大阪府摂津市JR千里丘駅周辺密着情報!!

雑感 なんとなく感じたこと雑感 なんとなく感じたこと

惜別の日惜別の日

2月21日の 16時 33分、この 『雑感』 や 『独り言』 に何度か書いたことがあるアメリカに住んでいた義兄が他界した。 そう、『お買い物日記』 担当者の実兄である。 その三日間は本当に悲しく、心がつぶされそうだった。 最善を尽くしたつもりではいるが、後悔がないと言えば嘘になる。 事実を受け入れなければならないのは分かっていても、認めたくない自分がいる。

義兄が体の不調を訴えたのが昨年のクリスマス。 それから、たった 2カ月後のことである。 今年に入り、1月 10日にアメリカで診察、翌日には結果が出て、初期の肝硬変であろうと知らされた。 ところが、すでに腹水が出るほど病状は悪化しており、14日には腹水を抜き、さらに詳細な検査をすることに。 結果は 18日に知らされ、一刻も早く日本に帰るべきだという結論になった。

「一刻も早く・・・」 この一言が重く心にのしかかる。 正確なことを知らされてはいないが、一刻を争うとなれば重大なことである。 気は焦るものの、アメリカでの仕事、生活を清算して帰国するには、それ相応の時間が必要だ。 それでもアメリカで多くの人達の助けを借りて、何とか日本時間の 01/30(水) に成田空港に到着することができた。

実はアメリカでの検査結果を FAX で受信し、日本の医者と相談したところ肝硬変だけではなく、かなりガンが進行しているらしいことは分かっていた。 それでも何とか治療の見込みがないかを調べてもらうために日本で最先端だと言われる 『国立がんセンター』 で検査を受けることになった。 皆がそろって結果を聞きたいということになり、01/31(木)に東京行きを決める。

そして 02/01(金)、義兄の余命が 3カ月と告げられる。 久しぶりに会った義兄はすっかり痩せてしまっており、これが年末まで元気に仕事をしていた人だとは信じられないほどだ。 医者の言葉を借りると、手術をするのも不可能、放射線治療、投薬治療も不可能、このまま静かに余命を過ごすしか方法はないという、論理的かつ合理的でもあり、冷徹、非情でもある宣告だ。

そして、その宣告を本人である義兄も一緒に聞かされた。 これが自分なら泣き叫ぶか、やぶれかぶれに暴れだしそうなものだが、義兄はあくまでも冷静に聞き入れ、これからの過ごし方に関して質問までしている。 その宣告はあまりにも突然で、自分は感情をコントロールできず、ただショックを受けて悲しみすらわいてこない。

その日の夜から翌日、その次の日も 『お買い物日記』 担当者と話し合った。 義兄は長兄夫妻と北海道で過ごす。 何かあった時に飛んで行ける距離ではない。 そして、残された少ない日々、そばにいて、できることなら一緒に暮らしたいと 『お買い物日記』 担当者は言う。 自分はと言えばネット回線さえあれば、どこにいても仕事はできる。 02/03(日) の夜遅く、大阪を離れることを決めた。

それからのドタバタは二月の 『管理人の独り言』 に書いている通りで、普段の何倍も忙しい時間を過ごす中、義兄の具合が悪くなったとの知らせを受ける。 今暮らしているのは長兄、次兄、そして 『お買い物日記』 担当者が生まれ育った地元だが、転勤族である長兄の家で義兄である次兄は過ごしていた。 そのままそちらで過ごすか、地元に帰って過ごすかは義兄の判断に任せるつもりだった。

ところが病状の急変で、そのどちらでもない街の病院に入院することが決まった。 そこで急遽、病院近くのマンスリーマンションへの入居を契約し、そこを前線基地として生活することを決断。 大阪で出した引っ越し荷物は 21日に ”本拠” に届く手はずになっている。 その中から最低限、必要なものをマンスリーマンションに運び、病院での寝泊りをも覚悟して 02/19(火) に北海道に帰ってきた。

病院に着くと義兄はまた痩せてしまっており、東京で会ったときより一段と体力が落ちているようだ。 それでも笑顔を交えて会話し、我々が大阪から北海道に戻ったことを喜んでくれていた。 そして翌日、昨日の元気はなく、少し話はするものの、一日の多くを眠って過ごしている。 前日は少し調子が良かったので、その疲れが出ているのだろうと思っていた。

そして 21日、”本拠” に引っ越し荷物が到着する日だ。 マンスリーマンションから徒歩 5分の病院に行き、長兄夫妻と合流して荷受作業に向かう予定だった。 病室に入ると義兄はこちらに背を向けてベッドに横になっている。 回り込んで様子をうかがうと、吐血しているではないか。 慌てて看護士さんを呼び、処置をしてもらう。 その時はまだ、こちらの呼びかけに対して返事がある状態だった。

長兄夫妻が到着し、今日は引っ越し荷物を受け入れることができるか話し合う。 担当医とも相談した結果、延期した方が良いということになり、引っ越し屋さんにお願いして荷物をストップする。 病室では義兄が一時間おきくらいに吐血している。 呼びかけにも反応がなくなり、いわゆる昏睡状態になってしまった。 しかし、その際にもまだ、義兄は持ち直して一時的にではあっても退院できると信じていた。

ところが時間の経過とともに血圧が低下し、心拍数も低くなり、ついに 16時 33分、医師から臨終を告げられる。 体の不調を知らされたのも、余命を告げられたのも、そして他界してしまうのも、あまりにも突然すぎる。 今日、マンスリーマンションで生活環境を整え、今夜から泊り込みで看病するはずだった。 これから何日も一緒にいるはずだった。 いろんな話をするはずだった。

余命を告げられていた義兄は 「葬儀の必要はなし」 と言い残していた。 30年弱もアメリカで暮らしていた義兄が日本で葬儀をすると、様々な人が遠方から駆けつけることになり、迷惑をかけることになるので 「すべてが終わってから、一部の人だけに連絡してほしい」 と。 そして、長兄夫妻と 『お買い物日記』 担当者、義弟である自分の 4人だけで送ってくれたらそれで良いと。

本人の意思に従い、密葬よりも小さい 『家族葬』 ができる斎場で義兄を送った。 親戚縁者からの申し出も断り、本当に限られた身内だけで義兄に別れを告げた。

そして今、義兄は生まれ育った街に戻り、『お買い物日記』 担当者と自分と三人で静かに暮らしている。

限界限界

先週は引っ越しの荷物も到着しておらず、あまりにも辛い出来事も重なったため、雑感の更新をすることができなかった。

今日もまだネット環境が整っていないので携帯からの投稿である。

もう二週間も操作しまくっているので、かなり慣れてきたが長文は辛い。

この辺がオッサンの限界である。

体力も限界、気力も限界、携帯操作も限界。

それでも生活するため、荷物整理だけは続けなければならない。

限界を超えて動き続けなければいけないのである。

旅立ちの時旅立ちの時

二日後の 18日、月曜日に大阪を離れる。 大阪で書く雑感も今日が最後だ。 部屋の片隅に段ボール箱が積み上げられ、棚の食器や本も消えて生活感を失いつつある中で、ジワジワと寂しさがこみ上げてくる。 この街で暮らすこと 13年と 5カ月、一度も転居しなかったのでこの部屋にも同じだけの想い出がある。

転勤で大阪に来た三カ月後に阪神・淡路大震災を経験し、二年八カ月後に勤めていた会社が倒産。 その後もいろいろあって、多難な生活を送ったが、多くの人とも出会うことができた。 関西の文化を知らない我家に対して親切に教えてくれる人、果物や旅行先のお土産、季節の料理などを分けてくれる人、四季折々の野菜を分けてくれる人、ある一組の夫婦を除いて、やさしい人ばかりだった。

心残りは JR千里丘駅のエスカレーターの完成を見られなかったこと、ダイヘン跡地に阪急の駅が完成し、市の主要機関が集約されるのが見られなかったこと、渋滞著しかった高架下の工事の完成をみられなかったこと、関西ローカルのテレビが見られなくなることくらいか。

いつまでも若いつもりでいたが、先週の夕方に 『お買物日記』 担当者と携帯電話の機種変更をした際、そして不動産会社に出向いて契約を進めている際、若い担当者から 「お父さん」 と呼ばれてしまった。 今までそんなことはなかったのに、最後の最後で 「お父さん」 の二連発である。 大阪で 13も歳をとってしまったのは確かだが、それぞれの担当者に告ぐ! 君らくらいの歳の子を持つほどオッサンではない!

・・・最後にきて関西人に喧嘩を売っても仕方がないが、この際だから言っておく! 引越しの作業疲れで妙に老け込んで見えるだけだ! 半分以上が白髪になっているが、毛染めなど面倒だからしていないだけだ! 最近になって老眼が進行しているが、遠くは良く見える! 腹も出ているが一年に及ぶバランスボール生活で 1.5cm くらい細くなった! 君らが思うより・・・ちょっとだけ若いんだぁ!!。

・・・・・。

多くの人が気付いていると思うが、我々は北海道からこの地にやってきた。 そして今回、その北の大地に帰る。 土も空気も水も、やはり生まれ育った土地のものが良い。 ご近所の方々、当サイトを訪れてくださった方々、いや、大阪の人達、いや、関西人が好きだったが、鮭が生まれ育った川に遡上するように、本能的ではあるが北に向う。

もう千里丘の住民ではなくなってしまうが、今後一年間は縮小しつつも、このサイトを維持していくつもりである。 大阪を旅立つ 18日から数日間は、Webページの更新はできない。 しかし、ヒマを見つけては携帯電話から 『管理人の独り言』 に投稿しようと思う。

掲示板』 や E-mail で激励していただいた皆さんや、直接お会いしてサイトについてお話を頂いた方々には本当に感謝している。 そして、今後もご協力頂ければ幸いである。

まだまだ引越しの準備があるので、もう時間がない。 大阪で書く雑感はこれで終わりにしようと思う。

旅立ちの準備旅立ちの準備

最近の独り言先週の雑感で、やけに歯切れの悪い書き方をしてしまったが、結論から先に書くと近日中に大阪を離れることになったのである。 今のところ日付は確定していないが、18-22日の週のどこかで出身地である北に向う。

1994年の 10月に転勤で大阪に来てから 13年と 5カ月、短いようで長い生活だった。 これだけ長くなればバリバリの関西弁になり、ボケとツッコミも習得できそうなものだが、中途半端な ”なんちゃって関西人” のままこの地を後にする。

2000年から始めた 『JR千里丘駅周辺密着情報!!』 も、千里丘の住人ではなくなるので継続が困難になってしまった。 困難である以上はサイトを閉鎖すべきなのかも知れないが、ごく一部の方から惜しむ声を頂いているので senrioka-info.net のアドレスが有効な一年間くらいは細々と運営を続けて徐々に縮小していこうと考えている。

『買得情報』 の中でも新聞折込チラシが情報源だった 『品目別<価格>リスト』、『チラシで見つけたお得な情報』、『応募プレゼント情報』 は継続不可能なので昨日をもって更新終了にした。

憩いの広場』 の掲示板は、そろそろ役目を終えたような気がする。 最近は mixi (ミクシィ) を代表とするコミュニケーションの場が数多くあり、そこでの情報交換が可能であるため 2ちゃんねる以外の掲示板の存在意義は薄れているのではないだろうか。 それでも管理人の役割としては訳の分からない宣伝書き込みやらエロ書き込みを削除する程度なので、放置状態で存続は可能だ。

くちコミ情報』 は掲示板の書き込みをまとめているだけなので存続可能。 『時刻表』 関連もネットで調べれば存続可能だが、早く確実にという訳にはいかない。 『ゴミ収集予定表』 は年末年始を除いて継続可能。 その他、ネットを情報源とするものは続けることができる。

千里丘駅周辺情報』 に掲載している店の情報は、営業時間や定休日など実際に足で稼いだ情報が多いのでネットで得られることが少ない。 存続が危ぶまれるところではあるが、何とか有志を募って情報の更新ができるように思案し、それが叶わぬのならば閉鎖するしかないだろう。

先にも触れたが、個人が運営するこんなサイトでも便利に使ってくれていた人がおり、閉鎖を惜しむ声を頂くのは嬉しい限りだ。 飽きもせず毎日の更新を続けてきた甲斐があり、少しは意味のあるサイト運営ができていたのだと慰められる。

引越しを決意したのは 2月3日、今は準備で忙しく、かなりバタバタしており、『立つ鳥跡を濁しっぱなし』 になってしまう可能性もあるが、どうしても急ぐ必要があるので許していただきたいと思う。

転機転機

人生には転機というものがある訳で。

もしかしたら、今がそれなのかも知れない。

仕事のこと、人生のこと、そして、このサイト、『千里丘周辺情報』 のこと。

考えなければならないことが山積している。

これから先、どうするべきか、どうあるべきか。

脳を使いすぎると耳から煙が出そうになるので今日は寝る。

マサルノコト scene 18マサルノコト scene 18

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学校祭の余韻を味わうこともなく、ただダラダラとした学校生活が続く。 今にして思えば当時は何を考え、何を楽しみに生活していたのかさっぱり分からない。 授業もまじめに受けず、寝てばかりいたような気もするし、クラブ活動に専念する訳でもなく、虚無な時間を過ごしていたような気がする。

基本的に友達と遊べるので学校は嫌いではなかったが、勉強をする気などさらさらなく、毎日のように遅刻して到着し、授業中は死んだように眠ったり、ボ~っとしながら無益な時間を過ごし、休み時間や放課後に全てのエネルギーを注ぎ込んでいた。 マサルやノブアキと持て余す体力を発散させ、毎日ヘトヘトになるまで遊んでいたような気がする。

当時、ノブアキの家は学校のすぐ近くにあり、学校帰りに寄って遊ぶことも多かった。 ノブアキの父君がゴルフをされており、そのクラブや練習用の遠くまで飛ばないボールなどがあったので、誰が遠くまで飛ばせるかを競い、順番にではあったが何時間もボールを打ち続けたりしたこともある。 よくもまあ、飽きなかったものだと感心するのと同時に、その当時の体力を少し分けてほしいとすら思う。

ある日、ノブアキの家の外に置いてあったポリバケツのフタが、投げるとフリスビーのように飛ぶことに気付き、三人でキャッチボールならぬキャッチフリスビーをして遊んでいた。 だんだんとコツをつかむようになり、カーブやらシュートやらを折りまぜたりしてエスカレートしてきた。

そして、マサルの手から離れたバケツのフタは、空に見事な弧を描きながらノブアキから逸れて行き、側にあったブロック塀に向って進む。 それを何とかキャッチしようと塀に気付かず身を躍らせるノブアキ。 手を一杯に伸ばし、フタに触れたのと右手が塀に激突するのは同時だった。

どういうタイミングでそれが起こるのか分からないが、ノブアキの右手の小指は熟れた果実が弾けたように裂傷してしまった。 切り傷とは明らかに異なる傷口からは、今までに見たこともないような量の血が流れ出し、事の重大さを物語っている。 慌てふためいたマサルと自分は、家の人に知らせて医者に連れて行かなければと玄関に転げ込む。

在宅していたのはノブアキの御祖母様一人だったので 「大変なことになった」 と伝えると、「ありゃ~」 とのんびり構えていらっしゃる。 今の世の中であれば、「大切な孫に何と言うことを」 などと言って大問題になるところだろうが、当時は子供が怪我をすることなど当り前で、多くの子育てを経験された御祖母様にとって慌てるような事態ではなかったのかも知れない。

救急車を呼んだのか、タクシーで病院に向わせたのか、はっきりとした記憶は残っていないのだが、とにかくノブアキが運ばれて行った後に残ったマサルと自分に御祖母様が 「よかったら食べなさい」 と切り分けたたくさんのスイカを運んでこられた。 たった今、大量に流れ出る血を見たばかりなので、赤々としたスイカは食べる気になれなかったが、一切れだけ御馳走になった。

そして、自分にも責任があると感じているマサルと二人、トボトボと家路についた。 いったいどれほどの大怪我なのか心配でならなかったが、ノブアキは翌日から元気に登校してきており、何針も縫うことになってしまったが指は大丈夫だと聞かされてほっと胸をなでおろす。

当時ノブアキと交際していた女の子を 「ノブアキの指は一生うごかないかもしれない」 などと言ってビビらせたり、怪我をした状況を身振り手振りを交えて面白おかしく友達に説明したりと、自分達の責任などコロッと忘れて普段の生活に戻っていく。

暴れられないノブアキをよそに、マサルと自分は落ちていた空き缶を蹴りながら、何の目的がある訳でもなく、ただ蹴りながら、何となく自分が先に止めるのがくやしくて、ただひたすら蹴りながら、お互いに口も利かずに缶をパスしながら交互に蹴り続けながら下校したりもした。

本当に虚無で無益な毎日を過ごしていたものである。

マサルノコト

精神鑑定精神鑑定

世も末なのか、訳の分からない犯罪が多発するようになった。 最近になって特に多いのが家族間殺人で、なぜ家族同士が殺し合わなければならないのか不思議でならない。 顔も見たくないほど憎かったり恨みがあるのであれば、殺す前に家を出れば良い話ではないのか。

自立できない子供が精神に異常をきたして殺人を犯すのであれば、ある程度は致し方ないような気もするが、30歳にも 40歳にもなったニートが親に 「働け」 と言われて逆上するのはなぜなのか。 全面的に依存している親を殺してしまっては、その後の生活が成り立たなくなることすら分からないのか。

殺人などという大罪を犯す時点でまともな神経だと思えないが、最近の裁判では弁護側が精神鑑定を依頼するのが常套手段となっているのもどうかと思う。 責任能力の有無を問うて何になるのか。 もっと以前からあったのかもしれないが、自分が記憶している限りで一番有名なのは 88~89年に埼玉と東京で幼女 4人が殺害され、世間を震撼させた連続幼女誘拐殺人事件だ。

殺人罪などに問われた宮崎勤被告に対し、弁護側が精神鑑定を求めて刑事責任能力が問えるか否かが争点となった。 結果、2006年の 2月に責任を問えるとして死刑判決が下ったが、逮捕後 16年もの歳月が費やされてしまった。 たとえ加害者であっても人権、人命を尊重すべきであるとは思うが、4人もの幼い命を奪っておきながら責任能力が無いなどということは許されまい。

先に書いたように、どんな状況下にあっても人の命を奪うことはまともな精神状態で行なえるはずがなく、多かれ少なかれ異常を来たしているものと思われる。 極度の興奮状態になっており、前後の見境なく行動しているか、頭の中が真っ白になって自分が何をしているのかすら分からない状態になっているかであると想像する。 むしろ沈着冷静に人を殺している方が怖いではないか。

精神鑑定によって刑事責任能力が問えないとすると、事件が大きければ大きいほど無罪になる確率が高くなるということになりはしないだろうか。 例えば 1971年に発生した大久保清事件。 わずか 41日の間に 8人もの女性を殺害し、死体を遺棄した事件だが、この時の犯人の精神状態はどうだったのか。 まともな神経の持ち主が人を殺せるとは思えないし、ましてや 8人もの被害者がでるはずがない。

この文章を書きながら大久保清事件について調べてみると、精神鑑定が行なわれていたことが分かった。 それにも関わらず死刑が宣告されたということは責任能力があると判断されたのだろう。

精神鑑定によって刑事責任を問えないと判断された場合、加害者は刑罰を受けることなく病院送りになるだけなのだろう。 仇討ちが認められていない以上、被害者の家族は事実を受け止めねばならず、怒りや悲しみをどこに向けたらよいのか。

やがては退院し、殺人を犯した人が一般社会に出てくる。 宮崎、大久保の両名もそうだが、事件が発覚するまでは一般社会で生活していた訳だ。 そんな人であっても国家資格の運転免許を保有し、ホームセンターに行けば簡単に包丁も買える。

それを思うとき、背筋が寒くなるのは自分だけだろうか。

尺度尺度

物事には様々な判断基準、尺度というものがあり、それは時として人を喜ばせたり悲しませたりする場合もある。01/08 の独り言にも書いたが、福岡県で起きた飲酒運転 3児死亡事故に対する判決は、遺族にとって受け入れ難いものだろうし、遺族の心情を察すれば納得できない部分も多いが、「危険運転致死傷罪とは何ぞや?」 という観点から司法が下した判断も尊重しなければならないのだろう。

昨年の 『ビリーズブートキャンプ』 ブームに象徴されるように、エクササイズとかダイエットに励む女性は多い。 それは当然 「痩せたい」 という願望があるのだろうが、はたして本当にやせる必要があるのか疑問に思える人まで熱心になっている。 それは女性の尺度だったり、自分の尺度で太っているとか痩せているかを判断した結果だろう。

実際には女性が思っているほど痩せている人が好まれる訳ではなく、世の男性の多くはガリガリの人よりも中肉を好み、「お願いだから、それ以上は痩せないでくれ~」 と心の中で叫んでいる。 ところが男性を意識したものではなく、女性の一方的な尺度や自分だけの基準で判断し、理想とする体型を追求するから必要のないダイエットをしてしまう。

野放しに脂肪を蓄えている人もどうかと思うが、大半の人は無理にダイエットなどする必要はなく、健康的に食べたいものを食べたら良いのであって、体に変調をきたすような食事制限や運動などする必要はないのである。 特に若いうちはパッツンパッツンに張っていようと、多少コロコロしていようと、若さがそれを十二分に補ってくれる。

極端な食事制限などしていると歳をとってから体に異常がでる危険性が高いので、直ちに中止すべきであると声を大にして言いたいが、痩せていることが良いことであると盲信している人の耳には届かないのだろう。 「将来、辛い思いをするよ~」 などと言っても聞く耳を持たず、食事制限を続けて肌がカサカサになり、骨粗しょう症への道をまっしぐらに進むのだろう。

本人の価値観などに左右されるものと違い、基準となる尺度が必要なものは世の中に多い。 時間や貨幣価値、距離や速度、大きさなどがそれに当たるが、写真に写ったものの大きさを示すために以前はタバコが並べられていることが多かったのに最近はそれを見ない。 やはり喫煙者の人口が減り、タバコはだれでもが知っていて比較対照となっていた時代は終わったのか。

昔は対象物の横には必ずタバコが置かれており、それを見てアバウトな大きさを把握できたものだが、現在は健康被害がどうしたとかこうしたと、うるさいのでタバコを置くわけにはいかないのだろうか。 しかし、何かと不便なのでタバコに変わるものを見つけてほしいものだ。 誰もが大きさを掌握できるものって何だろう。

世帯普及率が 85%を突破した携帯電話も有力だが、機種によって大きさが違う。 リンゴや卵などは似たような大きさなものが多いので候補となりうるが、食べ物を並べて写すのに抵抗がある場合もある。 何かタバコにとって代われる良いものはないのか。

結局、良い案は浮かばないが、何となくそんなことを考えて書き始めた雑感が、毎度の長文になってしまった事実の方が重大だ。 今年からはなるべく短く終わらせようと思っているので、この辺でやめておくことにする。

2008年初の2008年初の

2008年初の雑感である。 言わば雑感の書き初めであり、今年一年の方向性を占う上で重要な文章となりえるのではないかと考えると身が引き締まる。 ・・・などと大袈裟なものであるはずもなく、今まで通りに無理せず気張ることなく、今年もダラダラと続けていこうと考えている。

今年は北京オリンピックなどのビッグイベントがあるため、昨年から 2008年の話題が多く取り上げられていたのが原因なのか、2008年という西暦には違和感がないが、平成 20年には少し驚く。 あまり和暦を使うことがないため、いつの間に平成も 20年まで来てしまったのかという感じだ。

この調子で時間が経過すると、千里丘駅横の高架下や道路の拡張工事が終わる 22年などあっという間に到来するのかも知れない。 最初は完成予定が遥か先の未来のような気がしていたが、もう目の前に迫ってきたと言うのが実感だ。

今年は一日に初詣に行き、二日には初買い物にも行って来た。 もちろん日常の初洗顔、初歯磨き、初風呂、初トイレなども経験済みであり、明日の午前中には今年初となる例の体操、夜には初バックアップをすることになる。 そして翌日には初仕事となって、新年になってすべてのことが出揃う。

例年であれば、どれが初夢なのか記憶が定かではなくなるのだが、今年は一日の夜にしっかりと初夢を見た。 初夢で見ると縁起が良いものとして、一富士二鷹三茄子 (いちふじにたかさんなすび) と言われるが、それは富士はその形から末広がりで子孫や商 (あきな) いの繁栄を、鷹は高く舞い上がるから機運上昇を、ナスは毛がないので「怪我(けが)無い」と洒落て家内安全を表すらしい。

他にも 「富士」 は日本一の山、「鷹」 は威厳のある百鳥の王、「茄子」 は“生す”“成す”で物事の生成発展するさまを言い表わしているという説もあるが、いずれにせよ縁起が良いということにおいて変わりはない。 一般的に知られているのはそこまでだが、実は続きがあって四扇五煙草六座頭 (しせんごたばころくざとう) なのだそうだ。 扇は末広がり、煙草は煙が立ち昇る、座頭は毛が無いことから、一富士二鷹三茄子と同義であると思われる。

生まれてこのかた、その六種類が夢に登場したことなどないし、それを初夢で見たという人にもお目にかかったこともない。 世の中でその初夢を見られる人はよほど運が良いものと思われるし、宝くじ的確率でしか見られないとすれば、それはそれでとってもありがたい夢であるのは間違いなさそうだ。

で、自分が見た初夢の内容はと言うと、何をしているの分からないが、とっても国家にとって重要であろう組織の一員となって、ある建物のある部署に配属となり、初めて出勤するところから夢は始まる。 その部屋には大勢の人がおり、多くのコンピュータが稼動している。 今後、自分が仕事をする席に案内され、30インチほどの大画面に映し出されている内容の説明を受ける。

どこの地方か分からないが、画面いっぱいに地図が表示されており、細かく区切られた地区それぞれに 『QUIET』(平穏、静か) という白い文字が並んでいる。 どうやら様々な地区を監視しているらしい。 席についてコンピュータのキーボードに触れた途端、表示されている文字が次々と 『CONFUSION』(混乱状態) という赤い文字に変わっていく。

何かいけない操作でもしてしまったのかと思い、慌てて周りを見ると、すべての画面が 『CONFUSION』 という文字で赤く染まり、職員たちも大騒ぎになっている。「何か日本国内で大変なことが起こっているらしい」 と皆が慌てふためく中、自分だけはなぜか冷静で、「これはコンピュータが暴走しているに違いない」 と確信し、「冷静になれ!」 と叫ぶ。

すると奥の自動ドアが音もなく開き、福田総理大臣と町村官房長官が姿を現す。 二人は足早に目の前を通り過ぎ、別の部屋に向っていく。 そこで、町村官房長官が立ち止まって振り返り、自分に向ってニッコリと微笑みなら、話しかけてきた言葉は 「さっそく君の出番だな」

「はぁぁぁ~!?」

・・・・・ 絶叫して目が覚めたが、いったい何を啓示する夢だったのだろう。 今年、自分の身に何が起こるのだろう。 期待と不安に胸をドキドキさせながら目覚めた 2008年最初の朝。

2007年の終わりに2007年の終わりに

もう早や一年の終わりだ。 早い。 早すぎる。 いや、早いなんていうものじゃない。 うかうかしていると、あっという間に 100歳くらいになってしまいそうな勢いだ。 以前の独り言に書いた 『ジャネーの法則』 なのだろうが、本当に歳を重ねるごとに一年が早く過ぎ去る。 記憶では先月くらいに桜が咲いており、先週くらいまで暑かったような感じだ。

しかし、この雑感や 『管理人の独り言』、『お買い物日記』 で使っているブログのシステムを新しくしたのは今年の初めで、それを書き始めてから一年と考えると、ずいぶんと長く感じるもので、やっぱり時間の感覚というのは適当でいい加減なものだとしみじみ思う。

『管理人の独り言』 を読み返してみると、なんと濃淡のない生活をしているのかと我ながら呆れかえってしまうが、それに反して世の中では本当に色々なことがあった。 新聞やテレビで今年の重大ニュースを取り上げているが、自分が最も印象に残っているのは今年の漢字にも 『偽』 が選ばれているように、原材料の偽装や賞味期限の改ざんで食の安全が脅かされ、崩壊したことに尽きる。

正月気分も抜けない年初に 『不二家』 の件が発覚し、それ以降は雪崩をうったように次から次へと様々な食品に関わる不祥事が続き、主に中国からの輸入食品からは規定以上の薬品が検出されたりするケースが多く、スーパーなど小売業でも賞味期限の改ざんが行なわれる事態にまで至っては、いったい何が安全で何を食べたら良いのか分からなくなってしまった。

それでも我々消費者は、少し賞味期限などに神経質になりすぎているかも知れない。 前にも書いたかも知れないが、以前の生活に賞味期限などという言葉はなく、1976年から一部の食品で表示が義務化され、1997年から対象の食品が広まった歴史の浅いもので、それまでは視覚、味覚、嗅覚によって自ら賞味期限を判断していたものである。

食べてみて少し酸味を感じたり、妙な臭いがすれば 「危険だ」 と判断して食べるのを止める。 結果、そのギリギリまで食べていたことになるが、それによって腹をこわすとか食中毒になるということも少なかったように思う。 今は賞味期限が一日でも過ぎると捨ててしまう人も多いだろうが、それを口にしたからといって死ぬ訳でもなく、捨てる必要などないのである。

昔は食パンにカビが生えた程度であれば、その部分をちぎり捨てて食べたものであり、お年寄りからは 「青カビはペニシリンの原料だ」 などと訳の分からない理論で言いくるめられ、文句を言いながらも食べていたものである。 だからと言って腹が痛くなった記憶もないので、必要以上に気にする必要などないのだろう。

それでも慣れというのは恐ろしいもので、そんな自分でも賞味期限を過ぎたものを食べるのはテンションが下がる。 いっそのこと賞味期限や消費期限の表示を止めてしまったらどうだろう。 昔のように野菜や魚の鮮度を見分ける知恵をつけ、五感をフル活用して食べられる常態か判断すれば良いのではないだろうかとすら思う。

日本は食料品の 60%も輸入に頼り、その 28%も廃棄している頭の悪い国民だ。 買い物のテクニックとかを磨く前に、いかに無駄をなくすかを考慮すべきだろう。 来年から様々なものが値上がりするが、それでもまだ廃棄物を減らすことなく無駄な消費を続けていくのだろうか。

何だか来年の抱負もなく、ぼやいて今年の雑感を終えることになってしまったが、物価の高騰に耐え、来年も何とか生き抜いていこうと小さく決意したりしている年末である。