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雑感 なんとなく感じたこと雑感 なんとなく感じたこと

威厳威厳

何が端緒となったのか忘れてしまったが、今日の午前中に 『お買物日記』 担当者と学校や教師について話し込み、「昔は良かった」 というオッサン、オバハンの常套句を連発する事態に至り、崩壊しつつある現代教育の矛盾と危険性について深く認識してしまった。

そろそろ冬休みだと思うが、夏休みにしても冬休みにしても共稼ぎの両親を持つ子供は休みの期間、どうやって生活をしているのだろう。 共稼ぎの両親を持つ自分が子供の頃は、知り合いの家で昼御飯を食べさせてもらい、それ以外は朝から晩まで遊び呆けていたものだ。 家に親がいようがいまいが、そんなことは一向に関係がなく、それなりに充実した休みを過ごしていたものである。

また、遠く離れた土地に住む祖父母の家に行き、そのまま夏休みや冬休みが終わるまで帰らなかったことも一度や二度ではない。 最初は両親に連れられて祖父母の家に行き、そのまま滞在するというのがパターンだったが、小学校の 3-4年になると一人で電車に乗って行って休みが終わったら一人で帰ってくるという、今で言えば 『お子様一人旅』 の走りのようなことをしていた。

現代の子供は塾通いもあるだろうから、祖父母の家に長期滞在することは難しいだろう。 ましてや超過保護に育てられている子供が一人で旅することなどできないだろうし、第一に親がそれをさせたがらないのではないか。 だとすればなおさら、共稼ぎの親を持つ子供はどうやって休日を過ごしているのか。

昔は学校のグラウンドや校庭に行けば必ず誰かがいて、暗くなるまで砂ぼこりを立てながら遊んでいたものである。 そして、休みであるにも関わらず、必ず学校には一人や二人の教師がおり、大喧嘩が始まるとどこからともなく現れて子供たちを叱りつける。 子供の側も、誰かが怪我でもした場合、職員室に行けば必ず先生がいてくれるという安心感があった。

しかし今は安全上の問題からか、休日の校門は固く閉ざされている。 宿直制度もなくなった学校には教師もいないことだろう。 仮に今でも休日の学校が開放されており、教師がいたとしても子供を叱ることなどできないかもしれない。 下手に子供を叱ったり、ましてや平手であっても頭を殴ろうものなら鬼のような形相をした親が怒鳴り込んでくるに違いない。

かなり以前の雑感に、「母親が父親を馬鹿にしておいて子供の教育などできるか」 と書いたが、それは教師に対しても同じことが言える。 昔の親は教師を尊敬し、子供に対しても 「先生は偉い」 と説いたものである。 たとえ自分より年下の新任教師であろうと教師は絶対であり、叱られたり殴られたりした場合は 「おまえが悪い」 と言われたものである。

現在のように教師を教育産業の従業員としか見なさない態度で、子供の教育まで押し付けようというのが間違っており、そのような態度や力関係を子供も敏感に感じ取っているから教師の言うことなんぞ聞かないのだと思う。 よほど酷い体罰でも受けない限りは、教師に殴られようと 「おまえが悪い」 と子供に教えれば良いし、先生は偉いものであると諭さなくてはならないだろう。

そういう根本部分から考え直さなければ、学校教育の崩壊を食い止めることはできないし、真っ当な子供も育たないだろう。 すぐに手を出す子供にとって怖い先生だって必要だ。 親が何を思おうと、そんな先生の周りに集まる生徒だって多かった。 悪いことをすれば叱られたり殴られたりするのは当り前のことで、普段は頼りになる優しい先生だと子供自身が知っている。

自分は教師から叱られたことも殴られたことも数知れず、親はそんな教師に文句を言うどころか御礼まで言っていた時代に育った。 それでも今から考えると、「昔は良かった」 と思えるのだから、それは何も間違っていなかった証拠ではないだろうか。 現在の子供たちが大人になったとき、今の教育者が本当に自分にとって良い先生だったと記憶に残っているだろうか。

そして、そんな子供が大人となって親となり、子供が学校に通い始めると、今よりもっと酷い馬鹿親になって教師達を怯えさせるに違いない。

CMの明日CMの明日

過去の独り言で 『小林製薬』 や 『マクドナルド』、『ナショナル』 に 『アート引越しセンター』 のテレビCMに文句を書き、 『エステー』 や 『セコム』 のCMが嫌いだと書きなぐったりしてきたが、まだ他にも嫌いなCMはある。 以前の雑感にも書いたが、DonDoko 山口 (智充) 氏が登場するCMのすべてが好きになれないし、エプソン社のCMはどれを見てもパッとしないように思う。

エプソンは過去から現在におけるまで、その時々の一線級のアイドルや大物芸能人を起用している割にはイマイチ感がほのかに漂い、どうしてこうもダサダサのCMしか作れないのかという哀れみすら湧いてくる。 クライアントであるエプソンにセンスがないのか、広告代理店にセンスがないのか、同じ家庭用プリンタのCMなのにキヤノンとは大違いである。

池田模範堂の手荒れによるパックリ®割れ治療薬 『ヒビケア軟膏』 のCMも大袈裟で嫌いだ。 特殊メイクとも呼べない幼稚なひび割れを手の何箇所にも作り、大袈裟に宣伝する内容に嫌悪感すら覚えてしまう。 とにかく過剰演出がどうしても好きになれないのである。

CMで気になっているのは森永製菓で、エンゼルマークの表示とともに流れる 「ピポピ」 のシグナル音は、「ピポピポ」 の 4音が復活した。 1967年から 1985年まで 4音だったのに 1986年のマーク変更とともに 3音に変わり、それまで馴染んできた者としては何だか拍子抜けするような、しっくりこないような違和感を覚えたものだが、4音に戻したのには何か訳があるのだろうか。

その他に気になっているのはビール業界のCMである。 タレントを起用するようになったのはいつの頃からか。 昔はどこかの劇団員のような見たこともない人が登場するのが常であり、どのビールメーカーもそれは同様だった。 それが今では名のあるタレントや、矢沢永吉氏のような大物まで起用している。 消費が落ち込み、他社との差別化を図るためには止むを得ないのかもしれないが。

ブレンディの CM といえば原田知世氏だ。 あのCMは一度流れ始めると、それが新しくなるまで長期間放映される。 それは決して予算がない訳ではなく、あえて長期間の放映をしているのだという。 その刷り込み効果は著しく、原田知世 = ブレンディ、インスタントコーヒー = ブレンディと潜在意識に深く刷り込まれているようで、アンケート調査では回答者の多くがインスタントコーヒーと言えばブレンディと答えたそうだ。

さらに驚くべきことに、そのCMは 2001年にまとめ撮りされ、つい最近まで、放送されていたという。 どうりで歳をとらないはずだし、これほど徹底したキャラクター管理は執念とさえ言える。 現在放映されているものは今年になって収録されたものらしいが、いった何年分までまとめ撮りしたのだろう。 これから 10年間くらいは歳をとらない原田知世氏が見られるかもしれない。

最近はネット広告の伸びが著しく、テレビCMの数や予算は減少していると言われている。 しかし、それでもネット広告への予算は数%にすぎず、テレビCM予算の 70%とは比較すべくもない。 そして、ラジオや雑誌、屋外(看板)広告など様々な宣伝方法はあれど、日本コカ・コーラ社の壮大な実験結果によると、駅構内や電車内における交通機関広告が最も費用対効果が高かったらしい。

今後、CMがどこに向うのか分からないが、視聴率の低迷が続くテレビ業界から離れ、ますますネットへの流出や費用対効果の高い他の媒体に移行していく可能性は否定できない。 その時、我々消費者の目には、どんな映像が飛び込んでくるのだろう。

行動心理行動心理

YAHOOGoogle を代表とする検索エンジンで何らかの解を求めて検索する行動と、人に相談をする行動は似ているように思われ、それは取りも直さず己が求めていること、求めている方向への導きを望んでいるのであり、本当に迷い、悩んだ挙句に自分では解を得られず、困り果ててネットや人に頼るということは少ないのではないかと想像する。

まず仮説ないし自分の中で決めている方向性があり、それを後押ししてくれる結果を望んでいるだけであるから、その際は否定的意見は排除し、肯定的意見を見つけては 「やっぱりね」 とか 「ほらね」 などと納得して自分の判断に間違いがないような錯覚におちいり、結果、それが間違っていた場合には他人のせいにして自己への負担を軽減させる絶大なる効果をもたらす。

もちろん、自分の知らないことを調べるためにネットで検索したり人に訊いたりすることもあり、その場合は全面的に得た情報を信頼することもあるが、もっと心理的な部分においては己に近い意見を尊重するもので、例えば UFO とは何ぞやと調べた場合、それは未確認飛行物体 (Unidentified Flying Object) であると正確な解を得られるが、UFO が存在するや否やという案件になると、少しでも存在を信じたい場合は肯定派の意見を尊重し、否定派の意見は無視となる。

例えを低次元にまで落とし込んで展開すると、彼氏との仲がうまくいっていないが、自分の中では 「別れたくない」 という漠然とした思いがある女性が友人に恋愛相談を持ちかける場合、「辛いこともあるけど頑張りなさいよ」 という後押しがほしいのであって、「そんな男となんか別れちゃえば?」 などと言われようものなら、泣くは叫ぶはの大騒ぎとなって友人を閉口させるのは確実であり、「だったら最初から相談すんな」 的雰囲気が辺りを漂うことうけあいである。

それよりも重大な人生相談であった場合も、程度の差こそあれ己である程度の方向性に傾いている場合が多く、人からはそれを後押ししてもらうことを望み、一歩踏み出すきっかけを欲していることがほとんどであり、悩んでいるふりをして、自分が進もうとしている道と異なる意見を言われると気分を害し、肯定的意見を聞くと 「やっぱりね」 と気分良く納得して 「いやぁ~相談して良かったわ」 などと、会った時のゲッソリ感など微塵もなく、相談相手の疲労感など無視して晴れやかな顔を見せる。

ネットの閉鎖性により思想が偏ることを危惧する人がいるが、ヒューマンコミュニケーションだって大差はなく、結果的に人は自身の判断に基づいて進むべき道を模索し、方向性を決定しているものと思われるので、思春期以前ならともかく成人は自己責任を前提に前に進めば良いのである。

そうする自信もなく、自身で決断することすらできない人は、カルト宗教の餌食になりそうな気がするので少し心配であり、むしろそちらの方を心配すべきではないかと考える今日この頃である。

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夜の学校は不思議な雰囲気だ。 普段であれば、絶対にいるはずのない時間、クラブ活動をしていた生徒も帰宅し、教師すら数人が残っているだけの校内。 演劇の通し稽古をするために体育館のステージに集まる仲間たち。 体育館はただでさえ声が響くが、それをかき消す他の生徒の声もなく、一切の雑音がない静寂の中に一人ひとりの声だけがこだまする。

熱心に台詞を覚える仲間を横目で見ながら、自分は美術担当として舞台をどうやって作るか頭を悩ませていた。 物語の中心は学校の教室。 誰も見たことのない場所が舞台であれば、想像の世界なので抽象的な背景で済むが、場所が教室だとそうはいかない。 おまけに物語りの 99%は教室のシーンなので長く人の目に触れることになる。

机や椅子は実際の教室から運び入れれば良いのだが、問題は教室の壁だ。 そこで、角材とベニヤ板でステージ一杯のセットを作り、教室の壁をすべて再現することにした。 黒板やそこに書かれている日直などの文字、壁の色から板張り部分の木の一枚から木目まで、ペンキや絵の具を使ってすべて忠実に描きこむ。 一部に出入り口のスペースを確保し、実際に教室の戸を外してはめ込んだ。

劇の方は冒頭に喧嘩のシーンをもってきて派手なアクションから始め、観る側の関心を一気に惹きつけようという作戦だ。 動きを指示するマサルの声にも力が入る。 顧問である女教師からは 「早口すぎるから、もっとゆっくり台詞を言うように」 という指示があった程度で、それ以外のすべては自分たちの手で一から作り上げた。 いや、たった一点をのぞいては・・・。

冒頭の喧嘩のシーンで一人が大怪我をしてしまい、救急車が駆けつけるというストーリーなのだが、そのサイレンの音を入手しなければならない。 そこで学校側が消防署に掛け合い、録音させてもらうことになった。 マサルと自分は、それぞれに忙しかったので女教師に録音してきてもらったのだが、その件で担任から 「教師を使うとは何ごとぞ」 とこっぴどく叱られてしまった。

しかし、こっちはこっちで本当に忙しかったのである。 学校祭の日は刻々と近づき、美術担当の自分も脚本兼、演出担当のマサルも頭が一杯で、授業なんかうけていられないくらいだ。 出演者も授業どころではなく、机の下に台本を隠して何度も何度も読み返している奴もいるくらいだ。 そんな時にわざわざ消防署になんて行っているヒマなどないのである。 ヒマそうなのは女教師だけだったのである。

毎日夜遅くまで学校に残り、時には真っ暗になった校内で肝試しをして遊びながらも、勉強の数百倍もの努力と練習を重ね、いよいよ学校祭の当日となった。 学校内の話なので特別な衣装など用意する必要がなく、いつもの制服で芝居をするのだが、ただ一つだけ問題が持ち上がった。 不良役にしている一年生の女の子が真面目な生徒なので当時の不良の定番であった長いスカートなど持っていない。

そこで、不良をしていた同級生と一年生のスカートと交換させることにした。 同級生は死ぬほど嫌がっていたが、そこは不良仲間の自分が説得したり脅したりして無理矢理にでも着替えさせる。 ここで女教師が自分に白羽の矢を立てた理由がいかんなく発揮されたのである。一年生にスカートを履かせると、思った通りバリバリの不良に見える床を引きずるくらいの長さになった。

そして、いよいよ本番の幕が静かに上がった。 舞台に再現された教室のセットを観て会場からはどよめきが起こる。 そして冒頭の喧嘩のシーン。 殴られ役の生徒が並べてある机や椅子が壊れるほどの勢いで転がり、場内に驚きと歓声が上がる。 そして照明が暗転すると、近づいてくる救急車のサイレンの音。 場内が騒然となり、一気に物語へと引き込むことに成功。

物語の主人公はマサルとともに、いつも一緒にいたノブアキだ。 途中、台詞を忘れて必要以上に沈黙が流れるなどのアクシデントはあったものの、順調に芝居は進んでラストシーンへ。 最後は友達や友情がどれほど大切なものかを切々と語って幕が下りる。 そこで大きな拍手は貰ったが、それで終わらせる自分たちではない。

再び少しだけ幕の中央を開け、エンディングの音楽が流れる中、模造紙を何枚も繋ぎ合わせて作った出演者や裏方の名前を左から右にゆっくりとスクロールさせる。 そう、映画やテレビドラマのエンドロールのように、演劇に関わった人たちの名前が一人ひとりスポットライトに照らされる。 そして最後に -THE END- の文字。 場内は割れんばかりの拍手と喝采に包まれた。

自分とマサルを誘った女教師から全員に感謝とお褒めの言葉をいただいたが、木枯し紋次郎のように 「あっしには関係のねえことでござんす」 といった雰囲気で、成功の余韻に浸ることもなく翌日から何事もなかったように普通の生活に戻っていった仲間たちがカッコイイ。 大人になった今とは違い、人からの評価など気にすることもなく、ただ一つのことに向って何かをやり遂げる。

代償や評価を求める現在とは異なり、子供の頃は全員がそういうものだったのかも知れない。

マサルノコト

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中学二年のある日のこと、学校で一番若い女教師にマサルと一緒に呼び出された。 教師から呼出をくらうことに慣れていた自分は平気だったが、マサルにはそんな経験がなく、いったい何ごとかと不安そうにしている。 自分も体育教師に殴られたり担任に叱られたりすることはあったものの、その女教師とは何の接点もないので心当たりすらない。

二人で会いに行き、話を聴くと学校祭の演劇をやってほしいと言う内容だ。 そんなものにまったく興味もなく、まして不良をしている自分は、その話を持ちかけられること自体が不思議でならないのと、そんな恰好の悪いことなどできないという感情から、「ふざけるな。ば~か」 と相手にしなかった。 それでも 「お願い」 と頼んできたが、「うるせぇ」 と突っぱねていた。

不良だった自分が人前で劇をするなど恥ずかしくて死んだ方がましだ。 どんなに頭を下げられようと、引き受ける訳にはいかないのである。 第一、どう考えても頭を縦に振る見込みのない自分に話を持ちかけるのが理解できない。 切羽詰って女教師の頭がおかしくなったのか。 「どうして俺達なんだ?」 と訊くと、マサルには人望があり、人が集められそうで、自分はそれを統率できそうだと答える。

そう言われて悪い気はしなかったが、どう考えても乗り気になれず、態度を保留して席を立ち、マサルと 「どうするよ」 と話し合った。 女教師の話によると、演劇部というクラブはあるのだが、所属部員は一年生の女子が二人いるだけで、とても演劇などできる状態ではないということであり、せめて学校祭の時だけで良いから人数を集めて何とか演劇をしたいのだと言う。

マサルも自分も、人から頼られたり何かをお願いされると断われないという部分があり、そんなに困っているのなら一肌脱いでやるかと重い腰をあげることにした。 女教師にその旨を伝えると、顔がぱっと明るくなり、気が変わらないうちにと一年生の女子二人を引き合わせ、演目を何にするかと学校教材でもある演劇のシナリオを並べ始めた。

手にとってみると、それは文学全集の中から抜け出てきたような世界観の劇であり、とてもじゃないけど恥ずかしくて人前で披露できる代物ではない。 そんなものに興味がないのは自分だけではなく、おそらく全校生徒の大多数が興味を示さないものと思われる。 ただでさえ、演劇など始まっても誰も関心を示さず、ペチャクチャと話をしたり、席を立ったりするものが多いのに、教科書どおりの劇など誰が見るか。

マサルと自分は、どうせやるなら生徒が関心を持ち、最後まで観てもらえるものにしてやる宣言し、当時から多くの小説を読み、文章を書く能力が高かったマサルがシナリオを学校祭用に書き下ろすことにした。 その辺の作業はマサルに任せっきりだったので、マサルがどのように悩み、どれだけ苦しんで台本を書いたのか分からないが、数日後に書きあがったばかりの台本を読ませてもらった。

それは 『青春学園サスペンス友情物語』 とでも表現すれば良いのか、とにかく中学校で起こる事件を探偵役の生徒が解決に導くという内容で、同世代が登場人物なので話が解りやすい。 さらに適度な謎解きとサスペンスが散りばめられた 『火曜サスペンス劇場』 の中学校版ともいえる内容は、生徒も興味を持って観てくれるに違いない。 とりあえずは 「よくやった」 とマサルを誉め称えておいた。

事前に事情を説明したり半ば脅したりして、演劇への参加者を募っていたので、登場人物は探偵役の一名を除いてすべて実名だ。 同級生にとってもこんなに解りやすいことはない。 おまけに、各クラスのそこそこの人気者を半強制的に集めたので出演者にも華がある。 マサルは脚本と監督に専念し、自分は美術担当を買って出たので二人は裏方に徹し、表には一切顔を出さないという作戦だ。

そして、クラスの人気者や優等生、不良まで入り混じるという錚々たる面々が集結し、学校祭に向けての準備が開始されたのであった。

- つづく -

マサルノコト

キャッチコピーキャッチコピー

企業にはキャッチコピーというものがあり、その多くは一言で企業イメージを表している。 世の中にはコピーライターなどという職業もあって、そのライターが寸暇を惜しんで頭をひねった結果が、短いコピーの中に企業のイメージや消費者へのメッセージを込めた、まるで暗号とも呪文とも思えるようなインパクトの強い文字列へと昇華させるのだろう。

自分のような文才のない者にとって、それは芸術品のようであり、見事なまでの美しい光を放って目や心に飛び込んでくる。 小説や詞のように文字数の制限を受けないのであれば、主義主張や思いを読み手に伝えることができるのかもしれないが、たった一行、それも数文字で心に響く言葉を綴るなど神業としか思えない。 世の中には、素晴らしい才能の持ち主がいるものである。

■ 『お口の恋人』(ロッテ)

これはもう、子供の頃から目や耳に馴染んでおり、今さら何も言うまい。

■ 『目のつけどころがシャープでしょ。』(シャープ)

最初は何を言っているのかと思ったが、90年代の終わりから 「家庭用テレビをすべて液晶にする」 と宣言し、事実、業界をリードしてきたシャープを思うと、このコピーが何年ごろから使われだしたのか分からないが、「確かにあんたは鋭いぜ」 と認めざるを得ない。

■ 『ココロも満タンに』(コスモ石油)

原油価格の高騰でガソリン代も大幅に値上がりし、なかなか満タンにはできないかもしれないが、このコピーは心温まるものがある。

■ 『お金で買えない価値がある。』(マスターカード)

「二人で過ごした時間・・・Priceless」 などと、こちらも心に染み入るコピーだ。 マクドナルドの Smile は¥0だが、なんか Priceless の方が美しい感じがするのが不思議だ。

■ 『一瞬も 一生も 美しく』(資生堂)

これも素晴らしい。 男の自分でさえ 「う~む」 と唸ってしまうのだから、女性の心には強く響くものがあるのだろう。

■ 『水と生きる』(サントリー)

飲料系が主体となっている会社で、ここまで強く宣言されると、その決意の固さと水に対する思いがヒシヒシと伝わってくる。 きっと水の汚染などにも気を使い、浄化などにも積極的に取り組んでいるのではないかと、勝手にプラスの想像が働く。

■ 『味ひとすじ』(永谷園)

こちらも力強い宣言だ。 もう何もかにもなく、とにかく徹底的に味にこだわるのだろう。 企業である以上は、いろいろなことにこだわったり、色々なことを考えているのだろうが、余計な文言は一切排除する思い切りの良さが嬉しくすらある。

■ 『あしたのもと AJINOMOTO』(味の素)

ちょっぴりダジャレ系である。 あしたの ”元気の” もとなのか、あしたの ”活力” のもとなのか、アミノ酸を主に扱う会社なので ”健康” のもとなのか。 いろいろな意味が込められているとは思うが、ラップのように韻を踏んでいるのが、ちょっとオシャレだ。

■ 『からだにピース CALPIS』(カルピス)

こちらもダジャレ系。 それでも決して悪ふざけしているのではなく、直訳すれば 『体に安心』 ということであり、これも韻を踏みながら見事に企業姿勢を現している。

誰が考えたのか分からないが、どれもこれも本当に素晴らしいキャッチコピーだと思う。 消費者に伝わるメッセージもあれば、社内の意思統一にも一役かっているに違いない。 食の安全を脅かす不祥事が相次いでいるが、それらの企業に理念などがあったのだろうか。 キャッチコピーを調べてみようと検索したら、『石屋製菓』 と 『赤福』 はお詫びのページ(11/17現在)なっていて分からなかった。

キャッチコピーで、もう一つ気になっているのが、日本通運。

■ 『With Your Life』(日本通運)

たしか、With Your Life というキャッチは、ギフト販売のシャディが使っていたのではなかったか。 気になって調べてみると、シャディは今年の 6月に UCC(上島珈琲)の完全子会社になっており、キャッチコピーも変わっていた。

■ 『ギフトの国に、ギフトのお店』(シャディ)

シャディは、昔のキャッチを他社が使っても気にならないのか。 日通は他社が使っていたことを気にしないのか。 双方とも、

■ 『そんなの関係ねぇ!』(© 小島よしお

と言ったところか。 ちなみに上記はキャッチコピーではなく、単なる 2007年流行語大賞候補であって、来年には忘れ去られる危険性が最も高いものと思われる。

真の恐怖 第二夜真の恐怖 第二夜

一年以上も前に真の恐怖について書いたが、その時の話しとは別件で怖い思いをしたことを思い出した。 それは 10年以上も前、ラスベガスで開催されたコンピュータ関係の展示会に会社命令で行かされたときのことだ。 会場はカジノやホテルが立ち並ぶ場所から遠く離れており、通常は送迎バスに乗って移動するのだが、ホテルまでの帰りのバスに乗り遅れてしまった。

同行していたK氏と二人で、次のバスを待つべきか、歩き疲れたのでタクシーに乗って帰るべきか相談していたところ、遠くからバンバンいう音と共に 「Hey!○×△◎?♂」 という怒鳴り声が聞こえてくる。 何ごとかと驚いて目をやると、イエローキャプの運転席から身を乗り出してドアを平手でバンバン叩き、運転手である兄ちゃんがこちらに向って 「乗れ!」 と叫んでいる。

K氏に (どうする?) とアイコンタクトで問いかけると、何だか分からないけど疲れたので乗って帰ろうということになり、二人でタクシーに乗り込んだ。 行き先であるホテルの名を告げると、「ずいぶん良いホテルに泊まっている」 などと言ってくるので 「会社経費で泊まっているんだよ」 などと返事をし、「あのホテルのスロットは揃いやすいから今夜は儲けてね」 などと労いの言葉をもらったりしていた。

もちろん、英語で交わされるその会話はK氏に任せ、自分はニコニコしているだけだ。 その後も何だかんだと話し、妙に明るくてテンションの高い兄ちゃんだと思っていたのだが、少し車が渋滞してくると急にイライラしてきたようで、クラクションを激しく鳴らし始めた。 車の列が先に進まなくなるとクラクションの鳴らし方に激しさが増し、窓を開けて何かを怒鳴り始める。

そして、信号待ちの列があると対抗車線を暴走し、無理矢理に列の前に進むようなことまで始めた。 信号が青に変わると制限速度など無視して爆走し、曲がり角ではタイヤが 「キキキー!」 と軋み音を発する。 何が何だか分からず、K氏と必至になって前のシートにしがみつき、「どうしたのだ」 「何があったのだ」 と運転手に聞いても返事はなく、無謀な運転が繰り広げられる。

赤信号でやっと車が停まると、運転手の兄ちゃんがブツブツと独り言をしゃべり、「げふっ」 とが 「んげげ~」 とゲップを連発し始めた。 アメリカではオナラよりゲップの方が失礼だとされているが、そんなことはお構いなしに 「んごふっ」 と続けている。 そして、助手席にマクドナルドの食べ残しがあり、そこからポテトをとって口に入れ、クチャクチャと音を立て食べながら 「げふ~」 と再びのゲップだ。

兄ちゃんは振り返って呆気に取られているこちらを向き、「食べるか?」 と勧めてくる。 「いらない」 と断わると、再び助手席に手を伸ばし、怪しげなタバコを勧めてきた。 「それは何か」 と尋ねると、なんとそれは 「マリファナ」 だと言う。 もちろん 「いらない」 と答えると、「そうか」 と少し残念そうな顔をしていたが、急にニヤ~っと笑い、何とマリファナを口に入れてムシャムシャと食べだした。

あまりのことにK氏と二人で 「あわわわ」 と声にならない声をだし、ただ驚いていると車はタイヤの音と共に急発進し、もの凄いスピードで爆走し始めた。 マリファナを食べた兄ちゃんは、すっかりテンションが上がってしまい、「ひゃっほ~!」 などと奇声をあげなら蛇行運転まで始める。 いつ他の車と接触して事故を起こしてもおかしくない状況だ。

「ああ、自分はアメリカで死ぬんだ」 とか、「これで死んだら労災あつかいになるだろうか」 などと様々な思いが頭をよぎる。 そんな不安にかられながらK氏を見ると、顔面蒼白になりながら、じっと目を閉じており、何か覚悟を決めたようだ。 このまま事故を起こさないまでも、どこか遠くに連れ去られ、無事に日本に帰れないのではないかなどと考えているうちに車はホテルに到着した。

とりあえず無事に帰れた喜びと、安堵の気持がゴチャゴチャになり、ヨロヨロと車を降りる。 兄ちゃんは 「Good luck!(幸運を)」 と言い残し、タイヤの音をたてて急発進しながら走り去っていく。 遠ざかる黄色い車体に向って 「あんたもな」 と小声でささやきながら、ホテルに入り、K氏とヒシと抱き合いながら、「怖かったよ~」 「日本に帰りたいよ~」 と涙に暮れたのであった。

テレビの行方テレビの行方

地デジ(地上デジタル放送)が始まり、ノイズのないクリアな映像を楽しんでいる人も多いだろうし、デジタル・ハイビジョンで超鮮明画像を見ている人もいるだろうが、我家では未だにブラウン管テレビでアナログ放送を観て、ビデオテープに録画している。 薄型テレビも DVDレコーダも低価格化が進んだので買い換えても良いのだが、いろいろと思う所があるのである。

納得!買っとく?メモっとく』 にも書いているが、薄型テレビでは液晶でもなく、プラズマでもなく、有機ELが量産体制を確立し、低価格化が進むのを待ちたい。 DVDは 120分しか録画できないので、HD-DVD と Blu-ray(ブルーレイ)Disc の規格争いが決着するのを待ちたい。 おまけに現在はコピー制限によって一度しか録画できないデジタル放送が来年には 10回までに緩和されるので、それを待ちたい。

それもこれも、『管理人の独り言』 にも何度か書いているように、アメリカに住む義兄に日本のテレビ番組を録画して送っていることも大きな要因となっている。 現在は 120分のビデオテープを 3倍速で使い、計 6時間分を録画して、それを何本もまとめて発送しているのだが、DVDだと 120分しか録画できないので無駄が多い。 おまけにコピー制限があると、我家でも保存しておきたいというのが不可能だ。

そこで、長時間録画が可能な HD-DVD か Blu-ray が普及し、コピー制限が緩和された 『ダビング10(テン)』 規格のレコーダが発売されるのを何が何でも待ちたいところなのであるが、この計画を進めるためには義兄にも再生機を購入してもらう必要があり、だとすれば廃れる技術よりも普及が確実な方を選択せねばならず、したがって一刻も早く規格争いに終止符を打ってもらいたいと願っているのである。

しかし、こうやってあれこれと考えていること自体が無駄になる可能性も否定できないのが技術の進歩の早さだ。 アメリカでは 『joost(ジュースト)』 というインターネット上のサービスが爆発的に広まりつつあり、それが日本への上陸を目指している。 このサービスは 1万5千以上のテレビ番組を好きな時間に観られるもので、CMを早送りで飛ばすことはできないが、すべて無料で見ることができる。

日本からでも会員登録すれば 『MLB(メジャーリーグ)』 の試合を観たり、『MTV』 で最新の音楽情報を観れたりもする。 しかも、各番組は一カ月間程度は ”保存” されているので、好きな日の好きな時間に観ることができるのである。 このサービスが日本上陸を果たせば、番組を録画してアメリカに送る必要がなくなるだろう。 すでに日本のテレビ各局と交渉に入っているらしいのでサービスの開始は近いかもしれない。

『joost』 のサービス開始を待たなくても日本のサービスで 『Gyao(ギャオ)』 とか 『ドガッチ』 という無料番組配信サービスもあるし、各テレビ局が配信する 『第2日本テレビ(日テレ系)』、『みんなで特ダネ!(日テレ系)』、『動画6.1チャンネル(TBS系)』、『テレ朝bb(テレ朝系)』、『あにてれ(テレビ東京系)』、『ワッチミー!TV(フジ系)』 などや、マイクロソフトの Windows Vista で利用できる 『メディアオンライン』 でのサービスが拡大され、テレビなどなくても全番組が観られるようになるかもしれない。

プロテクトによって録画ができず、保存版にできないのが難点ではあるが、単に番組を楽しむ分には願ったりかなったりのサービスであり、録画したものをアメリカまで送る必要がなくなるかもしれない。 言語の違いこそあれ、各国が同様のサービスを開始すれば全世界で全世界のテレビが観られるようになり、仕事の関係や留学で海外に暮らす人にも便利な環境になるだろう。

そして、わざわざ基地局を建設しなくても、ネットを経由すれば全国、全世界に番組を配信できるのだからテレビ局の負担も少なく、『joost』 のように CM料が分配される仕組みであれば収入も得られるので、そういったサービスに番組を提供するテレビ局は加速度的な広がりを見せるかも知れない。

テレビ放送を受信する必要性が薄れたとき、視聴率競争などというのが無意味になり、ビデオリサーチ社の存在意義も問われることになるかもしれない。 何せ、ネットであれば、どれだけの人が視聴したのか正確な数字が把握できる。 テレビ局は多くの人に見てもらえる良質な番組を作ることに専念し、それの配信はネット業界がやって利益を分配する。

これこそが楽天の三木谷氏や元ライブドアの堀江氏が思い描くのとは異なり、真の相乗効果が発揮できるネットとテレビの融合ではなかろうか。

謝罪謝罪

お買物日記』 担当者が近所の方と話しをしていると、「最近はテレビを見ると誰かが謝ってばかりいる」 と仰っていたという。 確かにその通りで、『白い恋人』 の石屋製菓、伊勢名物の赤福など有名ブランドや老舗までが利益追求を優先する余り、賞味期限を改ざんするなどして企業価値を大きく損ねる結果となってしまい、代表者が深々と頭を下げることになった。

すっかり古い話題だと思っていたが、不二家のずさんな商品管理が問題になったのは今年一月のことであり、どうしてそれを教訓にするなり、その問題を受けて改めるなりしなかったのか。 どんなに有名なブランドでも消費者の信用を裏切れば自力での存続が困難であることが証明されたわけであり、同じ業界に身を置くものであれば、余計に実感できたはずである。

同じような業界でミートホープがデタラメなことをしていたことが大騒ぎになったのも古い話題のようで、実は事件が発覚したのが今年の六月と、記憶に埋もれるには短すぎる期間だ。 同業であればなおさら、まだまだ身を引き締めている期間であるはずなのに秋田県の比内地鶏、宮崎県の産地偽装ウナギやら地鶏やらと、同種の事件が後を絶たず、代表者が頭を下げまくっている。

謝るのは負けを認めることと、意地を張り通していた亀田一家も謝罪していた。 この件に関しては 『管理人の独り言』 にも書いたので何であるが、謝り方も人それぞれであり、世間的には通用し難くとも意地だけで生きてきた人が、たとえ数センチでも頭を下げるというのは相当な心の葛藤を経てのことであろうと予想され、この話題に飽きたこともあるが、もう騒がなくても良いのではないかと思う。

会社更生法を申請した英会話の NOVA も、受講者に対して頭を下げているが、その端緒となった解約金問題に関しては少し複雑な思いで見ている。 予約が取り難い状況だったのに 「簡単に予約が取れる」 などという嘘はいけないし、クーリングオフの期間を偽っていたのも罪ではある。 しかし、判決が出た解約金の件に関しては異論というか疑問を感じざるを得ない。

多くの回数券を低価格で購入し、短期で解約すれば受講者が一方的に得をするというのは、いかがなものだろう。 10回で 10,000円のところを 50回であれば 30,000円だと仮定した場合、50の回数券を購入し、10回だけ使って解約すれば、1回当たり 600円になる。 100回で 50,000円という回数券があれば 1回当たり 500円だ。

そのシステムを悪用するユーザ(生徒)だっていると思われるので、解約の際は 100回 50,000円の回数券でも 10回分しか使っていなかったら 1回当たり 1,000円と見なして清算するという、 NOVA 方式を悪と決め付けて良いものだろうか。 まともな金額で回数券を購入した受講者が不公平感をもつだろうし、受講する全員がシステムを悪用したら会社もやっていけないと思われる。

いろいろな謝罪が続いている世の中ではあるが、年金問題で大騒ぎになった社保庁や、薬害肝炎問題で炎上した厚労省に対しては少しの同情心も湧いてこないのが不思議だ。 どんなに大きな不祥事が発覚しようと、ミートホープ社のように倒産する訳でもなく、不二家のように他に吸収される訳でもないので緊張感というものが不足しているからか。

おまけに担当者や責任者がクビになる訳でもなく、誰も責任を取ろうとしない組織など同情の余地すらない。 さらに事後処理に使われる経費は税金であり、腹立たしさは増幅されるばかりである。 担当者や責任者、各省のトップは亀田選手のように丸坊主になって謝罪し、父上のように省から追放されて復帰不可能にするべきだ。

若い力士が亡くなって大騒ぎになっている大相撲関係、不適切な報道、表現を繰り返すテレビ局など、謝罪ばかりだし、その他にも食品業界で頻発する異物混入、電気業界で続く発火事故、車のリコールなど新聞は謝罪広告であふれている。 いったい、この国はどうなってしまったのか。

いろいろな謝罪がある中で、納得できないのは 「大変なご迷惑、ご心配をおかけし・・・」 というくだりで、「誰もお前のことなんか心配してねーよ!」 と言いたくなる。 謝罪の中に、この 「ご心配」 という文言が入ると、感じられる誠意が半減してしまい、何だか腑に落ちず、逆に腹立たしく思ってしまうのは自分だけなのだろうか。

バスの車窓からバスの車窓から

昨日は仕事の用事で外出してきたのだが、久々に、本当に久々に大阪市内を循環するバスに乗った。 毎年恒例にしている京都参りでは、駅からバスに乗って目的地まで向うのだが、大阪で乗ったのは実に 15年ぶりくらいのことだと思われる。

目的地が吹田だったので、近畿コカコーラの近くにあるバス停まで歩き、雨が降り続ける中でしばし待つ。 少し遅れて到着したバスに乗り込もうと足を踏み出すと、その乗り口がとても低く、昔のように足を高く上げて 「どっこいしょ」 とする必要がない。 きっと、お年寄りとか子供でも楽に乗れるように配慮されているのだろう。

車内は人もまばらだったので空いている席に腰をおろす。 前方にある料金表をみたり、乗り込む際にとった整理券をみたり、車内広告を見てみたりと何だか落ち着かない。 あまりにも久々のバスなので少し緊張してしまっているようだ。 しばし車内を観察して人心地がつくと、後ろの席に陣取るオバチャンの会話が耳に入ってきた。

どうやら家ではパソコンを使って子供さんとメールのやり取りをしているようで、「いちいちパソコンを立ち上げるのが面倒だ」 などと言っている。 そして、となりのオバチャンも同様にパソコンを使うらしく、話しはシャットダウン(パソコンの終了)の仕方に移っていく。

スタートボタンをクリックして終了させるところで意見は一致したようだが、そのスタートボタンの場所を一人のオバチャンが 「画面の左下」 だと言い、もう一人のオバチャンは 「いや、左上」 だと食い違う。 スタートボタンのあるツールバーは、画面の下だろうと上だろうと、はたまた左右だろうと、好きな場所に移動できることを知らないらしい。

さんざん話し合った後に、パソコンメーカーの話題になり、「うちは富士通」、「うちはソニー」 と違いを見いだし、「だからスタートボタンの場所が違う」 という結論を導き出していた。 心の中で、「違うんだよ~」 と叫び、「パソコンは違っても OS は一緒なんだよ~」 と続けてみたが、そんな心の声がオバチャン達に届くはずもなく、二人は 「そうかも知れない」 と深く納得しあっていた。

バスは次の停留所に到着していた。 乗り込んでくる人が一人しかいないのに車体がグラグラと揺れる。 「なんと柔らかいサスペンションか」 と思いながら揺れに身を任せていると、何だか少し気持が悪くなってしまった。

バスが走りだし、再びオバチャンの会話が耳にはいると、今度は携帯電話の話しに変わっていた。 どうやら携帯電話でもメールのやり取りをしているようだ。 最近のオバチャンはハイテク機器も使いこなし、なかなか順応性が高いようだと感心していると、子供からのメールが受信できないという内容に話しは移り、「たくさんの機能があっても使いこなせない」 と小言を言い始めた。

隣のオバチャンも賛同し、携帯キャリアの話に進む。 オバチャン二人は au で、「一緒だ」 と喜び合い、受信できないメールを送信してくる子供のキャリアを聞かれたオバチャンが DoCoMo だと答えたところで、「会社が違うから受信できないのでは」 という、あらぬ方向に会話が進む。 同じキャリアの端末同士でしか送受信できない方式も確かに存在するが、E-mail は全キャリア共通である。

「違うんだよ~」 という心の叫びは、またしてもオバチャン二人に届かず、「そうかも知れない」 という一言で、省電力化と高性能という相反する課題を克服し、小型化まで実現した高度技術の結晶である端末と、同じく高度な技術で次々と高速通信を可能にしている移動体通信網を根底から否定するがごとくの結論が、今まさに導き出されようとしている。

本当に必要な部分が欠落し、別の要素が増幅された彼女達の情報がオバチャンの間で瞬く間に伝播し、その内容は見事なほどに欠落と増幅を繰り返すこととなり、根本的な精度を失いつつも、ある程度の信頼性をもって受け入れられ、最終的には原型をとどめず、「ソフトバングの携帯電話が良い」 などという訳の分からないことになっているかもしれない。

そうこうしている間にバスは次の停留所へ。 ドアが開くのと同時に再び車体が揺れる。 そこで冷静になって周りを見てみて驚いた。 なんとバス自体が意思を持って傾いているではないか。 車体の右側が高くなり、左側が低くなって外の風景が斜めに見える。 つまり、乗り口を低くして乗客を迎え入れている訳である。 どうりで乗車するときに、足を高く上げなくても良いくらい低い位置に乗り口があったはずだ。

人が乗り込み、ドアが閉まると 「ウイ~ン」 というかすかな音をたててバスの姿勢がもとに戻る。 何だか巨大ロボットに乗っているみたいで少しワクワクする。 知らぬ間にバスもハイテク化し、人が気付かぬ気配りをしてくれているらしい。

バスが走り出してオバチャン達の声に耳を傾けると、話しは 「整理券をとるのを忘れていた」 という内容に移っていた。 「始発からの料金を払わなければならないだろうか」 と一方のオバチャンは気をもんでいたが、もう一人のオバチャンの 「何とかなる」 という一言に勇気付けられ、「そうかも知れない」 という例の一言ですべての結論が出たようだ。

バスの車窓から、雨が降って悲しく濡れた街並みをながめながら、つくづく思った。 こうして彼女達の一日は過ぎていくのだろう。