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記憶の欠落

すっかり記憶力が衰えて芸能人の名前を覚えられないどころか二日前に食べたものさえ思い出せないような有様であるが、それは加齢にともなう衰えであるので世間的にも自分自身も仕方のないことだと認識したり諦めたりできることだ。

そんな欠陥が出始めた脳でも昔のことは良く覚えているものだという一説があるが、自分の場合の記憶はまだら模様であり、時期的に欠落している部分が多いのは、記憶をつかさどる脳の機能に問題があるのではなく、最初から情報を得ておらず、忘れてしまって記憶していないのではなく、元々インプットされていないという事柄が多々ある。

具体的には流行歌、その時代に流行っていた曲はところどころ抜けている。

最初に記憶がないのは中学生後半から高校くらいまでの流行歌で、不良仲間と遊ぶのに忙しく、テレビを見る時間などなかったのが原因でろうが、その頃に広く世の中に浸透していた時代を反映する歌を知らない。

次には 18歳から 21歳の 3年間ほど。

パチンコ、マージャンに忙しく、いわゆる J-POPなどさっぱり分からない。

パチンコ屋の BGMは懐メロ、入り浸っていた喫茶店の BGMは洋楽、いつも行く居酒屋の BGMは演歌、家には寝に帰るだけなのでテレビも見ない。

その後、コンピュータ業界に入ってからは帰宅時間が遅く、家のテレビもゲーム機と化していたので歌番組など見ることもなく、数年間は時代と共に流れた歌を記憶していない。

その次は 1992年からの数年間。

お買い物日記』 担当者の母親、父親、自分の父親が次々に入退院、闘病の末の他界ということが続いた上に自分の母親の入院、大阪への転勤、阪神淡路大震災、努めていた会社の倒産と怒涛の日々が続き、息つく暇もなく 5年が過ぎてしまったので、流行っていた歌などさっぱり分からない。

それから数年間も何かと気ぜわしく大阪で暮らしていたが、仕事先の事務所で FMラジオを聴くようになったので音楽と接する毎日を過ごしていたから思い出と共に音楽がある。

そして、北海道に帰ることに決めた 2008年、アメリカで暮らしていた 『お買い物日記』 担当者の兄の末期的病状の発覚、急遽の引越し、兄の他界と続いたかと思えば、今度は 『お買い物日記』 担当者自身の闘病生活。

それが落ち着くまでの 1年間、どんな曲が流行っていたのか覚えていない。

そんなこんなで流行歌に関しては断片的な記憶しかないのだが、今年に入ってからの情報量は実に膨大であり、邦楽から洋楽、K-POPに至るまで有料の衛星放送で聞きまくっている。

将来、過去のことを思い起こせば様々な曲を聞いたという事実だけは記憶しているに違いないと思われるが、問題は脳が老化しており、どれが誰の曲なのかさっぱり分からないことと、それが 2011年からのことであると覚えている自信がないことであったりするのである。

超常現象

最近になって不思議な光を見るようになった。

一カ月くらい前のことになるが、夜中に目が覚めてトイレに行き、中から出ると洗面所の床の一部がオレンジ色に乱反射している。

それは直径 30センチくらいの円形で、夕日に照らされオレンジ色の光を反射する川面のようにキラキラと、寝ぼけた目にはまぶしすぎるほど強い光を放っていた。

そんなところに水などあるはずもなく、きっと窓の外から光が射し込んでいるのだろうと思い、外を見てみようと一歩踏み出したとたんに忽然とオレンジの光は消えてしまった。

慌てて窓を見たがガラスの外は暗く、光があった様子も遠ざかっていく様子もない。

しばらくその場に立ち尽くし、今のは何だったのか考えてみたが答えなど得られるはずもなく、きっと寝ぼけていたのだろうと自分に言い聞かせて布団に入ったが、あの美しいオレンジ色のキラキラ輝く光が目に焼き付き、なかなか眠ることができなかった。

朝になって目を覚ますとそのことはすっかり忘れてしまっていたのだが、それから数日後になって再び光を見ることになる。

お買い物日記』 担当者のお供で自転車に乗って買い物に行く途中、右目の端にキラキラとオレンジ色に輝く光の映像が飛び込んできた。

何かと思って振り向くと、すぐ横をまばゆいばかりに光り輝く蝶がヒラヒラと飛んでおり、それがあの夜に見たものと同じオレンジ色であることを思い出す。

それは一瞬、いや、一秒くらいのことだったのだろうか。

目で追っていたはずの蝶は一瞬にして消え去り、忽然と姿を消してしまった。

そこで夜中に見た光のことを思い出し、さらに気づいたのだが、あの水面に夕日が乱反射してキラキラしているように見えたのは、実はたくさんのオレンジ色に輝く蝶が一箇所に集まっている光景だったのではないだろうか。

そう思えば思うほど、あの夜の光が蝶の集まりだったように思えてくるし、記憶として残っている映像も意思に引きずられて変化したのか、水面より蝶の集まりだったように見えてくる。

それから何事も無く過ごしており、そのことも忘れかけていた数週間後、前回とは違う店まで買い物に出かけた際に再びオレンジ色に輝く蝶が視界に飛び込んできた。

今回もやはりすぐ近くを飛んでいたかと思うと目の前でパッと消えてしまう。

一度ならず二度までも同じものを見たことを単なる錯覚とか妄想で片付けて良いものだろうか。

そして、もう忘れることはないだろう。

あの夜の出来事と昼間の二度の出来事を。

二度あることは三度あるはずなので、いつか再びオレンジ色に輝く蝶が姿を表してくれるのではないかと期待している。

精神や頭、目がおかしくなった訳ではない限り、それを見たのには何らかの意味があるはずであり、何らかの結論に達しない限りは何度も同じものを見るかもしれない。

今後、二度とオレンジ色の蝶を見なかった場合、2011年8月から9月の一時期、精神状態が不安定になって妙な幻覚を見てしまったと、この雑感か 『独り言』 に記すことにしようと思う。

マサルノコト scene 31

マサルノコト目次

それはひどく残暑の厳しい年のことである。

その日は仕事関係の付き合いで法事に出席するため和歌山県に行っていた。

一段落して近くの居酒屋で和歌山近海物の魚を食べながら酒を呑み、少し気分を良くしながらのホテルへの帰り路、同行していた 『お買い物日記』 担当者が携帯電話で自宅の電話の留守録を確認する。

少し怪訝な顔をしながら
「マサルさんからのメッセージなんだけど」
と言い、電話機を渡された。

聞こえてきたのは、いつものおどけた調子と異なり真剣で、どこか暗く沈み、少し震えるように
「何時になっても構わないから連絡して欲しい」
というマサルの声だ。

マサルの身に何か起きたのか、マサルの妹、両親に何かがあったのか、とにかくホテルに帰る時間も惜しみ、その場でマサルに電話した。

何度目かのコールで電話に出たマサルの声はやはり暗い。

「どうしたっ?」
「・・・」
「何があったっ!?」
「・・・それがよぉ」
「・・・」
「・・・」
「・・・何だよっ!どうしたんだよ!」

とても話しづらそうにしているマサルの口から出た言葉を、最初は正確に、いや、まともに理解することができなかった。

「・・・ノブアキが死んだ」
「・・・」
「・・・」
「・・・」
「・・・なに言ってるだよ。」
「ノブアキが・・・」
「・・・何の冗談だ?」
「冗談でこんなことが言えるかっ!!」

昭和ドラマでありがちなセリフだと、妙に醒めた脳の一部で思いながらも、こういう状況になったときは本当にこんなセリフしか口からでないものだと、もう一部だけ機能している脳が納得する。

それ以外の部分の脳は完全に機能を停止し、何も考えることができないし、次に何を言っていいのかすら分からない。

『お買い物日記』 担当者に腕をつかまれ、
「ど、どうしたの!?」
と声をかけられて、そこが見たこともない土地の路上であること、そして、今はマサルとの通話中であることを思い出した。

ゆっくりと、そしてやっと再起動した思考でやっと口から出たのは
「ど、どうして?何が原因で死んだんだ?」
という気の利かない有りふれたセリフ。
「心不全としか聞いてないからよく分からん」
という怒ったようなあきらめたようなマサルの答え。

それから何を話し、なんと言って電話を切ったのか記憶がない。

『お買い物日記』 担当者に支えられながらホテルに戻り、ベッドに横たわったが酒が入っているのに目が冴えて眠ることが難しかった。

実感がなく、悲しみは湧いてこない。

まだまだ死を意識するような年齢ではなく、社会的には若手と呼ばれる世代であり、人生においても仕事においても、これから先は無限の可能性を秘めた未来が開けているはずだった。

まだ結婚もしておらず、東京から仙台に転勤になったばかりのノブアキの未来も同じように開けていたはずなのに、それが閉ざされてしまったという事実。

それから何日後だったのか記憶していないが、遺骨となって故郷に帰ったノブアキを偲ぶ集まりがあったので帰省し、マサルと一緒に出席した。

「わざわざ遠くから来て頂いて・・・」
と、ノブアキの伯母上が来てくれたので、以前から知りたかったことを思い切って訪ねてみた。

「実は知らされていないのですが、ノブアキ君は何が原因で・・・」
最後まで言い切る前に伯母上の顔色が明らかに変わり、何も聞こえなかったように場を去っていってしまった。

その夜、母親から聞かされたのは信じがたいウワサ。

ノブアキの父君は町の盟主であり、一定以上の地位に就いていたので、その子供の死については多くの人が詮索し、様々な話がもれ伝わっていたという。

そして、その多くはノブアキの死因が自殺であるということ。

中学生の頃から多くの時間を共に過ごしたのでノブアキのことを少しは分かっているつもりで、とても自殺などするとは思えない。

翌日、空港まで送ってくれるというマサルの車に同乗し、
「ノブアキに関する嫌な話しを聞いたぞ」
と、その話しを切り出した。
「たぶん同じウワサを俺も聞いたよ」
とマサルが応じる。

自分はまだ中学校からの付き合いだが、マサルとノブアキは小学校時代からの友達だ。

マサルは優しく、人間ができていて器も大きいので、以前の雑感にも書いたとおり、悩みを打ち明ければ毎日でも、何時まででも話しに付き合ってくれる。

自分など頼りにならないが、死ぬほど辛いことがあったのなら、どうしてマサルにだけは話さなかったのか、悔しさと腹立たしさが込み上げてきてノブアキを攻め立てることを言ってしまいそうだったので、空港に着くまでマサルと交わす言葉は少なかった。

ノブアキの身に何が起こったのかは今も分からないし、一人で何を苦しんでいたのか今となっては知るすべもない。

あれから何度の夏が過ぎただろう。

明日、九月四日はノブアキの命日である。

帰省の成果

少し前の雑感に書いたように、今回の帰省では我が母にデジタルテレビのリモコン操作を教えるのも一つの目的だったが、それを果たすことができたのでちょっと満足している。

とは言っても天気予報を見たければ (d) ボタンを押し、もっと詳しく知りたければ赤いボタン、通常の画面に戻りたければもう一度 (d) ボタンを押すという、実に単純極まりない操作なので覚えられないはずはないのだが。

しかしながら、姉妹喧嘩の原因ともなるリモコン操作を覚えさせたのは一定の成果と言って良いだろう。

今回の帰省でも叔母の家に顔を出し、こちらで用意したみやげを持っていったのだが、到着した時はトイレ掃除の最中で、終わるまで待っていろと言う。

事前に電話して訪ねることが分かっているのだから、掃除を途中で切り上げるなり急いで終わらせるなりしてくれても良さそうなものだが、妙な気を使わないのも使わせないのも叔母の良いところであったりする。

しばらく待ってトイレ掃除が終わったはずなのに、今度は二階に上がっていって帰ってこない。

お買い物日記』 担当者と二人、放って置かれてしまったが、それもまた良しということでテーブルの上にあるリモコンを見たりしていると、デジタルテレビのリモコンに HDD/BDレコーダーのリモコン、それらの操作を覚えさせた学習リモンまで置いてあり、相変わらず最新機器を使いこなすスーパー婆さんぶりを発揮していた。

おまけに携帯電話まで所有しており、アナログ時代から半歩だけ前進できた我が母とは雲泥の差がある。

しばらくして二階から降りてきたと思ったら 『お買い物日記』 担当者を呼び、玄関でガサゴソと何やら始めた。

どうやら自分が履けなくなった靴を譲ろうとしているらしいのだが、どれもこれもサイズが合わず、とても残念そうにしている。

次に二階から運んできた衣類を広げ、どれもこれも片っ端から着てみるように命じ、『お買い物日記』 担当者の好みなど無視してサイズさえ合えば、いや、多少は合わなくても袖が通るものに関しては一つ残らず持って行けという。

それでも何点かは気に入ったものもあったようなので無駄ではなかったものの、みやげ物を配ってせっかく軽くなったカバンが膨らむ結果となってしまった。

我が母も急に何を思ったのか、若い頃に身につけていた宝飾品を引っ張り出し、
「どうせ使わないんだから全部持って行って」
などとぬかすが、ケース入りの指輪やネックレスなどかさばって仕方がない。

もともと宝飾品に興味を示さない 『お買い物日記』 担当者だが、法事の時などに使えそうなものだけ受け取ってカバンに詰め込んだ。

自分は食っちゃ寝ばかりしていたので今回の帰省で得たものは脂肪と贅肉だけだが、『お買い物日記』 担当者はある程度の戦利品を手に入れることができたようだ。

毎回の帰省で思うのだが、どうも自分より 『お買い物日記』 担当者のほうが優遇されているような気がしてならないのは、単なる気のせいだけなのだろうか。

真性雑感 第二版

真性雑感 ~目次~

なぁ~んにもネタが思いつかず、ゴールも決めずにダラダラと雑感を書いたのは 2007年のことで、だいたいはパソコンに向かえばネタが思いつき、昭和のコントで演じられるような頭をかきむしったり、原稿用紙を何枚も丸めて部屋中をとっ散らかす小説家のような悩み方をしたことがないのだが、今日は脳の調子が良くないのか、気分が乗らないのか、5分ほど画面を無表情に見つめて時間を浪費しただけであり、頭の中にポン!とネタが浮かばない。

そんな訳で今回もゴールが見えないまま、何の脈絡もなく思いつくまま、ただひたすらに文書化していってみることにする。

午前中、買い物に行ったついでに来週の帰省の際に着るものでも買おうかとブラブラ店をのぞいてみたが、売り場はすでに秋物に替わっており、いくら夏が短い北海道であっても来週はまだ夏服で良いであろうから購入対象となる商品が売られていない。

さらについでを思い出し、『お買い物日記』 担当者が求める下着も探したが、こちらもすでに秋冬用の暖か素材、暖か繊維で冬でもポカポカ的なものしか売っておらず、やっぱり購入の対象となるものが見当たらなかった。

お盆も夏休みも過ぎたこの時期に、ノコノコと夏物を買いに行こうというのが間違いであって、良く考えてみれば分かりそうなものではあるのだが、どうも我家の場合は二人とも抜けていて、その場に行って事実を突きつけられてから現状を把握することが多かったりするのである。

夏の終わりが近づいてきている目下のところ、我が家の一番の悩みは土日の麺類と、毎日飲むコーヒーがいつまで冷たくて良いのかということだ。

夏の初め、そろそろ頃合いだろうと冷たい麺を食べ、寒さの余り全身鳥肌状態になったのは記憶に新しい。

9月中旬、いや、頑張って下旬まで食べられるのか。

そして、現在飲んでいるアイスコーヒーも、その頃になればホットに切り替えるべきか。

コーヒー豆は挽いた状態での長期間保存は困難だと思われる。

アイスコーヒー用の豆は、あと何グラムくらい必要なのか。

実に難しく、悩ましい問題だ。

世の中にはもっと大きく、もっと深い悩みを抱えている人が多いだろうが、我が家の悩みなど所詮はこんな程度だったりするのである。

デジタル化の波 Signal-9

デジタル化の波 ~目次~

先月のことになるが、とうとうテレビは地上デジタル放送へ全面移行し、震災のあった東北地方の一部を除いてアナログ放送が終了した。

長く慣れ親しんできたゴースト現象、ちょっとザラつく画面、微妙に受信可能な映像をもう見ることができないのは少し寂しさすら感じてしまう。

大阪に暮らしていた頃、ビデオデッキ 2台を経由してテレビまで電波を引き回していたものだから、全国どこでも一定の感度で受信できるはずの NHKの画面が乱れ、ひどいノイズが乗った映像を見ていた。

もちろん、最初に電波を入力しているビデオデッキで見ると映像が綺麗なのは分かっているのだが、わざわざ電源を入れて入力切り替えまでして見るのは面倒だったのでノイズ乗りまくりの荒い画面を毎日見ていたのである。

それがデジタル放送になると一切のノイズがなく、今もレコーダー2台を経由してテレビに接続しているが、NHKを始めすべてのチャンネルがクリアに見えるのは実に喜ばしいことだ。

しかし、デジタルは 0 か 1、ON か OFF、つまり受信できるかできないか、どちらか一方しかないので、どんなに汚い映像でも良いから何とか受信したいという欲求には応えられない。

大阪では阪神タイガースの試合が見たくてKBS京都やサンテレビの映像を、ザラザラにノイズが乗り、ゴースト現象で選手が2-3人に分裂して見えるような劣悪な環境の中、目を充血させてまで見ていたものであるが、あのような微妙に受信できている状態というのはデジタルでは不可能なことだろう。

もう大阪に住んではいないので予想でしかないが、京都、神戸方面の放送を受信したければ、そっちに向けたアンテナが必要だと思われる。

あるいは SCテレビ放送に加入してタイガース全試合放送のサービスを受けるしかないだろう。

そういう融通の効かないのがデジタルであり、アナログのような寛大さがない。

ラジオのデジタル化に関しても随分前から議論はされているが、災害時、遭難時など、電波状態の良くない場所で何とか情報を得ようとするニーズは確実にあるはずなので、一定以上の電波品質がなければ受信できないデジタル放送は向かないのではないだろうか。

携帯電話にしてもそうで、アナログであれば例え山奥であっても微弱電波を拾って何とか連絡することができるかも知れないが、デジタルでは融通が効かない。

しかし今の携帯電話を考えると、メール送受信、Webページの閲覧など、通話以外の利用のほうが多いので、やはりデジタル化は避けられなかっただろうし、デジタル通信になったのは当然、必然の流れだったのだろう。

テレビのデジタル放送に話しを戻せば、双方向通信によって様々な情報が得られるなど、デジタル化のメリットは大きいが、それを享受できるのは操作を覚えられる人だけだ。

我が母は新しいリモコンのスイッチの多さに閉口し、業者さんに設定し直してもらった昔のテレビのリモコンを使い続けている。

したがって、リモコンにはデジタル情報を取得するための (d) ボタンなどない。

いつも天気予報を気にしている我が母だが、いつも見ている予報を見逃してしまい、同じ街に住む妹に電話をして明日の天気を尋ねたことがあった。

叔母は新しいものへの順応性が高く、ワープロだろうとデジタルテレビだろうと使いこなせるスーパー婆ちゃんなので、チャチャッとリモコン操作して予報を表示し、内容を我が母に伝える。

そして、単にリモコンの (d) ボタンを押すという 1ステップの操作でしかないので、我が母に操作を教えようとしたらしいのだが、説明を聞く前から
「私にはできない」
「古いリモコンを使っているからできない」
と言い張り、かたくなに教えを受けようとしなかったらしい。

さすがに叔母もキレたのだろう、我が母が何か言う途中でガチャリと電話を切ってしまっという。

たかがリモコンのボタンを一つ押すだけの操作を拒絶して覚えようとも聞こうともしない婆さんもどうかと思うが、それに対してキレる婆さんもいかがなものかと思う訳で、所詮は似たもの同士、同じ血が流れる姉と妹なのだと呆れ果ててしまう。

20日過ぎに帰省するつもりでいるが、デジタルの恩恵にあずかっていない我が母にリモコン操作を教えるべきか悩んだりしている今日この頃である。

ガリガリ君

08月04日の独り言に 『お買い物日記』 担当者が書いているガリガリ君を食べたことはあるのだが、それはずいぶん大人になってからのことだ。

ガリガリ君世代ではないのかと考えたこともあるが、実はピッタリ合致していたりする。

では、なぜ子供の頃に手を出さなかったのかといえば、それは単純に近所の駄菓子屋にもスーパーにも売っていなかったからだと思われる。

製造販売しているの赤城乳業が、北海道まで販路を伸ばせたのは最近になってのことではないだろうか。

何せ、北海道には雪印乳業という巨大な壁があった。

あの大事件があって以降、当時の支配力は見る影もないが、明治製菓やロッテなどの超メジャーブランド以外、その牙城を突き崩すことなど不可能に近かっただろうと容易に想像がつく。

また、流通も個人商店、地場のスーパーが経済の中心で、全国規模の大手スーパーなど存在しなかったことから、埼玉県にある会社の商品が北海道に流通することなど極めて稀なケースだったと思う。

したがって、コンビニ、スーパーチェーンが台頭するようになるまで、ガリガリ君が北海道の子どもたちの目に触れることはなかったに違いない。

1981年の発売開始以来、30年の時を経て一大ブランドに成長したガリガリ君は、他のメーカーにとって垂涎の的となっていることだろう。

これだけのネームバリューがあれば、新しい味の商品を発売しても最小限の宣伝広告費さえ投入すれば消費者が勝手に広めてくれるだろうし、アイスの季節がやってきても莫大な費用をかけて宣伝する必要もない。

そして、30年間も続く超ロングセラー商品など簡単に開発できるものではない。

おまけに最近では玩具メーカーからガリガリ君をカキ氷にする商品まで発売され、その人気には一点の陰りもないようだ。

話を最初に戻すと、自分はガリガリ君を食べたことがある。

ありはするのだが、それがいつのことだったか、普通のソーダ味を食べたのか、他の味を食べたのか、それをどこで食べたのか一切の記憶がない。

北海道の夏は短いが、涼しい季節になる前にもう一度食べてみようかと思ったりしている今日この頃である。

自分解体新書 - 6 -

自分解体新書 ~目次~

■ エクボ

実は両頬の同じ位置に、見事なほど奥に引っ込むエクボがある。

幼少の頃から若さ溢れる頃までは、それがチャームポイントとなって人からは可愛いと言われたものだが、今となってはシワの一部になりかけているし、オッサンの頬にエクボがあったからと言って何の魅力にもならない。

おまけに何の加減なのか、エクボからヒゲが生えてくるのが困りものだ。

過去に何度も書いているように一般男性より薄く、男らしい立派な黒々としたヒゲなど生えてこないのにエクボの穴からは10本くらいずつ芯のあるヒゲが伸びてくる。

その部分を剃り忘れたりしようものなら、ものすごくおかしな事になるので気を使ってしまうし、不精ヒゲを生やそうにも、せめてそこだけでも剃らなければエクボ部分がエライことになってしまう。

自分だけではなく、それがエクボのある人共通の悩みであるのか知りたいところだ。

■ 唇

若い頃は保湿力もあってプルルンとしていた唇もカサカサになって皮がむけるようになった。

ところがリップクリームとかが苦手なので血が吹き出しても自然治癒するのを待つのが常となっている。

カサカサと痛みに耐えかねてリップを塗ってみることもあるのだが、どうも皮が一枚増えたような、モッタリ感というかノッタリ感というか、あの違和感が好きになれない。

女性は口紅だ、グロスだと、よくあんなに塗りたくって気持ち悪くないものだと感心してしまう。

■ 舌

加齢と共に味蕾(みらい)が衰え、味覚に鈍感になるらしい。

その他にも喫煙、刺激物の摂取による衰えもあるという。

3年前に止めはしたが人に言われぬ年齢から喫煙を続けていたし、今では年に一度くらいしか飲まない炭酸飲料も若い頃はゴクゴク飲み、おまけにアルコールもバンバン飲んでいたので相当なダメージもあると思われる。

しかし、その割には味は良く分かっているつもりでいるのだが、もしかすると自覚のないまま味覚は衰えているのか。

我が家の料理は 『お買い物日記』 担当者の配慮によって薄味だが、加齢と共に味付けが濃くなるのは味覚の衰えに起因し、本来であれば気にしなければならない塩分や糖分の摂取量がどんどん増えてしまって体調をくずすという末路が待っている。

そういう意味からも味覚の衰えには注意が必要だが、外食したり既製品のものを食べたりすると異常に塩辛かったり甘ったるかったりするので、まだ味に鈍感にはなっていないのではないかと自負しているところだ。

■ 毛髪 -その 2-

また抜け毛の季節が到来し、洗髪の後、排水口に溜まる髪が水流でとぐろを巻くようになった。

抜けた量を十分に補えるかどうか定かではないが、とりあえず新しい毛もチクチクと生えてきているのが救いではあるが、どうも白黒のバランスがおかしい。

排水口に溜まるのは圧倒的に黒い毛が多いのだが、新しく生えてきている毛は圧倒的に白が優勢なのである。

浴室の床が明るい色なので白髪が目立たず、抜け毛の大多数が黒く見えるだけかも知れないと思い、排水口に溜まった毛を確認してみたこともあるが、やはりどう見ても 7:3 くらいの割合で黒い毛が多い。

このペースで生え変わったならば、あと数年すれば完全なる白髪になってしまうのではないかと予想される。

今でさえ同年代の男性より圧倒的に白髪が多いのに、まだ爺さんになる前に白髪になるのもどうかと思うが、それはそれでちょっと面白いかも知れないとか思ってしまう自分もいたりする。

最近の若い者は 4

最近の若い者は ~目次~

特に最近の芸能人、いや、お笑い芸人に多いのだが、自分の家族のことを 『お父さん』『お母さん』『お姉ちゃん』などと呼んでいる。

以前の雑感に書いたような事情で、自分も母親のことを直に呼ぶときは未だに
「お母さん」
と言ってしまうが、他人に話すときは 『母』 と言うし、『お買い物日記』 担当者や知人と話すときは 『お袋』 などと呼ぶ。

いや、それが常識であって社会人になると、いやいや、社会人になる前に学校で教えてもらったと思うのだが、今はそのような教育をしないのだろうか。

これが年端も行かない子役とかジャリタレだったらまだしも、20や30歳にもなって言っているようでは、まともな言葉遣いも出来ない良識に欠ける人物と評価されてしまうだろう。

学校で教わらなくても社会に出れば、それがたとえ芸能事務所であろうと何だろうと一般常識くらいは教えるべきだし、せめて先輩は注意すべきではないだろうか。

おとうさんは父、おかあさんは母、おねえちゃんが姉、おにいちゃんが兄、そして、祖父、祖母、おじ、おばなどなど、身内を呼ぶ場合と、社外の人に対しては、例え上司、社長であっても社内の人間は呼び捨てで良いという最低限の教育くらいは最初に行っていただきたい。

このまま社会の代謝、世代交代が続けば、おかあさんと呼ぶのが常識となってしまいそうだ。

それどころか社内の人間を呼び捨てにしたりすると、非常識な人間だと思われる日が来てしまうかも知れない。

かなり以前にも書いたが、芸能人、女優、話すことを職業とする人でさえ、語尾上げ、語尾伸ばし、食べられるを食べれるという『ら』抜き、マクドナルドの店員みたいに
「ご意見の方、お待ちしております」
などという『ほうほう』言葉、最近になって流行り始めた
「◯◯じゃないですかぁ」
という表現を使い、それがメディアという力のある媒体に乗って常識となりつつあるのは実に嘆かわしいことである。

まだ若い子が言っているのなら我慢もするが、40にも50にもなったオバチャン、大勢の部下を持つ管理職のオッサンまでそんな話し方なのには腹立たしさすら覚える。

そんなオバチャンの話しなど聞きたくもないし、そんな話し方をする管理職がいる会社とは取り引きもしたくない。

イライラして精神衛生上もよろしくないので、そんな話し方や言葉づかいをする輩は絶滅して頂きたいと心の底から願っている。

記憶 Memory-07

過去の記憶

両親共稼ぎだったので、生まれて間もなくの頃から他人に預けられて育った。

当時は今のように乳幼児の保育施設など充実しておらず、核家族は自身の親に我が子の面倒をみてもらう訳にもいかなかったが、まだ住民同士のコミニュティは機能していたので血のつながりのない子供を預かるなどというのは珍しいことではなかったのである。

最初に預かってもらったのはマエダさんというおばあちゃんの所で、0歳から2歳くらいまでの頃だったと聞いている。

さすがにハッキリとした記憶はないが、その面影や部屋の造りなどは何となく、そしてボンヤリとした映像として残っている。

昔の人は子だくさんで、言わば子育てのプロのようなものだった。

我が母が相手の機嫌を損ねぬように恐る恐ると
「そろそろミルクではなく離乳食にして頂きたいのですが」
と切り出したところ、
「もう一カ月も前から離乳食にしてるんだよ」
という回答であったという。

知らぬは我が両親だけでマエダさんはさっさと次の段階に進んでおり、間に立たされた自分は日がある間は離乳食、夜になればミルクを飲まされるという実に妙な食生活を一カ月間も強いられる羽目になったのである。

今の時代であれば、
「親の知らぬことを勝手にされては困る」
とか、
「誰に断って離乳食にしたんだ」
とか一悶着ありそうなものだが、昔は身内であれ他人であれ、年長者のすることは往々にして正しく、まだ若かった我が両親も
「へへぇ~、おみそれ致しました」
と頭をさげるしかなかったようだ。

マエダさんが体調を崩したのか、他に理由があったのか覚えていないが、3歳になる前に預け先がオキザキさんという老夫婦の家に変わった。

二人は実に穏やかな夫婦で、実の孫のように、いや、それ以上に可愛がってくれた。

おじいさんは今で言う潔癖症に近い人だったようで、人が口をつけたものは、それが自分の子供であっても実の孫であっても口に入れようとしなかったらしいのだが、他人の子供である自分が口をつけたものは気にせず食べていたという。

おばあさんは絵が上手で、馬とか犬、うさぎなどとリクエストするとササッと描いてくれたものだ。

それが影響してか、子供の頃からオッサンになった今でも絵を書くのが好きで、一時期は絵で生計を立てようと本気で考えたこともあったほどである。

その優しい老夫婦のことは、本当のおじいちゃんとおばあちゃんだと信じて疑わず、自分にだけは父方、母方の他にもう一組、計六人の祖父がいるものだと思っていた。

老夫婦の家の隣には息子夫婦と本当の孫が暮らす家があり、その孫は自分より二歳上の女の子、一歳上の女の子、一歳下の男の子の三人だったのだが、その三兄弟と
「私たちのおじいちゃん、おばあちゃんだっ」
「いーや、おれのじいちゃんとばあちゃんだっ」
と真剣に大喧嘩したこともある。

おじいさんは早くに亡くなってしまったが、おばあさんは実に長生きしてくれて、亡くなったのは大阪で暮らしていた頃だ。

訃報を聞いたとき、実の祖母が亡くなったような悲しみと寂しさにつつまれたが、仕事の関係で残念ながら葬儀に参列することは叶わなかった。

それでも、その数年前、『お買い物日記』 担当者と一緒に会いに行けていたのが心の救いだ。

その時に会ったおばあさんは、幼児の時から数十年も経過しているのに少しも変わらず、あの時のままのおばあさんだったのが今でも不思議でならない。