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雑感 なんとなく感じたこと雑感 なんとなく感じたこと

マサルノコト scene 15マサルノコト scene 15

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いつも遊んでいた仲間の一人、セイジが転校してからは自分とマサルとノブアキの三人組となってしまったが、その三人の絆はむしろ深まったような気がする。 セイジが新しく暮らすことになった土地は、遥か 2,000km の彼方であり、簡単に会いに行ける距離ではない。 当時の電話料金からいって、頻繁に話ができる距離でもない。 かと言って、手紙を書くのも面倒だ。

そこで考え出したのが、当時はメジャーな媒体であったカセットテープに声を録音して送るというものだ。 現在であれば、簡単に E-mail で連絡を取り合ったり、その気になれば写真だって動画だって送信できるが、当時は手紙以外の連絡手段で、思う存分に近況を伝えることができるものと言えば、カセットテープに声を吹き込んで送るのが最善の手段だった訳である。

マサルとノブアキが、それぞれ自分のカセットテープレコーダーを持って我家に集合し、それぞれの機器を接続して BGM を流したり、好きな曲を録音したりしながらマイクに向って、あーでもない、こーでもないとしゃべり続ける。 単純に言えば、ラジオ番組の真似事をしながら、A面、B面合わせて 120分くらの声の便りを作成したのである。

それが一カ月に一度の割合だったのか、二カ月に一度の割だったか覚えていないが、まるで定期行事、義務でもあるかのように録音し続けた。 120分の録音時間とは言え、途中で曲を録音したり休憩したりするので、午後から始めた作業が終わるのはいつも夕方おそくになってからだ。 しゃべり疲れ、笑い疲れ、いつもクタクタになってしまうが、それはとても楽しい時間でもあった。

それ以外にもマサルと二人でノブアキの家に遊びに行き、父上のゴルフクラブと練習用の飛ばないスポンジ製のボールで飛距離を競ってみたり、ゴミを捨てるポリバケツのフタをフリスビーの代わりにして投げあって遊び、ノブアキが右手の小指に何針も縫う大怪我をしたり、それなりに男の子らしく、やんちゃで元気な生活を送っていた。

大晦日の夜は三人で待ち合わせして、年が明けると同時に神社まで初詣に行き、すぐに別れて帰宅するのもつまらないので、ノブアキと自分は喫茶店にでも行って話しでもしようと提案するのだが、scene 11 にも書いたような、クソ真面目なマサルが同調するはずもなく、初詣の帰りは我家に集まり、朝まで話しをしたりするのが毎年の恒例となった。

夜通し遊び、早朝に帰宅することになるからマサルもノブアキもフラフラで、すぐに布団に入って爆睡状態になるものだから、それぞれの家族が元旦の朝に顔をそろえることがなく、「いつも正月らしい朝を迎えられない」 とマサルの親からもノブアキの親からも半分冗談で嫌味を言われていた。

それほど仲良くしていても、クラス替えというのは非情なものであり、中学三年生になるとノブアキは違うクラスになってしまった。 おまけに三年生ともなれば高校受験が目の前に迫っており、自分などは先のことなど考えずに遊んでいたが、優等生だったノブアキは受験勉強を優先し、日常的に遊ぶ機会は大幅に少なくなってしまった。

しかし、セイジに向けた声の便りだけは、それからも三人で定期的に録音し続けたのであった。

マサルノコト

相性相性

自分はどうやら本当にオバチャンとの相性が悪いらしい。 昨日の夜、自転車で近所をウロウロしていると、脇道からもの凄い勢いで自転車に乗ったオバチャンが飛び出してきたのである。 驚いてブレーキを強く握ると、自転車は 「ギギギギー!!」 と大きな音をたてて急減速し、かろうじてオバチャンのとの衝突を回避することができた。

オバチャンは謝るどころか、まるで 「そっちが止まるのが当然だ」 とでも思っているかのような態度で、自分より大きく広いであろう背中で、これまた立派で広い肩幅の盛り上がった肩をいからせ、大きな尻をブリブリさせながら、こちらを見もせずにズンズンと進んで行く。

あまりにも腹が立ったのでオバチャンの自転車の後方 30cm くらいまで近づき、オラオラとあおってやったが、それに気付いているのか気付かないのか、まったく気にする様子もなく、ただひたすらに進行方向だけを見つめてペダルをガシガシ踏んでいる。 相手にされない寂しさと、アホらしさが入り混じった微妙な感情が心を支配したので後を追うのを止めたが、腹立たしさは胸に残ったままだった。

8月に自転車で近所をウロウロしていたときもそうだった・・・。 脇道から車に乗ったオバチャンが、本線に入ろうと様子をうかがっていた。 自分より太い腕でガシッとハンドルを握りしめ、本線の車が途切れる瞬間を狙っている。 ちょっと嫌な予感がしたので少しスピードを落としながら車に近づいて行ったのだが、オバチャン号は車が途切れても発進しようとしない。

ずいぶん慎重だと思いながらオバチャン号の前を通り過ぎようとした瞬間、ブォンとという音と共に動き出すではないか。 慌ててハンドルを切り、衝突を回避するのと同時にオバチャン号も慌てて止まる。 腹が立ったので睨みつけてやったが、オバチャンは堂々と真っ直ぐ前を見据えたまま目を合わそうともしない。 かえって同乗者の方がワタワタと慌てているくらいだ。

それだけだったらまだしも、後ろを走っていた 『お買物日記』 担当者が前を通り過ぎようとした瞬間、同じようにオバチャン号が発進しようとしたので 「キキキ!」 という甲高い自転車のブレーキ音を、あたりに響き渡らせる結果となってしまった。

オバチャンには学習能力というものが備わっていないのか! ヒヤッとした瞬間を記憶する能力がないのか! そもそもヒヤッとする感覚を持ち合わせていないのか! 周囲に目を配れず、正確な状況判断もできないオバチャンに対しては、警察も免許を交付しないで頂きたいものであり、自転車であれ車であれ、走る凶器と化す可能性があるものを与えないでいただきたい。

自転車のオバチャン、車のオバチャンとも、よく今まで事故を起こさずに済んだものである。 そして、ああいうオバチャンが事故を起こしたときは、何だかんだと機関銃のようにじゃべりまくり、まるで自分が被害者であるかのような論理を展開し、当たり屋よりも性質(たち)の悪い相手に遭遇してしまったことを、本当の被害者に思い知らせたりするのだろう。

そういう意味では、事故にならずに済んだ自分の幸運を喜ぶべきなのか・・・。

神の領域神の領域

2006年に世界保健機関 (WHO) から発表された世界保健報告によると、日本女性の平均寿命は約 86歳、男性は約 79歳で、ともに世界一となっている。 『人生五十年』 などと言われていた昭和初期から 100年足らずで 1.6倍にもなったことになった訳だ。

不治の病と言われていた結核など薬で治る時代だし、白血病も治療法が確立した。 一番の死亡原因であるガンですら早期発見すれば治療は可能だし、近い将来には療法が確立して薬を飲みさえすれば完治させることが可能になるに違いない。

医学の進歩が寿命を延ばし、社保庁や厚労省には少々問題もあるが、保険制度の恩恵によって日本人は公平な治療を受けられる。 糖尿病や高血圧を代表とする生活習慣病に関しても日本人の健康意識が高まり、今後は減少傾向をたどるのではないかと思われる。

急速に発達しつつある再生医療 (医学) では、アゴの骨から歯を再生したり、骨髄細胞から心臓組織を再生した例も報告されており、それほど遠くない将来にはあらゆる臓器の再生が可能になることだろう。 そうなれば、まるで部品交換をするかのように古くなったり、少しガタのきた臓器を再生した新しい物と交換し、百歳でも二百歳でも生きられる時代が来るかもしれない。

腎臓が悪くなり、膨大な時間を費やし、高額な医療費を負担して人工透析を受けている人や、不幸にして視力を失ってしまった人などの臓器や角膜を再生し、普段の生活に戻れるようにすることは重要なことであり、それ自体が間違っているとは思わないが、臓器を人工的に培養して作り出すということに対しては、少し不気味な感覚を覚えてしまう。

遺伝子を操作したり、臓器を作り出すなどというのは神の領域であり、人間が手を出す範囲を超えているような気がするのは自分の考えが古すぎるからだろうか。 食物にしてもそうだが、様々な組み合わせによる交配を繰り返し、寒さや病気に強い品種を作り出すのではなく、遺伝子を操作して耐性の強化を図るなど、人間は何様のつもりかと思ってしまう。

絶滅の危機に瀕している動植物を人工的な交配によって増やしてみたり、ただ食物連鎖の頂点に君臨しているだけの人間が、神様にでもなったつもりなのだろうか。 人間の手による乱獲や自然破壊によって絶滅の恐れがあるのであれば、それを救うことも必要だろうが、自然淘汰によって絶滅するものまで救う必要があるのか。

過去に何千、何万という動植物が絶滅している地球上で、本来であれば絶滅しなければならない種が、人工的に繁殖させられた場合、未来の生態系や自然はどうなってしまうのか。 だいたい人の手が加わった段階で、もはや自然とは呼べないのではないだろうか。

いろいろと思うことはあるが、自分が大病を患い、臓器の機能が著しく低下して命に関わるような場面に遭遇した場合、そして、その時に再生医療が発達し、一般的に受けられることが可能になっていたならば、本来は終わるはずの寿命を延ばしてもらうことを望むだろう。

結局、人間というのは弱さと利己主義が同居した、地球上で最も情けない生き物なのかも知れない。

マルチ世代マルチ世代

原油価格の高騰でガソリンは勿論のこと、石油製品であるプラスチックなどが値上がりしており、海産資源の高騰から竹輪やカマボコ、穀物価格の高騰からインスタントラーメンや、それに由来する菓子類まで値上がりは広がり、輸送費の値上がりで生鮮食品にまで価格転嫁が始まっている。

安易な値上げなど消費者が許す環境でもないので、各社とも内容量を減らすことによって事実上の値上げを実施しているが、夜食で食べることの多い竹輪が明らかに短くなったことに一抹の寂しさと怒りを覚えつつ、竹輪であれば目立たないように穴を大きくすれば良いのではないかなどと、くだらないことを考えながら生活に忍び寄るインフレに怯えたりしてるところだ。

日本もそろそろ健全なインフレにならなければいけないのではあるが、デジタル家電、機器の価格下落は止まらないようで、それはメーカー各社の予想を大きく裏切る年率 20%以上に達しており、プラズマや液晶テレビなど、あれよあれよいう間に 1インチ 1万円を切り、今となっては 1インチ 5千円以下、3千円以下で売られることも珍しくはなくなった。

メーカーは価格下落を防ごうと、画像の美しさや表示速度を競うだけではなく、様々な機能を盛り込んで付加価値をアピールするが、それら全ての機能を使いこなしている人など何人いるのか問いただしてみたい気分であり、使われもしない余計な機能を付加して高価格で売るくらいなら、シンプル操作のものを安く売ってくれというのが消費者の正直な気持だろう。

少子高齢化のおり、増え続けるシルバー世代向けに、機能を絞り込んだ簡単操作の家電や携帯電話などが続々と発売されているが、低付加価値なのに価格が変わらないのはどうしてなのか納得できない部分もあり、メーカーに小一時間くらい問い詰めたくなったりするが、まだ需要が大きくないため小ロット生産になってしまうのが原因なのだろうと勝手に解釈したりしている。

しかし、シルバー世代向けの製品が喜ばれるのも、あと数年間くらいのものではないかと想像され、あまり力を入れて開発しても採算が合わないという結果になりそうな気配を感じているのは自分だけだろうか。

現在は、アナログ機器を使っていた人が高齢化し、最先端の技術について行けなかったり、便利さを理解できなかったり、複雑な操作をすることができなかったりすることが簡単操作を望む声となっていると思われ、それ以外の世代は便利に使いこなしているはずであり、決して無駄な機能ではないはずだ。

インベーダーゲームが流行した 1979年頃にゲーム機の上に百円玉を山積みにしていた 20代の人は、そろそろ 50代に突入する頃であり、その後に次々と生み出されるデジタル機器に順応してきた世代であって、ある程度の複雑な操作を厭わない人たちである。

操作パネルやリモコンの文字が大きい方が嬉しいことに変わりはないだろうが、『簡単操作』 を前面に出したものなど 「馬鹿にするな!」 と言って見向きもしなくなる可能性も否定できず、シルバー世代向けの製品寿命はこの先 5-6年でしかないのかもしれない。

そうなれば高齢者向けにターゲットを絞った開発も必要なくなり、ますます差別化しづらい製品が世の中に氾濫し、結局は価格競争に陥る結果となってしまいそうな、メーカーにとっては嫌な流れが世の中に渦巻き、最終的には価格競争力のある韓国製とか中国製、ベトナム製などの製品に家電売場が占領されて日本メーカーが駆逐されてしまうのではないかという危機感がある。

自分に商品企画力などはないが、マルチ世代に受け入れられる商品を開発できるメーカーだけが、数十年後に生き残っていられるメーカーなのかも知れない。

政界再々編政界再々編

何ともまあ、拍子抜けして開いた口がふさがらないくらいの安倍首相辞任劇で、不運な人だと哀れみを感じつつも、世間で広く言われているように無責任の極みであり、あまりにもタイミングが悪いところなんぞは KY(空気読めない)とギャルばりに責められても返す言葉もないのではないかと思わざるを得ないような失態を世間にさらけ出してくれたものである。

参院選での敗北は、格差社会の広がりと地方の反乱が招いた結果だと分析されているが、安倍政権が誕生した当初は政策の中に 『弱者救済』 『社会的セーフティーネットの構築』 『再チャレンジ支援』 など、格差是正のスローガンも含まれていたはずだが、それがいつの間にか 『美しい国づくり』 『戦後レジームからの脱却』 のみが語られるようになってしまった。

それは安倍首相自身が望んだことなのか、マスコミが導いたものなのか分からないが、『美しい国』 と言われても具体的にはどういうことなのか理解できず、まさか日本中をお花畑で一杯にしましょうと言いたいのではないだろうことくらいは察することはできても、どういうプロセスを経て具体的に何をすれば美しい国になるかを一般人にも分かるように説明する能力に欠けていた。

『戦後レジームからの脱却』 などと言われても 「何それ?」 と思う人が圧倒的多数であろうから、戦争に負けてアメリカに占領された日本が、アメリカの事実上の 『植民地』 あるいは 『属国』 になってしまい、その植民地の運営を自民党が請け負ってきたが、終戦以来続いているそういう政治体制を見直さなければならない時が来ていると、分かりやすく伝えれば良いのである。

俗に言われる BRIC's (ブリックス)、ブラジル(Brazil)、ロシア(Russia)、インド(India)、中国(China)の成長が目ざましく、ユーロ圏のパワーが世界を圧倒し始めている今、いつまでもアメリカが超大国として君臨できる訳ではなく、日本もそろそろ一人歩きできるようにならなければ、かつて栄えたが今は遺跡しか残らない古代文明のように、都市部にビル群だけが残され、日本という国から人が消え去るかもしれない。

そうならないためには世界に通用する企業を育て、ロンドンやニューヨークのように世界に通用する東京 City を構築し、国際社会で戦える日本にしなければならず、多少の痛みは伴なっても引きかえしたり立ち止まったりしていると、日本という国そのものが吹き飛んでしまうということを分かりやすく説明すべきだった。

そして今、派閥政治の復活とか予算ばら撒き政治の復活などと危惧されているが、小泉元首相の破壊力は凄まじく、事実上の派閥などというのは存在価値を失い、単なる政策グループに過ぎず、昔のように数の論理がまかり通ることなどあり得ないので、その心配は単なる杞憂に終わることだろう。

ばら撒き政治と言われても、地方が疲弊しているのはまぎれもない事実である訳だから、日本も競争力が多少はついてきた現在、都市部に集中している益を少しずつ分配する時期になってきたのは確かだと思われ、以前のように公共事業で必要もない道路を作ったり、山を削ったりするのではなく、何らかのかたちで予算をまわす措置は必要だと思う。

そして、それらをバランス良くできるのは福田氏であろうと思われるので、今の流れのまま首相になってもらうのに反対ではなく、むしろ麻生氏の前に ”いっちょかみ” して頂くのは理想的なのではないかとさえ思えてくる。

なぜなら麻生氏の後に総裁として相応しい人物が自民党内に見当たらず、次の政権が短命に終わると仮定した場合、たとえ衆院選で勝てたとしても次の顔がなくなってしまう危険性が高く、自民党、いや、日本がリーダー不在となってしまうことになる。

いずれにせよ、麻生氏の後に総裁となる人物が見当たらないのであれば、そろそろ自民党による政治支配も終焉を迎えて民主党との二大政党制が確立され、その時こそ本当の意味で 『戦後レジームからの脱却』 となるという、皮肉な結果に終わることになるかも知れない。

栄枯盛衰栄枯盛衰

栄枯盛衰は世の習いと言うが、百貨店の大型統合が相次ぎ、勢力図を次々に塗り替えている。 村上ファンドがゴニョゴニョしたおかげで阪急と阪神、大丸と松坂屋、三越と伊勢丹などなど、これから先の展開が読めないくらいに賑やかだ。

そもそも、百貨店の売り上げが下降線をたどり、一向に回復の兆しが見えないことが大きな要因だが、どうして消費者の足が遠のいたのかといえば、代表格のイオンが進めているような郊外型のショッピングセンター、スーパーセンターの台頭があり、人の流れが街の中心に向わず、郊外に向うようになってしまったことが大きい。

そして、それを可能にしたのは日本が車社会となり、広い駐車場を確保している郊外店で買い物をする方が便利になったことと、一週間分とかのまとめ買いをして大型冷蔵庫に保存しておくというライフスタイルが定着したことが挙げられる。

今は繁栄を極める郊外店、衰退の一途をたどる百貨店という図式が明確となっており、百貨店業界が経営統合などで生き残りを模索する中、郊外店への投資額は膨らむばかりで今後一層の差が生じるのではないかと懸念する声が多く聞かれるが、果たして本当にそうなのだろうか。

自動車業界に目を向けるとトヨタが生産台数世界一になるのが確実視され、アメリカのみならず、世界中を席巻している日本の自動車産業ではあるが、足元の国内販売は縮小が進み、1970年代と同等の販売数量しか見込めなくなってしまった。 それにはもちろん人口減少による影響が少なくないが、現代人の車離れに歯止めがかからないのが最大の要因となっている。

日本経済がバブル景気で浮かれていた時代、車を持っていなければ彼女もできないと言われ、18歳になった若者が免許を取得して誰も彼もが親のスネをかじって車を購入し、湯水のようにガソリンを消費していたものだが、最近の若者の圧倒的多数が車に興味を示さない。

バブルが弾け、失われた 10年とも 15年とも言われる不況、デフレ時代に育った若者は倹約が身についており、アホみたいに金を使うデートとか、夜景を見にドライブするという習性も習慣もなく、二人で慎ましやかにデートを楽しむ術を知っている。

女性が車を持つ男性のみに興味を示す時代はとうの昔に過ぎ去り、今は電車に乗って映画を見に行ったり、テーマパークに行って遊ぶのも厭わない。 現代を生きる若者にとって、車は必須でもなければ重要なアイテムでもなくなってしまった。

そんな世代が家庭を持ち、週末に買い物に出かける際、郊外店に向うだろうか。 家の近所に大型スーパーがあれば出かけるだろうが、ちょっとオシャレな服を買うとき、たまには買い物をして外食でもしようかと考えたとき、車を持たない家族が向う先は公共の交通機関が発達した街の中心部になるのではないだろうか。

この厳しい状況を百貨店が乗り切って競争力を高め、我が世の春を謳歌している郊外店に消費者が足を向けなくなったとき、勢力図は再び大きく書き替えられ、それぞれの立場も大きく変わることだろう。

栄枯盛衰は世の習い。 そう言った昔の人は、すべてにおいて達観しているのだと心から感心してしまう今日この頃である。

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それは、あまりにも突然のできごとだった。 セイジの親は全国の隅々まで、どこに転勤になっても仕方のない仕事をしていたのは事実だが、その事実が伝えられ、一カ月後にはこの街、この学校、このクラスから去って行ってしまうなど、あまりにも時間がなさすぎる。

当時、学級には班というものがあり、自分とマサル、セイジ、ノブアキの男 4人、マミ、マミ、クミ、チズコの女 4人で構成されていた。 その中でセイジとチズコ関係がどこまで進んでいたか詳しくはないが、とりあえずは恋仲であろうことは周知の事実となっており、今後の二人の関係がどうなってしまうのかというのも最大の関心事となった。

自分やマサルとノブアキは、セイジと仲良くしていたものの、転校が決まってしまったのだから仕方がないと割り切って残り少なくなった日々を送っていたと思う。 何も特別なことをする訳でもなく、最後のその日まで普段と変わらぬ学校生活、いつもと同じ休み時間。 余す体力を発散させるように暴れ、声がかれるまで大騒ぎし、涙が出るほど笑っていた。

そしてセイジが登校する最後の日。 記憶が定かではないのだが、出発の時間の都合で何時間目かまでの授業は受けていたような気がする。 そして、次の授業が始まる頃にセイジは両親と共に学校を去って行く。 クラスでセイジを見送らないのかと担任に聞いたところ、「そうするつもりはない」 との回答。 しかし、友達の去りゆく姿を見ることが出来ないのは納得できなかった。

これまでの 『マサルノコト』 では、何度となく 「マサルは真面目だ」 と書いてきたし、事実、それは現在に至るまで変わらないので、持って生まれた気質なのだろう。 とことん反抗期だった自分は、寝坊して学校に遅刻するのも授業をサボるのも平気だったが、その超真面目で曲がったことが大嫌いなマサルは、この日、セイジを見送るために生まれて初めて授業をサボった。

ノブアキも女子 4人も授業を受けず、一緒の班だった全員が通用門でセイジと両親が出てくるのを待っていた。 普段はうるさいくらいに騒いでいる仲間なのに、みんな口数も少なく、どこかうつむき加減で最後の時を待つ。 チズコは何かに耐えるように一点を見つめて動かない。

少しして学校側に挨拶を済ませたセイジと両親が姿を現した。 寂しい気持を抑え、努めて明るくセイジと別れの挨拶を交わしたが、今となっては何を話したのか覚えていない。 セイジとチズコが話すとき、全員が気を利かせて少しその場を離れた。 何を話しているのか聞こえなかったが、チズコの目から涙があふれていたのだけは鮮明に記憶している。

ご両親は、教室に戻らないと先生に叱られると心配してくださったが、誰も戻る者はおらず、校門を出てセイジの姿が見えなくなるまで見送り、最後まで手を振った。

別れの余韻にひたっていると、「ちょっと来い」 という担任の声。 受け持った生徒を見送りに来ていたのだろう。 そのままゾロゾロと職員室の前まで連行され、全員が廊下に並ばされた。 そして、「正座して反省しろ」 との命令を受けて全員で正座し、一人ずつゲンコツをもらってしまったが、その手に力はなく、頭に触れる程度のものだった。

驚いて担任の顔を見ると、「困った奴らだ」 とでも言いたげに目は笑っていた。 近くにいながらセイジを最後まで見送らせてくれたこと、授業をサボったことを本気で叱らなかったことに関しては、今でも感謝しているし、その心意気が嬉しかった。

生まれて初めて授業をサボり、廊下を通る上級生や下級生、他のクラスの奴らにクスクス笑われながら正座を続けるマサルだったが、やったことを後悔はしていないようで、その横顔はどこか誇らしげでもあった。

マサルノコト

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過去に繰り返し書いているように、マサルは真面目を絵に描いたような男であり、真面目の前に ”クソ” がつくほどですらあった。 どちらかと言えば優等生組みの仲間で、マサルのほかに 『セイジ』 と 『ノブアキ』 という友人もいた。 マサルは生徒会の風紀委員長、セイジは生徒会副会長、ノブアキに関しては忘れてしまったが、何らかの役員をしていたはずだ。

当時は不良をしていた自分が優等生組みとも仲良くしていたのは、良く言えば一匹狼で特定の不良グループに所属せず、悪く言えば中途半端で優柔不断であるゆえに、一本芯の通ったバリバリの不良にもなれないねじ曲がった性格だったことに起因するが、マサルを介してセイジやノブアキとも親交を深めていた部分が大きい。

自分と比べると三人とも真面目な優等生ではあったが、そこはヤンチャ盛りの中学生、現代では信じられないほど厳しい内容の校則が生徒手帳に細かく記載されていたものの、それを一から十まで厳守している訳でもなく、教室や廊下を走り回ってみたり、相撲やプロレスの真似をして暴れたりして持て余すエネルギーを発散させていたものである。

中学二年当時の教室は校舎の一番端にあり、最もトイレが遠い場所でもあった。 そのトイレに行って用をたし、帰路はコースを変えて体育館を経由して教室に戻るまでの時間を競ったりもしていたが、風紀委員長という立場から廊下を走る訳にいかないマサルが時間の計測係りを務めていた。

教室の前の廊下に自分とセイジ、ノブアキの三人が並び、クラウチング・スタートの姿勢をとってマサルのゴーサインを待つ。 張り詰めた緊張感の中、マサルの掛け声と共に一斉に体が動く。 その体が伸びきった瞬間、ゴイィ~ンという奇妙な音と共にノブアキが廊下に倒れこんだ。 何事かと思ったら、少し高い位置に備え付けてあった消化器に頭を強打し、その場でのびてしまったのである。

それは幸いにも大怪我には至らず、ノブアキの頭に大きなタンコブができる程度で事は済んだのだが、ある日のこと、廊下でセイジとノブアキが相撲の真似をして遊んでいた際に事件は起こった。 自分は行司を務め、マサルは風紀委員長という立場から取り組みには参加できず、廊下にドッカリとあぐらをかいて審判役を務めていた。

「はっけよ~い、のこった!」 の合図で二人は綺麗な立会い。 両者技の応酬で一進一退の攻防が続く。 セイジがバランスを崩したところでノブアキが一気に攻めに出て上手投げをうった。 それを必至にこらえるセイジだったが、力尽きて後ろに倒れこむ。 その際、太く四角い柱に腰を強打してしまい、打ち所が悪かったのか 「あ゛~!」 という声にならない声とともに苦しみだした。

怪我の名前は忘れてしまったが、それはことのほか重症となってしまい、救急車で運ばれたセイジは入院生活を余儀なくされた。 ことの重大さに最初は青くなっていたノブアキとマサル、そして自分だったが、毎日のようにセイジが入院している病院に見舞いに行き、ゲラゲラと大声で笑っては看護婦さんに 「うるさーい!!」 と叱られたりしていた。

そんな交友関係は卒業するまで続くものだと思っていた。 いや、正確には先のことなど考えたこともなく、時はいつまでも続くような、この瞬間が過去になっていることなど気付かずに生活していた。 時が経過していることなど意識せずに毎日を過ごしていた中、突然、親の仕事の都合でセイジに転校の話が持ち上がった。 ・・・次週へ続く

マサルノコト

本義本義

どうも最近は 『叱る』 と 『怒る』 を混同している人が多いような気がする。 『叱る』 とは 『たしなめる』 とか 『とがめる』 の最上級形であり、相手のことを思えばこそ、言動について良くない点をつい強い口調で指摘したり、大声になってしまったりするのであって、そこには正しい方向に導こうとする善意だったり親心が含まれるものである。

翻って 『怒る』 とは、自分が不満であったり不快なことがあって我慢できず、腹を立てて相手に文句を言ったり大声で怒鳴ったりすることであり、そこには相手に対する不満とか不快感しか存在せず、立場や将来を思いやる感情など皆無である。

よく 「上司に怒られた」 というビジネスマンがいるが、上司は部下に対して社会人としての正しい行いを強い口調で言い聞かせているのであり、間違った言動を、つい強い口調で指摘しているのだから、「叱られた」 というのが正しい表現である。

上司の言葉に 『叱る』 という本義がなく、単に会社に対する自分の立場が不利になるとか、部下の話し方、行動が気に入らないというだけで相手を思いやる気持もなく、感情に任せてグチグチ言ったり怒鳴ったりしているのであれば、そういう時にこそ 「怒られた」 と使うべきなのだが、最近はそんな馬鹿な上司も多いので、「怒られた」 と表現するのが正しかったりするのかもしれない。

「お母さんに怒られた」 という子供がいるが、親は子に対して社会人としての正しい行いを強い口調で言い聞かせているのであり、間違った言動を、ついつい強い口調で指摘しているのだから、「叱られた」 というのが正しい表現である。

親の言葉に 『叱る』 という本義がなく、単に世間体を気にして自分が恥ずかしい思いをするからとか、自分がイライラしているからとか、洗濯をするのが面倒だから服を汚すなとか、夫が気に入らないから八つ当たりしているだけで、子を思いやる気持もなく、感情に任せてグチグチ言ったり怒鳴ったりしているのであれば、そういう時にこそ 「怒られた」 と使うべきなのだが、最近はそんな馬鹿な親も多いので、「怒られた」 と表現するのが正しかったりするのかもしれない。

『叱る』 と 『怒る』 を混同しているのは、それを受ける部下や子ではなく、それをする側の上司や親なのかもしれない。 部下や子はそれを敏感に感じ取り、これは自分のためを思っているのではなく、単に感情論でしかないと察しているのかも知れない。 そして、そういう事例が多いのであれば、優秀なビジネスマンも立派な子も育ち難くなっているのかもしれない。

先週の雑感の続きになるが、「育つのを邪魔しない」 程度に、人間として、社会人として間違った言動には躾 (しつけ) という本義を忘れずに厳しく叱って、正しい方向に導く毅然とした態度が上司や親に求められているのではないだろうか。

本末転倒本末転倒

ニート (NEET(若年無業者)) という言葉が 2004年に日本に上陸してから早や 3年、バブル崩壊の後遺症から抜け出したと言われる現在も、その数は 20万人程度しか減少しておらず、相変わらず社会問題として取り上げられることが多い。

最新の調査で若者がニート化する大きな要因として、親が 「自分の好きな道を進めば良い」 とか 「自分のことは自分で決めろ」 などと言い放ち、子供の将来に対して真剣に取組まないことが挙げられているが、それを見て 「何を甘ったれたことを言っているのか!」 と腹立たしくすら思った一方で、確かに子供の教育に対して自己矛盾を抱えている親が多いことに思いが巡る。

子が生まれ、幼い間は何をしても我が子は天才ではないかと喜ぶ親。 絵を描いていても親バカ丸出しで上手だと誉め、音楽に合わせて踊っていても、歌っていても、それは才能であると信じて目を細める。 子供は親に誉められるのが一番嬉しい訳であるから、ますます喜んで上達しようとする。

ところが、そんな微笑ましい光景も幼少期の終わりと共に姿を消していく。 早くは幼稚園の頃から、遅くても小学校の中学年にさしかかると絵を描いていても、歌っても踊っても、ましてや外を駆け回っていようものなら、「そんなことしていないで勉強しなさい」 と言われてしまう。

犯罪以外は何をしても悪いということはなく、むしろ人生に何らかの影響を与え、将来的にその才能が開花する可能性があるというのに、その芽は親の手によってことごとく摘み取られてしまう。 「あれをしてはいけない」 「これをしてはいけない」 と、子供を八方塞 (ふさがり) の状態に追い込んでおきながら、いざ人生を決める大学への進学とか就職の際になって 「何をしたいか自分で決めろ」 とは・・・。

才能とか可能性という翼をもがれ、「さあ、飛び立ちなさい」 と言われる子の気持はどうなのだろう。 泳ぎ方を教えられないまま、「大人になったのだから海に潜って自分で餌を探しなさい」 と突き放されたら、ペンギンだって生きて行けないだろうし、他の鳥だって巣立てない。

勉強という意味だけではなく、生き方に関する教育も含め、最近は何かが狂っているとしか思えないが、給食費を払わない親がいたり、ちょっとしたことで学校にクレームを入れるバカ親が子を育てているのだからそれも当然なのか。 中には 『義務教育』 という言葉の意味も分からず、一定水準の教育を受けさせるのは国や教師の義務だと思っているバカもいる。

確かにその一面もあることはあるが正確には、すべての親は子供に一定水準の教育を受けさせる義務を負っているのであり、そのためには給食費を払わなければならず、人の道から逸れたときは教師から殴られても仕方ないのである。

親ももう少し賢くなり、子供の可能性を信じてはいかがだろうか。

「人を育てる」 などおこがましい。
「育つのを邪魔しない」 というくらいの認識でちょうど良い。

by 岡田武史(元サッカー日本代表監督(岡ちゃん))