両親共稼ぎだったので、生まれて間もなくの頃から他人に預けられて育った。
当時は今のように乳幼児の保育施設など充実しておらず、核家族は自身の親に我が子の面倒をみてもらう訳にもいかなかったが、まだ住民同士のコミニュティは機能していたので血のつながりのない子供を預かるなどというのは珍しいことではなかったのである。
最初に預かってもらったのはマエダさんというおばあちゃんの所で、0歳から2歳くらいまでの頃だったと聞いている。
さすがにハッキリとした記憶はないが、その面影や部屋の造りなどは何となく、そしてボンヤリとした映像として残っている。
昔の人は子だくさんで、言わば子育てのプロのようなものだった。
我が母が相手の機嫌を損ねぬように恐る恐ると
「そろそろミルクではなく離乳食にして頂きたいのですが」
と切り出したところ、
「もう一カ月も前から離乳食にしてるんだよ」
という回答であったという。
知らぬは我が両親だけでマエダさんはさっさと次の段階に進んでおり、間に立たされた自分は日がある間は離乳食、夜になればミルクを飲まされるという実に妙な食生活を一カ月間も強いられる羽目になったのである。
今の時代であれば、
「親の知らぬことを勝手にされては困る」
とか、
「誰に断って離乳食にしたんだ」
とか一悶着ありそうなものだが、昔は身内であれ他人であれ、年長者のすることは往々にして正しく、まだ若かった我が両親も
「へへぇ~、おみそれ致しました」
と頭をさげるしかなかったようだ。
マエダさんが体調を崩したのか、他に理由があったのか覚えていないが、3歳になる前に預け先がオキザキさんという老夫婦の家に変わった。
二人は実に穏やかな夫婦で、実の孫のように、いや、それ以上に可愛がってくれた。
おじいさんは今で言う潔癖症に近い人だったようで、人が口をつけたものは、それが自分の子供であっても実の孫であっても口に入れようとしなかったらしいのだが、他人の子供である自分が口をつけたものは気にせず食べていたという。
おばあさんは絵が上手で、馬とか犬、うさぎなどとリクエストするとササッと描いてくれたものだ。
それが影響してか、子供の頃からオッサンになった今でも絵を書くのが好きで、一時期は絵で生計を立てようと本気で考えたこともあったほどである。
その優しい老夫婦のことは、本当のおじいちゃんとおばあちゃんだと信じて疑わず、自分にだけは父方、母方の他にもう一組、計六人の祖父がいるものだと思っていた。
老夫婦の家の隣には息子夫婦と本当の孫が暮らす家があり、その孫は自分より二歳上の女の子、一歳上の女の子、一歳下の男の子の三人だったのだが、その三兄弟と
「私たちのおじいちゃん、おばあちゃんだっ」
「いーや、おれのじいちゃんとばあちゃんだっ」
と真剣に大喧嘩したこともある。
おじいさんは早くに亡くなってしまったが、おばあさんは実に長生きしてくれて、亡くなったのは大阪で暮らしていた頃だ。
訃報を聞いたとき、実の祖母が亡くなったような悲しみと寂しさにつつまれたが、仕事の関係で残念ながら葬儀に参列することは叶わなかった。
それでも、その数年前、『お買い物日記』 担当者と一緒に会いに行けていたのが心の救いだ。
その時に会ったおばあさんは、幼児の時から数十年も経過しているのに少しも変わらず、あの時のままのおばあさんだったのが今でも不思議でならない。