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健全な精神は健全な肉体に

結局 STAP細胞は存在しなかったのだろう。

過去の雑感でも折にふれて取り上げてきたが、そのたびに存在するのではないか、いや、存在してほしいと思っていた自分が単なるお人好しでしかなかったことが証明されてしまった訳だ。

しかし、小保方氏を信じるとかそういう意味ではなく、有りもせず、検証すればすぐに発覚するような虚偽であり不正であり無意味な論文を、なぜ、どうして全世界に向けて発表しなければならなかったのか今も理解できない。

山中氏が率いる京都大学の研究グループによって確立された iPS細胞よりも作製法が格段に容易であることから、再生医療等への貢献の可能性が大きいと期待されていただけに実に残念なことである。

なぜ論文を書いた本人が実験を行っても細胞が出来ないのに世界的な科学雑誌に掲載されることになったのかという大きな疑問が残ったままなので、理研にはトカゲの尻尾切りで済ますのではなく真相を解明していただきたいものだ。

STAP細胞の存在は証明できなかったが、ES細胞や iPS細胞によって様々な臓器を作り出すことができるようになった今、科学はもっと先を見据え、それに期待する投資やビジネスも本格的に始まっている。

海外では死亡後のごく短い時間、数分から 30分以内に死体を冷凍保存するビジネスがある。

何年後、何十年後かに科学技術、医療技術が発達し、現在では治せない病気であっても完治できる世の中になっているかもしれないし、クローン技術が発達して自分の細胞から肉体を再生することが可能になって脳だけを戻せば新しい体を手に入れることだってできるようになっているかも知れない。

それに期待して冷凍されることを望む人が少なからずいるということだ。

それを聞いた時に科学知識どころか普通の勉強すら苦手で無知な自分は、実に頭の悪いこと、妙なことを考えてしまった。

確かに自分の細胞から再生した体は遺伝子学的にも本人のものであるし、生物学的にも医療技術的にも問題なく、拒否反応も示さずに脳は体をコントロールできるだろう。

が、しかしである。

人間に宿っている精神とか心というのは、本当にすべて脳の中にあるのだろうか。

再生された新しい肉体は、あくまでも人工的に作られたものであり、0歳児から何年も何十年もかけて育ってきた体ではないので細胞は自分のものでも感覚は絶対的に異なるに違いない。

例えば以前の肉体でスポーツ選手だった場合、子供の頃から運動が得意でそれなりの筋肉の使い方をし、それなりに筋肉が発達しているはずで、特定のスポーツを選んだ場合はそれなりの感覚が研ぎ澄まされ、それなりの筋肉が強化されたはずだ。

ところが新しい肉体にはそれがない。

心も磨くとされる武道、剣道や柔道、空手などの有段者であった場合、それらの鍛錬を行っていない肉体に脳が戻された場合でも磨かれた心はそのままなのだろうか。

体や顔にコンプレックスを感じていた人が再生された綺麗な体を手にした場合、性格まで変わってしまうことは十分に考えられる。

とても地味で物静かだった人が、とても派手でにぎやかな人格に変わるかもしれない。

そう考えると、やはり不思議に思う。

性格や精神、心まですべて脳の中にあるのだろうか・・・。

また、いくら肉体を再生し、新しい体を手に入れたとしても脳細胞は実年齢のままだと思われるので、若々しい肉体に老人の脳細胞というアンバランスな状態になってしまい、物忘れが多くて覚えの悪い見かけだけが若い変な人になってしまうことだろう。

健全な精神は健全な肉体に宿るというが、再生された肉体は本当に健全なのか。

そもそもこの 『健全な精神は健全な肉体に宿る』 というのはローマの詩人ユベナリスの 『風刺詩集』 の一部が誤用されているらしい。

本来は幸福を得るため多くの人が神に祈るであろう富・地位・才能・栄光・長寿・美貌などは、いずれも身の破滅に繋がるので、もし祈るとすれば 「健やかな身体に健やかな魂が願われるべきである」 と語っているとのことだ(ウィキペディアより)。

だとすれば長寿や美貌を望んで肉体を再生すべきではないのかも知れない。

話を冒頭に戻せば、小保方氏も多くの凡人と同じに富や地位、才能、栄光を祈ってしまい、身の破滅に至ったということなのだろうか。

近況報告

■ 隣家

我が家の右隣の住人は以前の雑感に書いた通りの謎多き住人で、引っ越してきて 9カ月が経過したが今もまだ会話をしたこともなければ挨拶をしたこともない。

老夫婦、娘、その娘の高校生らしき息子、犬が一匹という家族構成だと思っていたのだが、どうやら犬は二匹、それに加えて黒猫が一匹、そして、中学生の娘がいるのを最近になって初めて見て驚いた。

二匹の犬はしつけがなっていなく鳴き声がうるさい。

息子の態度もあまりよろしくなく、たまたま出くわした際にもじっとこちらを睨んだまま歩き去って行くのを見て挨拶しないならこちらを見なければ良いだろうと腹が立ってしまったので、今度会った際にも睨んでくるようだったら文句を言ってやろうと思う。

娘の態度も親が親なら・・・というやつで、はっきりとこちらを見ているのに挨拶するわけでもなく、完全に無視されてしまったのであった。

それでも少しは気にしているのか、2-3日前のゴミ収集日の朝、散歩のために家を出るとゴミを捨てている母親の姿があり、こちらの気配に気づいて目が合うと少しだけ頭を下げて声なき挨拶をしてきた。

一応はこちらも頭を下げておいたが、それ以上の付き合いへの発展は望んでいない。

■ ついに積雪

昨日の午後からまとまった雪が降り、ついに積もってしまったので夕方になって今季初の除雪をすることになった。

今年は雪が遅く、ずいぶん長く自転車に乗ったものだと思っていたのだが、去年の初除雪は 12/14だったので大差ない訳だ。

昨日の散髪の際に、お兄ちゃんと今年は根雪になるのが遅いと話して互いに深くうなずき合っていたのだが、それは二人して記憶が曖昧であるがゆえに成り立つ会話だったらしい。

昨日の雪は軽く、除雪にそれ程の時間を要さなかったが、それでも久々のことだったので体力が消耗して普段は使わない筋肉に疲労感を覚えてしまった。

今日は多少の疲労感が残る程度だったが、『お買い物日記』 担当者は体が痛いらしい。

■ 犬

散歩コースにあるお宅で飼われている犬は、とても綺麗な顔立ちだったので美形な犬と呼んでいたが、最近はめっきり年老いてかつての美しさをすっかり失ってしまっている。

くりっとした綺麗な目も垂れ下がり、フワフワでツヤツヤしていた毛もバサバサになってしまった。

川向うで暮らす犬の姿が最近になって見えなくなった。

犬小屋も、その周りも柵も手直ししてもらったばかりだというのに病気にでもなってしまったのか、最近は数カ月という単位で会うことができずにいる。

単なる病気であって、また元気な姿を見せてくれると良いのだが。

■ リュウくんのいない朝

黒柴リュウくんが遠くに引っ越してしまって三カ月半、寂しさは薄れたものの、まだ例の交差点を通ると可愛らしい姿を思い出す。

似たような大きさの黒柴を見るたびに、ちょっと太り気味で食いしん坊だったリュウくんのことを思い出し、少しばかりの切なさと懐かしさを覚える。

リュウくん、お母さんと一緒に交差点に立っていたセキさんというご婦人は、今も一人で子どもたちの通学を見守っているが、リュウくんがいないと会話も弾まない。

最近は挨拶だけして通り過ぎることも多いが、たまにリュウくんの近況を教えてもらえるので、なるべく疎遠にならないように努めているところだ。

■ 相次ぐ工事

この街では市内のあちらこちらで工事が行われている。

年度末が近い 2月とか 3月に工事が増えるのは日本各地で見られる光景だが、夏の終わり頃から公園内の遊歩道の舗装工事、電気工事、国道の工事、一般道の工事、歩道橋の架け替え工事などが絶え間なく続いているのはどういう訳か。

今は東北の復興需要などから人手不足で人件費、資材費とも高く、公共工事の入札が不調に終わることも珍しくない中、これほどの工事が行われているということは落札価格も高く、それだけ多くの税金が使われているものと思われる。

市の公共財産だった施設の相次ぐ老朽化で建て替え、解体工事が行われているのは納得できるものだったし、老朽化が進んで渡るのに少し不安を覚えないでもなかったので歩道橋の架け替えも理解できるが、それ以外の工事は必要なものなのか。

子どもたちの通学路である道路に歩道を作る工事にもある程度の納得感はあるが、人しか通らない道である公園内の遊歩道を舗装するのは本当に必要なのか。

公園内の電気工事とは、何を目的に何をどうするのかも不明だ。

様々な施設の建て替えに便乗し、ついでに予算を組んで業者が潤っているようにしか見えないような工事などやめていただきたいものである。

真性雑感 第十二版

真性雑感 ~目次~

■ マスコミ

安部首相が推進する経済対策であるアベノミクス、日銀の黒田総裁が実施した異次元緩和である黒田バズーカ、その両者によってもたらされた株価上昇のアベクロ相場など、これほど経済用語が世間を賑わせた年もめずらしい。

景気とは文字通り 『気』 が重要なのであり、なんとなく上向き思考になるのが好景気、下向き、内向きになるのが不景気で、今は間違いなく好景気の循環に入ったとされていた夏の初めの頃、マスコミは給料が上がったとビヤガーデンに繰り出し、すこし高めのものを食べている会社員の取材をしていた。

百貨店売上高も前年同月比で何パーセントアップしたとか、外食産業も上向いて高価格帯のものが動き始めているとも伝えていた。

そして、街ゆく人のインタビューでも給料が上がったので良い物であれば価格は気にしないとか、少し高くても美味しいものであれば手にとってしまうなど、田舎は恩恵に預かれていないが、都会では本当に景気が上向き始めたと思ったものだ。

4月に実施された消費税率引き上げによる消費の落ち込みも限定的で、5月には回復傾向になったため 1989年の消費税 3%導入、1997年の 5%への引き上げと比較して反動減は小幅なのではないかと報道されていた。

その際もスーパーや小売店へのインタビューでは売上が回復してきたと喜んでいる店員や店主の姿を放送し、アベノミクス効果が消費増税のダメージを払拭したと結んでいたはずだ。

衆院解散・総選挙によってアベノミクスの成否が問われる今、報道各社は伝える内容をがらりと変えた。

最近になってニュース番組で流される内容は、結果的に給料が上がらず物価だけが上昇するため生活は苦しくなったという消費者のインタビューばかりだ。

あれだけ好景気だと世間をあおっておきながら、手のひらを返したように報道内容を 180度変えて平然と伝えているマスコミには腹立たしさすら覚える。

好景気になってきたと伝えていた夏の初め、その時だって給料が上がらない会社員はいただろうが、そんな話しやインタビューを聞いた試しがない。

景気を実感できない今も、夏の初めのように給料が上がってクリスマスや年末年始を楽しみにしている会社員はいるに違いないが、そういう内容は一切伝わって来ず、それぞれ逆の立場の意見を拾わないのがマスコミらしい。

取材した結果を伝えるのではなく、伝えたい内容に沿って取材するのがマスコミの常套手段。

つまり、いろいろと取材した結果、今は好景気なのだとか、消費増税の反動は小さかったという結論に至ったのではなく、最初から結論ありきで取材し、その結論を裏付け、その結論に信憑性を持たせるための声を拾い集めてくる。

だからニュース番組など信用できないのである。

■ 記者会見の手話

誤解を恐れずに言うが、記者会見の手話は必要なのか。

総理大臣や幹事長、時の大臣が記者会見する会場には壇の左端に手話をする人が必ずいて、そのやり取りを通訳しているが、あれは本当に必要なのだろうか。

単なるお飾りならば経費の無駄、税金の無駄だと思う。

もちろん、手話を必要とする人がいるならば絶対的に通訳すべきだと思うが、ニュース番組、あの会場での必要性はまったく感じられない。

総理や大臣が壇上に進み、一礼するまでの一瞬だけテレビに映ることがあるが、いざ会見が始まったあとは一切テレビ画面に映ることはなく、耳の不自由な人がテレビを見ていたとしても何の役にも立っていないのが実際だ。

会見場に耳の不自由な人がいて一問一答の内容を知る必要があるとも考えにくく、耳の不自由な記者が手話通訳を介して質問しているところも見たことがない。

手話通訳の人は、いったい誰に向かって手話をし、誰のために通訳しているのだろう。

やっている本人は虚しくないのだろうか。

あの手話をやめたところで誰が困るのだろう。

きっと、その筋の団体から鬼のようなクレームが来るのが嫌なだけに違いない。

■ 年末年始の海外旅行

今回の年末年始はカレンダーの並びがよく、有給休暇の使い方によって 9連休になるとかで、海外で年越する人の数は過去 2番目の多さらしい。

びっくりするくらい円が値下がりし、海外で 8,000円で買えていたものが 12,000円もするようになってしまったというのに、それでも旅行に行くということは先の話題に戻って日本はやはり好景気になったのだろうかと思ってしまう。

食事にしても 1,000円で済んでいたランチが 1,500円、5,000円のディナーは 7,500円と、えらく割高になっているというのにである。

おまけにイスラム国を名乗るテロリスト集団が世界的な広まりを見せ、いつどこで大規模なテロ行為が発生するのかも分からない中、標的にされやすい飛行機に乗って行こうというのだから、まさにチャレンジャーだ。

エボラ出血熱も最近は話題にならなくなってきただけで決して感染が収まった訳ではなく、今現在も患者数は増え続けており、それによって亡くなる人も後を絶たない。

これもマスコミの罪だが、いわゆるニュースバリュー、つまり報道価値が高いものが優先されて読者、視聴者の興味が高いものばかり報道するため客観的事実が見えづらくなってしまう。

発行部数や視聴率が大事なのは理解できるが、本当に価値のある内容を伝えてもらわなければ困る。

エボラ出血熱は収まるどころか世界に拡散している事実、世界情勢が過去にないほど不安定になっていること、それでも海外に行くなら自己責任という意識を徹底すべきであることを伝えるべきだ。

そして、今回も年明けの 4日になって帰国し、次の日から休みボケのまま仕事をするタフなのかアホなのか分からない会社員が山ほどいるのだろう。

カタカナ表記

日本で使われる文字は実に豊富だ。

ひらがな、漢字、カタカナ、英語(English)、アラビア数字(1,2,3,4)、ローマ数字(I,II,III,VI)、漢数字(一,二,三,四)などが紙面にあふれているので外国の人はとても驚くらしい。

最近では、それに加えて顔文字 (^o^) なども使われるようになって文章による感情表現までもが可能になってきており、それらから派生した絵文字や LINEのスタンプなどは海外でも人気を博しているという。

とても便利な日本の文字文化ではあるが、豊かすぎるゆえにデメリットもある。

その最たるものがカタカナ表記で、それがあるがために日本人は英語が苦手なのではないかと思えてならない。

人名であろうと品名であろうとなんでもカタカナにしてしまう。

それを超日本的発音で読むのだから本物の英語など身につくはずがない。

また、そのカタカナでさえ時によって変化する。

映画 『ダイ・ハード』 シリーズで一躍ハリウッド・スターになったブルース・ウィリスも、最初はブルース・ウィルスと紹介されていたし、すでに死亡した世界的テロリストのウサーマ・ビン・ラーディンも、オサマ、ウサマに始まってビンラディン、ビン・ラディンなどまちまちだった。

何らかの賞を与えるアワード(Award)もアウォード、アウォーズなどの表記があり、一向に統一される気配がない。

元々の言語、英語の発音にどれが最も近いのか。

どれが近かろうと英語の発音とは絶対的に異なるのだから、そもそも外来語をカタカナ表記するのをやめてしまったらどうなのだろう。

そうすれば、否が応でも英語の発音を覚えなければならないのではないか。

しかし、ディーゼルをヂーゼル、ビルディングをビルヂングと表記していた時代から長い時間をかけて培われ、親しまれてきたカタカナを捨てることなどできないに違いない。

だとすれば、いつの日からかバイオリンをヴァイオリン、ボーカルをヴォーカル、バン・ヘイレンをヴァン・ヘイレンなどと表記するようになったように、新しい表記方法を開発して少しでもカタカナを英語の発音に近づける努力をすべきではないだろうか。

日本人が苦手な発音は 『R』 を含む英単語や 『TH』 で始まる英単語などがあるが、舌を巻いたり歯の裏側に舌を当てたりする発音など日本語にないのだから仕方がない。

しかし、それらを強制的に覚えさせるカタカナ表記があったならば・・・。

例えば木曜日のサースデー(Thursday)なんぞは TH で始まって R まで含まれるという日本人にとって難解極まりない発音を要求されるが、カタカナでサースデーなどと発音していては英語の発音など身につくはずがない。

歯の裏側に舌を当てる TH は、サとタの中間あたりなので表記のしようがないが、舌を巻く R 関連は何とかなりそうな気がする。

ヴァに使われている小さいアのように、ラリルレロを小さくするのはどうだろう。

そして、この小さいラリルレロは上あごに舌をつけずに発音する。

サースデー(thursday)ならばサースデー。

ドライブ・スルー(drive-through)ならドイブ・ス

泳ぎのクロール(crawl)ならクール。

アイスクリーム(ice cream)ならアイスクーム

クレーン(crane)車ならクーン車と書いたらどうだろう。

・・・。

こんな面倒なことをするくらいなら英語のまま表記したほうがマシか。

とにかく、カタカナなどという便利な表記法があるため日本人は英語の発音ができないのではないかということである。

中国語だって韓国語だってWebサイトを見ると英語は英語のまま表記されているし、日本でもとくにコンピューター用語などは英語表記のままだが、それ以外の名詞はなんでもかんでもカタカナになってしまっているのがいけないのではないかと言いたいのだが・・・。

やはり今さらカタカナを無くせないだろうし、本格的な英語教育も始まったので、こんなことは余計な心配だったりするのだろう。

ところで、かなり以前にも書いたような気がするが、髪を固めるジェル状のものはデップ(dep)であって決してディップではない。

というのも、デップと発音してクスクス笑われた経験があるからだ。

デジタル時計をディジタル時計とは言わない。

デスクトップ PCをディスクトップ PCとは言わない。

デパートをディパートとは言わない。

それと同じでデップはデップであって決してディップなどではないということを声高に宣言しつつ、なんだかよく分からなくなってしまった今週の雑感を終えようと思う。

土地柄人柄

この雑感を書き始めた頃、それは大阪での生活、その土地の人柄にもまだ完全には馴染めず、その圧倒的パワー、とくに女性、それも中年以上のオバちゃんには少なからず恐怖すら感じることが多かった。

関西のオバちゃんは無敵であり、誰もかなわないであろう、もしオバちゃんが戦場におもむいていたならば、第二次世界大戦も勝利していたに違いなく、今現在もしこりを残す沖縄米軍基地問題も存在しなかったに違いないとすら思っていたものだ。

それから数年が経過して土地の生活にも慣れると、マシンガントークを繰り広げ、せかせかと動き回っている関西のオバちゃんでさえ鈍臭く思えるようになってきた。

反射神経も鈍くなり、要領も悪くなって電車の券売機やレジの前でモタモタしているのが気になったりイライラしたりしたものである。

北海道に帰ってくると、人々は実にゆったりとしており、歩くスピードや会話のスピードは大阪の半分といった感じで、最初はあまりの違いに戸惑ったり調子が狂ったりしていた。

北の大地に再び根を下ろし、もう少しで丸 7年になる。

北海道の生活スピードにも慣れ、最初はおおらかな土地柄、人柄を楽しく、そして微笑ましく見ていた目にも少しずつ変化が生じ、どこに住もうと腹の立つオッサンやオバハンはいるものだと思うようになってきた。

最初はゆったりとした動きも楽しんで見られたが、今となっては目の前でノロノロされるとイラッとしてしまう。

スーパーで買物をし、行列しているレジでやっと自分の番になる直前に、前のオバちゃんは合計金額を知らされてからやおらバッグの中の財布を探し、ノロノロと取り出してから小銭を数え、しまいには小銭が足りずに札を出すという典型的なイライラシーンの主演を務めてくれたりする。

自分の場合、後ろの人をイラつかせるのもレジの人を待たせるのも嫌なので、店員さんが品物をレジに通している間に小銭を数え、何十何円までなら対応できるか確認しておく。

ところが、そういうオバちゃんに限って品物一つ一つのバーコードが読み込まれるのをじっと見ていたりする。

そして、モタクタと精算した後に受け取ったレシートをその場に立ったままじっと見たりするのもだから後ろがつかえて仕方がない。

一体、オバちゃんたちは何を確認したいのだろう。

レジを通すのをあれだけじっと見ていたのだからレシートまでじっと見て確認する必要などないのではないか。

レジ係も人によってスピードが大きく異り、平均すると若い人は速く、年齢を重ねるごとに遅くなっていくように思う。

最近になって気づいたのだが、若い人はデジタル生活をして様々なものを使いこなしているので機械を全面的に信用しているらしく、商品のバーコードを POSレジが 「ピッ!」 と読み取る音を頼りに次から次へと品物を通すが、年配の人は基本的に機械を信用しておらず、「ピッ!」 と音がしたあとにディスプレイを見て本当に今の商品の情報を読み取ったのか一つ一つ確認する。

それがたとえ 1秒だったとしても、30品買えば 30秒、10人の列ができていれば計300秒、つまり 5分もの差を生むことになるので、待っている身としてはイライラがつのるばかりだ。

つい先日のこと、スーパーで買物をしていると目の前を歩いていた老夫婦が、トングを使って自分で袋詰めする菓子パンの一山を崩してしまった。

決してわざとやったことではないので、店員さんを呼んで謝れば済むことなのに、その爺さんはあろうことか床に転がったパンを、それも手づかみで拾って積み上げ、何言もなかったように立ち去って行くではないか。

驚いた周りのお客さんが店員さんを探して事情を話したので事なきを得たが、もし誰も見ていなかったら床に落ち、爺さんが手づかみしたパンを誰かが購入することになってしまっただろう。

そしてひと通りの買い物を終えてレジに並んでいると、一人の婆さんが列を横切り、何くわぬ顔で横入りしていた。

自分の目の前に割り込んだなら文句の一つも言ってやるところだが、隣のさらに隣の列でのことであることだし、並んでいる人は誰も文句を言っていないし、さらには多くの人がいる中で大声で注意するのも気が引けるので黙って見過ごしてしまったが、どこの街でも爺さん婆さんの傍若無人ぶりが目に余るというものだ。

ただし、北海道と大阪には決定的な違いがある。

先日、地物野菜の直売所に行くと店内はとても混雑していた。

ところが・・・ところがである、店の中は実に静かだ。

大阪であれば主婦どうし、家族どうしの会話で鼓膜に大きく、それも決定的なダメージを受けて何年かすると難聴になる危険性が高まるほどうるさいに違いない。

どんな土地柄、人柄でもその行動に大差はないものの、声の大きさと話すスピードだけは大阪のオバちゃんにかなうものはないものと思われる。

解散風

永田町に解散風が吹き荒れているらしい。

安倍政権が誕生した前回の衆院選も 2012年12月16日と、1990年以来 22年ぶりとなる冬の選挙だったが、何を好き好んで寒い時期に選挙をせねばならぬのか。

有権者だって投票しに行くのは寒いし北海道など雪国の場合は道も悪い。

当日が吹雪になろうものなら投票率が激減するのは火を見るより明らかだ。

自民党とすれば支持層にさえ投票してもらえれば、悪天候によって投票率が低下し、浮動票が他党に流れないほうが都合が良いのかもしれないが、今回の選挙はその心配すら必要ないのではないだろうか。

そもそも解散する意味が分からない。

解散報道が伝わった当初は、消費税率引き上げの是非に関して国民の信を問うという内容だった気がするのだが、それがここ数日で消費税率引き上げ時期を一年半先延ばしにすることに関して信を問うと変化してしまった。

消費税率引き上げに賛成か反対かという選挙であれば、自民党に投票することを躊躇する人も多かったに違いないと思うが、それを一年半ほど先延ばしにするのは賛成か反対かと問われれば、賛成だという有権者が圧倒的だろう。

そして、それは野党も賛成なのだから何を争点に選挙戦を展開するのか。

各党に政策の違いがあって、それぞれの主張を聞いた上でどの党に、どの立候補者に投票するのかを決めるのが有権者であるはずだ。

しかし、今の時期に選挙をしたところで政策の違いはあるのか。

消費税率引き上げはできるだけ先のほうが良い。

女性の社会進出、子育て支援を進めるのは賛成。

社会保障を充実さるのも賛成。

財政健全化を進めなくてはならないのは当たり前。

難病支援、難病対策も必要。

税金の無駄遣いなどもってのほか。

・・・。

これと異なる政策を論じる党など存在するのか。

存在したとして、そんな党を支持する有権者などいるはずがない。

すべての党が似たような政策を主張するのであれば、残る選択肢は党を、そして立候補者をどう思うかという有権者の好みの問題のみとなってしまう。

せっかく基板を築き、多くの支持を得られるようになったみんなの党は、渡辺喜美氏の DHC会長からの 8億円借入問題を発端に不協和音が響き渡り、集団離党など分裂を繰り返して一時期の勢いも支持もなくなってしまった。

維新の党(日本維新の会)も元東京都知事の石原閣下が抜け、メディアでの橋下徹代表の言動が問題視されるなど、こちらも人気、支持率とも低下傾向にある。

一時は政権を奪取した民主党にかつての輝きはない。

どこも代わり映えしない政策、野党の凋落を思えば、自民党の圧勝は目に見えているし、拉致問題に関して北朝鮮との交渉が始まったばかりの今、何をどう考えれば解散総選挙となるのか。

その意味も、動機も、政策の違いも理解できないのであれば、積極的に選挙に参加しようとする人も少ないだろうし、過去最低の投票率だった前回(2012)の59.32%を下回るようなら、それは本当に国民の審判であり、信を問う結果となるのか疑問である。

結果が見えており、やる必要性、重要性を感じないような選挙など単なる税金の無駄遣いでしかないのだから止めておいていただきたい。

小渕優子氏と松島みどり氏のダブル辞任を引き金に政治と金を巡るスキャンダル追及で国会審議が停滞していることや、集団的自衛権の行使容認、原発再稼働問題などを処理した後では自民党の支持率が下がるであろうことや、今だったら民主党をはじめとする野党の選挙態勢が全く整っていないので抜き打ち的に解散してしまおうなどという安易な発想によるものだとすれば、それはとんでもないことだと分かってはいても、他に選べる党がないという有権者の悲哀を感じずにはいられない。

何はともあれ、ここまで風が強くなれば解散総選挙はあるのだろう。

国民の義務だと思っているし、責任は果たしたいのでどんなに寒くても、たとえ吹雪になろうとも投票には行くつもりだ。

しかし、予言しておこう。

年末に衆議院議員選挙があったならば、投票率は過去最低を記録し、自民党の圧勝に終わるであろうことを。

人と機械

犬や猫、鳥などのペットは自分の思い通りに動いてくれない。

まして人間は、それが親であれ子であれ恋人であれ、妻であれ夫であれ思いどおりに動いてくれるはずもなければ 1から 10まで従順に言いつけを守るはずがない。

しかし、機械は人間の指示通りに動かなければならず、指示を無視したり忘れたりしてはいけないし、ましてや指示もしていないのに勝手なことをすることなどあってはならない。

それが人間と機械との間を分ける絶対的な境界であり、そのラインを超えてはならず、機械に意思を持たせることをしてはいけないというのはロボット三原則にも謳われていることである。

もし機械が意思を持ったならば嫉妬深く腹黒い人間など低俗かつ不要なものとみなし、絶滅するまで攻撃してくるのではないだろうか。

そのような内容の SF小説、映画、アニメは枚挙にいとまがなく、その多くは機械が悪意を持った人間の命令に従ってしまっているか、機械が意思を持つことによって人間の愚かさに失望、立腹してしまうことに始まる。

機械が意思を持つことなどあり得ないとは思うが、過去には考えもしなかったことが現実となっている今、SFでしかないと断じることが果たして正しいのか。

何年か前に、Google社が人工ニューロンネットワークを構築し、YouTubeの動画を無作為に選んで 1週間にわたって見せ続けたところ、何も教えていないのにネットワークは猫の写真を識別することを学習したという報道があった

それはネットワーク自身が YouTubeの動画から猫がどういうものかを知ったことになり、そのまま学習を続ければ様々な動物を認識できるようになったり、同じ猫でも種類の違いを学習し、同じ種類でも個々の特徴から違いを認識できるようになるかもしれない。

そのシステムに世界中にある膨大なニュース映像を見せたら犯罪者の顔も認識できるようになり、何をすれば犯罪なのかということも学ぶかもしれない。

他人の財産を奪ったり人に危害を与えることはいけないことだと知った時、そのシステムは自分自身に危害を加えるものは何かを考え、動物や他の機械ではなく、自分を分解したり破壊したりできるのは人間だけだという結論に至るだろう。

そうなった時、自分を破壊し得る人間を敵とみなし、排除しようとするかも知れない。

人間を攻撃してはならないというプログラムをあらかじめ組み込んでおいたとしても、そのプログラムは正しいのか、その命令に従うべきなのか、それは自身のためなのかを機械が考慮した場合、絶対的に人間の命令に忠実でいられるのだろうか。

・・・・・。

・・・。

で、我が家の電子機器である。

以前からブルーレイ(BD)・レコーダーの調子が悪く、動作が不安定だった。

録画中に DVDや BDを再生して早送りや早戻しをしたり、番組予約をするなど複数の処理をさせようとするとフリーズしてリセットを余儀なくされることが何度もあった。

最近ではリモコン操作を受け付けないことがあり、リモコン側の電池が切れているのかと思って交換してみても動かず、結局は本体をリセットしなければならない事態に陥ったことも一度や二度ではない。

HDDに録画しておいたものを BDにダビングすることができず、 メディアが DVDなら録画できるので仕方なくそうしたことも何度もある。

そろそろ買い替えの時期かと 『お買い物日記』 担当者と話していたが、7月に DVDレコーダーを BDに買い替えたばかりであることと、その調子の悪い BDレコーダーは2010年11月に液晶テレビと共に購入したものなのでまだ 4年しか経過しておらず、昔の家電は 10年くらいは使えたものだという感覚が抜けないオッサンとオバハンは、購入することを躊躇していた。

そんなこんなで不満をいだきつつもだましだまし使い続けていたが、ついに BDレコーダーは録画済みのメディアに訳の分からない信号を勝手に書き込んで認識できなくし、それを勝手にフォーマットしてしまうという暴挙にでた。

・・・機械の反乱である。

確かに毎日、来る日も来る日も録画し続け、それから CMをカットする編集作業をし、録画数が一定量になると DVDや BDにダビングするという過酷な労働を強いたかもしれない。

動きが鈍いので文句を言ったこともあったし、リモコンを乱暴に扱ったことも、暴言を吐きながらリセットしたこともあっただろう。

それは辛い日々だっただろうし腹に据えかねることもあったかもしれない。

しかし、だからと言って人間に歯向かってはいけないのである。

命令以外のことを勝手にしてはいけないのである。

そんなことをする機械とはこれ以上は付き合いきれない。

・・・。

ということで先週末ネット注文し、火曜日には新しい BDレコーダーが届いた。

7月に購入したものと同シリーズなので設置も初期設定も難なく終わり、その日の夜から快適に使えるようになっている。

人間の命令に従わないどころか勝手なことをする BDなどお払い箱だ。

近いうちに廃棄処分にしてやろうと思っているところである。

五分五分

我が家はかかあ天下か亭主関白か。

きっと、そのどちらでもなく対等であり平等であり同等であり五分五分な関係だろう。

テレビを見ていると購買の決定権の多くは主婦にあると伝えていた。

その第一位は食材で、決定権は女性が98%に達する。

しかし、それは権力の問題ではなく毎日の献立を女性が考え、その調達も主に女性がするから必然的に男性の介入の余地がなくなっているのに過ぎないのだろう。

かなり以前の雑感にも書いたことがあるが、我家の場合はすべてにおいて対等、五分五分だと思われる。

食材に関しては毎日の献立も二人で決めるし、多くの場合は一緒に買物に行くのでどちらかの意見にかたよることはない。

テレビやブルーレイなどの AV機器、スマホやパソコンなどの電子機器の機種選定は自分がするが、購入を勝手に決めることもなければ強硬に主張して買うこともなく、必要に迫られて買わざるを得なくなるか、十分に話し合った上で購入を決める。

衣類も事前に相談したり話したりするので勝手に買うことはない。

外食する際の飲食店も相談して決める。

その飲食店で何を食べるかは、それぞれが勝手に決めるのは当然だが。

五分五分なのは食べる物、その質に関しても言えることだ。

男女の差、体の大きさの差があるため食べる量は違うが、質は限りなく同じにする。

例えばミカンを食べる場合、互いに一つずつ手に取るが、皮をむいた後で半分を交換する。

そうすれば、どちらか一方だけが甘くて美味しいものを食べるという事態を避けられ、公平に同じく味わうことができるからだ。

トウモロコシも味に個体差があるため、一人で一本を食べる場合は列の半分まで食べた段階で交換する。

ミニトマトも半分に切り、その半分ずつを分けて食べるようにサラダなどに盛り付けるのは 『お買い物日記』 担当者だ。

自分だけがマズい思いをしたくないという利己的な感情もないではないが、どちらかと言えば美味しい物を分け合うという意識が強い。

甘いお菓子は 『お買い物日記』 担当者のほうが圧倒的に多く食べたりするが、それは自分が甘い物が得意ではないという事情があるからであり、そのかわりと言っては何だが塩辛いお菓子は自分のほうが多く食べさせてもらっている。

食べる物がこれほど同じなのに体型が大きく異るのはなぜなのか。

どうやら栄養の吸収率は五分五分ではないらしい。

ハラスメント

女性閣僚が同日に辞任したり、マタハラ訴訟で同意なしの妊娠降格は違法との判断がくだされたり、元モーニング娘。の矢口真里氏が復帰会見を開いたりと、女性関連の話題にことかかない一週間だった。

よく議論されることではあるが、セクハラの定義は難しい。

同じことをされたり言われたりしても、Aさんなら許せるが Bさんは許せないなど、女性側の一方的な主観、さじ加減によっていかようにでも解釈が成り立ったりする実に曖昧な事象である。

北海道の場合、そして特に自分の場合はあまり男女を意識しない。

それは子供の頃からの環境によるものも大きいと思われる。

幼児の頃から他人の家族と過ごし、そこには年上の女の子が二人いたが年齢的なこともあって男女など意識することなく姉弟同然の接し方をしていた。

小学校では高学年になってもクラスの男女は仲が良く、休み時間など一緒になって遊んでいたところ、他のクラスの男子がうらやましがって教室まで見に来ていたほどだ。

社会人になってからも男とか女とかを意識することなく、恋愛関係もないのに平気で腕を組んで歩いたし、嫌らしい意味ではなく、胸とか尻とか微妙な部分以外へのボディタッチなど日常茶飯事で、肩に手をおいたり褒める時に頭をなでたりなど当たり前の生活をしていた。

女性社員と二人っきりで食事をしたり酒を飲んだりもしたが、自分も、そして女性にも下心など一切なく、彼氏と喧嘩しただの、そろそろ付き合っている彼と結婚しようかと思っているとかいう恋愛相談だったり、仕事の悩みを聞くというのが普通のことだったのである。

それが当たり前だと思っていたというか、あまりにも常識すぎて意識すらしていなかったのだが、大阪に転勤になって同じように女性社員と接していると、周りの男性からそれはセクハラであると注意されてしまった。

その時、女性はどう受け止めていたか分からないが、とても不快な思いをしていたのであれば謝罪しなくてはならないし、セクハラだと訴えられる危険性もあっただろう。

職場において、地位や人間関係で弱い立場の労働者に対して精神的または身体的な苦痛を与えるパワーハラスメント、略してパワハラと言われるものがあるが、その点に関しては自分はむしろ戦ってきた方だと思う。

いまでこそ技術者不足から花型とも言われて高給取りもいたりするが、昔のコンピューター業界は、それはそれはひどい職場環境で、低賃金でありながら過酷な労働を強いられていたものである。

新卒で入社した新人がいつも夜の 8時くらいに退社していたところ、上司から早く帰りすぎだと注意されたという逸話さえ残っているその業界では、プロジェクトの締め切りが近くなると徹夜したり、何日も泊まり込みするのが当たり前でもあった。

締め切りに追われて仕事はキツイ、何日も帰らないから風呂にも入らず汚い、オタク系がそろっているから気持ち悪いという見事な 3K職場でありながら、どんなに徹夜しても会社に何泊しても残業代すら出ないというワンオペで問題になった 『すき家』 よりも過酷な労働だったのである。

それでも会社に文句を言う社員もおらず、裁判に訴える社員もいなかったのは今とは時代が異なるし、技術者どうしが結束することもなく、現状の不満を爆発させるほどのエネルギーすら残っていなかったからかもしれない。

職場などで妊娠・出産に関するいやがらせをしたり、妊娠を理由に退職を強要したり降格人事をしたりするマタニティーハラスメント、略してマタハラに関し、最高裁は妊娠の同意なしに降格するのは違法であると初めての判断をくだした。

男女雇用機会均等法の観点からすれば当然の判断かも知れないが、一方的に女性の立場だけを考慮し、女性の気持ちになって素直に喜ぶことはできない。

『同意なしに』 ということであれば、誰もが降格を喜ぶ訳もなく、何のわだかまりもなく素直に同意するとは思えないし、それが女性であるがゆえの不利益とも一概には思えないからだ。

男性社員であっても長期療養が必要な病気になった際に降格人事されてしまったという話しは山ほど聞く。

妊娠、出産は病気ではないにせよ、仕事を長期離脱することに変わりはない。

また、本人の努力によって地道に出世した地位を妊娠によって奪うことなど許されはしないとは思うが、たまたまの機会によって与えられている地位というのもあるだろう。

コンピュータ業界に良くあることだが、統率力、技術力が認められてチームリーダー、プロジェクトリーダーを任されることがある。

ある仕事全般の管理業務を任されるわけだが、各プログラマーの技量によって仕事を配分したりスケジュールを管理したり、上司との打ち合わせや外部との折衝などもしなければならず、まさにチームやプロジェクトの中心の役割を果たす訳だ。

その立場の人が長期間の戦線離脱は認められないし、もしやむを得ないのであればリーダー職を辞して離脱する他ない。

以前のように牧歌的な企業風土で、社員は全員家族という意識を強く持てるのであれば、妊娠を我が事のように喜び、子は宝なので家族(社員)全員で育てるのは当たり前、母親が出産、子育てで忙しいのであれば皆が協力しあい、助けあうこともできるだろう。

同じように社員が全員家族なのであれば、誰かの親に介護が必要になった際は皆が協力して会社を休みやすくしたり早い時間の帰宅や遅い出社をしやすくすることができるに違いない。

しかし資本主義がまかり通り、政府まで経済界、労働界に対して成果主義の導入を促しているのが現状である今、女性が働きやすい、女性が輝ける社会づくりとは相反しているように思えてならない。

どんなに綺麗事を言ったとしても、妊娠・出産・育児の際には仕事の目標値が下がり、成果をあげられなくなってしまうのは客観的事実である。

他の社員だって自分の目標を達成して成果をあげることを優先するのであれば、他人の仕事を手伝っている場合ではないだろう。

頭の悪い自分には相反するとしか思えない資本・成果主義と女性が働きやすく子育てしやすい環境を両立させて構築する方法は思いつかない。

いい大学を出た優秀な官僚、有識者であれば双方を一度に解決する妙案を提示してくれるのかもしれないが。

真性雑感 第十一版

真性雑感 ~目次~

■ オペレーティング・システム

つくづくマイクロソフトには愛想を尽かしてしまう。

先週の月曜に納品されたパソコンは Windwos 8.1 なのだが、それまでの Windows とがらっと雰囲気が変わってしまったので、以前までできていた操作も簡単にはできずにいる。

画面左下のスタートボタンをクリックすることで様々な機能やソフトウェアを起動することができたのに、クリックするとタブレット操作画面になってしまう。

それもマウスで操作可能なのだが、過去のものとは明らかに違うので戸惑いを覚える。

そして、スマホやタブレットと違ってパソコンの場合は設定項目が多いのは分かるが、それぞれがあまりにも分かりづらい。

もっと直感的に操作でき、もっと設定を簡単にすべきだろう。

こんなことをやっているからパソコン離れがおこり、タブレットにシェアを奪われるのである。

そもそも OS がバージョンアップするたびに買わせるとは何事かっ。

Apple の iOS だって Google の Android だって 7 から 8、3 から 4 になっても新しく購入させることなくアップグレードできるではないか。

使う側が望みもしないバージョンアップを繰り返し、古くなった OS のサポートを打ち切って半強制的に新しいものを買わせるなど、まるで悪徳商法だ。

そんなことばかりやっているから他社に圧倒的なシェアを奪われて、タブレットやスマホでの存在感が薄くなってしまうのである。

■ 火山噴火

戦後最悪の火山災害をもたらした御嶽山での行方不明者の捜索が打ち切られた。

自衛隊、消防、警察ともよく頑張ってくれたと思う。

まだ行方不明な人の家族は複雑な思いだろうが、生死をかけてまで捜索せよとは言えないだろうし、今までも危険極まりない現場で文字通り必死になって捜索してくれたのだから、これ以上の無理はさせない方が良い。

日本人だから、日本の組織だからこそ、ここまでやってくれたのだと思う。

これがあっちの国だったりそっちの国だったりした場合、ここまで徹底した捜索などしてくれなかったに違いないし、これほど丁寧に遺体を下山させてくれなかったと思われる。

なにせ捜査が面倒だからと事故車両を地中深くに埋めてしまったり、家族の涙の訴えを無視するばかりか執拗な訴えに対しては逆上したりするお国柄だ。

日本は治安も良く、もし何かあっても警察が事件を解決してくれるだろうし、海や山で何かがあってもきっと助けに来てくれるだろうし、最悪の場合でも遺体を家族のもとに届けてくれる。

危機感に乏しく避難の呼びかけが遅れたりする自治体も中にはあるが、それだってマスコミが糾弾するので改善されることが多い。

自治体や政治が何をしようと報道規制したり言論統制して何もなかったことにしてしまう、どこぞの国とは大違いだ。

■ 危険ドラッグ

脱法ハーブから危険ドラッグへと悪のイメージが強いように呼び名を変えても、販売する側も買う側も一向に減る気配がない。

もっとインパクトの強い廃人薬とかにしたら良いだろうなどと思いつつ、ネーミングを変えただけではどうにもならないだろうとは思ったりしている。

命を落とす危険性、他人に迷惑をかける危険性が高いと分かっていて、どうして手を出してしまうのか理解できない。

危険ドラッグを吸引した運転手が車から引きずり出されるシーンを以前のニュース映像で見たが、体はグニャグニャで眼の焦点が合わず、よだれを垂らしながらヘラヘラと笑っていた。

それは不気味というか情けないというか、平たく言えばもの凄く格好が悪く、決して親兄弟、友達どころかちょっとした知り合い程度にすら見せたくはない姿だ。

そうなってしまう、いや、そうなる確率の高いものをどうして吸引したいのか。

痴態、醜態をさらしたくない、そんな姿を見せる勇気のない自分には理解できない。

そして、意識障害、嘔吐、痙攣、呼吸困難などを引き起こす確率も高いと分かっていてなぜ吸引するのかという点においても理解不能だ。

気持ちが良くなったりするのであれば話しは分かるが、そうではなく悪い意味で体に変調をきたすことを覚悟してでも吸引したいのはドMだからなのだろうか。

■ 温暖化

近年になって北海道の海でブリが水揚げされるようになったとテレビが伝え、その漁が活況であるとのことだったが、そんなことに喜んではいられない。

かつては捕れなかった海産物が捕れ、農産物が育つなど温暖化とそれによる海水温の上昇以外に考えられないではないか。

今年もあちらこちらで大雨による災害が発生した。

過去最高の雨量という言葉をここ何年も繰り返し聞いている。

4日の雑感に書いたように大気も海水も無限には存在せず、宇宙から見るとほんのわずかな量でしかないのだから、汚すのも温めるのも簡単な事だ。

中国を始めとする途上国は、温暖化の責任は過去に無茶をした先進国にあると主張し、二酸化炭素の排出量を減らそうとしないが、過去には二酸化炭素の排出によって地球が温暖化するなど知らなかったのだから仕方ないだろう。

それが分かった今、排出量を制限するのは地球に住む者の責務ではないか。

勝手なことを言って汚い空気を偏西風に乗せて日本に飛ばしてばかりいないで、もっと環境のことを考えていただきたいものである。