と、北海道のわりに寒くもなく、風も穏やかだったので駅から自宅まで歩いて帰ることにしたのだが、帰り道の商店街では道路の両側をロウソクで照らす 『キャンドルの小径』 というイベントが開催されていた。

その中をキャスター付きのカバンをコロコロ引いてゆっくり歩きながら帰宅できたのも幸運だ。

今回の旅は本当に幸運続きで、大きなトラブルもなく目的を達成し、会いたい人に会って来ることができた。

またいつか、何年後になるかは分からないが、大阪を訪れることが出来ればと思う。

それまで皆さん元気にしておられることを心から願いつつ。

2011年大阪の旅 -2-

2011年大阪の旅 -1-

大阪滞在二日目。

この日は朝から仕事関連の人と会うことになっており、『お買い物日記』 担当者もよく知っている人なので一緒になんばまで行って落ち合ったが、時間が早すぎて落ち着いて話せそうな喫茶店などが開いていない。

待ち合わせたのは、なんばCITYにあるホテルだったので近くにあるなんばパークスに行ってみることになった。

なんばパークスは大阪に住んでいるときに完成していたが、出不精であるゆえに足を踏み入れることもなく北海道に帰ってきてしまったが、こうして久々に来て施設内を歩くことになるのだから不思議なものである。

いや、近くにあると、いつでも行くことができるという意識が働いてしまい、余程のことがない限りは行かないものなのだろう。

そして、なんばパークス内を歩いていて気づいたのだが、お会いした人の歩くスピードが異常に速く、ちょっと小走り気味にしなければ付いて行くことができない。

そう言えば移動手段として使った地下鉄御堂筋線の構内でも次々と人に追いぬかれた。

そうだ、そうだった。

大阪人は歩くスピードが日本一速いのだった。

以前は人の妨げになってはいけないと同じ歩行速度で歩いて通勤していたはずなのに、ゆったりとした時間が流れる北海道の生活にすっかり慣れ、歩くペースも遅くなってしまったのだろう。

話しが終わってその場で別れ、いよいよ千里丘に向かうことになったが、おみやげを渡したのに相手からも何やら頂いてしまい、バッグの重さはちっとも軽くならない。

みやげ物で重くパンパンになったバッグを持ちながら千里丘駅に到着。

駅構内を歩いても、街の風景を見ても思ったほど懐古の念にとらわれることもなく、ただ久しぶりだと感じる程度だった。

大阪で十数年ほど暮らし、以前に暮らしていた札幌の町を見たときはとてつもなく懐かしかったが、三年程度では懐かしさを感じないものらしい。

千里丘駅の一階にあるレンタサイクルの 『駅リンくん』 で自転車を借りて千里丘周辺をウロウロする。

まずは十数年間もお世話になった借家の大家さんに会いに行く。

ただ単なる貸主と借主の関係ではなく、本当にいろいろとお世話になったので是非にでもお会いしておきたい方なのである。

そこで近況などを報告し、急にバタバタと引っ越してしまったことを詫びて 『お買い物日記』 担当者の病気などについて一通り話し、またいつかの再会を約束して席を立つ。

ここでもおみやげをお渡ししたが、それ以上の頂き物をしてしまい、バッグの中は減るどころかさらに大きく膨らんだ。

ここから自分と 『お買い物日記』 担当者は別行動。

自分は仕事でお世話になっている方々を訪問し、『お買い物日記』 担当者はお世話になった方々や、友だちになった人たちとの再会だ。

別行動をして 4時間後に千里丘駅で合流すると、おみやげのバッグがはち切れそうなくらいバンバンに膨らんでいる。

会う人、会う人、みんなから頂き物をしてしまい、来る時より明らかに大きくなったバッグを持って帰ることになってしまった。

予報では大阪は雨で、当日はどうなることかと思ったが、最後の最後まで天気は持ちこたえて駅リンくんに自転車を返却するころになって小雨が降りだす程度で済んだ。

どうやら晴れ男の面目躍如といったところであるし、これも旅の最初から続いている幸運のひとつであろう。

そして、いよいよ明日は大阪滞在三日目、それが最終日であって夕方の便で北海道に帰ることになるが、予報では大阪も新千歳も悪天候で、この時期は珍しくない欠航や新千歳に降りられずに引き返すなどという事態にならないことを祈るばかりだが、それはまた 2011年大阪の旅 -3- に続くということに。