大阪府摂津市JR千里丘駅周辺密着情報!!

またマスコミ批判

この雑感では何度もアホなマスコミのことを書いているが、やはり今回も納得できないことばかりで文句の一つも言っておくべきだろうと書き始めているところである。

なにはともあれ箱根関連のニュースだ。

あれだけ大騒ぎし、今日か明日にでも水蒸気噴火を起こして昨年 9月 27日に発生した御嶽山の噴火の時のように大きな被害になるかも知れない的な報道をしておきながら、風評被害で箱根観光への大きな影響が懸念されるなどとぬかしている。

「せっかく来たのに残念です」

「規制がかかっているので引き返します」

「こんなことになっているとは知りませんでした」

などなど、観光客がろくに景色も見られずに引き返していく様を何組も、そして何分間も放送しておきながら今になって規制されているのは半径 300メートル程度のごく限られた地域であり、周辺の温泉街、芦ノ湖には何ら影響がないのにも関わらず宿にはキャンセルが相次いでいるなどと伝えるのはどういう神経なのだろう。

まさに竜頭蛇尾というやつで、最初にアホほど騒いでおきながら終わりの方はショボショボになってしまっているし、マッチで自ら火事を起こして煽り、それを自らポンプで消すというマッチポンプの典型である。

マスコミがギャーギャー騒いだ結果が宿泊のキャンセルという事態を招いているという自覚はないらしい。

同じく竜頭蛇尾の典型的なパターンとなってしまっているのが 4月 25日にネパールで発生したマグニチュード 8を超えると思われる大地震に関してだ。

あの加熱とも思われる報道はどこに行ってしまったのか、今でも被災者が増え続け、各国の救助隊が必至に作業しているというのにニュース番組で割かれる時間、新聞で割かれる紙面の大きさは縮小する一方となっている。

その惨状、現状も伝えず番組終わりに募金だけ呼びかけても視聴者の意識はあの大惨事から遠のいてしまっているのではないだろうか。

店の商品に異物を混入させたり万引きしたりする動画をネットに投稿し、警察を挑発しつつ逃亡して逮捕されたバカのその後がどうなったのかも分からない。

自宅に立てこもった元探偵が上階から物を落として暴れていた事件もどうなったのか。

そもそも人質もとらず、自宅にいる状態が立てこもり事件と呼べるのかという疑問はさておき、彼はなぜ暴れていたのか、危険ドラッグでもやっていたのか、心の病にかかっていたのか、単なる酔っぱらいだったのか、あの事件が起こったことだけは分かっているが結果も真相も伝えてもらっていないような気がする。

何かが起こったと伝えたのなら、結果がどうだったのか最後まで伝える責任がマスコミにはあると思うのだがどうだろう。

『ニュースバリュー(news value)』 とは、報道に値すると認められるニュースの重要性・価値のことだが、少なくともネパール大地震の被害は伝えるべき重要なことだと思えてならない。

収集癖

自分には収集癖というものがない。

子供の頃、切手収集している友だちに感化されたことがあるが、それも長くは続かず・・・というより、ごく短期間で興味を失い、わずかながら集めた切手を譲って収集をやめてしまった。

スナック菓子のおまけとして手に入るプロ野球カードも数十枚は持っていたが、存在するカードをすべて集めようなどという気はなく、その数十枚も集めている友だちに譲ってしまったし、仮面ライダーのカードもあったが結末は同じようなものだ。

以前の雑感にも書いたように子供の頃から芸能人の大ファンになることもなかったので、特定の人のポスターや CDなどを買い揃えたこともない。

ギリギリのガンダム世代で、確かにアニメは好きだったので複数のシリーズは見たものの、マニアのように DVDを買ったりガンプラと呼ばれるプラモデルを組み立てたり、何万円、何十万円もするようなフィギュアを買うこともなかった。

一から十まで揃えたものと言えば、ある作家の小説を単行本で何百冊も保有していたことはあったが、大阪から北海道に越してくる際に処分してしまったので今はない。

今は海外ドラマばかり見ており、中にはとても好きなドラマもあるが、録画したものを保存しているのは 2作品のシリーズのみで、その他のものはすべて消去してしまっている。

この、物に思い入れがなく、物に頓着しない性格は、どうやら親譲りらしい。

三歳の時に妹に死なれているため限りなく一人っ子に近いので、普通であれば溺愛されて宝のよう育てられ、ありとあらゆる思い出の品がありそうなものだが、そういったものは手元にも実家にも存在しないのは、親が自分と同じような性格だからなのだろう。

いや、この親にしてこの子ありといったところか。

実家を出て一人暮らしを始め、最初は年に何度も里帰りをしていたが次第に足が遠のき、一年に一度、二年に一度と間隔があいていった。

ある日、数年ぶりに帰省したところ実家が建て替わっている。

豪雪地帯に建つ実家の二階から落ちた凍り固まった雪が、一階の屋根に大きな損傷を与えてしまったため建て替えることにしたらしいのだが、そんな話しは聞かされていなかったので外観も変わってしまった実家に驚いた。

そして、さらに驚いたのは以前の家に存在していた子供部屋、つまり自分が子供の頃から実家を出るまで過ごした思い出の部屋もなく、そこに収められていた学習机やベッド、その他の置物や小物まで一切のものが残っていなかったことだ。

父親にも母親にも収集癖はなく、物に執着しないので我が子も同様であろうと勝手に処分した結果なのだが、それに対して自分は一瞬のとまどい、驚きを感じたものの、寂しさも腹立たしさもなかったので相談されてもされなくても結果は同じだったことだろう。

そして、それを機に処分したのか、最初から保存などしていなかったのか、子供の頃の成績表、持ち帰ったテスト用紙、卒業証書、学校で書いた絵、市が主催する絵のコンクールで最優秀賞をとった賞状、その時の絵、子供の頃の声が録音されているテープなどなど、ちょっと気の利く親、思い出を大切にする親なら保管しておくであろうものも綺麗さっぱりと無くなっていた。

さすがに我が子の誕生は嬉しかったらしく、生まれてすぐから小学校低学年までの写真は何枚か残っているが、それとてアルバム一冊に収まる程度の枚数でしかない。

そして自分も親と似たり寄ったりで、若かりし頃に遊びまくった友だちとの写真、仕事や社員旅行で何度か行った海外旅行の写真も残っていないし、そもそも撮影すらしなかった。

子どもの思い出の品を何ひとつ保存しておかないクールな親、それに腹も立たなければ悲しくもない子、やはり我が家には物に頓着しない血が流れているものと思われる。

消せない記憶

パラオ、ポーランドなど親日国は多い。

第一次世界大戦後に日本の統治領になったにも関わらず日本を好きでいてくれるのはパラオだが、それは日本人が現地の人に対し熱心に教育を行い、住環境整備とともに多数の学校や病院を建設したことと、第二次大戦で敗戦の色が濃くなり、いよいよ日本統治領、大日本帝国軍の前線基地でもあったパラオにアメリカ軍が攻撃を仕掛けてくるという段になると島民 899名全員を安全な場所へすみやかに避難させたことで、この中からひとりの犠牲者も出さなかったという歴史があるからだ。

ポーランドは第一次世界大戦後、ロシアに残留したポーランド人の孤児たちを日本赤十字社が救済したことが親日の理由らしい。

その他にも日本を好きでいてくれる国は多いが、その多くは戦争にまつわる話が主で、日本人に対して良い印象、記憶が残っているからだ。

昔のことを今でもありがたく思っていてくれる。

自分たちに良くしてくれたと今でも感謝してくれている。

・・・。

それを考えると、いつまでも日本を恨み続ける国があっても当然か。

中国、韓国の内政干渉、領土権の主張、歴史認識の問題視など、あまりにも過剰であまりにも執拗だと辟易することもしばしばだが、何年、何十年が経過しても親日でいてくれる国があるのと同様に、いつまでも反日な国が存在しても仕方がないのかも知れない。

事実、それだけひいどことを日本はしてきたし、一部で歴史をねじ曲げて自国の罪まで日本に押し付けている面が無きにしもあらずではあるものの、うるさいとか、しつこいとか、いい加減にしろなどと言えない立場であるのも事実だったりする。

先日、アメリカのオバマ大統領が国際テロ組織アルカイダによって人質にされていたアメリカ人とイタリア人を誤って殺害したと発表し、遺族に謝罪した。

近年のテロ対策や戦争では民間人の犠牲が問題視されているが、第二次大戦ではアメリカ軍による大空襲によって全国で 200以上の都市が被災し、死傷者数は 100万人にも及ぶと言われているし、2発投下された原爆によって 30万人近くの人が犠牲になった。

これが現代であれば世界から非難の的になるようなことであるし、大量虐殺と変わらない事実であるにもかかわらず親米でいるのは日本人がアホなのか、それとも寛大なのか。

嫌なことをいつまでも引きずらない、忘れっぽいのが短所でもあり長所でもある日本人は歴史すら水に流すことができる国民性なのかもしれない。

したがって、いつまでも感謝されると照れくさいし、いつまでも恨まれると鬱陶しい。

いや、消せない記憶があるのは分かっているのだが・・・。

レイコノコト

叔母は母親の二歳違いの妹、その名をレイコという。

そして、にわかには信じがたいことだが、レイコは漢字で冷子と書く。

可愛い娘に冷たい子と名づけるとは何と言う親かと思うが、実は王に令の玲子と命名したのだが、役所に届ける際に父親の字があまりに達筆すぎたのか悪筆すぎたため『冷』となってしまったという。

それにしても役所の人だって、よりによって我が子に冷子などと名づけるはずはないと常識的に考えれば分かりそうなものだが、昔の役所勤めしている人は特権意識が強く、一般市民を見下している人が多かったので、下々の者に正しい漢字を聞くのをためらったのかもしれない。

結果的に冷子と受け付けられ、冷子と受理されてしまい、その後しばらくは住民票も戸籍抄本、謄本を必要としなかったため、親としても我が娘が冷子として世に存在しているなどと夢にも思ってもいなかったのだろう。

たぶんその名が災いしたのだろうと思うが、レイコは結婚することなく生涯独身を貫くことになってしまった。

自分が子どものころからレイコは変わらず、今も昔も行動的だ。

為替が固定で 1ドル 360円もしたころに何度も海外旅行に行き、当時としては珍しい現地の食べ物や民芸品を買ってきてくれたりした。

今のように格安パック旅行もなく、ドルが高かった時代に好き勝手に旅行できたのは、結婚しておらず身軽だったこともあるだろうがレントゲン技師として病院勤めをしていたので高給取りだったのではないかと思われる。

病院で何かのライセンス取得の際に高卒の資格が必要になり、旧制度の学校しか出ていなかったレイコが通信教育で 4年をかけて高卒の資格を取得したのは 40歳を過ぎてからだ。

この街がさびれ、交通網が狭まり不便になったといって自動車の運転免許を取得しようと自動車学校に通い始めたのは、もうすぐ 60歳にならんとする頃で、仮免や卒業検定で落ちまくった結果、普通の人の倍ほどの費用をつぎ込むことになってしまった。

やっと免許を取得したレイコは中古の小さな車を買い、あちこち遠出をして楽しんでいたらしい。

最近は耳が遠くなってきたものの、まだまだ元気で洒落た衣装に身を包んでスタスタと遠くまで歩き回っているし食欲も旺盛、言語も明瞭なスーパー婆さんだ。

若い頃のレイコはとにかく行動的、活動的で理路整然とものを言い、どこかクールで簡単には人を寄せ付けない雰囲気の持ち主だった。

楽しく遊んでくれる訳ではないのに、なぜかそんなレイコのことが好きで、小さな頃はよく病院に遊びに行ったり自宅に遊びに行ったりしていたものだ。

幼稚園か小学校低学年の頃には N と M は怪しいながらも A~Z までアルファベットの読み書きはできるようになっていたし、Sunday から Saturday まで曜日を理解できるようになっていたのはレイコに教えてもらったからだ。

毛糸編みの鈎針で鎖編みするところまで教えてくれたのもレイコだし、干支の十二支を暗記させてくれたのもレイコで、ナイフとフォークの使い方を教えてくれたのもレイコだった。

そして、レントゲン技師らしく人間の骨の構造を教えてくれ、絵を描くのが好きだった自分は小学校 3年くらいの頃には頭のてっぺんから足の先までの人体骨格図をわりと正確に描けるようになっていたものである。

海外旅行ばかりしていたので世界地図を広げて行った場所を教えてくれたりしていたため、多少はいびつだったものの世界地図も小学校時代に描けるようになった。

骨や世界地図が描けるようになったからといって理科や地理の成績が良かったわけでもなく、アルファベットを早くに覚えたからといって英語が得意になったわけでもないので、教えたレイコとしては心底がっかりしたことだろう。

レイコが小学校五年生の頃から母親のショウコと姉妹で同じ街で暮らし、高度成長期の波に乗って栄え、活気にあふれて人口も増加し、町から市へとなった発展を見続け、ショウコの結婚、出産をも見守ってきた。

そして、生まれた自分の成長もずっと見てきてくれた。

共稼ぎの親が研修だの何だので家を留守にするときはレイコの家に泊まったし、子どもの頃は母親と大喧嘩するたびにリュックに荷物を詰めてレイコの家までプチ家出したりしたものだ。

そんなこんなで昔からの自分を知っているため、今でも口やかましく事あるごとに説教されたりしてしまう。

目下のところ、レイコの心配の種はショウコの体調である。

大阪に暮らしていた頃、冬道で転倒してショウコが骨折した時も電話してきて
「年寄りの骨折は怖いんだからね」
と開口一番に言い、
「このまま寝たきりになる事だってあるんだから覚悟しておきなさい」
と一気にまくし立てる。

そして、いつまでも年寄りの一人暮らしをさせておく訳にはいかないのだから大阪に呼んだらどうかと言う。

もちろん、そうしても構わないが、そうなれば今度は片田舎でレイコを一人にしてしまうことになり、子どもの頃から世話になっている自分としては心が痛む。

そこで
「一緒にこっちで暮らす?」
と聞いてみたが、
「あんたは○○家の人、私は△△家の人だから世話にはならない」
と言い張る。

その時はショウコも寝たきりにはならなかったので話は立ち消えたが、今度は北海道に帰ってきて最初の帰省の時だ。

北海道に帰ってきた年は 『お買い物日記』 担当者の大病のため帰省しなかったが、翌年には化学療法も終わったので帰省ラッシュの盆を避けて 9月になってから実家に帰った。

その際、食事の用意をしたからみんなで食べに来るようにというレイコからのお達しがあり、ショウコと自分、『お買い物日記』 担当者の三人で家に行き、それなりに楽しい食事をした後に待っていたのはレイコの説教だ。

自分に向かってではなく、ショウコに向かって
「あんただっていつまでも一人で暮らせる訳じゃないんだから」
と言いはじめ、
「あそこの施設に入るなら最低でもいくらが必要だ」
とか
「誰それさんが入っている施設は良いらしい」
などと、ショウコに聞かせるふりをして母親をどうするつもりかと自分に問い詰めている。

その時もショウコはそれほど弱っておらず、やはりショウコをこの街から連れ出せばレイコ一人になってしまうことが心に引っかかり、生返事をしながらレイコの言葉を聞き流していた。

その後も何度か同じような話があり、そのたびに話を聞き流したりしていたが、ついに今回の骨折騒ぎである。

今度は昼食の代わりに宅配ピザを頼んだなどと言いつつレイコは我が実家に乗り込んできた。

そして、登場するや否やショウコに向かって
「あんた!これから先どうするのっ!」
と説教を始め、
「もう一人で暮らすのなんか無理だからねっ」
と強い口調で迫り、
「私も一人で暮らすのが辛くなってきたから札幌に引っ越すよっ!」
と切り札のように言ってのけた。

その後、ピザが届いたので話題は途切れ、食後に世間話をしている時に、ショウコが今年は庭の改装と台所の窓の取替えをするつもりだと話すと、ショウコがまだこの家で一人で暮らす気でいることをレイコは悟ったようで、
「それじゃあ札幌行きはまだ先にするかね」
と言い残し、深いため息をつきながら帰っていった。

9人きょうだいの下から二番目であるにも関わらず、それも女手ひとつで実母の面倒を最後の最後まで看たレイコ。

姉を思う妹、老婆を心配するレイコ。

レイコの目には年老いたショウコの姿が痛々しく映っているのだろう。

・・・。

しかし、本人に自覚はないだろうが、冒頭に書いたようにレイコはショウコと二歳しか違わない超高齢者だったりするのであった。

あれから

あれから七年。

できるだけ長く過ごしたかった義兄が逝ってしまったあの日

大阪を離れて北海道に帰ることにした事情。

アメリカに住む義兄が体調を悪くし、帰国したのが 2008年 2月

念のため東京でも検査を受けたが、告げられたのは余命三カ月という辛い現実。

医者の言う余命三カ月は最大値で、もし長く生きられたとしても三カ月ということだが、一日でも長く生きてほしい家族はそう受け取らず、最短でも三カ月は生きていてくれて、もしかすると半年、一年と一緒に過ごせるかもしれないと。

しかし現実はあまりにも残酷で、過ごせたのは帰ってきてたったの三日間。

2008年1月末帰国、2月1日に再会、 2月3日に大阪を離れると決め、2月18日に大阪を後にし、2月19日に北海道着、2月21日に義兄が他界。

あまりに急なことで 2月3日から 18日までの記憶が薄っすらとしかなく、何をどうやって箱詰めして引っ越し準備をしたのか。

通常であれば一カ月前に申し出なければならない部屋の解約も、事情を知って快諾してくれた大家さんに感謝。

今、様々なことを思い出しているのは、アメリカから義兄の知り合いが来てくれて墓参りをしてくれたからだ。

義兄は帰国の途につく際、飼っていた猫 2匹をあずけてきた。

来てくれたのはその猫たちを最後まで世話してくれた人で、今回は天寿を全うした猫たちの遺灰も届けてくれたのだが、それは義兄との約束を果たすためでもあったらしい。

義兄から猫を譲り受けた、あるいはもらったのではなく、あずかると約束したのだそうで、あずかった以上は返すのが筋だと考えておられるようだ。

遠くまで来てくれた礼をすると、たった一言
「あずかるという約束でしたから」
とおっしゃっていた。

墓に向かって手を合わせ、何度もため息をつき、目頭を押さえておられたが、心の中で義兄と何を話したのか。

急ぎ旅の途中だったので、合流してから墓参りをして別れるまで 30分もなかったが、とても濃密な時間を過ごしたように思う。

自分解体新書 - 21 -

自分解体新書 ~目次~

■ 足裏 その6

気づかないうちに足裏の痛みがなくなっていたのは前回の 20でも触れたが、冬の寒い時期、急激な天候の変化など、何かの機会に軽い痛みを感じることがある。

いわゆる 『古傷が痛む』 というやつなのかもしれないが、外傷を負った覚えもないし、足をひねった訳でもなく、そもそも原因が分かっていないので古傷と呼んで良いものやらといったところではあるが、何かの拍子に痛みを感じるのだから少なからず因果関係があるのだろう。

痛みを感じると言っても歩行に支障をきたす訳ではないし、朝から晩まで座りっぱなしの仕事なので大きな問題ではない。

激痛なら朝の散歩も室内運動にも影響が出るが、ちょっと痛いかな?という程度なので今のところは放っておいているし、余程のことがない限り病院に行くこともないだろう。

■ 太腿 その2

これもかなり前に書いたことだが、ハムストリングスがとても痛い時期があった。

それもいつの間にか治っていたようで、普通に生活していると痛みはない。

それでも例の体操などで、普段はしないような姿勢になると張りと痛みを感じるが、一時的なことであるし体操の時だけ気をつけたら良いことなので放置することにしている。

■ アバラ骨

指や首、ヒザなどの関節がポキポキ鳴るのは誰にでもあることだろうが、自分はどういう訳だかアバラ骨もポキっと鳴る。

体を少し後ろに反らしたりするとアバラ骨の中心部、首に近い胸のあたりがポキっと音をたてるのだが、そんなことがあるのだろうかとネットで調べてみると、何人もの人が書き込んでいたり心配して質問したりしているので珍しいことではないのだろう。

そんなこともあって、アバラがポキポキ音を立てても気にしないでいたのだが、数週間前から少し痛みを伴い始めたので、なるべく音が鳴らないように気をつけるようにしていた。

しかし、音が鳴るのが癖になっているようで、昼や夕方の室内運動をしていても、ちょっと疲れて伸びをしても、しまいには仰向けに寝転がっただけでもポキっと音がなる。

そして痛みは日に日に増して激痛と呼べるまでになってしまった。

あまりにも長く続くようなら病院に行かなければと思っていたが、なるべく音が鳴らないように気をつけていたら少しずつ痛みが治まってきたので目下のところは経過観察といったところだ。

■ まつ毛 その5

2-3日前から目の前を綿ぼこりが飛んでいるような、まつ毛に何かが付着しているような、何かが光っているような気がしており、これはまた白いまつ毛が生えてきたのだろと昨日の夜になって鏡で確認してみると、何と左右両目に白いまつ毛が生えていた。

今まで数か月おきくらいの間隔で左右どちらかに生える程度だったのに、最近は少しペースが早まってきたと薄々感じていたが、まさか両目同時に生えるとは・・・。

今はまだ一本ずつだが、この調子だと両目に数本ずつ、そのうちに頭髪と同様に白い毛の方が多くなってしまうのではないだろうか。

あまり濃くないヒゲも最近は白い毛が優勢になりつつある。

まだ眉毛には生えてきていないが、そう遠くはない将来、頭髪、眉毛、まつ毛、ヒゲまですべて白くなってしまうのではなかろうかと少し不安に思ったりしているところだ。

歯医者六軒目

過去に通った歯医者

「腕は確かだが先生が怖い。」
「行くたびに先生に叱られる。」
・・・。

とにかく評判を聞くと、十人が十人ともそう答える歯医者だった。

そして、中には
「もの凄く怖いから絶対に行きたくない」
とまでいう人もいるくらいだ。

しかし、前回の歯医者は懲りていたし、その歯医者は我が家から徒歩 3分程度ということもあり、
「怖かろうと何だろうと命までは取られはしまい」
と自分自身に言い聞かせ、思い切って予約を入れてみたのは前回と同様に差し歯が取れてしまったからである。

電話で問い合わせると
「いつでもいいですよ」
との回答。

前回の歯医者は妙に空いており、それは腕が悪いから患者が離れてしまった結果であろうと結論付けたので我が家も通うのを中止したのだが、こちらの歯医者も日時を指定されることなく、電話した当日の何時でも構わないというくらい空いているのは、あまり良くない事情があってのことではなかろうかと一抹の不安が胸をよぎる。

それでも周りの人の 『怖いが腕は確か』 という評判を信じて行ってみた。

確かに院内で待つ人もなく、すぐに治療台に案内される。

そこに現れたのが後に我が家で 『爺ちゃん先生』 と呼ばれるようになる頭髪が白髪で薄い高齢の歯科医だった。

実はこの先生、見かけより若いらしいのだが、ぱっと見は七十後半に見える老け顔に加え、多少は耳が遠くなっているのか声が大きく、行くたびに同じ話を何度も聞かされるという典型的な御老人といった感じの人なのである。

しかし評判通りに腕は良く、新しく作ってもらった差し歯は一度の調整だけでピッタリと馴染み、それから 5年が経過する今となってもまったく問題がない。

そして、これも評判通りに小言が多い。

叱られるとか、怖いと言う人が多いが、実は患者のことを思っての小言や注意が主なので怒りっぽいとか短気とかいう訳ではなさそうだ。

とにかく毎回のように言われるのが自分の歯をどこまで長持ちさせるかということで、若い頃と違って一定の年齢を過ぎたら硬いものをバリバリ食べてはいけないとか、何かをする際にも歯を食いしばってはいけないと言う。

ひと通りの治療が終わると爺ちゃん先生が毎度この話を始める。

何度も聞かされている話なので適当に相槌を打ちながらジワリジワリと出口に移動し、話の切れ間を狙って診察室から脱出するというのが基本パターンだ。

何もなくても半年に一度の割で歯医者に通い、歯周病になっていないか、虫歯はないか診てもらい、歯石を除去して歯をクリーニングしてもらうということを 5年ほど続けていたが、爺ちゃん先生に言われて歯磨きに歯間ブラシや糸ようじも活用するようになってからは除去すべき歯石もつかなくなった。

それでも半年に一度のペースで診てもらうと
「よし、ちゃんと言うことを聞いてみがいているな」
と褒められ、
「歯石も汚れもないから帰ってよろしい」
と言われ、受付の人には
「今日は何もしていないので料金はいりません」
と言われるようになった。

独り言でも爺ちゃん先生のことには何度も触れたが、とにかく患者思いでビジネスライクなところがなく、普通なら治療するような歯も治療してくれない。

お買い物日記』 担当者にも自分にも虫歯があり、黒く変色しているのだが
「まだ大丈夫だな」
などと言って放っておかれる。

爺ちゃん先生のポリシーとしては、ごく小さな虫食いであっても治療するとなれば周りを大きく犠牲にせねばならず、場合によっては歯の 1/3とか半分を削ることになるが、せっかくの自分の歯を大きく削るのは忍びないので限界まで治療せず、丁寧に歯磨きをすることでなるべく長く自分の歯を使わせてあげたいということらしい。

小さな虫歯であれば治療しない、歯周病や虫歯がないか診るだけなら金をとらない、とにかく患者のこと、長く自分の歯を使うことを第一に考えてくれる実に素晴らしい先生だ。

できることであれば今後もずっと診てもらいたかったのだが・・・。

その歯医者が今月末、つまりあと 3日で閉院になってしまうと知ったのは去年の 12月

その時のショックたるや、どんな言葉でも言い尽くすことはできないような、小さな頃に道に迷ってしまった時のような、女高生がスマホを無くしてしまったような、とにかく路頭に迷うとはこのことだと思えるほどの大きさだった。

それからというもの、となりの店、『お買い物日記』 担当者の友人・知人、我が家を担当してくれている生命保険のお姉ちゃんにまで歯医者情報を聞きまくっているが、なかなか 『これはっ!』 と思う情報を得ていない。

というのもヒマそうに見えて実は多くの患者さんを持っていたらしく、聞く人、聞く人、その多くが爺ちゃん先生に診てもらっており、そのほぼ全員が路頭に迷っている状態だったのである。

次に歯を診てもらおうと予定しているは 6月。

それまでに良い情報を得られるのか、我が家にとって最大の問題なのである。

デジタル化の波 Signal-17

デジタル化の波 ~目次~

文字のデジタル化、音楽のデジタル化、映像のデジタル化と時代は進んでいる。

文字は扱いが簡単で保存容量も大きくないので、コンピューターの登場とともにワープロ、パソコンで文字を入力し、フロッピーディスクと呼ばれる最大で 1メガバイトほどの記録媒体への保存が可能になり、普通の通話と同じ電話回線を利用して通信することで遠隔地への送信も可能になった。

手書き文書と違って編集も簡単で、誤字脱字などあれば簡単に修正することができるし、それをパソコンでレイアウトして印刷することも可能なので出版業界は革命的に仕事が楽に、そして速くなり、新聞、雑誌の締め切り時間も印刷ぎりぎりまで延ばせるようになったのである。

次にデジタル化が進んだのは音楽で、1980年を境にアナログのレコードからデジタルの CDへと、わずか数年という短い期間で一気に置き換わった。

アナログのほうが音質が良いのは確かなのだがレコードは取り扱いが面倒で、少しの傷やホコリで雑音が混じり、深い傷になれば同じ箇所が無限に再生されたり音飛びが生じたりしたし、レコードの樹脂は高温になる場所、例えば自動車内に置いておくと熱で柔らかくなって変形したりしたものだ。

ところが CDは一定程度までの熱にも強く変形しにくいし、多少の傷や汚れがあっても、例えカッターで表面を切ったとしても問題なく再生できるという利便性、耐久性に優れており、そもそも CD(コンパクト・ディスク)というだけあって小さいので保管も容易になった。

そして、何よりデジタル化されたことによって容量の圧縮も可能になり、小さな機器に何千、何万という曲を録音することが可能になったので自動車内からあふれていたカセットテープが消え、ウォークマン世代も荷物を減らすことができるようになったことからも音楽のデジタル化が一気に進んだのも不思議ではない。

次にデジタル化が進んだのは映像だが、データ容量が大きいため最初は静止画、つまり写真が先にアナログからデジタルへと移行した。

それによって新聞、雑誌社がどれだけ便利になったかは以前に書いたので割愛するが、その恩恵は一般の我々も享受できている。

昔の修学旅行、社員旅行などで撮られた写真は、数日後に簡易的なアルバムに番号入りで回されて来たもので、ほしい番号を胴元というか、その写真を管理する側に知らせ、受け取った管理者はそれぞれの必要枚数を写真屋さんで焼き増した上で希望者に配って歩き、後に代金を回収したものだ。

ところが今となってはそんな手間は必要なく、ネット上に写真を掲載しておけば写真がほしい人は勝手にデータをダウンロードするなり印刷するなりすれば事は足りる時代になった。

回線の高速化、データ圧縮技術の高度化によって動画すらインターネットを使って送受信可能となったことで、今まで見たこともないような映像を見られるようになったのはここ数年のことだ。

ロシアの上空を通過する隕石その直後の衝撃波のすさまじさあの東日本大震災の津波の恐ろしさ台湾の飛行機事故などなど、報道カメラではない一般市民の撮影によるスクープとでも呼べるような映像が世の中にあふれている。

それもこれも映像のデジタル化によって撮影が容易になり、データ圧縮技術、メモリーの大容量化によって保存が可能になり、ネット回線の高速化とインターネット網の発達によって配信が可能になったことで全世界で映像を共有化できるようになった訳だ。

とても便利な世の中になったと思うが、同時にマイナスの影響も出始めている。

最近話題になったのは川崎中一殺害事件で逮捕された 18歳の主犯とされる少年、17歳の少年の顔写真、氏名、住所までがネット上で公開された件だ。

この狂った世の中において、最近では残忍な事件が発生しても客観視していたり、あくまでも他人事として受け止めることが圧倒的に多くなっていたが、これはなぜかニュースを見ていても極端な嫌悪感、そして怒りを覚える事件だった。

容疑者が未成年であろうと更生の道などという甘いことを言わずに実刑をくらわせるべきだと怒りに震えながら思ったりしていたが、だからと言ってネット上にプライバシーを公開するのはいかがなものか。

一応はコンピューター業界に身を置いているので早くから騒ぎになっていることも、ありとあらゆる情報が公開されていることも知っていたが、そういうたぐいの情報には興味が無いので少年の顔写真も、その他の情報も一切見ていない。

以前にも 『酒鬼薔薇事件』、『光市母子殺害事件』 など、大きな事件がある毎にネット上には事件を起こした少年(当時)の素顔や住所等が公開された。

彼らが本当に精神的に未発達で、教育や訓練によって更生できるのであれば、このネット社会でその後の人生を歩むのは極めて困難と言わざるをえない。

どんなに引っ越しても誰かに気づかれて、今の容姿を撮影され、住所などを公開されたら就職したり生活するのは難しいだろう。

そして、ネットの怖い点は、一度流出した情報は消すことができず、いつまでも拡散し続けることにあり、公開された側は二度と元の生活に戻ることはできないことにある。

どんなに法規制、罰則が厳しくなろうと止めることはできない。

高度に発達した便利な社会、その道具は使う側の良識をも試しているようだ。

引っ越し

先日の独り言に書いたように義兄は転勤族である。

数年単位での引っ越しを繰り返しているので、その段取り、手順、各種手続きなどは慣れているし、普段から引越しのことを考えて必要以上に物を増やさないように心がけていると聞いた。

そして、新居での荷解きや収納も手際が良いに違いない。

大阪から北海道に帰ることが決まった時、そして北海道で荷物を搬入する時は色々とアドバイスしてもらったものだ。

ただし、聞く側に知識や意識が乏しいためアドバイスが生かされたとは思えないような結果となってしまい、本当にそれがそこにあって不便ではないのかという単純なことすら解決しないまま何となく慣れてしまって現在に至っている。

それというのも引っ越しの経験値が低いのが主たる要因だ。

自分の場合は農耕民族の DNAを色濃く受け継いでいるのか、一箇所に落ち着くと余程のことがない限りは引っ越さない。

最初に一人暮らしを始め、過去の雑感で何度も触れた悪友のたまり場と化していた風呂なしボロアパートには 6年、次の場所には 4年、次も 4年、その次は短くて 1年、そして大阪では一度も引っ越さずに 13年以上くらし、北海道に帰ってきて同じ場所に住み続けて 7年が経過した。

途中、4年ごとに引っ越したのも一人暮らしが二人暮らしになったり結婚があったからだし、最も短い 1年は引っ越したとたんに転勤が決まったからであって大きなイベントがなければ住居を変えることはなかったと思う。

そんなこんなで引っ越しの心構えがないものだから、いざというときに物がまとまっていなかったり住み続けている間に物が増え続けたりしているので大変なのである。

自分は物に執着しないので必要のないものは捨てるのをいとわないが、なかなか捨てることができないのが 『お買い物日記』 担当者だ。

大阪から北海道への引っ越しの際、いくつもあるハンドバッグを大阪に来てから一度も使っていないもの、ここ数年は使っていないものと使用頻度の低い順に並べ、たとえそれが高価なものであろうと使わないものを持っていても、ましてや引越し先に移動しても仕方がないので過去二年間不使用のところでラインを引いて捨てることにした。

それは衣類も同じで、購入価格がどうであろうと時代遅れのものや過去数年は袖を通していないものは廃棄処分とした。

『お買い物日記』 担当者は渋々といった感じだったが、引越し荷物は少ないほうが良いに決まっているので心を鬼にして自分が主導し、かなりな数を処分した。

そして、この家には大きなクローゼットがあり、家具や家電製品もあったので冷蔵庫や電子レンジをはじめとする白物家電とテレビ、食器棚などの大きなものは必要とする人に譲った。

本を読むのが好きだったので知らず知らずのうちに増えてしまった文庫本も、500冊以上は古本屋さんに引き取ってもらった。

北海道では必要のないエアコンも業者に引き取ってもらい、こちらでは必要がなくなるパソコンラックや机、椅子、テレビ台、引っ越し直前に故障してしまったコタツに掃除機など、とにかく処分できるのものはすべて廃棄して身軽になった。

そして北海道に帰ってきて新居に荷物を運び入れる際、胸を張って長兄夫妻に宣言した。

そう、引越し荷物を極限まで少なくしたことを。

しかし、返ってきた返事は
「意外に多いね」
という一言だった。

・・・。

やはり引っ越し慣れしている人にはかなわないようである。

真性雑感 第十五版

真性雑感 ~目次~

■ ジャーナリズム

以前の独り言に書いた通り、平和ボケしまくっている日本ではその衝撃は大きかったものの、すでに国民の意識や記憶が薄れてしまっている感の否めない IS(Islamic State)による人質殺害だが、テロ集団との戦いは今も続いている。

ISの蛮行によって困窮している人々を取材しようとシリアなどへ渡航しようとするジャーナリストも数多くいる中、新潟に住むフリーカメラマンの男性は外務省にパスポートを返納させられたとして記者会見し、邦人保護か? 報道の自由か? と議論を呼んだのはつい先日のことだ。

個人的には、そんなに行きたかったら勝手に行けば良いと思う。

ただし、たとえ ISに拘束され人質になった場合、救出のための努力は不要、身代金の支払いも不要、ISとの交渉も不要であると一筆したため、完全なる自己責任で海を渡るのだから何があっても放置してもらって結構だという意思表示をしてから行ってほしい。

それは本人のみならず、親兄弟、妻や子供もすべてそれに同意し、全員の署名入り文章を外務省に提出すべきだ。

それでなければ万が一の場合には日本の政治家、外務省職員は行動せねばならず、そうすれば人件費のほか出張費、通信費など莫大な税金を使っての捜索や交渉が必要になってしまう。

前述した文章を提出した上で、もし ISに拘束されたなら舌を噛み切って自害するくらいの気概を持って出国していただきたいものである。

たしかにジャーナリストは、たとえ危険な地域であろうとも実際に行かなければスクープを手にすることはできないだろうし、伝えるべき現場があれば取材したくなるのがジャーナリストの性(さが)であろう。

しかし、渦中の男性は本当にジャーナリズムを持っていたのだろうか。

本当にシリアに渡り、何が何でも ISを取材したかったのであれば、渡航理由には観光だとか、隣国トルコなど安全な地域への取材だと報告し、現地に着いてから秘密裏に行動すれば良い。

この時期にシリアに行くといったところで渡航が許されるわけがなく、旅券法 19条に旅券(パスポート)の名義人の生命、身体又は財産の保護のために渡航を中止させる必要があると認められる場合は返納を命令できると規定されているのだから、パスポートを取り上げられて当然だ。

2月 7日に取り上げられ、翌 8日には記者会見して
「取材と報道の自由どころか、言論の自由を妨げる行為だ」
と吠えまくっていたが、カメラマンは人質事件を巡る新聞のインタビューでシリアに入国する考えを表明した上でシリア渡航を計画したのだからその目的はバレバレで、外務省に返納を命じられるのは至極当然の成り行きだろう。

だとすれば、彼がやったことは単なる売名行為だったのではないだろうか。

最初からシリアに行く気などなく、こうなることが分かっており、そうなったら報道の自由だとか言論の自由だとか騒げばジャーナリストとして名を挙げられると目論んだような気がする。

外務省は前述したような文章を提出すれば行ってもいいよと言ってやれば良い。

それでも行くと言うなら本物のジャーナリストなのだろう。

いや、彼がそうまでして行くとは思えないが。

■ 改憲

改憲は必要か否か。

日本が侵略されていなくても攻撃されていなくても自衛隊の海外派遣を可能にしようと自民党は躍起になっている。

そこにはアメリカの強い意向が見え隠れし、本当に自国を思ってのことなのか。

親日的だったイスラム社会が態度を硬化させたのは自衛隊をイラクに派遣してからのことだというし、周辺諸国がどのように受け止めるのかも多少は気になる。

前述したイスラム教過激派組織 ISが日本人を人質にとり、殺害したのは日本がイラク、シリアの難民・避難民支援、トルコ、レバノンを支援したからだという建前だ。

それが ISの本音だとすれば、金銭による支援をしただけで反感を買う危険性を伴うというのに、自衛隊、他国から見ると軍隊にしか見えない組織を派遣した場合、どれだけの反感を買うのかは覚悟しておくべきだろう。