今回の大震災は五百年に一度とも、千年に一度とも言われる未曾有の危機を及ぼす震度と大津波に襲われるという、まさに想定外の事態となってしまった。
想定外の高さ、エネルギーによる津波ですべてを飲み込まれてしまったため、世界規模で見ても史上 4番目といわれる想定外の大きさの地震による被害がどの程度だったのか明確になっていないが、仮に津波が発生しなかったとしても建物の倒壊や火災、がけ崩れや架橋、高速道路の崩壊によって甚大な被害が報告されていただろう。
まさに何もかもが想定を越える規模で、人智、科学の及ばない大災害となってしまった。
しかし、ここに来て多くのマスコミが論調を合わせるかのごとく、「そろそろ想定外という言葉は使ってほしくない」 などと言い出している。
遅々として進まない被災地の復旧に向けた政府の対応、終りの見えない原発事故に対する東電への対応に向けられたものとは言え、想定外だったものは仕方がないだろう。
今後、将来に向けた対応に対しては想定外を許すべきではないかも知れないが、過去の事柄に対しては批判のしようがない。
原発を作るときに耐震性能をどうすべきかは学者を交え、想定震度を 450ガルと定めて作られていたのに、建屋が今回の 507ガルに耐えたのはむしろ褒めるべきことだろう。
トラブルの主原因となっているのは津波による被害であり、設計時に想定した高さ、約 5メートルを大きく超える 14メートル以上の津波に襲われたのだから想定外という言葉の他に表現のしようがない。
まだ多くの被災者が不便な思いをしているのは事実だが、日本にあるどんな危機管理マニュアルにもこれほどの震度、津波の高さを想定したものはないだろうし、被害の規模が大きすぎて陣頭指揮をとるはずの自治体まで壊滅状態になるとは想像だにしていなかったはずだ。
複数箇所の道路、線路が分断されうることまでは想定できても、全ての陸路が遮断され、港も壊滅状態となって海路も使えず、空港が被災して飛行機も役に立たず、瓦礫の山でヘリコプターも着陸できないため、空路まで断たれるなどという最悪のシナリオを誰が描けただろうか。
警察も消防も被災し、市役所、役場も壊滅した状況下で被害の規模がまったく把握できないことなど誰が想像し得ただろうか。
菅内閣、民主党の対応の遅れを批判するのは簡単だが、時計の針を戻すことはできない。
仮に自民党だったら、谷垣内閣だったら万事が滞りなく進んだのか。
確かに阪神淡路大震災の時も自民党政権ではなく、経験の浅い当時社会党だった村山内閣、今回もヨチヨチ歩きの民主党政権だったのは日本にとって不幸なことかも知れない。
しかし、この想定の範囲をはるかに超え、万策尽きる事態に誰だったら、どの政党だったら国民の不安、不満を伴わずに解決できただろう。
想定外の規模の災害が起こってしまい、過去の遺物が破壊され、流されてしまったことを悔いても仕方がないし、その対策を批判しても仕方がない。
大切なのは、これから先の未来に向けた施策だが、それとて限度がある。
想定外と言わないためには想定できる最大限の対策を施さねばならない。
今回マグニチュード 9.0の地震に襲われたのだから、基準を見なおして建築物の耐震度を 9.5とかにすべきなのだろうか。
今回、最大で約 38メートルの津波に襲われたのだから、防波堤、防潮壁は 50メートルを想定して造るべきなのだろうか。
そんなことをしたらコストは 5倍にも 10倍にも跳ね上がるだろう。
福祉介護、医療、教育などのコストを削ってでも防災に回すべきか。
五百年、千年に一度の災害を想定して高コストな建造物を計画するのは国交省と土木・建築業者を喜ばせ、肥えさせるだけではないだろうか。
ここはヒステリックにならず、どこで線を引くべきかを慎重に見極めるべきだと思う。