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真性雑感 第十三版真性雑感 第十三版

真性雑感 ~目次~

例によってまた何も思いつかぬままこの文書を書き始めている。

数か月に一度あることだが、事前に書きたいと思っていることもなく、パソコンの前に座っても何も思いつかず、ただ時間だけが過ぎていく状態だ。

こんな時は何も考えずに書き始めると途中で何かを思いついたり話題が見つかったりするのだが、今日という今日は本当に頭のなかが真っ白で、今この時点でも何も思いついていない。

ならば時事ネタでも・・・と思ってみても、今週はずっとイスラム国による日本人の人質問題で明け暮れていたのでそれを避けて通る訳にはいかないだろう。

すでに殺害されてしまった湯川氏とそのご家族には心よりお悔やみ申し上げるが、心のどこかに釈然としないものがあるのも事実だ。

海外では湯川さんの死に対する扱いの小ささに対して疑問視する声が上がっているようだが、それは日本のマスコミの取材能力の低さもあり、単なる軍事オタクが民間軍事会社を設立し、武装の真似事をして SNSやブログで自慢し、非合法のルートで現地入りしたということしか伝わってこないからに違いない。

そんな情報しかなければ自業自得だと言われても仕方ないだろうし、身代金の価値はないと罵倒されるのも分かるような気がするが、実際には単なるオタクではなく彼が設立した民間軍事会社には複数の自民党関係者が顧問として名前を連ねているらしいし、その活動はシリアに医薬品を運んだり、その他の生活物資を運んでいたという。

そういう報道が一切なく、表面的なことしか伝えないものだから少なからずあるであろう哀悼の声もほとんど伝わってこない。

それとは対照的に後藤氏に対する報道は美談が多く、まだ生存が確認されていることもあって救出を願い、我がこととしてメッセージを発している。

しかし湯川氏を無視して良いものかという疑問と同じくらいの大きさで、そんな美談ばかり並べ立て、多くの日本人が発する後藤氏を助けたいという切実な思いを感動すら覚えるような伝え方ばかりして良いのかという疑問が頭をもたげる。

拉致された単なる軍事オタクを誰の許可も得ずに勝手に救出しに行って拘束されてしまった間抜けな奴とは誰も言わないし、そういう報道は一切ない。

もし湯浅氏がアホなことをして拉致された単なる軍事オタクであるならば、持っている情報を政府や国に提供せず、組織だって動いているテロリスト集団のイスラム国に単身で乗り込んで救出に向かった後藤氏だって単なる常識知らずな無鉄砲な奴ということになるだろう。

なのに、なぜ、どうして後藤氏だけが美談の主、ヒーローとして扱われ、湯川氏が無視され黙殺されなければならないのか。

勝手なことをした二人のために莫大な税金が使われているのは同じだろう。

この件があまりにも大騒ぎになっているため、菓子につまようじを混入させたり万引きしたりした動画を配信し、逃亡劇まで繰り広げた馬鹿の存在が完全に薄まってしまった。

本人は世間に騒がれること、注目されることを目的の一部としていたので、放置状態になってしまったのはとても残念なことだろうと思われるが、その彼がとても哀れなのは、外部と遮断され、自由の効かない身となった今、自分が世間から忘れ去られているという事実すら知らないであろうという点だ。

その直前に世間を賑わしていたのは 68歳の筧(かけひ)容疑者が犯人とされる青酸化合物による連続殺人事件だが、ここにきて青酸化合物はカプセルに入れて飲ませたなどという供述を始めたらしい。

あれだけマスコミに取り上げられ、各社からインタビューを受けていた筧容疑者も、今はすっかり影を潜め、新聞に数行、テレビニュースで数秒しか扱われていない事実を知らないだろう。

逆に世間の注目が自分から大きく離れたことを安堵しているのは、覚せい剤取締法違反罪などで有罪が確定した CHAGE and ASKAの飛鳥涼氏だと思われる。

ASKA氏に覚せい剤を売った暴力団員が逮捕されたりと、最近になっても多少の動きはあるものの、新聞、テレビの扱いは極めて小さい。

取り巻く報道関係者も激減したことだろうから、ゆっくり心と身体を休め、しっかりと薬抜きしたらどうだろう。

・・・などと、とりとめのないことをつらつらと書いてきたが、やはり何も思いつかない時は頭の中も整理できず、まとまりのないことを書きなぐってしまっただけのように思わないでもない。

が、それはいつものことだったりする。

真性雑感

嗚呼日本人 9嗚呼日本人 9

嗚呼日本人 ~目次~

いつから日本人は身勝手な人種になってしまったのだろう。

サッカーのサポーターが試合会場を後にする前にゴミ拾いをするとか、大地震、津波、原発事故の大災害で被災して家や財産を失っても略奪や暴動がおこらないなど、良い意味で世界を震撼させたりする国民性は誇れるものの、昔のゆずり合い精神は失われつつあるように思う。

赤ちゃんか老人かの天秤がそうだ。

何とか少子化を食い止める、待機児童解消、子育て支援、女性の働きやすい環境など次々に対策を打ち出しているものの少子化に歯止めがかからず日本の人口は減る一方であり、このままだと 2050年には総人口が約 9700万人に減少すると 国土交通省が発表している。

少子化が進めば高齢化が進むのは当たり前の話だ。

医療の高度化により日本人の平均寿命は倍ほどになったので、昔であればとっくに死んでいる年令になっても現役バリバリで働いたりしている。

そしてリタイアして年金受給者になっても簡単には死なないので国の支払額はかさむばかりとなっているし、死なないまでも若い頃より体のあちこちにガタがきているものだから病院通いが増え、医療福祉の額も膨大になったりしているのが現状だ。

もちろん、年金は必要なので安易に減額したりすべきではないとは思うが、医療費負担の増額をとんでもない話だと言って跳ねつけたりするのもどうかと思う。

日本に金がない、借金漬けであることは誰もが知っていることだ。

だれかが我慢しなければいけないのであれば、子どもを優先して高齢者は耐えるべきではないだろうか。

高齢者の負担額を一般と同様に 3割にすることで、その分を減税するとか子育て支援に充てるのが国益にかなうと思う。

こんなことを言えばお年寄りに叱られるかもしれないが、自分もすでに折り返し点を過ぎて遠くない将来には年金受給者となる身だ。

そうなったら色々と気に入らないことも腹の立つこともあろうかと思うが、日本の将来のため、子どもたちの未来のために我慢せよと言われれば、おのれの意見は引っ込めて申し入れを甘受することだろう。

お金があるに越したことはないし、生活が楽なのに越したこともないのは分かっているが、先のことを思えば自分など死なない程度に食べられたらそれで良い。

我を張り、利己主義的に振る舞うのは美しくないと思っている。

強欲とは無縁の無欲でありたい。

根本としては、国の無策、政治の無策が引き起こしたことであるから
「責任者でてこ~いっ!」
と声を大にして言いたくもなるだろう。

しかし、残念ながら年金運用で投資に失敗しても、事業の失敗で年金保険料 1,953億円を投じたグリーンピアを総額わずか約48億円で売却する結果になっても誰一人として責任を取らないのが官僚や政治家であるし、それを問題視して最後まで責任追及しない国民性である以上は、みんなで頑張って借金を返済するしかないのだろう。

だとすれば、景気を良くして歳入を増やす以外に国民ができること、それすなわち節約しかないのである。

景気悪化の要因となる恐れがあるため家計の引き締め、節約はよろしくないので、ここはひとつ、最も財政健全化の近道であると思われる医療費削減をみんなで取り組むのがよろしいのではないだろうか。

あっちが痛いとかこっちが痛いなどと言って、病院に治療に行っているのか知人と無駄話をしに遊びに行っているのか分からないようなことは控える必要があるだろう。

そして、そもそもあちこちが痛くならないように予防し、健康管理に努めることこそが医療費削減、国庫負担の軽減、財政健全化への最短ルートだと思われる。

これだけ健康に関心があり、朝から晩までテレビでは健康食品や栄養補助食品の CMが流れ、通販番組ばかり放送されている現在においては、
「そんなことは言われんでも分かってるっ!」
と文句を言われそうな気がしないでもないが・・・。

とにかく、昔と違って現代の日本人は身勝手な人種になってしまったと思う。

そしてやはり、誰に叱られようと、老人よりも子どもを優先すべきだと思えてならない。

嗚呼日本人

自分解体新書 - 20 -自分解体新書 - 20 -

自分解体新書 ~目次~

■ 毛髪

とうとう毛が薄くなってきたように思う。

白髪化は確実に進んでいると自覚しているが、最近は本数も減少傾向にあるようだ。

黒髪より白髪のほうが光の加減で地肌が見えやすいのは当然だが、それほど薄くなっていないと思っていた髪の黒い部分まで地肌が目立つようになってきているのである。

それほど抜け毛が多くなったわけでもないのに本数が減るということは、新しく生えてくる毛が少なくなったということであり、これは確実に老化現象の一つであろう。

昨年末、となりの店髪を切りに行った際、散髪後のシャンプーをしてから頭を見て驚いた。

髪が短くなったこともあり、余計に頭皮が目立つようになっているではないか。

以前から頭髪が薄くなった場合には、9:1に分けるとか、バーコード頭にするなどの無駄な抵抗はせず、思い切って短髪にしてしまうか剃ってしまおうと心に決めていたのでお兄ちゃんにその旨を伝えたのだが、まだ大丈夫だという答えだったのでしばらくは髪型を変えずにいこうと思ってはいる。

しかし、それほど遠くない将来、坊主頭に近いくらいの短髪になる日が確実に来ることだろう。

■ まつ毛 その4

世間的には珍しくても、もう自分の体にとっては珍しいことではなくなったので独り言にも書いていないのだが、数日前から左目に白いまつ毛が生えている。

以前は数年に 1度、近年は春と秋に 1本ずつの年に 2度のペースで生えていたのだが、昨年からは年に数本のペースになり、今年はもう 1月から生えてきてしまった。

この調子だと今年はどれほどのペースで白いまつ毛を目にすることだろう。

■ 目 その4

視力低下も確実に進んでいる。

メガネを購入したのは 2009年11月のことなので、すでに 5年以上が経過しており、その間に徐々に視力が低下したのだろうが、最近はメガネをしていてもテレビの細かい部分が見づらくなってきた。

海外ドラマや映画の字幕程度の大きさであれば不自由なく読めるのだが、プロ野球中継で画面端に表示されるスコアはちょっと辛い。

パソコンでの作業も細かなことをする時は、知らず知らずのうちに顔を画面に近づけているので度が合わなくなってきているのだろう。

そろそろ新しいメガネを作るべきか、まだひどく不便な思いはしていないし、これからも視力低下は進むものと思われるので、もう少し度が合わなくなるまで使い続けるべきか判断が難しいところである。

■ 膀胱 その2

2年前にも書いたが、夜中や朝方に目が覚めてトイレにいく状況は相変わらずだ。

朝までぐっすり眠りたいと思って医師に相談したが、いわゆる加齢性の症状とは異なるようで、もしそれであれば尿意を催してトイレに行ってもそれほどの量は出ないのだそうだが、自分の場合は尿意に比例する量が出る。

つまり、それだけ膀胱に溜まっているので尿意がして当然であり、それは加齢性の頻尿(ひんにょう)とは違うらしい。

では、就寝前に排尿しているにも関わらず短ければ就寝後 2時間程度で膀胱が一杯になってしまうのはなぜなのかと言えば、医師の指示で 1日に 2リットル以上の水分を補給するように心がけており、それを夜まで続けているからだろう。

夜中のトイレを回避するためには夜になる前、夕方までに可能であれば 2リットル、せめて 1.8リットルくらいは摂取を完了しておかなければならないのではないか。

それはそれで辛いものがあるが、試してみる価値はあるかもしれない。

■ 足裏 その5

何年も右足裏の痛みは続いていたのだが、それが徐々に軽減されて気がつけば痛みが消えていた。

つい先日、室内運動の最中に 『お買い物日記』 担当者に足裏は痛くないのかと聞かれ、はじめて長年続いていた痛みが消え去っていることに気付いたのである。

痛みが強くて病院に行って診てもらったのが 2012年のことなので3年弱も苦しめられたわけだが、痛みの原因も不明なまま、治療もしないまま症状はなくなった。

痛みが消えたのは喜ばしいことだが、原因が不明なだけに何をしてしまったら再発するのかも分からず、気をつけようがないのが困りものである。

自分解体新書

限度限度

イスラム過激派のテロで 17人の犠牲者を出したフランスでの事件は、今日になって犯人の射殺という結末で終わった。

物事には限度というものがある。

テロなどの暴力で解決するはずもなく、それは決して許されることではないが、フランスの風刺週刊紙シャルリエブドが掲載したイスラム教預言者ムハンマドの風刺画も限度を超えていたのではないだろうか。

確かに表現の自由は守る価値のある権利ではあるが、そもそも自由というのは何をやっても許されるものではなく、自由であればあるほど一定の配慮や自制が必要になると考える。

自由だからといって人を殺したり傷つけたりしてはいけないし、それは体への物理的な傷だけではなく心や精神への論理的な傷も同じことだ。

イスラム教徒にとってムハンマドはイスラム教の開祖、つまりムハンマドによってイスラム教が始まったのだから神に最も近い人物、ともすれば神そのものである訳だから、それを笑い者にすることを一部の信者は許せなかったのだろう。

テロ行為にはおよばないまでも、キリスト教徒はイエスが笑い者にされたら喜ばしく思わないと思われ、仏教徒であれ神徒であれ大差はなく、仏様や神様を馬鹿にされたら良い気はしないだろうし、「このバチあたりがっ!」 とムキになって怒る人もいるに違いない。

本気で怒る人や傷つく人がいると分かっていながら風刺画を掲載するのは、表現の自由を通り越して無神経であってデリカシーに欠けると思うし、限度を越えた行為だと思う。

だからと言ってテロ行為に走るのは、そちらもまた限度を越えているが。

類似したこととしてソニー・ピクチャーズ制作の北朝鮮をジョークの対象とした映画 『ザ・インタビュー(The Interview)』 の一件がある。

それは北朝鮮の最高指導者、金正恩(キム・ジョンウン)の暗殺を題材とした映画で、ネタバレになってしまうが金正恩の暗殺が成功し、北朝鮮が民主化されるという内容だ。

北朝鮮国民にとって金正恩は神に近い存在であるため、アメリカのオバマ大統領や日本の安倍首相の暗殺などという次元を越えており、日本においては終戦以前の天皇、16世紀から17世紀のヨーロッパにおける絶対王政時の国王の暗殺を描いたようなもので許容範囲を越えているものと思われる。

いくら表現の自由があろうと相手の感情を考慮した場合、いくらなんでも実名を挙げて笑い者にしたり殺したりするのは限度を越えているのではないかと思えてしまう。

だれでも容易に想像がつくにせよ、国名や個人名を架空のものにするなどの配慮があっても良さそうなものだと思うし、暗殺が成功するのではなく最高指導者が改心して民主化が実現するという終わりではいけなかったのか。

本気で怒る人や悲しみを覚える人がいると分かっていながらパロってしまうのは、やはり表現の自由を通り越した無神経でデリカシーに欠ける限度を越えた行為だと思える。

だからと言ってサイバーテロという行為に及ぶのも限度を越えているが。

そしてマクドナルドだ。

昔は食べ物に異物が混入するなど日常茶飯事のことだったが、現代人は超衛生的、超最高品質という超過保護な生活に慣れ親しんでいるため、少しのミスも許してくれない。

バリバリ昭和生まれのオッサンは、買ってきた食べ物に髪の毛の 1本や 2本が入っていようと取り除いて食べてしまうだろうし、気持ちの良いものではないと思いつつも購入店や製造元にまで文句をいうつもりはないし、それを撮影してネットで公開しようとも思わないだろう。

したがって、ビニール片やプラスチック片が出てきたくらいで大騒ぎするのは限度を越えていると思っていたのだが、怪我をする危険性が高いガラス片が出てきたり、歯が出てきたりと全国津々浦々のマクドナルドで異物混入が相次ぐ事態に直面しては、やはりマクドナルド側に限度を越えた品質低下と組織の硬直化があるのだろうと思える。

バリバリ昭和生まれのオッサンも、肉の中から歯が出てくれば食欲が失せるのを通り越して胃の内容物を吐き出してしまうだろうし、二度とマクドナルドには行きたくなくなるに違いない。

時代の寵児ともてはやされた原田社長だったが、在任当時からその手腕や組織運営法には疑問をいだいており、『お買い物日記』 担当者と二人で何かが気に入らない、彼のやり方の何かがおかしいと話していたが、やはりと言うべきかコンピュータ業界そのままの経営手法が飲食業、接客業に通用せず、限度を越えたコストカットや効率化は品質低下と店員への過剰負担を招き、トップダウン型の指揮系統は現場の声を上層部に届きにくくさせてしまったようだ。

苦境から経営を V字回復させたという賛辞を受け、名経営者としてベネッセに移った原田氏だが、マクドナルドに残した負の遺産はあまりにも大きすぎる。

今、ネット上ではマクドナルドがガラガラに空きすぎているとか、人いなさすぎなどという書き込みが目立つが、昨年の鶏肉問題の傷も癒えぬまま新たな大怪我を負ってしまった組織が復活するのはいつのことになるだろう。

原田氏はコストカットの一環としてマクドナルドの直営店を減らし、30%だったフランチャイズ店を 60%までにしたが、この苦境を一緒に乗り切ってくれるオーナーはどれだけいるのか。

それらすべてのことが原田改革のマイナス面として表面化しているような気がする。

しかし、それにしてもである。

今回の件に関するマスコミの騒ぎ方も限度を越えているような気がするが・・・。

最近の若い者は 5最近の若い者は 5

最近の若い者は ~目次~

新年もまだ明けたばかりで今日はまだ三箇日の最中であるこの時期にボヤきたくはないが、年末年始のテレビを見ていて腹に据えかねるというか、呆れて物が言えないというか、オッサンには信じられない種族が世に繁殖している事実に驚き、新年早々だというのに腰を抜かしてそのままギックリ腰になってしまうのではないかと思ってしまった。

もちろん昔と今は時代も背景も子育ても親子関係も何もかもが違っていることは理解しているが、親が子を思う気持ち、子が親に向ける感情にそれほど大きな違いがあるとは思っていなかったのだが、どうやら昔と今では雲泥の差があるらしい。

自分が子供の頃、思春期の頃は親が鬱陶しくて仕方がなかった。

それは男女に大きな差はなく、男子も女子もそれぞれに親を疎ましく思っていたもので、母親と何日も口を利いていない女子も相当数を占めていたものだが、今の母娘は実に仲が良い。

休日に母親と買い物に行くのはもちろん、食べ物の違いなのか美容技術なのか分からないが昔の親より遥かに若く見える母親と着る服を共有したり、同じ美容室に行ったりしているという。

その程度であれば少数派ではあるものの昔の女子にもいることはいたが、父親と仲が良い女子など皆無に近く、父親は家にいないほうが良いとか、ウザいとか、臭いとか、死ねとか言っており、汚いから父親の下着と自分の下着を一緒に洗濯しないでほしいとまで言っていたものだ。

ところが、ところがである。

最近の女子中学生や女子高生にインタビューする番組を見ていると、父親をどう思うか聞かれて 「好きですよ」 とか 「仲良いですよ」 と答える子がとても多いのに驚かされた。

父親と買い物に行ったり外食したりするのも嫌々ではなく嬉々として行っているようだし、AKB48などのアイドル好きの父親を持つ娘は嫉妬したりしている。

時代は変わるものではあるが、いつの間に娘と親は、まして娘と父親はこれほど理解し合い、仲が良くなったのか不思議でならない。

年頃の娘を持つ親といえば、親を、特に父親を毛嫌いしていた世代であり、自分たちがそうだったのに、なぜ子供を手なずけることができるのか。

いや、自分たちがそうだったからこそ親の欠点、弱点を知っており、それを抑えて娘世代にすり寄って嫌われないよう細心の注意を払っているのだろう。

つまり、親が厳格なものでなくなり、子どもたちに嫌われないよう子どもたちに合わせているというのが実情であって、子が嫌がるようなことを言わず、鬱陶しいと思われるようなしつけも注意もしなくなってしまったに違いない。

子どもと仲良く過ごすのは良いが、それに重点を置くあまり、まともなしつけも教育もできていないのであれば日本の未来はどうなってしまうのか心配だ。

そして何より正月早々にもかかわらず怒りを通り越して気持ち悪さや不気味さを感じているのは、男子と母親の関係についてである。

それこそ今から25年くらい前、バブルの絶頂期から崩壊にかけての 1980年代後半から 90年の前半はチャラチャラした男が多かったし、親から買い与えられた車を乗り回してはいたものの、今ほど母親と仲良くなどしていなかった。

むしろ母親と仲が良かったり母親のことを気にしたり言いつけを守ったりしているような男はマザコンの烙印を押され、女性から相手にされないどころか同性の友だちからも馬鹿にされたりしていたものである。

ところが今は母親と仲が良い男性はきっと女性にも優しいに違いないと思われているのだそうで、むしろそういう男性を好む女性が増えているというのだから驚きだ。

テレビ収録に来ていた男性が誇らしげに母親との仲を自慢しているのを見て、オッサンの背中には 283匹分ほどの虫ずが走り、頭のなかで 「馬鹿じゃないのか」 などと毒づいたりしていたのだが、それを容認する女性の発言を聞いて腰が砕けてしまったのは言うまでもない。

以前から大学受験に親と一緒に来る子どもや、大学の案内や説明会に父母同伴で来る子どもを見て 「情けない」 と文句を言い、最近の大学には参観日があると聞いてアゴが床まで落ちてしまうほど開いた口がふさがらなかったりしていたが、数日前の驚きはそれどころではなかった。

そのスタジオに来ていた 19歳の男性は、「今でも母親と風呂に入る」 などとぬかしてオッサンの心を凍りつかせてくれたが、それを隣で聞いていた同世代の女性がさして驚いていなかった事実を目にするに至っては、つくづく隔世の感を禁じ得なかったのである。

確かに親不孝ばかりしている訳にもいかないので母親を大切にするのは良いことかもしれないが、親を大切にするのと親離れできていないのは別次元の話であって、母親と混浴する成人直前の男がまともだとは思えないのはオッサンの頭が硬いのが原因ではないだろう。

そして先の話と同様に、こういう子どもを育てたのは男を選ぶ際にマザコンは嫌だ、気持ち悪いと言っていた世代だというのが何とも不思議だ。

子どもに嫌われないよう、ろくに教育しない親に育てられ、選挙権を持つようになっても母親と風呂に入っているような子どもたちに日本の将来を託さなければいけないと思うとあまりに悲しく、涙でにじんだ目では、ますます日本の将来が見えなくなってしまう。

戦うことを忘れ、自分の身も守れない種族となってしまった日本人が、経済力も国際競争力も失い、二流国、三流国へと転落し、世界から見て貧しい国になる前に自分の寿命が尽きるであろうことがせめてもの救いか。

最近の若い者は

2014年の終わりに2014年の終わりに

今年も残すところ明日からの 4日間だけとなってしまった。

昨年の雑感にも書いたホテルでの昼食バイキングにはまだ行けていない。

今年も何度かはホテルの Webページを調べて週替りバイキングの内容をチェックしたりしていたのだが、いつでも行けるという近さと気軽さが逆に災いしてグズグズしているうちに料金が値上がりし、週替りだったメニューも 2週間ごとになってしまった。

そもそも最近は意図して食事の量を減らしており、バイキング形式の食事をしてもたくさんは食べられないので元を取るつもりで挑むことはできない。

ずっと腹十二分目になるほど食べていたのだが、年齢とともに基礎代謝も落ちており、運動量も減ってきているのに大量摂取している場合ではないということで量を少しずつ減らしたのである。

今となっては外食をしても、出される量が多くて食べきれないことも多くなってきたが、不思議なことに麺類だけは別腹で、月イチのラーメン屋さんではラーメンの他にミニ炒飯も食べてしまう。

家で休日に麺類を食べるときも 『お買い物日記』 担当者と二人で 3-4人前の麺を食べることも珍しくない。

それでも普段の昼、晩御飯は少しずつ量を減らして今では若いころの半分程度しか食べていないものと思われる。

最初の頃は量が少なくて食べた気がしなかったり少しさみしい気がしていたが、最近はそれに慣れて十分に空腹は満たされるようになった。

ただし、次の食事の前には腹ペコ状態になっており、「ガルルル」 と野生に返ってしまいそうなほどなのは相変わらずだが。

それでも使う予定のないエネルギーを必要以上に摂取することはないし、それでやせ細ってしまった訳でもなく、むしろ体重は増加傾向にあるので量的にはこんなものなんだろうと思う。

この歳になって必要以上に摂取すれば、いわゆる生活習慣病のリスクが高まってしまうだろうし、そうなれば逆に好きなものも食べられなくなってしまうであろうから、少し量を減らしてでも好きなものを美味しく食べるのが良いだろう。

とくに健康や体型を気にして食事を控えている訳ではないが、『お買い物日記』 担当者が大病をし、自分も心臓に難を抱えているので病気のリスクはヘッジしたいと考え、毎年の健康診断、目や歯の検診は欠かしたことがない。

昨年(2013)末の健康診断で血便が認められ、精密検査を受けるように勧告されてしまった。

ネットで調べると血液量は最低ランクで大腸がんのリスクは極めて少ないとのことで、若いころであれば会社の健康診断で問題があったとしても放っておいた自分でもあることだし、リスクも少ないとなれば精密検査の勧告など無視していただろうが、この歳になり持病を抱える身としては多少の不安が胸をよぎる。

おまけに 『お買い物日記』 担当者の病気の一件から、どんな種類のがんであれ早期発見、早期治療が最も重要であり、それ以外に最善の手はないと思い知らされているので、なおさら精密検査の重要性を認識せざるを得ない。

そんなこんなで翌月の通院の際に担当医に相談し、今年(2014)の 2月に大腸がん検査をする運びとなったのである。

結果は複数のポリープがあるもののがん化のリスクは高くなく、2年に一度程度の検査を受けていれば問題はないとのことだった。

そうやって検査によって白黒ハッキリさせておけば余計な心配もせず、不安を抱えることもなく生活を送れるので精神衛生上もよろしいのではないかと思う。

そして今年の健康診断、今度は 『お買い物日記』 担当者の胃にポリープの疑いが認められたので、それもさっさと精密検査を受けることにして健康診断の結果を受け取った翌月には胃カメラを飲むことにした。

その結果も問題なしで、がん化どころかポリープそのものがなかったのである。

バリウム検査の結果を見た 2人の医師の 1人はポリープではないだろうとの所見だったものの、もう 1人の医師の念のためという申し出によって精密検査の勧告となったらしい。

その検査には決して安くはない費用が発生し、『お買い物日記』 担当者も少なからず不安だっただろうが、我が家としては念のためと言ってくれた医師を評価したいと思う。

この手の病気で一番恐ろしいのは、たいしたことはないだろう、きっと大丈夫だろうと策を講じず、病気が進行、手遅れになってしまうことだ。

それを避けるには、どんな些細な事でも医師に気になる点があるのであれば患者、被検者に伝えるべきだと思うし、勧告を受けたなら素直に従って精密検査を受けることが重要だろう。

今年は二人揃って精密検査を受けることになってしまったが、問題は見つからなかったので安心して新年を迎えることができる。

上を見ればきりがないが、来年も大きな病気をせず、少しずつでも好きなものを美味しく食べられることをささやかに願いつつ今年の雑感を終わろうと思う。

健全な精神は健全な肉体に健全な精神は健全な肉体に

結局 STAP細胞は存在しなかったのだろう。

過去の雑感でも折にふれて取り上げてきたが、そのたびに存在するのではないか、いや、存在してほしいと思っていた自分が単なるお人好しでしかなかったことが証明されてしまった訳だ。

しかし、小保方氏を信じるとかそういう意味ではなく、有りもせず、検証すればすぐに発覚するような虚偽であり不正であり無意味な論文を、なぜ、どうして全世界に向けて発表しなければならなかったのか今も理解できない。

山中氏が率いる京都大学の研究グループによって確立された iPS細胞よりも作製法が格段に容易であることから、再生医療等への貢献の可能性が大きいと期待されていただけに実に残念なことである。

なぜ論文を書いた本人が実験を行っても細胞が出来ないのに世界的な科学雑誌に掲載されることになったのかという大きな疑問が残ったままなので、理研にはトカゲの尻尾切りで済ますのではなく真相を解明していただきたいものだ。

STAP細胞の存在は証明できなかったが、ES細胞や iPS細胞によって様々な臓器を作り出すことができるようになった今、科学はもっと先を見据え、それに期待する投資やビジネスも本格的に始まっている。

海外では死亡後のごく短い時間、数分から 30分以内に死体を冷凍保存するビジネスがある。

何年後、何十年後かに科学技術、医療技術が発達し、現在では治せない病気であっても完治できる世の中になっているかもしれないし、クローン技術が発達して自分の細胞から肉体を再生することが可能になって脳だけを戻せば新しい体を手に入れることだってできるようになっているかも知れない。

それに期待して冷凍されることを望む人が少なからずいるということだ。

それを聞いた時に科学知識どころか普通の勉強すら苦手で無知な自分は、実に頭の悪いこと、妙なことを考えてしまった。

確かに自分の細胞から再生した体は遺伝子学的にも本人のものであるし、生物学的にも医療技術的にも問題なく、拒否反応も示さずに脳は体をコントロールできるだろう。

が、しかしである。

人間に宿っている精神とか心というのは、本当にすべて脳の中にあるのだろうか。

再生された新しい肉体は、あくまでも人工的に作られたものであり、0歳児から何年も何十年もかけて育ってきた体ではないので細胞は自分のものでも感覚は絶対的に異なるに違いない。

例えば以前の肉体でスポーツ選手だった場合、子供の頃から運動が得意でそれなりの筋肉の使い方をし、それなりに筋肉が発達しているはずで、特定のスポーツを選んだ場合はそれなりの感覚が研ぎ澄まされ、それなりの筋肉が強化されたはずだ。

ところが新しい肉体にはそれがない。

心も磨くとされる武道、剣道や柔道、空手などの有段者であった場合、それらの鍛錬を行っていない肉体に脳が戻された場合でも磨かれた心はそのままなのだろうか。

体や顔にコンプレックスを感じていた人が再生された綺麗な体を手にした場合、性格まで変わってしまうことは十分に考えられる。

とても地味で物静かだった人が、とても派手でにぎやかな人格に変わるかもしれない。

そう考えると、やはり不思議に思う。

性格や精神、心まですべて脳の中にあるのだろうか・・・。

また、いくら肉体を再生し、新しい体を手に入れたとしても脳細胞は実年齢のままだと思われるので、若々しい肉体に老人の脳細胞というアンバランスな状態になってしまい、物忘れが多くて覚えの悪い見かけだけが若い変な人になってしまうことだろう。

健全な精神は健全な肉体に宿るというが、再生された肉体は本当に健全なのか。

そもそもこの 『健全な精神は健全な肉体に宿る』 というのはローマの詩人ユベナリスの 『風刺詩集』 の一部が誤用されているらしい。

本来は幸福を得るため多くの人が神に祈るであろう富・地位・才能・栄光・長寿・美貌などは、いずれも身の破滅に繋がるので、もし祈るとすれば 「健やかな身体に健やかな魂が願われるべきである」 と語っているとのことだ(ウィキペディアより)。

だとすれば長寿や美貌を望んで肉体を再生すべきではないのかも知れない。

話を冒頭に戻せば、小保方氏も多くの凡人と同じに富や地位、才能、栄光を祈ってしまい、身の破滅に至ったということなのだろうか。

近況報告近況報告

■ 隣家

我が家の右隣の住人は以前の雑感に書いた通りの謎多き住人で、引っ越してきて 9カ月が経過したが今もまだ会話をしたこともなければ挨拶をしたこともない。

老夫婦、娘、その娘の高校生らしき息子、犬が一匹という家族構成だと思っていたのだが、どうやら犬は二匹、それに加えて黒猫が一匹、そして、中学生の娘がいるのを最近になって初めて見て驚いた。

二匹の犬はしつけがなっていなく鳴き声がうるさい。

息子の態度もあまりよろしくなく、たまたま出くわした際にもじっとこちらを睨んだまま歩き去って行くのを見て挨拶しないならこちらを見なければ良いだろうと腹が立ってしまったので、今度会った際にも睨んでくるようだったら文句を言ってやろうと思う。

娘の態度も親が親なら・・・というやつで、はっきりとこちらを見ているのに挨拶するわけでもなく、完全に無視されてしまったのであった。

それでも少しは気にしているのか、2-3日前のゴミ収集日の朝、散歩のために家を出るとゴミを捨てている母親の姿があり、こちらの気配に気づいて目が合うと少しだけ頭を下げて声なき挨拶をしてきた。

一応はこちらも頭を下げておいたが、それ以上の付き合いへの発展は望んでいない。

■ ついに積雪

昨日の午後からまとまった雪が降り、ついに積もってしまったので夕方になって今季初の除雪をすることになった。

今年は雪が遅く、ずいぶん長く自転車に乗ったものだと思っていたのだが、去年の初除雪は 12/14だったので大差ない訳だ。

昨日の散髪の際に、お兄ちゃんと今年は根雪になるのが遅いと話して互いに深くうなずき合っていたのだが、それは二人して記憶が曖昧であるがゆえに成り立つ会話だったらしい。

昨日の雪は軽く、除雪にそれ程の時間を要さなかったが、それでも久々のことだったので体力が消耗して普段は使わない筋肉に疲労感を覚えてしまった。

今日は多少の疲労感が残る程度だったが、『お買い物日記』 担当者は体が痛いらしい。

■ 犬

散歩コースにあるお宅で飼われている犬は、とても綺麗な顔立ちだったので美形な犬と呼んでいたが、最近はめっきり年老いてかつての美しさをすっかり失ってしまっている。

くりっとした綺麗な目も垂れ下がり、フワフワでツヤツヤしていた毛もバサバサになってしまった。

川向うで暮らす犬の姿が最近になって見えなくなった。

犬小屋も、その周りも柵も手直ししてもらったばかりだというのに病気にでもなってしまったのか、最近は数カ月という単位で会うことができずにいる。

単なる病気であって、また元気な姿を見せてくれると良いのだが。

■ リュウくんのいない朝

黒柴リュウくんが遠くに引っ越してしまって三カ月半、寂しさは薄れたものの、まだ例の交差点を通ると可愛らしい姿を思い出す。

似たような大きさの黒柴を見るたびに、ちょっと太り気味で食いしん坊だったリュウくんのことを思い出し、少しばかりの切なさと懐かしさを覚える。

リュウくん、お母さんと一緒に交差点に立っていたセキさんというご婦人は、今も一人で子どもたちの通学を見守っているが、リュウくんがいないと会話も弾まない。

最近は挨拶だけして通り過ぎることも多いが、たまにリュウくんの近況を教えてもらえるので、なるべく疎遠にならないように努めているところだ。

■ 相次ぐ工事

この街では市内のあちらこちらで工事が行われている。

年度末が近い 2月とか 3月に工事が増えるのは日本各地で見られる光景だが、夏の終わり頃から公園内の遊歩道の舗装工事、電気工事、国道の工事、一般道の工事、歩道橋の架け替え工事などが絶え間なく続いているのはどういう訳か。

今は東北の復興需要などから人手不足で人件費、資材費とも高く、公共工事の入札が不調に終わることも珍しくない中、これほどの工事が行われているということは落札価格も高く、それだけ多くの税金が使われているものと思われる。

市の公共財産だった施設の相次ぐ老朽化で建て替え、解体工事が行われているのは納得できるものだったし、老朽化が進んで渡るのに少し不安を覚えないでもなかったので歩道橋の架け替えも理解できるが、それ以外の工事は必要なものなのか。

子どもたちの通学路である道路に歩道を作る工事にもある程度の納得感はあるが、人しか通らない道である公園内の遊歩道を舗装するのは本当に必要なのか。

公園内の電気工事とは、何を目的に何をどうするのかも不明だ。

様々な施設の建て替えに便乗し、ついでに予算を組んで業者が潤っているようにしか見えないような工事などやめていただきたいものである。

真性雑感 第十二版真性雑感 第十二版

真性雑感 ~目次~

■ マスコミ

安部首相が推進する経済対策であるアベノミクス、日銀の黒田総裁が実施した異次元緩和である黒田バズーカ、その両者によってもたらされた株価上昇のアベクロ相場など、これほど経済用語が世間を賑わせた年もめずらしい。

景気とは文字通り 『気』 が重要なのであり、なんとなく上向き思考になるのが好景気、下向き、内向きになるのが不景気で、今は間違いなく好景気の循環に入ったとされていた夏の初めの頃、マスコミは給料が上がったとビヤガーデンに繰り出し、すこし高めのものを食べている会社員の取材をしていた。

百貨店売上高も前年同月比で何パーセントアップしたとか、外食産業も上向いて高価格帯のものが動き始めているとも伝えていた。

そして、街ゆく人のインタビューでも給料が上がったので良い物であれば価格は気にしないとか、少し高くても美味しいものであれば手にとってしまうなど、田舎は恩恵に預かれていないが、都会では本当に景気が上向き始めたと思ったものだ。

4月に実施された消費税率引き上げによる消費の落ち込みも限定的で、5月には回復傾向になったため 1989年の消費税 3%導入、1997年の 5%への引き上げと比較して反動減は小幅なのではないかと報道されていた。

その際もスーパーや小売店へのインタビューでは売上が回復してきたと喜んでいる店員や店主の姿を放送し、アベノミクス効果が消費増税のダメージを払拭したと結んでいたはずだ。

衆院解散・総選挙によってアベノミクスの成否が問われる今、報道各社は伝える内容をがらりと変えた。

最近になってニュース番組で流される内容は、結果的に給料が上がらず物価だけが上昇するため生活は苦しくなったという消費者のインタビューばかりだ。

あれだけ好景気だと世間をあおっておきながら、手のひらを返したように報道内容を 180度変えて平然と伝えているマスコミには腹立たしさすら覚える。

好景気になってきたと伝えていた夏の初め、その時だって給料が上がらない会社員はいただろうが、そんな話しやインタビューを聞いた試しがない。

景気を実感できない今も、夏の初めのように給料が上がってクリスマスや年末年始を楽しみにしている会社員はいるに違いないが、そういう内容は一切伝わって来ず、それぞれ逆の立場の意見を拾わないのがマスコミらしい。

取材した結果を伝えるのではなく、伝えたい内容に沿って取材するのがマスコミの常套手段。

つまり、いろいろと取材した結果、今は好景気なのだとか、消費増税の反動は小さかったという結論に至ったのではなく、最初から結論ありきで取材し、その結論を裏付け、その結論に信憑性を持たせるための声を拾い集めてくる。

だからニュース番組など信用できないのである。

■ 記者会見の手話

誤解を恐れずに言うが、記者会見の手話は必要なのか。

総理大臣や幹事長、時の大臣が記者会見する会場には壇の左端に手話をする人が必ずいて、そのやり取りを通訳しているが、あれは本当に必要なのだろうか。

単なるお飾りならば経費の無駄、税金の無駄だと思う。

もちろん、手話を必要とする人がいるならば絶対的に通訳すべきだと思うが、ニュース番組、あの会場での必要性はまったく感じられない。

総理や大臣が壇上に進み、一礼するまでの一瞬だけテレビに映ることがあるが、いざ会見が始まったあとは一切テレビ画面に映ることはなく、耳の不自由な人がテレビを見ていたとしても何の役にも立っていないのが実際だ。

会見場に耳の不自由な人がいて一問一答の内容を知る必要があるとも考えにくく、耳の不自由な記者が手話通訳を介して質問しているところも見たことがない。

手話通訳の人は、いったい誰に向かって手話をし、誰のために通訳しているのだろう。

やっている本人は虚しくないのだろうか。

あの手話をやめたところで誰が困るのだろう。

きっと、その筋の団体から鬼のようなクレームが来るのが嫌なだけに違いない。

■ 年末年始の海外旅行

今回の年末年始はカレンダーの並びがよく、有給休暇の使い方によって 9連休になるとかで、海外で年越する人の数は過去 2番目の多さらしい。

びっくりするくらい円が値下がりし、海外で 8,000円で買えていたものが 12,000円もするようになってしまったというのに、それでも旅行に行くということは先の話題に戻って日本はやはり好景気になったのだろうかと思ってしまう。

食事にしても 1,000円で済んでいたランチが 1,500円、5,000円のディナーは 7,500円と、えらく割高になっているというのにである。

おまけにイスラム国を名乗るテロリスト集団が世界的な広まりを見せ、いつどこで大規模なテロ行為が発生するのかも分からない中、標的にされやすい飛行機に乗って行こうというのだから、まさにチャレンジャーだ。

エボラ出血熱も最近は話題にならなくなってきただけで決して感染が収まった訳ではなく、今現在も患者数は増え続けており、それによって亡くなる人も後を絶たない。

これもマスコミの罪だが、いわゆるニュースバリュー、つまり報道価値が高いものが優先されて読者、視聴者の興味が高いものばかり報道するため客観的事実が見えづらくなってしまう。

発行部数や視聴率が大事なのは理解できるが、本当に価値のある内容を伝えてもらわなければ困る。

エボラ出血熱は収まるどころか世界に拡散している事実、世界情勢が過去にないほど不安定になっていること、それでも海外に行くなら自己責任という意識を徹底すべきであることを伝えるべきだ。

そして、今回も年明けの 4日になって帰国し、次の日から休みボケのまま仕事をするタフなのかアホなのか分からない会社員が山ほどいるのだろう。

真性雑感

カタカナ表記カタカナ表記

日本で使われる文字は実に豊富だ。

ひらがな、漢字、カタカナ、英語(English)、アラビア数字(1,2,3,4)、ローマ数字(I,II,III,VI)、漢数字(一,二,三,四)などが紙面にあふれているので外国の人はとても驚くらしい。

最近では、それに加えて顔文字 (^o^) なども使われるようになって文章による感情表現までもが可能になってきており、それらから派生した絵文字や LINEのスタンプなどは海外でも人気を博しているという。

とても便利な日本の文字文化ではあるが、豊かすぎるゆえにデメリットもある。

その最たるものがカタカナ表記で、それがあるがために日本人は英語が苦手なのではないかと思えてならない。

人名であろうと品名であろうとなんでもカタカナにしてしまう。

それを超日本的発音で読むのだから本物の英語など身につくはずがない。

また、そのカタカナでさえ時によって変化する。

映画 『ダイ・ハード』 シリーズで一躍ハリウッド・スターになったブルース・ウィリスも、最初はブルース・ウィルスと紹介されていたし、すでに死亡した世界的テロリストのウサーマ・ビン・ラーディンも、オサマ、ウサマに始まってビンラディン、ビン・ラディンなどまちまちだった。

何らかの賞を与えるアワード(Award)もアウォード、アウォーズなどの表記があり、一向に統一される気配がない。

元々の言語、英語の発音にどれが最も近いのか。

どれが近かろうと英語の発音とは絶対的に異なるのだから、そもそも外来語をカタカナ表記するのをやめてしまったらどうなのだろう。

そうすれば、否が応でも英語の発音を覚えなければならないのではないか。

しかし、ディーゼルをヂーゼル、ビルディングをビルヂングと表記していた時代から長い時間をかけて培われ、親しまれてきたカタカナを捨てることなどできないに違いない。

だとすれば、いつの日からかバイオリンをヴァイオリン、ボーカルをヴォーカル、バン・ヘイレンをヴァン・ヘイレンなどと表記するようになったように、新しい表記方法を開発して少しでもカタカナを英語の発音に近づける努力をすべきではないだろうか。

日本人が苦手な発音は 『R』 を含む英単語や 『TH』 で始まる英単語などがあるが、舌を巻いたり歯の裏側に舌を当てたりする発音など日本語にないのだから仕方がない。

しかし、それらを強制的に覚えさせるカタカナ表記があったならば・・・。

例えば木曜日のサースデー(Thursday)なんぞは TH で始まって R まで含まれるという日本人にとって難解極まりない発音を要求されるが、カタカナでサースデーなどと発音していては英語の発音など身につくはずがない。

歯の裏側に舌を当てる TH は、サとタの中間あたりなので表記のしようがないが、舌を巻く R 関連は何とかなりそうな気がする。

ヴァに使われている小さいアのように、ラリルレロを小さくするのはどうだろう。

そして、この小さいラリルレロは上あごに舌をつけずに発音する。

サースデー(thursday)ならばサースデー。

ドライブ・スルー(drive-through)ならドイブ・ス

泳ぎのクロール(crawl)ならクール。

アイスクリーム(ice cream)ならアイスクーム

クレーン(crane)車ならクーン車と書いたらどうだろう。

・・・。

こんな面倒なことをするくらいなら英語のまま表記したほうがマシか。

とにかく、カタカナなどという便利な表記法があるため日本人は英語の発音ができないのではないかということである。

中国語だって韓国語だってWebサイトを見ると英語は英語のまま表記されているし、日本でもとくにコンピューター用語などは英語表記のままだが、それ以外の名詞はなんでもかんでもカタカナになってしまっているのがいけないのではないかと言いたいのだが・・・。

やはり今さらカタカナを無くせないだろうし、本格的な英語教育も始まったので、こんなことは余計な心配だったりするのだろう。

ところで、かなり以前にも書いたような気がするが、髪を固めるジェル状のものはデップ(dep)であって決してディップではない。

というのも、デップと発音してクスクス笑われた経験があるからだ。

デジタル時計をディジタル時計とは言わない。

デスクトップ PCをディスクトップ PCとは言わない。

デパートをディパートとは言わない。

それと同じでデップはデップであって決してディップなどではないということを声高に宣言しつつ、なんだかよく分からなくなってしまった今週の雑感を終えようと思う。