裁判員制度

裁判員制度が来年から始まるが、本当に日本でその制度が成り立つのだろうか。 仕事を持つ人の場合、事件の内容を詳しく記した資料を読む時間があるのか。 小説のように物語になっているのならまだしも、難しい専門用語が入り混じった面白くもなんともない文章を読んで全容を把握することができるのか。 そもそも裁判所に足を運ぶ時間があり、会社がそれに理解を示すのか。

昨今の妙にショーアップされた報道番組で 『犯人許すまじ』 的な偏った内容を見せられ、被害者がどれほどまで苦しんでいるか、被害者の家族がどれほど悲しみ、犯人を憎んでいるかを見せつけられた後で、先入観なしの冷静な判断など可能なものなのか。 ついつい極刑の判断を下してしまいがちにならないものか不安を覚える。

客観的な判断ではなく、報道番組の主観がたっぷりブレンドされた内容に感化され、本当は無罪の人を 「どう考えても怪しい」 という理由だけで有罪にしてしまうことはないだろうか。 逆にどんな状況であれ罪を償わなくてはならない人を 「今まで不幸すぎたから」 とか 「可哀想な人だから」 などという理由で軽微な刑で終わらせてしまう危険性はないのだろうか。

今の世の中で一切の情報を遮断し、裁判所から提示される資料や公判の内容だけで事件を把握するのは困難きわまりないだろう。 あふれる情報の中から本筋をとらえ、偏った意見に左右されずに自らの意思で判断を下すことなど難しいのではないだろうか。

そして、特に日本人の場合は人の意見に左右されやすく、自分は 「無罪かもしれない」 と思っていても大多数の人が 「有罪だ」 と言えば流されてしまう危険がある。 また、複数の人が集まれば自然にリーダー格の人が現れ、自分の意見に近い路線でまとめようとする動きもでるかもしれない。 威勢のいい人が多く発言し、口下手な人、他人とのコミュニケーションが苦手な人が思ったことを言えないことも考えられる。

似たような制度である陪審制や参審制を導入している欧米各国のように個人主義であり、YES か NO かを明示し、「私はこう思う」 と自身の意見を主張できる国民性が必要だと思うが、そんなことが日本人にできるのだろうか。 勝ち馬に乗りやすい日本人が大多数の反論者を前にして 「これこれこういう理由から私は無罪だと思う」 などとは主張できない人が多いのではないだろうか。

あまりにも情け容赦ない判断ばかり続くのもどうかと思うが、大岡裁きばかりになってしまうのも問題で、その辺の加減も難しい。 そして、そのバランス感覚だけで担当している事件に判断を下すことも避けるべきだ。 やはり、ひとつひとつ個別の事案ごとに極めて冷静かつ客観的な判断が求められる。

めぐり合わせによって、誰がどの事件の裁判員に選出されるか分からないが、もし世間の注目を集めるような大事件に関わったとしたらどうだろう。 『光市母子殺害事件』 のように世間の注目度が高く、情報が氾濫し、なおかつ極めて判断が難しい事案の場合、自分だったらどうするか。

被害者遺族である本村氏の話や、各種報道の内容だけを受け入れた場合、「そんな奴は死刑にしてしまえ」 と短絡的に思ってしまう。 しかし、本当にそれで良いのか。 たしかに当時少年だった加害者側の弁護団には変わった人が多く、法廷戦術も納得できない。 それでも、加害者に反省の情が芽生え、少しでも更生の可能性があるのなら極刑に処すのは避けるべきなのか。

本当にこの日本で裁判員制度が成り立つのか多くの疑問が残るが、制度導入に反対していた人が日本弁護士連合会の会長選挙に落選したことでもあるし、流れは 2009年 5月からの開始に向けて強まっていくのだろう。

その時、自分にだけは順番が回ってこないことを強く祈るだけである。