惜別の後

先週の雑感に書いたように、義兄が他界してから 『お買い物日記』 担当者と二人で遺骨を守っている。 そして、ここは 『お買い物日記』 担当者を含むきょうだいが生まれ育った街だ。 しかし、暮らしているのは 『お買い物日記』 担当者の実家のようで、微妙に違う少し表現が難しい家だ。 本当に実家と呼べる家は別の場所にあったのだが、今は解体されて公園になっている。

この家は、高齢で少し体が不自由だったご尊父が暮らしやすいよう、限りなく段差の少ないバリアフリー、失火のリスクを低減させるオール電化を実現しているが、建築当時はまだまだ世の中にその概念は浸透しておらず、建築業者も注文どおりに施工してくれないため、何度も何度もやり直しをお願いしてクタクタになりながら長兄が建築会社と丁々発止とやりあい、すったもんだの挙句に苦労して完成にこぎつけたものだ。

しかし、残念ながらご尊父が暮らすことができたのはわずか半年、その後に体調を崩され還らぬ人となってしまった。 その惜別の後、人からは借りたいとか売ってほしいとかの話があったようだが。 和室に大きな仏壇もあり、転勤族である長兄が持っては移動できないこと、この街できょうだいが集まる場所がなくなってしまうことなどを理由に人手に渡さずにいた。

わずかな期間でも親が住み、仏壇もあるので 『お買い物日記』 担当者の実家であると定義できるが、本人に思い入れがないのでイマイチ実家とは呼びづらく、単に ”地元にある家” 的な感覚だ。 まあ、自分としては実家らしいところに住むのでは ”マスオさん状態” みたいになってしまうし、あまり実家という実感のないところに住む方が気が楽だ。

ここに住むことを決めたのは、きょうだいが生まれ育った街であること、最期は義兄と一緒に暮らしたいという 『お買い物日記』 担当者の希望があったこと、そして長兄が人手に渡さず空家のまま管理してくれていたからだ。 余命は告げられていたものの、三カ月と言わず、半年と言わず、一年でも二年でも義兄と一緒に暮らせることができればと思っていた。

医者からは入院の必要がなく、好きなものを食べ、安静にしてゆっくり生活するように言われていた。 肝臓は沈黙の臓器とも言われるように、まったくと言っていいほど痛みを伴わない。 他の臓器へガン細胞が転移しないかぎり、苦しむことはないだろうとも言われていた。 ゆっくりと、おだやかに最期を過ごせるのだろうと、長くはなくとも一緒に暮らせると思っていた。 しかし、残念ながらその想いはかなわず、それどころか我々が北海道に帰って三日後に義兄は逝ってしまった。

長期入院を覚悟し、病院から徒歩 5分の場所にマンスリーマンションを半年契約で借りたのに、そこに荷物すら運び入れる前に、そこに二晩しか寝ていないのに。 その日の夜から交代で泊り込むつもりで、病院に許可をもらう書類を提出したのに。 何かあった場合の緊急連絡先を病院に伝えたところなのに。 病室で履くスリッパも準備したのに・・・。

義兄が他界してしまった今、この街にそしてこの家に住む意味を失ってしまった。 むしろ合理的、積極的な理由などないと言って良いくらいだ。 しかし、義兄がこの街に呼んでくれたのだろう。 法的には別の家系に属するが、『お買い物日記』 担当者の実兄であることに変わりはないので四十九日までは遺骨を守り、納骨後も仏壇を守っていこう。

きっと義兄が導いてくれたのであろう流れに身を任せ、この街に根付いてみることにする。 生活の拠点、仕事の拠点を移し、この街で義兄の想い出とともに静かに暮らしていこうと思う。