2月21日の 16時 33分、この 『雑感』 や 『独り言』 に何度か書いたことがあるアメリカに住んでいた義兄が他界した。 そう、『お買い物日記』 担当者の実兄である。 その三日間は本当に悲しく、心がつぶされそうだった。 最善を尽くしたつもりではいるが、後悔がないと言えば嘘になる。 事実を受け入れなければならないのは分かっていても、認めたくない自分がいる。
義兄が体の不調を訴えたのが昨年のクリスマス。 それから、たった 2カ月後のことである。 今年に入り、1月 10日にアメリカで診察、翌日には結果が出て、初期の肝硬変であろうと知らされた。 ところが、すでに腹水が出るほど病状は悪化しており、14日には腹水を抜き、さらに詳細な検査をすることに。 結果は 18日に知らされ、一刻も早く日本に帰るべきだという結論になった。
「一刻も早く・・・」 この一言が重く心にのしかかる。 正確なことを知らされてはいないが、一刻を争うとなれば重大なことである。 気は焦るものの、アメリカでの仕事、生活を清算して帰国するには、それ相応の時間が必要だ。 それでもアメリカで多くの人達の助けを借りて、何とか日本時間の 01/30(水) に成田空港に到着することができた。
実はアメリカでの検査結果を FAX で受信し、日本の医者と相談したところ肝硬変だけではなく、かなりガンが進行しているらしいことは分かっていた。 それでも何とか治療の見込みがないかを調べてもらうために日本で最先端だと言われる 『国立がんセンター』 で検査を受けることになった。 皆がそろって結果を聞きたいということになり、01/31(木)に東京行きを決める。
そして 02/01(金)、義兄の余命が 3カ月と告げられる。 久しぶりに会った義兄はすっかり痩せてしまっており、これが年末まで元気に仕事をしていた人だとは信じられないほどだ。 医者の言葉を借りると、手術をするのも不可能、放射線治療、投薬治療も不可能、このまま静かに余命を過ごすしか方法はないという、論理的かつ合理的でもあり、冷徹、非情でもある宣告だ。
そして、その宣告を本人である義兄も一緒に聞かされた。 これが自分なら泣き叫ぶか、やぶれかぶれに暴れだしそうなものだが、義兄はあくまでも冷静に聞き入れ、これからの過ごし方に関して質問までしている。 その宣告はあまりにも突然で、自分は感情をコントロールできず、ただショックを受けて悲しみすらわいてこない。
その日の夜から翌日、その次の日も 『お買い物日記』 担当者と話し合った。 義兄は長兄夫妻と北海道で過ごす。 何かあった時に飛んで行ける距離ではない。 そして、残された少ない日々、そばにいて、できることなら一緒に暮らしたいと 『お買い物日記』 担当者は言う。 自分はと言えばネット回線さえあれば、どこにいても仕事はできる。 02/03(日) の夜遅く、大阪を離れることを決めた。
それからのドタバタは二月の 『管理人の独り言』 に書いている通りで、普段の何倍も忙しい時間を過ごす中、義兄の具合が悪くなったとの知らせを受ける。 今暮らしているのは長兄、次兄、そして 『お買い物日記』 担当者が生まれ育った地元だが、転勤族である長兄の家で義兄である次兄は過ごしていた。 そのままそちらで過ごすか、地元に帰って過ごすかは義兄の判断に任せるつもりだった。
ところが病状の急変で、そのどちらでもない街の病院に入院することが決まった。 そこで急遽、病院近くのマンスリーマンションへの入居を契約し、そこを前線基地として生活することを決断。 大阪で出した引っ越し荷物は 21日に ”本拠” に届く手はずになっている。 その中から最低限、必要なものをマンスリーマンションに運び、病院での寝泊りをも覚悟して 02/19(火) に北海道に帰ってきた。
病院に着くと義兄はまた痩せてしまっており、東京で会ったときより一段と体力が落ちているようだ。 それでも笑顔を交えて会話し、我々が大阪から北海道に戻ったことを喜んでくれていた。 そして翌日、昨日の元気はなく、少し話はするものの、一日の多くを眠って過ごしている。 前日は少し調子が良かったので、その疲れが出ているのだろうと思っていた。
そして 21日、”本拠” に引っ越し荷物が到着する日だ。 マンスリーマンションから徒歩 5分の病院に行き、長兄夫妻と合流して荷受作業に向かう予定だった。 病室に入ると義兄はこちらに背を向けてベッドに横になっている。 回り込んで様子をうかがうと、吐血しているではないか。 慌てて看護士さんを呼び、処置をしてもらう。 その時はまだ、こちらの呼びかけに対して返事がある状態だった。
長兄夫妻が到着し、今日は引っ越し荷物を受け入れることができるか話し合う。 担当医とも相談した結果、延期した方が良いということになり、引っ越し屋さんにお願いして荷物をストップする。 病室では義兄が一時間おきくらいに吐血している。 呼びかけにも反応がなくなり、いわゆる昏睡状態になってしまった。 しかし、その際にもまだ、義兄は持ち直して一時的にではあっても退院できると信じていた。
ところが時間の経過とともに血圧が低下し、心拍数も低くなり、ついに 16時 33分、医師から臨終を告げられる。 体の不調を知らされたのも、余命を告げられたのも、そして他界してしまうのも、あまりにも突然すぎる。 今日、マンスリーマンションで生活環境を整え、今夜から泊り込みで看病するはずだった。 これから何日も一緒にいるはずだった。 いろんな話をするはずだった。
余命を告げられていた義兄は 「葬儀の必要はなし」 と言い残していた。 30年弱もアメリカで暮らしていた義兄が日本で葬儀をすると、様々な人が遠方から駆けつけることになり、迷惑をかけることになるので 「すべてが終わってから、一部の人だけに連絡してほしい」 と。 そして、長兄夫妻と 『お買い物日記』 担当者、義弟である自分の 4人だけで送ってくれたらそれで良いと。
本人の意思に従い、密葬よりも小さい 『家族葬』 ができる斎場で義兄を送った。 親戚縁者からの申し出も断り、本当に限られた身内だけで義兄に別れを告げた。
そして今、義兄は生まれ育った街に戻り、『お買い物日記』 担当者と自分と三人で静かに暮らしている。