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悲喜こもごも

水曜日は半年に一度の病院通いをしてきた。

お買い物日記』 担当者 の大病から五年以上が経過し、それまで四カ月に一度だったものが半年に一度という長いスパンに変わったのは去年のことだ。

いつもなら一人で通院するが、今回は自分の母親の骨折のこともあったので一緒に行動している訳である。

『お買い物日記』 担当者が診察室に入っている間、多くの人が座っている待合室にいると、割と体格の良い年配の男性が隣の席に腰をおろした。

少しすると若い女性の看護師さんがやって来て男性のとなりに座ったかと思うと
「どうしました?今日はとても血糖値が高いようですけど」
と心配そうに声をかける。

男性も
「どうしてかなぁ」
と不思議そうだ。

「昨日の夜は何か特別なものを食べました?」
と看護師さん、
「いや、特別なものは・・・」
と男性、
「お一人で外食も多いでしょうけど」
と、たたみかける看護師さん、
「でも昨日は家で食べたから・・・」
と答える男性に対して
「甘いものか脂っこいものでも食べました?」
と追求の手を緩めない看護師さん。

「いや、そんなことは・・・」
と動揺しつつ、男性がポケットに手を入れたかと思うとゴソゴソとアメを取り出して口にいれようとした。

看護師さんが慌てて
「それはダメですよっ!」
とたしなめると男性は
「えっ・・・」
と言ったまま固まっている。

「糖尿なんだからダメに決まってるじゃないですか」
と厳しい口調の看護師さんに男性は
「これが?」
と真顔でアメを指差し、
「それがっ!!」
と看護師さんの怒りをかったりしていた。

どれくらいアメをなめているのかという問いに一日5-6個と男性が答えると、アメにはどれだけの糖分が含まれ、それが糖尿病にどれだけの悪影響を及ぼすか、患者はどのようにして病気に向き合うべきかと看護師さんはこんこんと説明し始める。

しばし大人しく聞いていた男性だったが、話が途切れると
「実は禁煙しててさ」
と言った。

「あらっ!あんなに止められなかったのに凄いじゃないですか!」
と言う看護師さんの言葉に気を良くした男性は、過去にどれだけの失敗を繰り返してきたか、現状がどれだけ苦しいかを切々と訴え、
「口寂しいからアメなめちゃうんだよね」
と看護師さんに水を向けてみたりしてみたが、
「ダメですっ!」
と、キッパリ言い渡されてションボリしていた。

それからも何だかんだと愚痴を言い、
「先生に痩せろって言われてるけど100グラムも減らなくて」
と言うと間髪いれずに
「当たり前ですっ」
と突っ込まれていた。

「禁煙すると太るっていうから・・・」
などと言いかけた男性の言葉は
「アメもですよっ」
という看護師さんの声でかき消される結果となり、
「それじゃあガムでも・・・」
と、妥協案を出したつもりでも
「同じことですっ」
と玉砕されたりして残念そうな顔をする男性だ。

看護師さんに責められてストレスを感じたのか、
「タバコが吸いたくなってきた」
と言い出し、
「せっかく止めたのに」
と、更なる追い打ちを喰らっていた。

その後も丁々発止のやり合いを繰り返し、勝ち目がないと悟った男性は、手に持った2-3個のアメを繁々とながめ、
「そうか~、これかぁ~」
とため息をつく。

看護師さんは少し不憫に思ったのか、
「どうしても口寂しかったら糖分もカロリーもゼロのアメやガムがありますからね」
と慰めるよう言ってその場を去った。

残された男性はまた一つため息をつき、静かに病院をあとにしたのであった。

人生、悲喜こもごも。

色々なことがあるものである。

オリジナリティ

中国や韓国の経済発展、技術革新は著しいが、相変わらずのコピー天国、偽造品、模造品天国であるのと同時に他国の製品、他社の製品を安易に真似たものが横行しており、世界各国から非難を浴びている。

日本製品や日本生まれのキャラクター、商品名までパクリ放題でオリジナリティのカケラもない状況ではあるが、戦後復興で無から有を作り上げてきた日本も、当初はアメリカを始めとする先進国の製品や技術を真似て安い人件費と1ドル=360円という固定相場によって低価格製品を大量に輸出していたのだから中国や韓国を責めてばかりもいられない。

しかし、特に中国はすでに日本を追い抜いて世界第二位の経済大国になったのだから、人の真似をしたり、人の商品名を勝手に商標登録するような行為は国家レベルで抑制すべきだろう。

音楽や芸術、デザインも中国や韓国には独特なものがあるのだから、それを活かした作品作りに邁進すべきではないのか。

確かに戦後から劇的な経済成長を遂げた日本も人マネ、猿マネと非難され続けた歴史はあるが、原点を忘れなかったという強みも残っており、その強みを活かして再び世界に挑戦しようという動きも活発になってきた。

そもそも日本人には独創性があると思う。

機械を擬人化したロボットなどはアニメだけにとどまらず、二足歩行、人とのコミュニケーション能力などに磨きをかけて世界トップレベルにあるが、それというのも鉄腕アトムから脈々と受け継がれる人型ロボットが登場するマンガやアニメの歴史なしには語れないに違いない。

擬人化と言えば動物や虫を擬人化したマンガやアニメも日本が初だと思われ、動物が主役の 『ジャングル大帝』 などは明らかにディズニー・アニメの 『ライオン・キング』 に多大な影響を与えているだろうし、『昆虫物語 みなしごハッチ』 は 『バグズ・ライフ』 の原点だろう。

ディズニー・アニメの車を擬人化した 『カーズ』、魚を擬人化した 『ファインディング・ニモ』 もすべて日本アニメの影響から派生したのだろうから、逆にアメリカが日本の真似をしたということだ。

アメリカ映画の 『ロボコップ』 の作者も日本のマンガ、そして特撮テレビ番組にもなった 『ロボット刑事』 が原点であることを認めている。

日本のアイドルが男女を問わず個人からグループ、ユニットへと移行したのはジャニーズ系、モーニング娘。や AKB48グループの影響が絶大なのだろうが、日本でも一時期は人気の高かった K-POPもその大半がグループなのは日本のアイドルの影響なのは間違いないだろう。

インドまたはイギリスから伝わったカレー、中国から伝わったラーメンを海外からは日本食だと認識されるまでに至るほど独自に進化させ、磨きをかけるのも日本だが、その盛り付け、飾り付けがフランス料理に影響を与えるほど独創的で美しい日本食も伝統的に守られているし、その日本食そのものが海外で大ブームになっている。

魚をすり身にして再び練り固めるカマボコやチクワなど世界に類を見ない独特の食べ物であるし、それを応用したカニカマなどはヨーロッパで引っ張りだこの人気食材にまで成長した。

バブル景気の崩壊から、すっかり自信を失ってしまった日本だが、アメリカの真似をしていた昔と違って誇れる独創的な技術や文化、製品があるので中国や韓国に負けない製品を生み出すことは可能だと思われる。

今は海外のサービスを真似ることが多いネットビジネスも、日本人の視点で新たな技術、サービスが生まれる日も近いのではないだろうか。

先に書いた動物などの擬人化もそうだが、特定のものに音楽を用いるのも日本独特の文化なのではないかと思う。

今でこそ世界中で作られるテレビ CMには音楽が流れるが、1980年代くらいまでアメリカのテレビ CMには音楽がなく、機関銃のようにしゃべりまくって製品の特徴を伝えるものばかりだった。

日本には昔から CMソングというものがあり、その製品のイメージを伝えていたし、CMで使われたことによって大ヒットとなった曲もある。

そして、子供に聞かせる物語にまでテーマソングがあるのは日本くらいなものだった。

日本のむかし話、おとぎ話には歌がある。

『桃太郎』、『金太郎』、『浦島太郎』 にはそれぞれテーマソングがあるが、海外のグリム童話などにテーマソングは存在しなかった。

金太郎は 1900年の 『幼年唱歌』 に掲載され、桃太郎、浦島太郎は 1911年の 『尋常小学唱歌』 に掲載されたが、それぞれ実際に作られたのは掲載年より前だろう。

そう考えると 1900年より前から物語が語り継がれ、テーマソングが歌い継がれたことになる。

海外では 1928年に世界最初のトーキーアニメ、ディズニーを代表するキャラクター、ミッキーマウスが登場する 『蒸気船ウィリー』 で流された音楽が初のテーマソングということになるかもしれないが、ミッキーマウスのための、ミッキーマウスのテーマではない。

そうなれば 1937年に公開されたディズニーの長編映画第一作目であり、世界初のカラー長編アニメーション映画である 『白雪姫』 で使われた曲が、初めてグリム童話の中のひとつの物語のために作られたテーマソングということになる。

実に日本から 37年遅れのことだ。

そもそも日本には世界に類を見ないテーマソングが多数存在する。

学校ごとに存在する校歌は世界を探しても中国と韓国、そして日本にしかないし、会社の社歌がある海外企業は数社のみだ。

日本にはその他にも相撲界で享保から伝わる 『相撲甚句』、明治から伝わる 『鉄道唱歌』、江戸時代から伝わる火消し鳶職の 『木遣り唄』、そして民謡には炭鉱夫、漁師、農家など様々な職業の曲がある。

お茶の産地には茶摘み歌、子供のためには童謡、遊びのためだけの歌など、日本は音楽が溢れている国だ。

そう考えると日本人は根本的に歌が好きなのかもしれない。

独自性がないと言われ続け、経済の落ち込みから技術やものづくりに対する自信すら失ってしまった日本ではあるが、独自の文化を持ち、独自の感性を持った国民なのだからオリジナリティ溢れる独特の製品、サービスを生み出すことが必ずできることだろう。

真性雑感 第十四版

真性雑感 ~目次~

■ 男と女

男とか女などは乱暴な呼び方なのだろうか。

ニュースでも被害にあった人は男性、女性と言い、容疑者は男、女と言うケースが圧倒的だ。

「昨夜 10時ごろ、道路を横断中の男性が車にはねられ・・・」
「逃走したのは 30代の男で・・・」

「女性の絞殺死体が発見され・・・」
「警察は知り合いの女に任意同行をもとめ・・・」

などなど、あたかも男性や女性が、男や女の丁寧語であるかのようだ。

テレビでの会話や一般の会話でも
「男(女)って・・・」
ではなく、
「男の人(女の人)って・・・」、「男性(女性)って・・・」、「男子(女子)って・・・」
などと言うのが普通となっている。

同性のことを話す時に自嘲気味、自虐気味に
「男なんて」
とか
「男ってやつは」
などと言うことはあっても、異性のことを話す時に
「女って・・・」
と始めると、あとに続くのは悪口であるかのような錯覚を覚える。

本来、男とか女などというのは単に性別を表すものであって、男性を男と呼ぶのは田中さんを田中と呼び捨てにしているのとは違うはずだ。

それなのに、乱暴な呼び方に聞こえてしまうのは少しずつ言葉の使われ方が変化し、それに慣れてしまっているからなのだろうか。

■ 竜巻とみられる

昨日も神奈川県厚木市で空高く渦巻く姿を動画撮影されたものを
「竜巻とみられる突風」
とニュースで伝えていたが、屋根などを吹き飛ばすほどの勢いがある空気が渦を巻いた自然現象を竜巻でなければ何だというのか。

テレビ局側としては気象庁が竜巻と断定していない以上は、まだ竜巻と断言できないのだから竜巻とみられると表現しているのだと言うだろう。

しかし、1994年のオウム真理教による犯行だった松本サリン事件で、実際には被害者の一人にすぎない河野義行氏を犯人と決めつけるような新聞の予測記事を堂々と伝えたのもテレビのニュース番組だ。

出来事・事件・事故などを取材し、事実のみを伝えるのが報道であるはずなのに、実際には事実をありのまま伝えるのではなく、報道各社の主観を組み入れたり、自己または組織の政治的なイデオロギーを優先的に反映させたりする、とても公平とは言いがたい意図的な編集が行われているではないか。

とても報道とは呼べないような芸能人のゴシップ記事を本人への確認どころか、事実関係の確認すらしないままに垂れ流しているのも同じ報道という名の下で活動している集団である。

そこまで好き勝手にやるくせに、誰がどう見ても竜巻にしか見えないものを
「竜巻とみられる突風」
と弱腰にしか伝えられない神経が理解できない。

■ ・・・と言う。

特にテレ朝系の番組に顕著なのだが、ニュース番組のナレーションが
「・・・という。」
で終わることが異様に多い。

例えば
「・・・被害額は数千万円に達するという。」
「・・・容疑者は北の方向に走って逃げたという。」
などなどだが、最後を
「・・・という。」
で結ぶと、
「・・・だったらしい。」
「・・・のようだ。」
などのように、その内容に責任を持っていないのと同じではないのか。

きちんと取材をした結果を伝えるのであれば、
「・・・被害額は数千万円に達するという。」
ではなく
「・・・被害額は数千万円に達する。」
だろうし、
「・・・容疑者は北の方向に走って逃げた。」
だろう。

「・・・という」
には、
「犯人らしき男が北に向かって走っていったらしいよ」
「目撃者がそう言っているだけで実際には分かんないけどさ」
「別の人に聞いたら違うこというかもしれないし」
というような責任回避をしたい意志が混じっているように聞こえてしまう。

■ テロップで使われる漢字

ニュース番組で使われる漢字が減ってきた。

今日は『きょう』、明後日は『あさって』など平仮名表記が多い。

それらは限りなく当て字に近く、正確な漢字の読みではないからだろう。

今日の場合、今(きょ)日(う)でも今(き)日(よう)でもなく、本来であれば読めるはずのない漢字が当てられている。

だとすれば数年前から二十歳を『はたち』と読むことをやめ、ニュースでも
「にじっさい」
と言うようになったのだから今日も
「こんにち」
と言うようにすればよさそうなものだが、逆に漢字を捨てて平仮名にした。

今夜(こんや)は今(こん)夜(や)で正当な読みだが、今朝(けさ)は今(け)朝(さ)と、真っ当な読み方ではないので平仮名が使われる。

それはそれで良いのかもしれないが、日本的な情緒というか風情が損なわれていくような気がしてならない。

そして、それに反比例するように誰にも読めない当て字を使って我が子を名付ける親が増えている現状を憂いたりするのは、ますますオッサン化が進んでしまった証拠なのだろうか。

趣味嗜好

年齢とともに趣味や嗜好は変わる。

この雑感や管理人の独り言に幾度となく書いていることではあるが、自分でも一番驚く変化は食べ物の好みだ。

子供の頃から好き嫌いがなく、世の子供が泣きながら食べさせられるピーマンやニンジン、ネギだろうと何だろうと平気だったが、それでも山菜類や香りの強い野菜などは嫌いではないまでも決して喜んでは食べなかった。

ところが今はそういう物が食べたい。

昨日の買い物でも売られていたタラの芽の天ぷらに心奪われ、ついつい購入して春の訪れを待ちわびながら美味しくいただいた。

タラの芽だとかフキノトウ、菜の花や春菊など、この時期に旬を迎えるものは香りが強く多少の苦味を伴うものが多いので、あまり子供たちには人気がないだろうが、この歳になるとたまらなく美味しい。

タラの芽やフキノトウ、菜の花などは流通網が発達していなかった昔は簡単に手に入るものではなかったので、それほど食卓に上ることはなかったが、鍋料理に春菊はどっさりと入っていた。

親は美味しと言って食べるが、子供にとっては美味しくも何ともなく、弁当や寿司折りに飾りや仕切りとして入っている緑色のバランと同程度の単なる彩りくらいだと思っていたものだ。

ところが今となっては春菊が食べたくて鍋料理をすると言っても過言ではないほどであり、他の具材はその時々で肉であったり魚であったりするものの、この時期の鍋に春菊は欠かせない。

食べてもさほど味のしないコンニャク類も好んで食べなかったが、今はブリブリと歯ごたえのある白滝などはとても美味しいし、おでんにコンニャクが入らないことなど考えられないことだ。

磯の香りが強いイカの塩辛や北海道特有の海の幸の保存食なども子供の頃は好んで食べなかったが、今は大好物となっているし、酢の物なども好んで食べる。

以前にも書いたが子どもの頃に酸味、苦味を拒絶するのは毒性のあるものを食べてしまわないように備わった人間の本能なので、単なる好き嫌いとは次元が違う。

そして、匂いのきついものや発酵食品を嫌うのも腐ったものを食べてしまわないように本能的に避けているので子供が嫌うのは自然なことだ。

それらのものを食べられるようにするのが親の教育であったりしつけである訳だが、そんなにうるさく言わなくても年齢を重ねれば自然に食べられるようになるのだから不思議ものである。

これも何度も書いていることだが、テレビ番組の好みも大きく変わった。

最近のテレビがあまりにもつまらないというのもあるが、芸能人が集合してガチャガチャと騒いでいるような番組には一切の興味を失い、何かのテーマに真摯に取り組むような番組を好んで見ている。

そして、最近は聞き取る能力が衰えてきたのか、あまりにも早口でまくし立てられると何を言っているのか分からない。

子供の頃、紳助竜介の漫才を見た親が
「すごい早口だから何を言っているのか分からない」
と言うのを聞いて、そんなことがあるのだろうかと思っていたが、2013年末の 『THE MANZAI』 で優勝したウーマンラッシュアワーの漫才を見た時に何をしゃべっているのかまったくと言っていいほど聞き取れない自分がそこにいた。

その漫才で会場の人は笑っていたので若い子は十分に聞き取れているのだろう。

そういうこともあってか、落ち着いて見られる番組ばかり選ぶようになった結果、我家の場合は選ぶチャンネルの 90%以上がテレビ東京系ということになっている。

しかし、民放キー局が売上高、純利益とも前年実績を大きく下回る中、唯一伸びを見せたのがテレビ東京であったことからも、他局は番組制作能力が低下しているがテレビ東京だけは視聴者が満足する番組を作り、スポンサーからも評価されていることになるのだろう。

したがって、我が家だけがテレ東を好んでみている訳ではないだろうから好みが変わったというより他局がだらしないだけかもしれない。

いろいろと趣味嗜好が変わる中、音楽の好みは変わらない。

邦楽は聴く価値もないと感じるようになったことや、洋楽であっても最近の曲は面白みに欠け、聴いていてつまらないと独り言にも書いたが、Jangoというアプリで洋楽を聞くようになってから益々その思いを強くした。

十代の頃に聞いていたハードロックなどを選んで再生すると、やはり当時の曲は素晴らしい。

当時、親からは
「そんなガチャガチャした曲なんか聴いて」
と小言を言われ、
「うるさいだけで何が良いのか分からない」
と虐げられていたが、今聴いても良いと思うのだから好みが変わっていないのだろう。

そこで思うのは、今の自分は当時の親と同じ感覚で、今の若者は当時の自分と同じ感覚なのだろうかという素朴な疑問だ。

つまり、自分は今の曲をうるさいと思うしつまらないと思っている。

しかし、今の若者はうるさく思わず、良い曲だと感じているのか。

これから 20年後、30、40年後に今の曲を聴いたなら、30、40、50歳になっている今の若者は懐かしさを覚え、やはりあの頃の曲は良いと感想をもらすのだろうか。

とてもそうは思えない自分は時代に置いて行かれたのだろうか。

脳や思考の柔軟性を失い、新しいものを受け入れられなくなってしまったのだろうか。

単なる爺さんになってしまったのだろうか・・・。

真性雑感 第十三版

真性雑感 ~目次~

例によってまた何も思いつかぬままこの文書を書き始めている。

数か月に一度あることだが、事前に書きたいと思っていることもなく、パソコンの前に座っても何も思いつかず、ただ時間だけが過ぎていく状態だ。

こんな時は何も考えずに書き始めると途中で何かを思いついたり話題が見つかったりするのだが、今日という今日は本当に頭のなかが真っ白で、今この時点でも何も思いついていない。

ならば時事ネタでも・・・と思ってみても、今週はずっとイスラム国による日本人の人質問題で明け暮れていたのでそれを避けて通る訳にはいかないだろう。

すでに殺害されてしまった湯川氏とそのご家族には心よりお悔やみ申し上げるが、心のどこかに釈然としないものがあるのも事実だ。

海外では湯川さんの死に対する扱いの小ささに対して疑問視する声が上がっているようだが、それは日本のマスコミの取材能力の低さもあり、単なる軍事オタクが民間軍事会社を設立し、武装の真似事をして SNSやブログで自慢し、非合法のルートで現地入りしたということしか伝わってこないからに違いない。

そんな情報しかなければ自業自得だと言われても仕方ないだろうし、身代金の価値はないと罵倒されるのも分かるような気がするが、実際には単なるオタクではなく彼が設立した民間軍事会社には複数の自民党関係者が顧問として名前を連ねているらしいし、その活動はシリアに医薬品を運んだり、その他の生活物資を運んでいたという。

そういう報道が一切なく、表面的なことしか伝えないものだから少なからずあるであろう哀悼の声もほとんど伝わってこない。

それとは対照的に後藤氏に対する報道は美談が多く、まだ生存が確認されていることもあって救出を願い、我がこととしてメッセージを発している。

しかし湯川氏を無視して良いものかという疑問と同じくらいの大きさで、そんな美談ばかり並べ立て、多くの日本人が発する後藤氏を助けたいという切実な思いを感動すら覚えるような伝え方ばかりして良いのかという疑問が頭をもたげる。

拉致された単なる軍事オタクを誰の許可も得ずに勝手に救出しに行って拘束されてしまった間抜けな奴とは誰も言わないし、そういう報道は一切ない。

もし湯浅氏がアホなことをして拉致された単なる軍事オタクであるならば、持っている情報を政府や国に提供せず、組織だって動いているテロリスト集団のイスラム国に単身で乗り込んで救出に向かった後藤氏だって単なる常識知らずな無鉄砲な奴ということになるだろう。

なのに、なぜ、どうして後藤氏だけが美談の主、ヒーローとして扱われ、湯川氏が無視され黙殺されなければならないのか。

勝手なことをした二人のために莫大な税金が使われているのは同じだろう。

この件があまりにも大騒ぎになっているため、菓子につまようじを混入させたり万引きしたりした動画を配信し、逃亡劇まで繰り広げた馬鹿の存在が完全に薄まってしまった。

本人は世間に騒がれること、注目されることを目的の一部としていたので、放置状態になってしまったのはとても残念なことだろうと思われるが、その彼がとても哀れなのは、外部と遮断され、自由の効かない身となった今、自分が世間から忘れ去られているという事実すら知らないであろうという点だ。

その直前に世間を賑わしていたのは 68歳の筧(かけひ)容疑者が犯人とされる青酸化合物による連続殺人事件だが、ここにきて青酸化合物はカプセルに入れて飲ませたなどという供述を始めたらしい。

あれだけマスコミに取り上げられ、各社からインタビューを受けていた筧容疑者も、今はすっかり影を潜め、新聞に数行、テレビニュースで数秒しか扱われていない事実を知らないだろう。

逆に世間の注目が自分から大きく離れたことを安堵しているのは、覚せい剤取締法違反罪などで有罪が確定した CHAGE and ASKAの飛鳥涼氏だと思われる。

ASKA氏に覚せい剤を売った暴力団員が逮捕されたりと、最近になっても多少の動きはあるものの、新聞、テレビの扱いは極めて小さい。

取り巻く報道関係者も激減したことだろうから、ゆっくり心と身体を休め、しっかりと薬抜きしたらどうだろう。

・・・などと、とりとめのないことをつらつらと書いてきたが、やはり何も思いつかない時は頭の中も整理できず、まとまりのないことを書きなぐってしまっただけのように思わないでもない。

が、それはいつものことだったりする。

嗚呼日本人 10

嗚呼日本人 ~目次~

いつから日本人は身勝手な人種になってしまったのだろう。

サッカーのサポーターが試合会場を後にする前にゴミ拾いをするとか、大地震、津波、原発事故の大災害で被災して家や財産を失っても略奪や暴動がおこらないなど、良い意味で世界を震撼させたりする国民性は誇れるものの、昔のゆずり合い精神は失われつつあるように思う。

赤ちゃんか老人かの天秤がそうだ。

何とか少子化を食い止める、待機児童解消、子育て支援、女性の働きやすい環境など次々に対策を打ち出しているものの少子化に歯止めがかからず日本の人口は減る一方であり、このままだと 2050年には総人口が約 9700万人に減少すると 国土交通省が発表している。

少子化が進めば高齢化が進むのは当たり前の話だ。

医療の高度化により日本人の平均寿命は倍ほどになったので、昔であればとっくに死んでいる年令になっても現役バリバリで働いたりしている。

そしてリタイアして年金受給者になっても簡単には死なないので国の支払額はかさむばかりとなっているし、死なないまでも若い頃より体のあちこちにガタがきているものだから病院通いが増え、医療福祉の額も膨大になったりしているのが現状だ。

もちろん、年金は必要なので安易に減額したりすべきではないとは思うが、医療費負担の増額をとんでもない話だと言って跳ねつけたりするのもどうかと思う。

日本に金がない、借金漬けであることは誰もが知っていることだ。

だれかが我慢しなければいけないのであれば、子どもを優先して高齢者は耐えるべきではないだろうか。

高齢者の負担額を一般と同様に 3割にすることで、その分を減税するとか子育て支援に充てるのが国益にかなうと思う。

こんなことを言えばお年寄りに叱られるかもしれないが、自分もすでに折り返し点を過ぎて遠くない将来には年金受給者となる身だ。

そうなったら色々と気に入らないことも腹の立つこともあろうかと思うが、日本の将来のため、子どもたちの未来のために我慢せよと言われれば、おのれの意見は引っ込めて申し入れを甘受することだろう。

お金があるに越したことはないし、生活が楽なのに越したこともないのは分かっているが、先のことを思えば自分など死なない程度に食べられたらそれで良い。

我を張り、利己主義的に振る舞うのは美しくないと思っている。

強欲とは無縁の無欲でありたい。

根本としては、国の無策、政治の無策が引き起こしたことであるから
「責任者でてこ~いっ!」
と声を大にして言いたくもなるだろう。

しかし、残念ながら年金運用で投資に失敗しても、事業の失敗で年金保険料 1,953億円を投じたグリーンピアを総額わずか約48億円で売却する結果になっても誰一人として責任を取らないのが官僚や政治家であるし、それを問題視して最後まで責任追及しない国民性である以上は、みんなで頑張って借金を返済するしかないのだろう。

だとすれば、景気を良くして歳入を増やす以外に国民ができること、それすなわち節約しかないのである。

景気悪化の要因となる恐れがあるため家計の引き締め、節約はよろしくないので、ここはひとつ、最も財政健全化の近道であると思われる医療費削減をみんなで取り組むのがよろしいのではないだろうか。

あっちが痛いとかこっちが痛いなどと言って、病院に治療に行っているのか知人と無駄話をしに遊びに行っているのか分からないようなことは控える必要があるだろう。

そして、そもそもあちこちが痛くならないように予防し、健康管理に努めることこそが医療費削減、国庫負担の軽減、財政健全化への最短ルートだと思われる。

これだけ健康に関心があり、朝から晩までテレビでは健康食品や栄養補助食品の CMが流れ、通販番組ばかり放送されている現在においては、
「そんなことは言われんでも分かってるっ!」
と文句を言われそうな気がしないでもないが・・・。

とにかく、昔と違って現代の日本人は身勝手な人種になってしまったと思う。

そしてやはり、誰に叱られようと、老人よりも子どもを優先すべきだと思えてならない。

自分解体新書 - 20 -

自分解体新書 ~目次~

■ 毛髪

とうとう毛が薄くなってきたように思う。

白髪化は確実に進んでいると自覚しているが、最近は本数も減少傾向にあるようだ。

黒髪より白髪のほうが光の加減で地肌が見えやすいのは当然だが、それほど薄くなっていないと思っていた髪の黒い部分まで地肌が目立つようになってきているのである。

それほど抜け毛が多くなったわけでもないのに本数が減るということは、新しく生えてくる毛が少なくなったということであり、これは確実に老化現象の一つであろう。

昨年末、となりの店髪を切りに行った際、散髪後のシャンプーをしてから頭を見て驚いた。

髪が短くなったこともあり、余計に頭皮が目立つようになっているではないか。

以前から頭髪が薄くなった場合には、9:1に分けるとか、バーコード頭にするなどの無駄な抵抗はせず、思い切って短髪にしてしまうか剃ってしまおうと心に決めていたのでお兄ちゃんにその旨を伝えたのだが、まだ大丈夫だという答えだったのでしばらくは髪型を変えずにいこうと思ってはいる。

しかし、それほど遠くない将来、坊主頭に近いくらいの短髪になる日が確実に来ることだろう。

■ まつ毛 その4

世間的には珍しくても、もう自分の体にとっては珍しいことではなくなったので独り言にも書いていないのだが、数日前から左目に白いまつ毛が生えている。

以前は数年に 1度、近年は春と秋に 1本ずつの年に 2度のペースで生えていたのだが、昨年からは年に数本のペースになり、今年はもう 1月から生えてきてしまった。

この調子だと今年はどれほどのペースで白いまつ毛を目にすることだろう。

■ 目 その4

視力低下も確実に進んでいる。

メガネを購入したのは 2009年11月のことなので、すでに 5年以上が経過しており、その間に徐々に視力が低下したのだろうが、最近はメガネをしていてもテレビの細かい部分が見づらくなってきた。

海外ドラマや映画の字幕程度の大きさであれば不自由なく読めるのだが、プロ野球中継で画面端に表示されるスコアはちょっと辛い。

パソコンでの作業も細かなことをする時は、知らず知らずのうちに顔を画面に近づけているので度が合わなくなってきているのだろう。

そろそろ新しいメガネを作るべきか、まだひどく不便な思いはしていないし、これからも視力低下は進むものと思われるので、もう少し度が合わなくなるまで使い続けるべきか判断が難しいところである。

■ 膀胱 その2

2年前にも書いたが、夜中や朝方に目が覚めてトイレにいく状況は相変わらずだ。

朝までぐっすり眠りたいと思って医師に相談したが、いわゆる加齢性の症状とは異なるようで、もしそれであれば尿意を催してトイレに行ってもそれほどの量は出ないのだそうだが、自分の場合は尿意に比例する量が出る。

つまり、それだけ膀胱に溜まっているので尿意がして当然であり、それは加齢性の頻尿(ひんにょう)とは違うらしい。

では、就寝前に排尿しているにも関わらず短ければ就寝後 2時間程度で膀胱が一杯になってしまうのはなぜなのかと言えば、医師の指示で 1日に 2リットル以上の水分を補給するように心がけており、それを夜まで続けているからだろう。

夜中のトイレを回避するためには夜になる前、夕方までに可能であれば 2リットル、せめて 1.8リットルくらいは摂取を完了しておかなければならないのではないか。

それはそれで辛いものがあるが、試してみる価値はあるかもしれない。

■ 足裏 その5

何年も右足裏の痛みは続いていたのだが、それが徐々に軽減されて気がつけば痛みが消えていた。

つい先日、室内運動の最中に 『お買い物日記』 担当者に足裏は痛くないのかと聞かれ、はじめて長年続いていた痛みが消え去っていることに気付いたのである。

痛みが強くて病院に行って診てもらったのが 2012年のことなので3年弱も苦しめられたわけだが、痛みの原因も不明なまま、治療もしないまま症状はなくなった。

痛みが消えたのは喜ばしいことだが、原因が不明なだけに何をしてしまったら再発するのかも分からず、気をつけようがないのが困りものである。

限度

イスラム過激派のテロで 17人の犠牲者を出したフランスでの事件は、今日になって犯人の射殺という結末で終わった。

物事には限度というものがある。

テロなどの暴力で解決するはずもなく、それは決して許されることではないが、フランスの風刺週刊紙シャルリエブドが掲載したイスラム教預言者ムハンマドの風刺画も限度を超えていたのではないだろうか。

確かに表現の自由は守る価値のある権利ではあるが、そもそも自由というのは何をやっても許されるものではなく、自由であればあるほど一定の配慮や自制が必要になると考える。

自由だからといって人を殺したり傷つけたりしてはいけないし、それは体への物理的な傷だけではなく心や精神への論理的な傷も同じことだ。

イスラム教徒にとってムハンマドはイスラム教の開祖、つまりムハンマドによってイスラム教が始まったのだから神に最も近い人物、ともすれば神そのものである訳だから、それを笑い者にすることを一部の信者は許せなかったのだろう。

テロ行為にはおよばないまでも、キリスト教徒はイエスが笑い者にされたら喜ばしく思わないと思われ、仏教徒であれ神徒であれ大差はなく、仏様や神様を馬鹿にされたら良い気はしないだろうし、「このバチあたりがっ!」 とムキになって怒る人もいるに違いない。

本気で怒る人や傷つく人がいると分かっていながら風刺画を掲載するのは、表現の自由を通り越して無神経であってデリカシーに欠けると思うし、限度を越えた行為だと思う。

だからと言ってテロ行為に走るのは、そちらもまた限度を越えているが。

類似したこととしてソニー・ピクチャーズ制作の北朝鮮をジョークの対象とした映画 『ザ・インタビュー(The Interview)』 の一件がある。

それは北朝鮮の最高指導者、金正恩(キム・ジョンウン)の暗殺を題材とした映画で、ネタバレになってしまうが金正恩の暗殺が成功し、北朝鮮が民主化されるという内容だ。

北朝鮮国民にとって金正恩は神に近い存在であるため、アメリカのオバマ大統領や日本の安倍首相の暗殺などという次元を越えており、日本においては終戦以前の天皇、16世紀から17世紀のヨーロッパにおける絶対王政時の国王の暗殺を描いたようなもので許容範囲を越えているものと思われる。

いくら表現の自由があろうと相手の感情を考慮した場合、いくらなんでも実名を挙げて笑い者にしたり殺したりするのは限度を越えているのではないかと思えてしまう。

だれでも容易に想像がつくにせよ、国名や個人名を架空のものにするなどの配慮があっても良さそうなものだと思うし、暗殺が成功するのではなく最高指導者が改心して民主化が実現するという終わりではいけなかったのか。

本気で怒る人や悲しみを覚える人がいると分かっていながらパロってしまうのは、やはり表現の自由を通り越した無神経でデリカシーに欠ける限度を越えた行為だと思える。

だからと言ってサイバーテロという行為に及ぶのも限度を越えているが。

そしてマクドナルドだ。

昔は食べ物に異物が混入するなど日常茶飯事のことだったが、現代人は超衛生的、超最高品質という超過保護な生活に慣れ親しんでいるため、少しのミスも許してくれない。

バリバリ昭和生まれのオッサンは、買ってきた食べ物に髪の毛の 1本や 2本が入っていようと取り除いて食べてしまうだろうし、気持ちの良いものではないと思いつつも購入店や製造元にまで文句をいうつもりはないし、それを撮影してネットで公開しようとも思わないだろう。

したがって、ビニール片やプラスチック片が出てきたくらいで大騒ぎするのは限度を越えていると思っていたのだが、怪我をする危険性が高いガラス片が出てきたり、歯が出てきたりと全国津々浦々のマクドナルドで異物混入が相次ぐ事態に直面しては、やはりマクドナルド側に限度を越えた品質低下と組織の硬直化があるのだろうと思える。

バリバリ昭和生まれのオッサンも、肉の中から歯が出てくれば食欲が失せるのを通り越して胃の内容物を吐き出してしまうだろうし、二度とマクドナルドには行きたくなくなるに違いない。

時代の寵児ともてはやされた原田社長だったが、在任当時からその手腕や組織運営法には疑問をいだいており、『お買い物日記』 担当者と二人で何かが気に入らない、彼のやり方の何かがおかしいと話していたが、やはりと言うべきかコンピュータ業界そのままの経営手法が飲食業、接客業に通用せず、限度を越えたコストカットや効率化は品質低下と店員への過剰負担を招き、トップダウン型の指揮系統は現場の声を上層部に届きにくくさせてしまったようだ。

苦境から経営を V字回復させたという賛辞を受け、名経営者としてベネッセに移った原田氏だが、マクドナルドに残した負の遺産はあまりにも大きすぎる。

今、ネット上ではマクドナルドがガラガラに空きすぎているとか、人いなさすぎなどという書き込みが目立つが、昨年の鶏肉問題の傷も癒えぬまま新たな大怪我を負ってしまった組織が復活するのはいつのことになるだろう。

原田氏はコストカットの一環としてマクドナルドの直営店を減らし、30%だったフランチャイズ店を 60%までにしたが、この苦境を一緒に乗り切ってくれるオーナーはどれだけいるのか。

それらすべてのことが原田改革のマイナス面として表面化しているような気がする。

しかし、それにしてもである。

今回の件に関するマスコミの騒ぎ方も限度を越えているような気がするが・・・。

最近の若い者は 5

最近の若い者は ~目次~

新年もまだ明けたばかりで今日はまだ三箇日の最中であるこの時期にボヤきたくはないが、年末年始のテレビを見ていて腹に据えかねるというか、呆れて物が言えないというか、オッサンには信じられない種族が世に繁殖している事実に驚き、新年早々だというのに腰を抜かしてそのままギックリ腰になってしまうのではないかと思ってしまった。

もちろん昔と今は時代も背景も子育ても親子関係も何もかもが違っていることは理解しているが、親が子を思う気持ち、子が親に向ける感情にそれほど大きな違いがあるとは思っていなかったのだが、どうやら昔と今では雲泥の差があるらしい。

自分が子供の頃、思春期の頃は親が鬱陶しくて仕方がなかった。

それは男女に大きな差はなく、男子も女子もそれぞれに親を疎ましく思っていたもので、母親と何日も口を利いていない女子も相当数を占めていたものだが、今の母娘は実に仲が良い。

休日に母親と買い物に行くのはもちろん、食べ物の違いなのか美容技術なのか分からないが昔の親より遥かに若く見える母親と着る服を共有したり、同じ美容室に行ったりしているという。

その程度であれば少数派ではあるものの昔の女子にもいることはいたが、父親と仲が良い女子など皆無に近く、父親は家にいないほうが良いとか、ウザいとか、臭いとか、死ねとか言っており、汚いから父親の下着と自分の下着を一緒に洗濯しないでほしいとまで言っていたものだ。

ところが、ところがである。

最近の女子中学生や女子高生にインタビューする番組を見ていると、父親をどう思うか聞かれて 「好きですよ」 とか 「仲良いですよ」 と答える子がとても多いのに驚かされた。

父親と買い物に行ったり外食したりするのも嫌々ではなく嬉々として行っているようだし、AKB48などのアイドル好きの父親を持つ娘は嫉妬したりしている。

時代は変わるものではあるが、いつの間に娘と親は、まして娘と父親はこれほど理解し合い、仲が良くなったのか不思議でならない。

年頃の娘を持つ親といえば、親を、特に父親を毛嫌いしていた世代であり、自分たちがそうだったのに、なぜ子供を手なずけることができるのか。

いや、自分たちがそうだったからこそ親の欠点、弱点を知っており、それを抑えて娘世代にすり寄って嫌われないよう細心の注意を払っているのだろう。

つまり、親が厳格なものでなくなり、子どもたちに嫌われないよう子どもたちに合わせているというのが実情であって、子が嫌がるようなことを言わず、鬱陶しいと思われるようなしつけも注意もしなくなってしまったに違いない。

子どもと仲良く過ごすのは良いが、それに重点を置くあまり、まともなしつけも教育もできていないのであれば日本の未来はどうなってしまうのか心配だ。

そして何より正月早々にもかかわらず怒りを通り越して気持ち悪さや不気味さを感じているのは、男子と母親の関係についてである。

それこそ今から25年くらい前、バブルの絶頂期から崩壊にかけての 1980年代後半から 90年の前半はチャラチャラした男が多かったし、親から買い与えられた車を乗り回してはいたものの、今ほど母親と仲良くなどしていなかった。

むしろ母親と仲が良かったり母親のことを気にしたり言いつけを守ったりしているような男はマザコンの烙印を押され、女性から相手にされないどころか同性の友だちからも馬鹿にされたりしていたものである。

ところが今は母親と仲が良い男性はきっと女性にも優しいに違いないと思われているのだそうで、むしろそういう男性を好む女性が増えているというのだから驚きだ。

テレビ収録に来ていた男性が誇らしげに母親との仲を自慢しているのを見て、オッサンの背中には 283匹分ほどの虫ずが走り、頭のなかで 「馬鹿じゃないのか」 などと毒づいたりしていたのだが、それを容認する女性の発言を聞いて腰が砕けてしまったのは言うまでもない。

以前から大学受験に親と一緒に来る子どもや、大学の案内や説明会に父母同伴で来る子どもを見て 「情けない」 と文句を言い、最近の大学には参観日があると聞いてアゴが床まで落ちてしまうほど開いた口がふさがらなかったりしていたが、数日前の驚きはそれどころではなかった。

そのスタジオに来ていた 19歳の男性は、「今でも母親と風呂に入る」 などとぬかしてオッサンの心を凍りつかせてくれたが、それを隣で聞いていた同世代の女性がさして驚いていなかった事実を目にするに至っては、つくづく隔世の感を禁じ得なかったのである。

確かに親不孝ばかりしている訳にもいかないので母親を大切にするのは良いことかもしれないが、親を大切にするのと親離れできていないのは別次元の話であって、母親と混浴する成人直前の男がまともだとは思えないのはオッサンの頭が硬いのが原因ではないだろう。

そして先の話と同様に、こういう子どもを育てたのは男を選ぶ際にマザコンは嫌だ、気持ち悪いと言っていた世代だというのが何とも不思議だ。

子どもに嫌われないよう、ろくに教育しない親に育てられ、選挙権を持つようになっても母親と風呂に入っているような子どもたちに日本の将来を託さなければいけないと思うとあまりに悲しく、涙でにじんだ目では、ますます日本の将来が見えなくなってしまう。

戦うことを忘れ、自分の身も守れない種族となってしまった日本人が、経済力も国際競争力も失い、二流国、三流国へと転落し、世界から見て貧しい国になる前に自分の寿命が尽きるであろうことがせめてもの救いか。

2014年の終わりに

今年も残すところ明日からの 4日間だけとなってしまった。

昨年の雑感にも書いたホテルでの昼食バイキングにはまだ行けていない。

今年も何度かはホテルの Webページを調べて週替りバイキングの内容をチェックしたりしていたのだが、いつでも行けるという近さと気軽さが逆に災いしてグズグズしているうちに料金が値上がりし、週替りだったメニューも 2週間ごとになってしまった。

そもそも最近は意図して食事の量を減らしており、バイキング形式の食事をしてもたくさんは食べられないので元を取るつもりで挑むことはできない。

ずっと腹十二分目になるほど食べていたのだが、年齢とともに基礎代謝も落ちており、運動量も減ってきているのに大量摂取している場合ではないということで量を少しずつ減らしたのである。

今となっては外食をしても、出される量が多くて食べきれないことも多くなってきたが、不思議なことに麺類だけは別腹で、月イチのラーメン屋さんではラーメンの他にミニ炒飯も食べてしまう。

家で休日に麺類を食べるときも 『お買い物日記』 担当者と二人で 3-4人前の麺を食べることも珍しくない。

それでも普段の昼、晩御飯は少しずつ量を減らして今では若いころの半分程度しか食べていないものと思われる。

最初の頃は量が少なくて食べた気がしなかったり少しさみしい気がしていたが、最近はそれに慣れて十分に空腹は満たされるようになった。

ただし、次の食事の前には腹ペコ状態になっており、「ガルルル」 と野生に返ってしまいそうなほどなのは相変わらずだが。

それでも使う予定のないエネルギーを必要以上に摂取することはないし、それでやせ細ってしまった訳でもなく、むしろ体重は増加傾向にあるので量的にはこんなものなんだろうと思う。

この歳になって必要以上に摂取すれば、いわゆる生活習慣病のリスクが高まってしまうだろうし、そうなれば逆に好きなものも食べられなくなってしまうであろうから、少し量を減らしてでも好きなものを美味しく食べるのが良いだろう。

とくに健康や体型を気にして食事を控えている訳ではないが、『お買い物日記』 担当者が大病をし、自分も心臓に難を抱えているので病気のリスクはヘッジしたいと考え、毎年の健康診断、目や歯の検診は欠かしたことがない。

昨年(2013)末の健康診断で血便が認められ、精密検査を受けるように勧告されてしまった。

ネットで調べると血液量は最低ランクで大腸がんのリスクは極めて少ないとのことで、若いころであれば会社の健康診断で問題があったとしても放っておいた自分でもあることだし、リスクも少ないとなれば精密検査の勧告など無視していただろうが、この歳になり持病を抱える身としては多少の不安が胸をよぎる。

おまけに 『お買い物日記』 担当者の病気の一件から、どんな種類のがんであれ早期発見、早期治療が最も重要であり、それ以外に最善の手はないと思い知らされているので、なおさら精密検査の重要性を認識せざるを得ない。

そんなこんなで翌月の通院の際に担当医に相談し、今年(2014)の 2月に大腸がん検査をする運びとなったのである。

結果は複数のポリープがあるもののがん化のリスクは高くなく、2年に一度程度の検査を受けていれば問題はないとのことだった。

そうやって検査によって白黒ハッキリさせておけば余計な心配もせず、不安を抱えることもなく生活を送れるので精神衛生上もよろしいのではないかと思う。

そして今年の健康診断、今度は 『お買い物日記』 担当者の胃にポリープの疑いが認められたので、それもさっさと精密検査を受けることにして健康診断の結果を受け取った翌月には胃カメラを飲むことにした。

その結果も問題なしで、がん化どころかポリープそのものがなかったのである。

バリウム検査の結果を見た 2人の医師の 1人はポリープではないだろうとの所見だったものの、もう 1人の医師の念のためという申し出によって精密検査の勧告となったらしい。

その検査には決して安くはない費用が発生し、『お買い物日記』 担当者も少なからず不安だっただろうが、我が家としては念のためと言ってくれた医師を評価したいと思う。

この手の病気で一番恐ろしいのは、たいしたことはないだろう、きっと大丈夫だろうと策を講じず、病気が進行、手遅れになってしまうことだ。

それを避けるには、どんな些細な事でも医師に気になる点があるのであれば患者、被検者に伝えるべきだと思うし、勧告を受けたなら素直に従って精密検査を受けることが重要だろう。

今年は二人揃って精密検査を受けることになってしまったが、問題は見つからなかったので安心して新年を迎えることができる。

上を見ればきりがないが、来年も大きな病気をせず、少しずつでも好きなものを美味しく食べられることをささやかに願いつつ今年の雑感を終わろうと思う。