記憶 Memory-02

過去の記憶

まだ乳幼児だったのでハッキリとした記憶が残っているわけではないが、以前の雑感にも書いているようにとにかく体が弱く、小児ぜんそく持ちだったのに加えて世の中で流行する風邪のすべてに感染するほどの病弱者で、頻繁に病院通いをしていたらしい。

医者にもすっかり顔を覚えられ、「また来たか」とか「毎度さん」などと言われていたとのことだ。

そんな会話のことなど記憶にあるはずないが、窓際に置かれたスチール製の机、その横にある患者が座る用の椅子、左側の壁にはガラス扉のついた棚があり、中には本とか分厚い辞典のようなものが入っている風景だけはボンヤリと脳の片隅に残っている。

今ほど医学も医療器具も発達しておらず、銀色の装置の中にはシュンシュンとお湯が沸き、その中に何本もの注射器が並べられている。

たぶん当時は使い捨てではなく、熱湯消毒して何度も注射器を使い回していたのだろう。

あれだけ病院に通い、まだ赤ちゃんなので腕が細すぎるという理由から、太ももの筋肉が今でも陥没しているくらい何度も注射されたのに、肝炎ウイルスに感染しなかったのは奇跡的なことかも知れない。

それだけ注射をされたなら、普通の子供であれば病院に行きたがらず、看護師さんや医者の白衣を見ただけで恐怖におののき、呼吸困難になるのではないかと心配されるくらい大声で泣き叫び、体の水分がなくなるのではないかと思われるくらいの涙を流しそうなものであるが、どういう訳か人見知りもせず医者や看護師の顔を見てニコニコと愛想をふりまく赤ちゃんだったらしい。

さすがに注射で針を刺された瞬間は 「ギャッ」 と泣くものの、それが終われば何事もなかったように機嫌よくしており、みんなから可愛がられたのだと言う。

そう言えば今でも病院に行くのは面倒であるものの、体を診られること自体は嫌でも怖くもない。

きっと赤ん坊のころから通い詰め、病院に対する抵抗感が皆無に近いのだろう。

実は男のくせに便秘気味であることは、この雑感や独り言でたまに触れている通りである。

それは持って生まれた体質らしく、幼児のころから便が出ずに親も困っていたらしい。

確かに記憶しているのは、オマルにまたがった自分を母親も父親もニコニコする訳ではなく、必死の形相で 「ほれ、う~ん!ってしなさい」 とか言っている姿だ。

一人でトイレに行けるようになってからも、あまりにもお通じが悪いのでドアを開けたまま母親が仁王立ちになって 「もっと頑張んなさい!」 などと激昂を飛ばしたりしていた。

ただでさえ便意をもようしていないのに、たとえ母親であれ人に見られたままの状態で、ガンパレと言われたからと言ってブリブリっと出てくれるほど人間の体は単純にできてはいないのである。

そんなことが何日も続くと、いよいよ病院に連れて行かれ、見ただけで気絶しそうになってしまうほど大きな注射器みたいなもので浣腸される。

少しして腸の当たりがボコボコと音を立て始めると、愛想も色気もない単に白いオマルに座らされて看護師さんがニコニコしながら 「でるかなぁ~?」 と優しく声をかけてくれる。

その横から椅子に座ったまま体を斜めにし、真剣な顔つきでこちらを凝視する母親。

その視線を無視し、やさしい看護師さんの顔を見ながら 「う~ん」 とすると、カランコロンと妙に乾いた音がした。

看護師さんはオマルの中を見て 「まるでウサギのウンチみたいだね」 と笑う。

確かに、こそにはパチンコ玉より少し大きい程度の真ん丸な黒い物体が三粒ほど転がっていた。

この話しにオチはないが、この記憶はいったい何歳くらいの出来事なのだろう?

忘れなければ次の帰省の際にでも母親に聞いてみようと思うが、昔のことは覚えているクセに最近のことや、やらなければいけないことなどは次から次に記憶の彼方に消えてしまう今日この頃なので、きっと聞くのも忘れてしまうに違いないと予想される。

メガネ装着時間

メガネ生活を始めてから約 2カ月が経過した。

当初はまったく馴染めず少し苦労したが、最近は装着している時間が少しずつ長くなってきた。

最初はテレビを見る時だけだったが、今は家の中を移動する時もはずさずに歩けるようになった。

メガネをしたまま歩くと、どうも平衡感覚か距離感が普段と異なり、ちょっと歩を進めるのが怖かったのだが今は部屋の中もトイレまでも寝室へもスタスタ歩ける。

しかし、今はまだそこまでで、外に出るときはメガネを外さなければ怖くて歩けない。

きっと慣れの問題なのであろうから、外でもメガネをしたまま歩く練習をしなければ、いつまで経っても恐怖心が抜けないであろうことくらいは分かっているのだが、正直なところあまり必要性も感じていないのが事実なのである。

いったいどういう具合なのか理解できないが、ある一定以上の距離になると何の問題もなく見えるので、メガネがなくても困らない。

いくつか先にある遠くの信号機でも青なのか赤なのかハッキリ認識できるし、道路標識に書かれている文字も読むことができる。

遠くの山に雪が積もっているのも、その山肌を走る道路だって見えるし、生えている木が紅葉したり葉が落ちて枝だけになっているのも労せずして判別可能だ。

もちろん道路を横断する際に遠くから車が来ていれば分かるし、遠くの空を飛ぶ鳥だって見える。

そんなこんなの理由から、外でメガネをする必要性はまったく感じられず、むしろ感覚が狂って歩くのが怖いのであれば、しない方が良いということだろう。

家の中では装着している時間が少しずつ長くなってきたとは言え、やはり食事中は邪魔になるし、パソコン画面を見るときもメガネをしていると老眼が仇となり、見難くて仕方がない。

つまり、食事中とパソコン操作中、入浴、洗顔、就寝中は裸眼で過ごし、それ以外の時間にメガネをするので、つけたりはずしたりが忙しく、そのたびにメガネケースに入れたり出したりするのは面倒なので、現在はアクセサリーとして売られているチェーンというかヒモを装着して首からぶら下げるようにしている。

せっかく購入してテレビも見やすくはなったが、自分は一日の大半をパソコンの前で過ごしているので、メガネをしている時間は残念ながらなかなか長くなりそうもない。

進化の袋小路

また日本はデフレに入ったかも知れないなどと言われているが、実のところバブル崩壊後のデフレから抜け出せていないのではないだろうか。

2002年の雑感にも書いたようにデフレと言う名の病魔は簡単に克服できるものではなく、何十年と言う歳月を要するものらしい。

事実、イギリスは産業革命によって我が世の春を謳歌していたが新興経済国の台頭によって競争力を失い、1873~1896年もの長期不況に陥った。

その後も競争力を回復させられないまま20世紀に入り、二度の大戦と世界恐慌を経て、1970年代にサッチャー政権が登場するまで、経済の長期衰退が続いた。

その期間は実に 100年。

はるか昔にローマ帝国がデフレになった時も克服するのに 50年くらいかかったという。

日本は大不況を経験してからまだ 20年しか経過していないので、デフレの病巣を突き止め、摘出しきれていない可能性がある。

2000年くらいから経済が持ち直して好景気だったと言われているが、庶民には何の実感もなかったのが事実だ。

実は好況になどなっていなかったのではないだろうか?

数十年先に現状を分析すれば、ずっと下降線をたどっていた折れ線グラフが一瞬だけ上向きかけたもののそれは10年とかのスパンであり、50年、100年単位で見るとグラフは下がり続けているのかも知れない。

2-3年前から少しずつ値上がりした製品も再び値下げに向かっており、チーズやバターなどの乳製品は下落傾向にある。

そして、にわかに注目を浴びているのは PB(プライベートブランド)商品。

イオン、セブン&アイ、ダイエーなどが販売する、自主企画、独自企画商品と呼ばれるものだ。

その品数は多岐にわたり、現在も増え続けている。

庶民としては同じ品質のものが安く買えるのは嬉しいことだし、販売店も利益が出るのであれば双方にとって好ましいことのように思えるが、NB(ナショナルブランド)と呼ばれるメーカーの利益は相当に圧迫される。

研究開発費を投じて新商品を開発、既存の商品に付加価値を持たせても、すぐに真似されて PB(プライベートブランド)商品が出回る。

消費者は安いものを選ぶのでNB(ナショナルブランド)商品が売れない。

メーカーは少しでも売り上げを伸ばそうと価格競争に入る。

適正な利益が得られないので研究開発費の元がとれないという悪循環になってしまう。

例えば食品用のラップ。

日本製は引き出したラップを切りやすくなっているし、丈夫なので途中でちぎれたりもしない。

ところがアメリカやヨーロッパで売られているものは切りにくく、耐久性にも乏しいので箱から引き出している間にちぎれたりもするらしい。

おまけに付きが悪く、ラップをしても剥がれてしまったり、めくれてしまったりするという。

日本の製品が優れているのは、メーカーが消費者の立場になってモノを作り、研究開発が進んでより利便性が高め、発売後にも改良、改善を続けてくれるからである。

どうして日本と同じことができないのかと言えば、それは上述したように巨大資本、巨大な販売力を持つウオルマートみたいな流通業がすぐに PB(プライベートブランド)商品を発売してしまうのでメーカーが適正な利益を得られないまま価格競争に突入してしまい、改良、改善する費用も情熱も失ってしまうからだ。

そしてメーカーの力はどんどん衰え、新商品、改良品が生み出されなくなる。

そして、より便利に、より使いやすくという概念が失われ、進化の袋小路に入ってしまう。

それはメーカーにとっても消費者にとっても不幸なことではないだろうか。

我が家でも PB(プライベートブランド)商品を選んで買ってしまうこと多くなっているが、それはジワジワとメーカーを苦しめているのかもしれない。

マサルノコト scene 25

新年になって 9日も経過したが、やっぱりマサルからの年賀状は届かない。

正月に一通の賀状も届かないのは寂しかろうと今回も出してやったのだが、それの返事すら届かず、メールや電話の一本もないので来年からは放っておこうかという気分になっている。

知り合った中学生の頃、何度となくマサルの家に遊びに行ったが、部屋もきちんと片付けられており、とても几帳面な性格だったと記憶している。

授業で使うノートもキレイに書かれていたし、当時は音楽の記録媒体だったカセットテープも見事に管理されていたし、本棚には整然と小説などが並べられていた。

scene 7 に書いたように、ある日突然、何の前触れもなくアパートを急襲したこともあったが、まるで所帯持ちのように掃除が行き届き、整理整頓されている部屋に住んでいたマサルである。

筆不精かと言えば決してそんなことはなく、scene 16 に書いたが、まだパソコンもなく手書きするしかない時代に、もの凄い量の演劇用の台本を一人で書き上げたりするマサルだ。

そんな奴がどうして年賀状を出すのを面倒がるのかイマイチ理解できないのだが、それは面倒とかいうよりポリシーの問題なのかも知れない。

いつかの電話で
「新年の挨拶なんてくだらねー」
とか
「年賀状のやりとりなんかしてどうなる」
などと言っていた。

確かに普段は何の付き合いもなく、年に一度、その賀状でしか近況を知ることがない程度の知り合いと、延々と文字だけの、それも正月だけの関係を継続すべきかと問われれば必要性を疑問視せざるを得ないのは確かだ。

良く顔を合わせ、付き合いの深い人にこそ年始の挨拶をすべきであって、それも直接訪問しての挨拶が昔の主流で、その訪問ができないからこそ賀状というものが必要だったと推測される。

その点を考慮すればマサルの言っていることはもっともであり、正しいように思えてくるが、それにしてもわざわざ賀状を出してやっているというのにナシのつぶてというのは何たることか。

腹立たしいことではあるものの、わざわざ電話したりメールしてまで文句を言うのも面倒だ。

そう言えばもう 10年もマサルと会っていない。

電話で会話したのも 2007年の元旦が最後だ。

いろいろな事情はあったものの、結果的にはせっかく北海道に帰って来たのだから、たぶん今でも東京に住んでいるものと思われるマサルさえ飛行機に乗ってくれば、生まれ育った町で合流するのも以前より容易なはずだ。

何かのタイミングで久々に会うのも悪くはないと思っているが、何せ我家の場合は筆不精ではなくても出不精ときている。

余程のことがない限り、これから先もマサルと会う機会は訪れないかも知れない。

2010年の始まりに2009年を思う

先週、勢いだけで雑感を書き、草稿を書き終えたと思った瞬間に気づいた。

それが 2009年最後の雑感であることを。

2001年の終わりから02年03年04年05年06年07年08年と、その年の最後の雑感は 『20xx年の終わりに』 というタイトルで締めくくってきたのにコロッと忘れて普通のネタにしてしまったのである。

で、今になって去年を振り返ってみようと思っているのであるが、個人的にはそれほど大きな出来事などなく、どちらかと言えば世の中の動きのほうが激しくて、それについて行くのがやっとという感じだったように思う。

年の始めの 1月、そして 2月まで 『お買い物日記』 担当者の病気治療は続いており、そのための入退院を繰り返していたので何となく落ち着かない日々だったのは確かだが、それも今となっては思い出になりつつある。

それでも 2009年の出足として興味深かったのはアメリカでオバマ氏が大統領に就任したことで、白人以外の大統領が誕生するなんてソ連とかドイツの社会主義国が崩壊したのと同じくらいのインパクトがあった。

3月の思い出は何と言ってもワールドベースボールクラシック(WBC)で日本が二連覇したこと。

4月は SMAPの草なぎ剛氏が逮捕された件で、当時の報道では警察はやりすぎだとの批判もあったが、昨今の芸能界麻薬汚染を思うと当時から何らかの情報がもたらされていたための神経質な捜査、対処になったような気がしないでもない。

そして、今も尾を引く新型インフルエンザがメキシコ、アメリカで感染者数を増やし始めたのもこの 4月だった。

5月は当時の自民党政権が景気対策の一環として始めた 1000円高速道路の影響で大渋滞が発生したことと裁判員制度がスタートしたこと、そして新型インフルエンザ感染者が国内で初めて確認されたのが印象深い。

個人的にはこの 5月にビジネス上の新しいブレーンと知り合い、仕事の幅が少し広がった喜ばしい月でもあり、好きだった忌野清志郎氏が亡くなって悲しい月でもあった。

6月はアメリカ自動車最大手の GMが破綻したのに驚かされ、マイケル・ジャクソンが急死したことにも驚かされた。

7月にはやっとのことで麻生政権が解散し、総選挙への号砲が打ち鳴らされたのと日本では 46年ぶりに皆既日食が観測されたことが強く心に残っている。

8月は何と言っても衆院選での民主党の圧勝で、このインパクトはあまりにも大きく、世の中が大きく変る分岐点となったはずで、なかなか成果が見えないとか何とか結論を急ぎがちの日本人やマスコミではあるが、来年度からの政治、日本の経済、世の中は恐ろしい速度で変わっていくに違いなく、時代に取り残されないようにしようと思う。

もう一つ忘れられないのは薬物関連で押尾学氏や酒井法子氏が相次いで逮捕されたこと。

少し前に相撲界の大麻汚染が問題になっただけに世の中どうなっているのかと呆れたものだ。

9月は民主党政権になって揺れ動く八ツ場ダムの話題に持ち切りで、なぜ八ツ場を 「やんば」 と読むのかというでっかいクエスチョンマークは頭上に浮かびっ放しだったが、イチローが 9年連続 200安打というメジャー新記録を樹立してくれてモヤモヤした気分が吹き飛ぶ。

10月は先の衆院選で落選した中川昭一氏の急死に驚かされ、北海道日本ハムファイターズがプロ野球パ・リーグ優勝を決めてくれて喜び、三遊亭円楽氏の死去に悲しむという忙しい月。

11月は何と言っても整形してまで逃亡を続けていた市橋容疑者の逮捕劇と、民主党政権が公開ではじめた 『事業仕分け』 での蓮舫氏の張り切りが目を引いた。

そして 12月は政治がガタガタし始め、鳩山の由紀夫ちゃん邦夫ちゃんともママから浮世離れしたお小遣い貰って非難の的になったかと思えば小沢氏の元金庫番が在宅起訴されたりと忙しく、いろいろあった事件や事故のニュースがかすんでしまった感がある。

個人的にはこの 12月にもビジネス上の新しいブレーンと知り合い、仕事の幅が一段と広がったという実に喜ばしい月になった。

そして年が明けて 2010年。

今年がどんな年になるのかまだ 2日目なので何とも言い難いが、この歳になるととにかく健康が一番だというのが真っ先に頭に浮かぶ。

朝の散歩、例の体操も続け、毎日一歩ずつ進んでいこうと思う。

仕事も私生活も着実に一歩ずつだ。