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雑感 なんとなく感じたこと雑感 なんとなく感じたこと

プロフェッショナルプロフェッショナル

プロ野球の中継を観ながら、応援しているチームの選手がエラーしたり、打って欲しいときに三振したりすると 「アホか!」 などと悪態をついてしまうことは多々あるが、実際にプロの野球選手として活躍している人は人並み外れた身体能力とセンスの持ち主であり、さらに日々絶え間ない努力によって更なる技術の向上と体力の向上を図っている訳である。

口では文句を言いながらも、自分には 150km/h の球を投げることも打つこともできないし、とてつもない速さで飛んでくる打球を横っ飛びでキャッチすることもできるはずがない。 それどころかバッターボックスから一塁まで全力疾走する体力すらないように思う訳であり、ちょっと足が遅くてアウトになった選手に対して文句を言える権利などないのではないかと反省したりする。

どんな職業であれ、その道のプロというのは尊敬すべき存在ではあるが、中には変な意味でプロを自認する人がいるので、そこが少し困ったものである。

知り合いに禁煙のプロを自認する人がいる。 過去に何度となく禁煙に成功しており、「その気になればいつでも止められる」 とタバコをプカプカふかしながら豪語するのだ。 何度も禁煙したということは、それが長続きせずに何度も喫煙を再開したということであり、つまりは失敗の連続ということになりはしないだろうか。 その点を突いてやると、ムキになって 「ちがう!」 と言い張る。

いつでも止める自信があるから現在はタバコを吸っているのだと。 もし、止める自信がなければ金輪際タバコは吸わないと主張する。 もしかしたら正論なのかも知れないと、あぶなく言いくるめられそうになってしまったが、やはりおかしい。 彼の論法からいくと、禁煙する自信がない人は二度と吸わず、自信がある人ほど喫煙を再開することになる。 つまり、自信がない人ほど禁煙に成功する訳だ。

それでも彼は頑として 「いつでも止められる」 と言い放つのだから、次の目標には 『二度と吸わない』 を付け加えると良いだろう。 そうすれば完璧な禁煙が成功するものと思われ、禁煙のプロを自認できなくなってしまうかもしれないが、人から突っ込まれたり笑われたりすることもなく、肺ガンのリスクからも開放されるので、そんなに良いことはないのではないかと。

以前に勤めていた会社の同僚にはダイエットのプロを自認する奴がいた。 過去に何度もダイエットに成功しており、「その気になったらいつでも痩せられる」 のだそうだ。 これも上述した 『禁煙のプロ』 と同じで、何度もリバウンドを経験しているから、何度もダイエットを試みなければならないのではないかと思われるのだが、本人はムキになって 「ちがう!」 と言い張る。

いつでも体重を落とす自信があるから今は好きなだけ食べるのだと。 ボクサーじゃあるまいし、何度も減量を繰り返す必要はないのだから、一度痩せたら体型を維持すれば良さそうなものだが、「痩せる自信がなければ、こうやって好きなものばかり食べない」 とドスコイ状態の彼は胸や腹を張る。

恐ろしいことにプロを自認する二人の主張や論調は同じだ。 過去の成功体験が彼らに妙な自信を与え、結果的に同じ間違いを繰り返すことになっている。 それは企業にも通ずるものがあり、過去に殿様商売をしてハードの性能向上に突き進んで自滅した任天堂がそれを猛烈に反省し、DS や Wii を開発して成功、復活したような例は稀で、多くは過去の成功体験を踏襲して失敗を繰り返す。

いろいろと勉強になったりする面はあるが、禁煙にもダイエットにも興味がないので、今の自分には教訓を生かすことができそうにない。

歯医者停滞期歯医者停滞期

過去に通った歯医者

その始まりは先週の雑感に書いた歯医者が原因だった。あまりにも治療がヘタで、血も通わぬ問診を繰り返すような所へは行きたくなかった。しかしそれは第二の理由で、本当は遊ぶのに忙しくて歯医者通いは面倒だったというのが最大の理由である。友達と遊ぶ時間を割いてまで歯を治療したいとは思わず、徐々に進行していく虫歯を放置していたため最後には悲惨なことになってしまった。

人間には自然治癒力というものがあり、体調を崩しても怪我をしても回復するのであるが、歯だけは自然に治るものではない。理屈では解っていても痛みが去ると通院する気が失せてしまう。再び痛くなってくると通院すべきか悩むのであるが、痛い部分を氷で冷したり、正露丸を直接つめたりしているうちに痛みが治まり、再び通院する気が失せるという繰り返しだった。

最初は左上の奥歯に小さな穴が開いた。初期段階は冷たい物を口にすると、しみる程度だったが穴は徐々に大きくなり、ズキズキと痛み出した。それでも痛みには周期があり、一定時間を我慢していると嘘のように治まってしまう。それを繰り返しているうちに痛くなることがなくなってしまったので歯医者に行かずに放っておいた。もちろん虫歯は進行したままである。

それ以来、食べ物を噛むのは右側だけになったのだが、今度は右上の奥歯が腐り始めた。そこで痛みもなくなった左側で噛むようにしていたところ、今度は奥から二番目の歯が崩壊し始めた。次に噛むのを右側に戻していると右側の奥から二番目の歯が駄目になり・・・。だんだん噛む場所がなくなってきたので物を良く噛まずに飲み込む癖がついてしまった。

そんな状態になっても歯医者に行かず放置したまま生活していると、虫歯は前歯まで広がってきた。後で知ったことだが、虫歯はミュータンス菌によるもので ”菌” というくらいだから当然のことながら感染する。じつは、生まれたばかりの赤ちゃんの口の中には、虫歯菌(ミュータンス菌)はいないのだそうだ。もし、そのまま大人になれば虫歯で苦労することもない。

どうして虫歯菌が住みついてしまうのかというと、それは身近にいる親からもらってしまう。赤ちゃんが使うスプーンをうっかりなめたり、親の箸で一緒に食べさせたりすると虫歯菌が赤ちゃんの口の中に移っていくことになってしまう。虫歯になると 「丁寧に磨かないからだ!」 と叱られたものだが、実は親に原因があるので子供から 「お前のせいだ!」 と反撃されかねないのである。

そんなことはさて置き、前歯まで広がった虫歯は左側の犬歯を壊滅状態にしてしまった。すると土台を失って安定感を失ったためか、隣の挿し歯がとれてしまったのである。いよいよ歯医者に行くべきかとも思ったが、やはり面倒なので瞬間接着剤でくっつけてみた。接着剤の威力は絶大で見事に歯は固定されたのだが、少し斜めについてしまった。格好の良いものではなかったが、「まあいいや」 と再び放置。

それから少しして前歯の一本が折れてしまった。原因は虫歯が進行していたのはもちろんだが、ボキッと折れた直接の原因は喧嘩だった。殴り合いの喧嘩をしていて顔面にパンチをくらった時に弱っていた歯は衝撃に耐え切れずに、もろくも崩壊してしまったのである。折れた歯を再び瞬間接着剤でくっつけようと試みたが、断面が合わずにあえなく失敗に終わってしまった。

それから数日後、折れた歯の残りの中心部から何かがぶら下がっている。食べ物が詰まっているのかと思い、楊枝でコリコリしてみると異常な痛みが走る。何だろうと思いつつも気になってしかたないので爪ではさむようにして思い切り引っ張った。そのとたんに電流のような痛みが体を走り、脊髄までしびれた。今から考えると ”あれ” は神経だったのかもしれないが、痛みで三日間ほど寝込んでしまった。

ここまできたら、いよいよ歯医者・・・と普通の神経の持ち主であれば考えそうなものだが、『自分で神経を抜いた男』 はこんなことではめげないのである。それからも長らく歯科医の門をくぐることはなかった。笑うと前歯がなく、それ以外の歯もガタガタだったので、とても人様にお見せできるような姿ではなかったと思うが、本人は臆することもなく平気な顔をして生活していた。

そんな自分にも転機が訪れ、やむを得ぬ事情により二十数年ぶりに歯医者に通うことになった。ところがその歯医者というのが ・ ・ ・ ・ ・。 次週につづく。

利便性の追求利便性の追求

時代と共に世の中は便利になるものであり、2年前くらいからエアコンにフィルタの自動掃除機能が搭載され、今ではほとんどのメーカーの機種が 10年間掃除いらずになっている。 その 10年後の子供に 「昔は週に一度は掃除したんだよ」 と言っても理解できないだろうし、それがどれほど面倒だったか想像もつかないに違いない。

洗濯機も今は全自動で、しまいには乾燥までしてくれる。 今でさえ手洗いしていた頃を知る人は少ないだろうが、近い将来、汚れた衣類は洗濯機に放り込んでおけば勝手に洗濯して乾燥までしてくれるのが常識となり、ゴシゴシと手で洗って太陽の下で干していたなどということが想像もできない世代が世の中の中心となっていくのだろう。

食器洗浄機、いわゆる食洗機の登場によって洗い物からも開放されつつある。 食事をした後は誰もキッチンに立たず、テレビなどを見て家族の時間を共有できるのは良いことだとは思うが、まともに食器すら洗えない人が現れるのも時間の問題だろう。

いろいろと便利になってはいるが、家事に残された唯一の労働に掃除がある。 いまだに掃除機をゴロゴロと引きずり、ガシガシと床を掃除しなければならない状況は続いている。 しかし、それとて自動化されるのも時間の問題となってきた。 勝手に床を動き回り、掃除をしてくれるロボット型の掃除機が誕生したからだ。

今はまだ吸引力と持続性に問題があるが、機能はすぐに向上するだろう。 燃料電池の開発、性能向上も進んでいるので、メタノール溶液を入れてやれば何時間でも部屋の中をウロウロし、勝手に掃除をしてくれるようになるだろう。 中に堆積したゴミは手で捨てなければならないが、人の欲求はとどまるところを知らないので、勝手に捨てて欲しいと思うに違いない。

そうすると開発者は頭をかかえながら、あれこれと研究を始める。 内部でチリやホコリを圧縮してカチカチに固めたものをノズルからゴミ箱に向って正確に発射し、ゴミ捨てを完了する。 本当にそこまでやる必要があるのか疑問ではあるが、人間は楽な方へ楽な方へと流れていくものなので、数年、あるいは数十年後には完全自動掃除ロボットが一般家庭の床を動き回っているかも知れない。

便利とは少し意味が違うが、テレビもプラズマや液晶で薄くなり、大型化が進んでいる。 『納得!買っとく?メモっとく』 にも書いているように、個人的には有機 EL という技術に期待しているので今は買い換えるつもりはないが、アナログ放送が終了する 2011年までに日本の家庭には圧倒的な数の薄型テレビが普及していることだろう。

そして、その頃には昔のテレビにはブラウン管が使われていて、とっても奥行きが深く、部屋の中で 「でん!」 と存在感を誇っていたことを知らない子供達が大勢いるのだろう。 お父さんとお母さんの結婚式や、自分の成長がビデオテープという媒体に記録され、ときどきテープが絡んで泣きながら直したことなど知らず、光り輝くディスクに保存されていることしか知らない子供たちばかりになるのだろう。

パソコンで動画を再生できるのは当り前で、画面いっぱいの静止画を表示するのに 3分も 4分もかかり、なおかつそれが 8色とか 16色でしかなかったことなど今の子供達は知らないのだろう。 今ではステレオサウンドを楽しめるパソコンも、昔はビープ音と言われるピコピコした音しか出せなかったことを知らないだろう。

機器の性能がどんどん良くなり、利便性が高まるのは良いことではあるが、何もない時代にテレビが登場したり、洗濯機や食洗機が登場して水の冷たさから開放されたりといった、世間に圧倒的に支持されるような画期的な商品は今後生まれるのだろうか。

「もう何もないだろうな~」 と 『お買物日記』 担当者にたずねると、「自動でお風呂の掃除をしてほしい」 と間髪を入れずのお答え。 なるほど、その気になれば世の中はまだまだ便利になるらしい。

命がけ命がけ

昨夜の独り言にも書いたが、愛知県で発生していた立てこもり事件で、SAT の隊員が若くして殉職してしまうという悲劇が発生。 彼には一歳に満たないお嬢さんがおられるとのことで、本当に何と申し上げてよいやら。 日本版特殊部隊に身を置くということは、死と隣り合わせの危険な任務につかなければならない状況に至ることであると、本人も覚悟していたであろうが。

それにしても発足以来、奇跡的に死亡者がなかった SAT 部隊隊員が、頭のイカレた元暴力団員の銃弾によって倒れるとは。 それも、防弾チョッキを着用していたにも関わらず、そのわずかな隙間を通って心臓に到達するという不運で殉職してしまったのだから、心の底から悼むしかない。

昨夜のテレ朝に出演していたオッサンは、犯人が不穏な動きをしたら隊員も発砲すべきだったとか、遠距離からライフルで狙撃するなどの手立てもあったはずだなどと好き勝手なことを言っていたが、SAT、機動隊も含めた日本の警察は 『汝(なんじ)殺スナカレ』 の精神のもと、犯人を生け捕りにするのが前提であり、撃たれても撃ってはいけないのである。 テレ朝も、もう少しまともな人を呼べなかったのか。

人質、そして同僚の命を身を犠牲にして守ってくれた SAT 隊員だけではなく、命がけで市民の安全を守ってくれる職業についている人々には心から感謝しなければならないだろう。 交番の警察官、消防士も同様、2004年に発生した新潟中越地震の際に土砂崩れ現場から幼い子供を救出したレスキュー隊もしかりだ。

断続的に余震が起こる中で続けられた救出活動は難航を極め、崩落でゆるんだ土砂がいつ再び崩れ落ちるかもしれない状況の中、危険を顧みずに数時間も救出活動をしてくれた。 助けられた子供の家族だけではなく、血も縁も繋がっていない自分でさえ感謝の念を禁じえなかった。

16日、イラク特措法の期限が 2年間延長されることが衆院で可決されたが、野党は相変わらずギャーギャー騒いでいるだけだ。 自衛隊の海外派遣を非とするならば、パレスチナのゴラン高原に派遣されている自衛隊も違憲行為ということになるだろう。 それを話題にもせず、イラクにばかり議論が及ぶのは参院選を見据えて、目立つ話題に集中させるという魂胆ではないのか。

自衛隊の海外派遣は直接的に日本人を守ってくれている訳ではないが、命がけの任務を遂行しているという点において変わりはない。 国内で大きな災害があった場合、自衛隊は危険な現場にも駆けつけてくれるし、万が一、どこかの狂った奴が日本に向けてミサイルを発射したり、攻めてきた場合は命がけで守ってくれることだろう。

国が保持する組織だけではなく、命がけで仕事をしている人だっている。 パイロットや全ての乗り物の運転士は常に危険と隣り合わせだ。 操縦や運転のミスだけではなく、乗り物の整備状態で事故が起きる場合もあるし、陸路の場合は相手の過失によって事故に巻き込まれることもある。

様々な現場で作業する人も危険だ。 高所の場合だと落下の危険があるだろうし、地下の場合は崩落の危険がある。 機械を扱う人も巻き込まれて手や足を切断したり、命に関わるような重大事故の危険性をはらんでいる。 いや、2005年のJR福知山線事故のように通勤時に大きな事故に巻き込まれる危険性だってあるのだから、安全な職業などないということか。

しかし、自分はどうだろう。 今は在宅なので通勤もしていないし、作業内容といえばパソコンの前に座って指先と、少しばかり脳を動かしている程度だ。 決して命がけの危険な仕事ではない。 男たるもの、こんなことで良いのか!と自問すれど、この歳になって自衛隊に入る訳にもいかず、警察や消防に入るために公務員試験を受けるような頭脳もない。

いや、パソコンの前に座りっぱなしで同じ姿勢のままなので静脈血栓塞栓症、いわゆるエコノミークラス症候群になり、足でできた血栓が脳や心臓に飛んで死に至る危険があるかも知れないので、ものすごく遠い意味では命がけの仕事と言えないこともないような気がする。

そう考えると何となく怖くなってきたので、ちょっと足を動かしたりしてみながら書き終える今日の雑感だったりする。

歯医者一軒目歯医者一軒目

最近では少しでも歯の調子が悪くなると、すぐに歯医者に行くことにしているが、以前は長い間 ”ほったらかし” にしていた。何せ 20年間ほど歯医者に行かなかったものだから、もうこれ以上は悪くなり様がないだろうというくらいボロボロだったのである。知り合いに歯医者で治療されるときの 「キュイ〜ン」 という音と、歯を削られる感覚が好きだという人がいる。あまりにも気持ちよくて寝てしまうのだそうだ。

そんな人は珍しいのだろうが、自分は歯医者で治療を受けるのは決して好きではないが、眉をひそめるほど嫌いというわけではない。痛いのはもちろん嫌いだが、治療のときの痛み程度は我慢できる。だったら、もっとマメに通えば良さそうなものだが、歯医者の難点は通わなければいけないというところである。一回の治療で治るのであれば面倒ではないが、一本の歯が完治するまでに何度も通わなければならない。

若い頃は金がなかったのと、遊ぶのに忙しいという理由で、歯医者には行く気になれなかった。子供の頃は自分に行く気がなくても親が勝手に予約を入れて無理矢理にでも通わされた。記憶の限りでは最初に歯医者に行ったのは小学校の二年生くらいだったように思う。

その歯医者は腕(技術)には定評があるものの無愛想なことでも有名なところだった。大人でさえ 「あの先生は怖い」 と言うのだから、子供にとってはゴジラよりも怖い存在だったのである。歯医者まで一緒に来るような親ではなかったため、一人でトボトボと向かう足取りは重い。行ったことにして帰ってしまおうかと考えたことも一度や二度ではなかったが、そんな嘘はばれるに決まっているので勇気をふり絞り、重い足を引きずるようにして通ったものである。

行く前に一応は歯磨きをして行くのだが、そこは子供のやることなので、どうしても磨き残しがある。それを見つけるとマスクの奥で 「ん゛ー!」 と声を出し、器具でガリガリと削りながら叱られる。「ちゃんとキレイに磨きましょうね〜」 などと優しく諭す人ではないのである。治療中も 「はい、うがいしてください」 などとは言わない。小さな声ながらも鋭く 「うがい!」 と命令される。

長く口を開けていると疲れてきて、少しずつ開きが小さくなってくる。そんなときもアゴをワシヅカミにされて 「ん!」 と口を開けられる。まるで拷問にあっているような、軍隊で絶対服従させられているような恐怖の時間が過ぎていく。いくら怖くても声を出して泣くこともできず、恐怖におののき、目に涙を溜めたまま、時間が過ぎるまでただひたすら耐え忍んでいた。

ところが、ある日を境にその先生の態度が一変した。子供を恐怖のどん底に叩き落し、大人にでさえも恐れられていた先生が、「はい。あ〜んして」 とか 「はい。ガラガラ〜ってうがいして」 などと、とても優しい。子供ながらに気味が悪く、違う意味で恐怖を感じたりしてしまった。その変貌ぶりを家に帰って親に報告したところ、「孫ができたからかね?」 と言う。

鬼のような先生も自分に孫ができてみると 『子供は可愛い』 と感じるようになったらしいのである。当時聞いた話によると、子供に対する態度だけではなく、大人にも優しくなったらしい。人は何かのキッカケで変われるものだと、今になって思ったりしている。それからは、「腕は確かだけど偏屈な先生」 という評価から 「腕も確かで優しい先生」 という評価に変わり、多くの患者をかかえる評判の歯医者になった。

それから長らく黄金期は続いたのだが、先生が高齢になり、後を継ぐ人もいなかったのか廃業することになってしまった。残された患者は大変である。通う歯医者は簡単にコロコロと変えられるものではない。人から評判を聞いたり右往左往しながら次に通う歯医者を探すことになってしまった。

次に通うことになったところが、それから 20年もの間、自分を歯医者から遠ざける原因となった因縁の歯医者なのだが、その話は次の機会に譲ることにしようと思う。

最近の若い者は最近の若い者は

何年もの間、この雑感は義務的かつ事務的に書いており、土曜の午後になればパソコンの前に座ってダラダラと書き始める。 何を書くかは労せずともパッと浮かび、ワーッと一気に書いてしまうことが多いのだが、今日は何を書いたら良いのか思考が定まらない。 書きたいことは思い浮かぶのだが、疲れが残っているのと睡魔と闘っているのが一緒になってボ~ッとしている。

こんな時は過去の記憶に頼るものや、面倒な理論をゴチャゴチャと考えたりする必要がある文章を書くよりも、流れに任せてボンヤリした内容のものをフワフワと書くのに限る。 時事ネタであればエキスポランドのジェットコースター問題が挙げられるが、こんな気分のときに書くにはあまりにも内容が重い。 違う話題と言えば高校野球の特待制度問題もあるが、「高野連は何様のつもりか!?」 程度のことしか思いつかない。

「もっと軽い話題は?」 と思いを廻らし、ポンと頭に浮かんだのは太陽くんと辻ちゃんの結婚だ。 二人はいわゆる 『できちゃった婚』 というやつで、辻ちゃんは妊娠による体調不良から結成されたばかりのユニット 『ギャルル』 を脱退したり、急性胃腸炎を理由に舞台を緊急降板したりしており、結婚会見に集まった報道陣らは責任論を展開する有様で、諸手を挙げて喜べる状態ではなかった。

本人たちも自覚していたであろう様子は、会見の第一声が謝罪だったことからもうかがえる。 若い二人が若いになりに考えて、公式の場で謝罪までしているのだから、後は 『おめでとう会見』 にしてあげたら良いのに、意地も頭も悪い記者どもは二人が困るような質問ばかりしていたように思う。 記者の中に 『モーヲタ(モーニング娘。オタクの略)』 と呼ばれる人種が入り混じっており、嫉妬心を丸出しにしていたのではないかと疑いたくなるほどだ。

中には 『できちゃった婚』 の増加とともに幼児虐待や育児放棄の件数も増加傾向にあることや、それに絡めて熊本市の慈恵病院で運用が始まった 『こうのとりのゆりかご』、いわゆる赤ちゃんポストにまで話しを発展させる番組まであり、若い二人が 「幸せになります」 と言っただけのことが予想もつかぬ社会問題にまで波及する日本はヒマな大人が多い国だという表れでもあるような気がする。

自分にそんな意識はないが、「近頃の若い者は・・・」 と嘆いているオッサン、オバハンも多いことだろう。 自分がどれほど立派になったのかは知らないが、その自分たちですら若い頃には年上の人から 「近頃の若い者は・・・」 と言われていたはずである。 当時、そう言っていた大人も若いころには年上から 「近頃の・・・」 と言われており、時代はどんどんさかのぼる。

日本では平安時代の文章に 「最近の若い者は・・・」 と書かれたものがあるらしいが、考古学者が古代エジプトの発掘調査をしていて遺跡に書かれた象形文字を発見し、何か重要な歴史的事実が書かれているのではと解読したところ 「最近の若い者は・・・」 という年寄りの愚痴がかかれていたらしい。 数千年前の時代にも若者と大人、世代間の対立はあったようだ。

この事実を突き詰めて考えると、常に年長者が立派で若者がなっていないということになる。 それが真であるならば、最古の人類がもっとも高潔で神に近い存在であり、文明や科学技術の進化はあれど、人間自体はどんどん質が低下し、堕落していっているということになる。 確かに坂本龍馬などは 30代にして世界を見渡し日本の将来を憂いていたが、今の 30代はどうだろうなどと考えてしまう。

それほどまでに人間の堕落は進んでおり、このままでは人類の未来にとって・・・などと大袈裟なことを考えている場合ではない。 太陽くんと辻ちゃんの件で人類の未来像まで思考が発展してしまっては、訳の分からない責任論を展開するマスコミや、幼児虐待にまで話題が広がるテレビと大差がない。

ここは 「おめでとう!」 の一言をもって、今週の雑感をお開きにすべきだろう。

言葉の変遷言葉の変遷

このごろ気になることの一つとして、オバハンの語尾上げがある。 文章で表現するのは難しいが、「~ですか?」 のように、まるで質問しているみたいに語尾を上げて話すのだが、「お前は 20年前の女子大生か!」 と突っ込みたくなる。 確かに、いい歳をして語尾上げを使うのはバブル全盛期に女子大生だったオバハンが多いようだが、それから社会人を経験しても直らなかったのだろうか。

「だから~。 ○○がぁ~。 ○○でぇ~。 ○○みたいなぁ~。」 と文章を細切れにして話すオバハンも気持ちが悪い。 第一、そんな話し方をされたら句点(『。』まる) のたびにうなずいたり 「ふんふん」 と相槌をうたなければならないので疲れる。 首根っこをつかまえ、「さっさと喋らんかー!!」 と耳元で怒鳴り散らしたい気分だ。

以前は若者文化の発祥と言えば女子大生が中心だったが、今となってはその座を女子高生を中心としたコギャルに奪われてしまっているようだ。 ファッション、化粧品、食べ物の流行まで生み出すパワーを秘めるコギャルには、ある意味で敬服するものがあり、様々なメーカーまでがマーケティングの対象にしたりしている。

年末に発表される流行語大賞には芸能、文化人などが選出されているが、本当の意味での流行語を創っているのは彼女達ではなかろうか。 流行り廃れも早く、オッサンである自分などが理解できるようになるころには、コギャル達の間では死語と化していることが圧倒的だ。

10年以上も前に使われたチョベリグ(超ベリーグッド)/チョべリバ(超ベリーバッド)など、もう誰も使っていないだろうし、その後に生まれたチョバチョブ(超バッド超ブルー)も聞かなくなった。 数年前に使われていたチャケバ(ぶっちゃけ話)なども、すでに廃れているのだろう。

コギャルなどという分類そのものが存在しなかった昔から、若者言葉が生まれては消えることを繰り返していたが、変な生き残り方をしている言葉もある。 その代表例が 『ハッスル』 とか 『フィーバー』 で、今では若者も含めてオッサン、オバハンまで滅多に使う言葉ではないのに、ニュース用語としてのみ、その存在を確認することができる。

「若者のフィーバーぶりが・・・」 「大いにハッスルしていました」 など、「誰に伝えたいんだ?」 と問いたくなるようなニュース原稿を若いアナウンサーが読んでいるのが可笑しい。 原稿を作成しているのがオッサンなのか、取材をしたのがオッサンなのか、それとも本当にニュースの用語として定着しているのか、正確なところは分からないが、このまま将来も生き残る言葉なのだろうか。

その他、日本語の使い方として間違っているものがそのまま定着してしまう場合もある。 今では誰も不思議に思わない 『意外と』 もそうだ。 もともとは芸能人が使い始めたようで、意外は形容動詞であるから、『意外に』 が正しい使い方なのだが、NHK のアナウンサーだろうと新聞の文字だろうと 「意外と美味しい」 などという使い方をしているので完全に市民権を得たようである。

最近になって使われ始めたのが 「普通に美味しい」 という表現で、これは 「味が普通である」 という意味ではなく、「お世辞ではなく美味しい」 という誉め言葉に相当する。 その 『美味しい』 ですら変化しており、とっても美味しいことを 「ヤバイ」 と表現することが多くなってきたようだ。 これは 「ヤバイくらいに美味しい」 という感情表現を 「ヤバイ」 に凝縮したものだろう。

『ヤバイ』 とは 『ヤバ』 が形容動詞化した口語であり、ヤバ(野馬)とはまだ調教されていない馬、つまり危険であるということなので、本来は良い意味を持たないが、長い時を経て、今、まさに、誉め言葉へと昇華しつつある歴史的瞬間に人類は遭遇しており・・・。 などと気楽なことを書いていて良いのだろうか。 このままでは日本語がどうなってしまうのだろう。

「思ったよりも、お世辞ぬきで本当に美味しいですよ」 が 「意外と普通にヤバイ」 で通じる世の中になるのだろうか。 『意外と』 という使われ方のように市民権を得て、将来の標準語となってしまう時が来るのだろうか。 それとも、これらの使われ方は一過性のものであり、正常な状態に戻る日が来るのだろうか。

色々と思うことはあるが、昔は自分も若者言葉を使い、親に注意され、社会人となって矯正されてきたものである。 中には定着し、正式な日本語となっていくものもあるだろう。 仮に江戸時代の人が現代にタイムスリップしてきたとしたら、きっと何を言っているのか理解できないに違いない。 数十年、数百年後の日本語は、現代人には理解できないくらいに変化しているのかもしれない。

言葉の変遷

嗚呼日本人9嗚呼日本人9

嗚呼日本人         8 

このタイトルを書くのも久々で、調べてみると約三年ぶりということになる。 その間にも 「日本人って・・・」 思うことは多々あったのだが、過去にこんなタイトルで雑感を書いたことすら忘れていた。 自分の場合は頭が良くないのに加え、年齢とともに記憶力も低下しつつあるので、何事も記憶の彼方へ飛んでいってしまうことは良くあるのだが、日本人そのものが忘れっぽい人種であったりするのかもしれないと思うことがある。

25日、JR福知山線脱線事故から 2年が経過した。 被害者や遺族は JRから事故原因調査の報告をまだ受けられなかったり、補償交渉もまだ決着していないので事故は終わっていないのだろうが、当事者以外は年に一度だけ事故のことを思い出す程度になってしまっている。

あの路線を利用している人も、当時は電車に乗るのが怖かっただろうが、今はそれを思い起こす人も少なくなっているだろう。 一般人、乗客は事故を忘れても仕方のないことだと思うが、JRと運転手にはそれを忘れてもらいたくないものである。

この雑感にも何度か書いているが、1995年の阪神淡路大震災も風化しつつある。 我家でも当初は緊張の日々を送り、非常持ち出し用の荷物をまとめたりしていたが、月日の経過とともに荷物は解体されていた。 「こんなことではいけない!」 と気持を入れ直してあれこれと考え、『お買物日記』 担当者がまとめてくれたので今は復活しているが、これがいつまで続くか疑問である。

2006年 6月 3日に死亡事故が発生して大騒ぎになったシンドラー社製のエレベーターに関しても多くの人が忘れていることだろう。 当時は、「あそこにもここにもシンドラー社のエレベーターがある」 とマスコミも大騒ぎし、乗らないようにと張り紙までしてある建物もあったが、今では誰も気に止めずにエレベーターを利用しているに違いない。

その後、点検作業がどのように行われ、日本中のエレベーターの点検と必要な部品交換が行われたのか、それが完了したのか一切の情報がない。 そして日本人は事故のことをコロッと忘れ、今ではエレベーターのメーカーを気にする人すらいないだろう。

過去の独り言にも書いたように、今となっては IT 企業の悪の巣窟に近い状態になってしまった感のある六本木ヒルズだが、一時期は事務所を構えたり、住んだりしている人たちをヒルズ族などと称してもてはやしていた。 すっかり観光名所ともなった六本木ヒルズだが、完成直後の 2004年 3月 26日に 6歳男児が正面入口の自動回転ドアに頭を挟まれ死亡した事故を覚えている人がいるだろうか。

その回転ドアも取り払われ、今では違う種類の自動ドアになったこともあり、そこを通過する際に事故のことを思ったり手を合わせたりする人はいないだろう。 管理者の森ビルとメーカーの三和シャッターが罪のなすり付け合いをしていた記憶があるが、責任はどちらにあったのか、遺族への補償がどうなったのかは伝えられていない。

最近の話しでは 2月 6日に自殺志願の女性を救おうとして急行電車にひかれ、亡くなってしまった宮本巡査部長の件がある。 残された家族には初七日だけでなく、四十九日も一周忌も毎年の命日もやってくるが、あれだけ市民に愛され、命がけで人命を救った立派な警察官のことが、すでに記憶の片隅に追いやられようとしている。

大阪では桜のシーズンもすっかり終わってしまった。 木が葉で埋め尽くされると、その木が桜であって、つい先日まで綺麗な花を咲かせ、楽しませてくれたことなど忘れてしまうに違いない。 通勤、通学で通る道にある桜の木も、散歩中にある桜の木も誰も気に止めなくなるだろう。 そして、翌年になり、春が待ち遠しくなると思い出す。

しかし、それが日本人なのかも知れない。 過去と決別しなくては前に進むことも難しい。 何かあると蜂の巣をつついたように騒ぎ立て、すぐに何事もなかったように忘れてしまう国民性は、一気に花開いて咲き誇り、そして見事なほどに散りゆく桜に類似性を見いだし、ことさらに愛でたくなるものなのかも知れない。

一極集中一極集中

社会問題、政治問題にもなっている中央と地方の格差。 とくに最近はその傾向が顕著に表れているように思う。 それは景気回復だったり地価上昇などという経済的側面のことではなく、自分程度の人間が感じるのはメディアに対してである。

今月初めに行われた東京都知事の選挙にしてもそうだが、都民以外には大きく関係しない話題であるにも関わらず、石原閣下の独善ぶりとか、笑いを通り越して気持悪さ倍増の黒川紀章氏とか、ドラマチックに失敗した浅野史郎氏の顔が、テレビなどで毎日のように映し出される。

日本の首都である東京の長が誰になるのか、国際都市東京の構築には誰が相応しいのか、そして世界に向けて日本の情報をどのように発信していくのか、それは地方にとっても大切なことではあるが、いかんせん投票権すらないのだから、結果だけ分かれば十分であり、事前の選挙戦など毎日のように見せられても何の興味も湧かない。

現在、日本の総人口は約 1億 3千万人で、東京を中心とした首都圏の人口は 3千万人と、実に日本の人口の 23%を占めている。 したがって、テレビも首都圏を対象としておけば、ある程度の視聴率を稼げる訳なので、 「東京を中心に編成すれば良い」 という安易なものが目立つ。

グルメ番組も都内の美味しい店、何らかの情報紹介も東京が中心。 東京に住む気などなく、ましてや遊びに行く気すらない人にとっては、まったく必要のない情報だ。 これで最近の視聴率の低迷を嘆く方がおかしい。 インターネットの普及やら娯楽性の多様化など、もっともらしい言い訳をあげつらうが、実際のところは多くの人が楽しめる番組を製作できない側に大きな問題があるように思う。

地方に住んでいると、東京発信の情報よりも、住んでいる土地発信の情報の方が楽しいし、役に立つ。 六本木やら神楽坂やらの洒落た店の紹介よりも、安くて美味しく、腹一杯になる地元の店の情報が気になる。 主婦層をターゲットにしている昼間から夕方にかけてのローカル番組を一家団欒のゴールデンタイムに放送した方が視聴率が高いのではないかと思えるくらいだ。

日本第二の都市であった大阪も、景気の良い名古屋に抜き去られ、底なしの地盤沈下を続けているように思うが、市や府、官僚は裏金を作ったり談合したりするのに忙しく、財政破綻寸前だというのに何の危機感も持っていないようだ。 大阪で大きくなった企業が本社を東京に移すのを指をくわえてみているだけで、必死に食い止めようとしたり、逆に誘致活動をして呼び込むことすらしない。

吉本の芸人さんも下積み時代を大阪で過ごし、有名になって高額所得者になると東京に行ってしまう。 つまり、大阪からは人も企業も高額納税者が出て行き、東京の税収がどんどん増える構図だ。 九州や沖縄のように優遇税制を導入したり、通信、電気などで補助金を出したりして必死に誘致活動をしているところに経済規模や人口推移で負ける日も近いかもしれない。

そういう観点からすると、東京の知事などどうでも良く、大阪府知事の方が重要であり、前の横山(エロ)ノック氏や、現在の太田(デメキン)房江女史なんぞに府政を任せてなどいられない件の方が府民にとって重要で、石原氏の激しいまばたきや黒川氏の気持悪い姿などテレビで観ている場合ではないのである。

東京をロンドンやニューヨークのように世界に通用する都市にすることに異存はない。 しかし、政治の中心であるワシントン的都市や、いろいろな機能を持つ都市だって必要だろう。 人口が一極集中するのは避けられないとしても、金や情報までもが一極に集中し、地方が疲弊している現状が正しいことだとは思わない。

そして、東京を中心としたテレビ番組など見たくもないので、地方のテレビ局には是非とも頑張っていただきたいと思っている。 しかし、制作費を補えるほどの大きなスポンサーが、東京にしかないという一極集中の現実が、ここにも厳然と存在したりするのではあるが・・・。

リアクションリアクション

長いこと生きていると、リアクションに困る状況が少なからずおとずれるものである。 以前の雑感にも書いたが、電車の指定席がとれず、帰省先から帰れないというアホみたいな理由で会社を休んだ女子社員からの電話連絡を受けたときもそうだった。

本来であればガツンと叱らなければいけないのだろうが、あまりにもアホらしく、馬鹿馬鹿しい理由を聞かされて唖然としてしまい、叱る気にもならなかったのは、文字通り ”開いた口がふさがらない” という状況に陥ってしまったためだ。

その電話を横で聞いていたであろう彼女の親も、そんなことは仕事を休む理由にならないことを諭したりしないのであろうか。 可愛い我が娘が満員電車で立ったまま揺られて帰るのが忍びなく、「そこまでするくらいなら仕事を休んでもう一泊していきなさい」 とでも言ったのだろうか。

これも以前の雑感に書いたことだが、嘘をついてまで自慢話をする男がいた。 その男を含めた数人で酒を飲んでいたとき、ヒゲを剃るのはカミソリ派か、シェーバー(電気ひげ剃り機) 派かという話題になり、自分はシェーバー派だと応えると、「シェーバーでまともに剃れる?」 と聞かれたので 「剃れるよ」 と答えた。 すると、その男は 「嘘だね~。前に途中で止まって剃れなかったの知ってるもんね~」 と勝ち誇ったように言い放つ。

確かに、その男が家に来ていたとき、急な仕事の呼び出しがあったので慌ててヒゲを剃っていたところ、途中で充電が切れてしまい、あごヒゲを剃ることができなかったことがある。 しかし、それは電気ひげ剃り機なのだから、電気がなくなれば剃れなくなるのは当然のことであり、『まともに剃れるか』 という質問に対して 『剃れる』 と答えたことが嘘だという結果には繋がらないはずだ。

その男の嘘を何度も指摘していたので、まるで鬼の首でも取ったかのように責めてくる姿を見て哀れに思い、少しリアクションに困っていると、その嬉々とした態度に拍車がかかり、まるで自分が罪人であるかのように責め立ててくる。 あまりにもしつこいので先に述べたように、電気がなくなれば剃れなくなるのは当然のことであると言ってやった。

すると、一緒に飲んでいた仲間も同じように思っていたらしく、みんな一様に 「そうだ、そうだ」 と言い、それは嘘ではなく、当然のことであるという結論に至り、今度は今までギャーギャーと騒いでいた男がリアクションに困ってシュンとすることになった。

ある日、知人の紹介で職場を訪ねてきた人と会ってみると、どうやら以前に会ったことのある人と知り合いみたいで、「お噂はかねがね・・・」 などと言う社交辞令的会話が開始され、そういうことが苦手な自分は 「いやいや」 とか 「まあまあ」 などと適当な返事をしていた。 そして 「あまり良い噂じゃないでしょうけど」 と返すと、「いえいえ良くキレる方だと・・・」 と言ってくる。

それは、キレ者であるという、最大級の社交辞令的誉め言葉だったのだが、自分の脳は通常と異なる回路に接続してしまい、当時、社会問題化していた 『キレやすい子供たち』 に象徴される、”ぶちギレ” の意味の 『良くキレる』。 つまり、子供たちと同じく 『キレやすい』 と解釈してしまった。 確かに当時は出入り業者にクレームを言ったり、時には怒ったりする仕事上の立場だったのである。

その言葉を受けての第一リアクションは 「いえいえ、そんなことは・・・」 だったので、一応はつじつまが合う。 しかし、次に 「いや、そうかもしれませんね」 などと答えてしまったものだから、その場の空気が変なものになってしまった。

その人は 「は?」 と言ったまま固まっている。 きっと頭の中で (こいつ、ちょっと誉めたら認めやがった~!) と叫んでいたことだろう。 自分も 「え?」 と言ったまま固まっていた。 頭の中では (なんなのだ、どうしたというのだ) という疑問が次々に浮かんでは消える。

何だか妙な雰囲気になってしまったその場は、お互いが 「あははは」 と力なく笑って取り繕い、そそくさと仕事の話を始めたりしたのであった。