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デジタル化の波 Signal-16

デジタル化の波 ~目次~

以前は一方的に提供される情報を手に入れる手段として使われていたインターネットも、最近では子供から大人まで様々な情報を発信し、その情報を共有し、それを評価することも可能だ。

発売された商品が良いものなのか買う必要のないものなのか、その使い勝手、食べ物であれば美味しさや好き嫌いまで主観的意見を発表できるし、購入検討の際にはその評価を参考にすることができる。

飲食店もネットによってあっという間に評判が伝わるので一気に行列のできる人気店にもなれるし、接客態度が悪かったり味がイマイチだったりすると一気に閑古鳥が鳴く状態に陥ってしまう危険性を伴う。

スマホやパソコンを持つ人が店に行く前、何かを買う前にネットで下調べする割合は 70%以上に達しているので商品を作る側、サービスを提供する側も大変だ。

情報をコントロールして良い評価を得ようとする場合、やり方を間違えると逆に猛反発をくらい、それが致命傷となって商品がまったく売れなかったり店であれば閉店に追い込まれるケースも少なくない。

つまりは消費者にとって便利、お値ごろ、美味しいものを作り、店であれば客が満足するサービスを納得いく価格で提供するという王道といえる基本的なことを順守すれば良いということになり、そんなことは当たり前ではないかという気がしないでもないが、最近は些細な事でヒステリックに騒いだり過剰反応するアホも多いので生産者、出店者も神経がすり減る思いをしていることだろう。

店員の接客態度が気に入らないからと言って店長や経営者に土下座させたり、必要以上に罵倒したりするところを動画や写真撮影してネットで公開する大馬鹿者までいる世の中では、お客様は神様ではなくお客さまはモンスターだと思えてしまうに違いない。

近年になって多発している大雨や竜巻による被害も、多くの人が高性能な携帯電話やスマートフォンを持ち歩くようになり、その状況を簡単に撮影してネットで公開できるようになったため、ものすごい臨場感で現場の様子が伝わってくる。

昔の人が怯えたように本当に龍のように見える竜巻が地上のものを破壊し、飲み込みながら目前に迫ってくる映像など偶然にその場に居合せた人しか見られない光景であり、それを多くの人と共有できることなど以前までは不可能だった。

数年前、巨大な隕石がロシアに落下したときも、まばゆい光を放ち、尾を引きながら上空を通過し、その直後に建物が激しく揺れて窓ガラスが飛散するほどの衝撃波に襲われるシーンも、それが前触れなく起こることである以上はカメラマンによる報道写真やニュース映像として記録することは困難だ。

しかし、今は簡単に動画が撮れるのでそれが世界中に配信される。

東日本大震災の津波、つい最近の御嶽山の噴火なども、少し前なら見ることができなかった映像だし、最近になって急速に普及し始めているドライブレコーダーによる事故映像も同様である。

デジタル技術の進歩で撮影機器が高性能化、小型化され、記録媒体も大容量化が進んだことで、以前までであれば大きなレンズの大きなカメラで大きなカセットテープを駆動させる大型の電池を必要としたものが手のひらに乗ってしまうほどになった。

そして、現像も必要なくデジタルデータを簡単にアップロードして全世界に発信できるようになった今、これからも世の中で起こる様々な場面が切り取られて世界中の人に見られるのだろう。

昔、友達や彼氏、彼女との連絡手段は手紙か電話しかなかったので、それはそれは極秘に事を進めるのに苦労を重ねたものであるが、今はパソコンやスマホがあるので親に知られることなく連絡が可能だ。

好きな時間に好きな場所で、いつでもどこでも連絡可能になったことで、待ち合わせ時間や待ち合わせ場所の確認も容易だし道に迷うこともない。

昔であれば待ち合わせ場所に待ち人が来ない場合、ただひたすら待ち続けるか腹を立ててその場を去るしか方法がなかった。

待つ場合でも、その場を離れたときに相手が来たらこまるので公衆電話まで行って連絡することも難しく、近くに電話があった場合でも相手がすでに家を出たあとでは連絡のしようがない。

約束を忘れたのだろうか、寝坊したのだろうか、もう家を出ただろうか、電車が遅れているのだろうか、そもそも約束は今日だったのだろうかなど、様々な思いが頭の中で渦巻き、不安にかられながらもただ待ち続けるしかなかったのである。

今は電波の届く場所にさえいれば簡単に連絡できるので相手の現状が分かるし、あとどれくらい待てば良いのかも分かるので、じっと待っている必要はなく、スマホにはヒマを潰せるアプリが山ほどあるので待つこともさして苦にならないだろう。

とても便利になった反面、ネットいじめのような過去にはなかった問題も多いのは副作用として致し方のないことなのか。

少し前はメール、今はLINEなどですぐに返信しなければならないという強迫観念。

少しでも仲間の機嫌を損ねたら完全に無視されてしまう怖さ。

以前は友達づくりが苦手な人、コミュニケーション能力の低い人でもネットの世界に逃げこむことができたが、今はその世界でさえ疎外されてしまう時代になった。

いったいいつからこんなことになってしまったのだろう。

こんなことで、今の子供達はまともに人間形成されるだろうか。

こんなことが続いた 10年後、50年、100年後の日本は、世界はどんな人間関係でどんな社会が築かれているのだろう。

将来も不安ではあるが、誰かを傷つけないように、誰かに傷つけられないように、嫌われないように、周りから無視されないように、神経質なまでに気を遣って生きなければいけない現代の子供の心を思うと、あまりにも切なくて胸が痛くなってしまう。

スケール

午前中、『お買い物日記』 担当者と話していて思ったのだが、耳から入った情報のみでその大きさや広さ、距離などを想像するのは難しい。

2011年 3月 11日に発生した東日本大震災は今も多くの傷跡を残しているが、あの過剰とも言える加熱報道によって、どれだけの人が不安になり、どれだけ世界に誤解を与えたことだろう。

当時の報道では、あたかも縦長の東北地方の太平洋側、地図で言えば右半分、そこまでではないにしても 1/4、1/3くらいは海水に浸かってしまったと錯覚するような勢いで大騒ぎしていた。

しかし、実際にはかなり大きな地図で見たとしても津波に襲われたのは海岸線から数ミリ程度の距離でしかない。

もちろん、それだって大変な被害ではあるが、まるで日本が津波に飲み込まれてしまったような勢いで報道するから海外メディアも驚いてしまい、国によっては日本への渡航規制を出すような騒ぎになってしまったのではないだろうか。

同時に発生した福島第一原子力発電所事故でも放射能、放射線がどうしたとか、どこの地域では何ベクレルを記録しただのと大騒ぎしたものだから、外資系企業が会社を閉鎖したり、日本で働いていた人が海外へ脱出する騒ぎになってしまったのだろう。

まるで福島県そのものが廃墟と化し、日本地図から福島県がなくなってしまったような勢いの報道が続いたが、実際には東北六県の中で最も面積が広く、海も含む半径 20キロは福島県全体からすればほんの一部にすぎない。

したがって、福島県産というだけで作物などを拒絶する必要などまったくないのにマスコミの過剰報道によって一切の出荷が停止されてしまった。

また、出荷した所で買い手がなく、廃棄されてしまうという悲しい現実も目の当たりにしたものだ。

そして、福島県全体が放射能に汚染されてしまったかのような錯覚を覚える過剰報道の余波で福島という地名がつくだけで観光などのキャンセルが相次ぎ、客が激減したものだから継続不能になってしまう事業者も多かった。

1997年、諫早湾干拓事業の潮受堤防の締切りでは、鋼鉄製の 300枚近い水門がまるでギロチンのように海に突き刺さっていくニュース映像が流され、全国に大きな衝撃を与えた。

あの豊かな有明の海がギロチンによって干上がり、生態系に壊滅的な被害をもたらし、風光明媚だった有明の観光事業にも大きな影を落として有名だったハゼ科のムツゴロウを釣ることもできなくなるとマスコミは伝えた。

その報道を見聞きしたとき、まるで有明海の入り口がギロチンによって塞がれ、有明湾そのものが消えてなくなるのではないかと思った人も多かっただろう。

しかし、実際には有明の諫早湾、それもその奥の部分なのでムツゴロウが絶滅するわけでも、それを釣るムツかけ漁がなくなるわけでもない。

国際宇宙ステーションがある宇宙空間は地表から 400Kmだ。

400Kmといえば、ちょうど直線距離で大阪-東京間である。

では宇宙はどこからかと言えば、地表から 100Km程度なので大阪からだと直線距離で滋賀県の彦根あたりか。

その直線を地図上に垂直に立ててみても驚くほど近い距離であり、それを世界地図、地球儀なのでやってみると地表から数ミリでしかない。

感覚的には地球を野球ボールやリンゴ程度の大きさと仮定すると、成層圏は少なくとも 1センチ程度はあるのではないかという気がするが、実際にはリンゴ程度の大きさだと 1ミリにも満たないのではないだろうか。

つまり、成層圏はその程度のものであり、それだけでしかないのだから、大気汚染などによって地球環境に大きな変化をもたらすのも当然だし、地球の空気を汚すことなど実に簡単なことだ。

成層圏でさえ地表から 100Km程度なのに、海の深さはそれの 1/10でしかない 10km程度が最深部と言われている。

つまり、世界地図を広げても深さは 1ミリあるかないか、リンゴだとちょっとしたキズやへこみより浅く、そこに水がへばりついているような感じだろう。

したがって、海を汚そうと思えば簡単に汚染できるほどの量しか地球には水が存在しないということだ。

マスコミは小さなことを大げさに騒いで見る側に実際より大きく錯覚させるような報道をするよりも、無限にあるように思えて実は有限で、それは思ったよりも少なかったり小さかったりするので大切にしなければならないと多くの人に知らしめるべきではないだろうか。

ショウコノコト

我が母ショウコは見かけも若ければ気も若い。

同世代が一堂に会する場では明らかに浮いており、見かけは実年齢より 10歳、いや、20歳くらい若く見えるのではないだろうか。

白内障の手術は受けたが視力はそれほど悪くない。

さすがに老眼にはなっているので近くのもは見えにくいらしいが、裸眼のまま 2-3メートル離れているテレビを見ているし、画面に表示される文字も問題なく読めているようなので、昔は視力を誇っていたにも関わらず乱視になってしまった自分なんかより遥かに良く見えるのだろう。

10メートル以上離れている家から出てきた人の姿も確認できるし、空に浮かぶ雲、飛んでいる鳥の姿も見えているようなので大したものである。

耳も遠くなく良く聞こえているようで、『お買い物日記』 担当者と自分が交わしているリビングでの会話にキッチンから参加してきたりするので、ないしょで悪口を言うこともできない。

言語だって黒柳徹子より明瞭だ。

一定以上の年齢になると、ろれつが怪しくなったりするものだが、昔よりゆっくり話すようにはなったものの今でも滑舌よくしゃべっているので会話には何の支障もない。

そんな自分を知ってか知らずか、そして自分を何歳だと思っているのか、もの凄く気が若いのもショウコの特徴だ。

先日の入院で同室になった人のことを話すとき、
「窓際のお婆さんが・・・」
などと言ってはいるが、実際には年下だったと思われる。

病室が暑いという話しをしたときも
「病室には年寄りもいるから寒がって・・・」
などと言っていたが、その6人部屋ではショウコが最年長だったに違いない。

とにかく自分が婆さんであるという自覚がないものだから着るものも普通の年寄りとは異なり、ちょっとオシャレなものを好む。

自分が着るものに気を使うものだから人が着ているものにも目が届くらしく、外出着を変えるのが面倒だからと前日と同じ服を着て病室を訪ねると、開口一番
「昨日と同じ服を着て・・・」
などと文句を言われてしまった。

白内障の手術を受けた人は術後に視界が良くなってハッキリ見えるようになり、鏡に写った自分の顔を見てシワの多さに驚くという話しを聞いたので、最初の手術を終えたショウコに言うと、
「まだ片目だけどシワの多さにも顔のたるみにも驚いた」
と言っていたが、よく考えれば今さらシワもたるみも気にする歳ではない。

普通の同じ年齢の人は、とっくにシワクチャのお婆ちゃんであるし、たるみなどという状況ではなく雪崩のように崩れ落ちた肌をしているものである。

テレビを見ていてクランベリージュースが体に良いと聞けば、そこら中の店に電話をかけまくって売っているか聞き、しまいには取り寄せさせて自宅まで配達させるということをやってのける。

昼間に日帰りで利用できる通所介護のデイサービスなどは普通であれば家族が行くように勧めたり手配したりするものだが、ショウコの場合は周りの人が行っているのに興味を持って自分で電話して手続きを済ませてしまう。

同じ話を何度も繰り返すのは他の老人と同じだが、ボケの症状は一切見られず、自分の言ったことは忘れて何度も繰り返すくせに人から聞いた話は忘れないし、日常の様々なことも息子である自分なんかより明確に記憶している。

二度に及んだ廃棄処理の一回目は業者に引き取ってもらわなければいけないほどのゴミの量となったが、その引取料がいくらだったか尋ねると、
「4,760円」
と、領収書も見ずに10円単位まで正確に言ってのけた。

10日前に支払った金額など自分も 『お買い物日記』 担当者も何も見ずに答えることなどできないので、その記憶力に驚いてしまう。

それでも物忘れが多くなってきているらしいのは、一回目の廃棄処理二回目の廃棄処理で分かるように同じものを何度も購入し、それが大量にストックされていることからも明らかだ。

とは言ってもその程度の事であり、だまされて何度も同じ所に送金してしまうとか、買った覚えのないものに金を払うということはない。

根が疑り深い性格なので、振り込め詐欺や悪徳業者からの勧誘、訳の分からない投資話などがあっても簡単には話しに乗らないだろうし、記憶力や頭の回転も鈍っていないので単純に引っかかってしまうこともないだろう。

とにかく我が母ショウコは、とても超高齢だとは思えないスーパー婆さんなのである。

いかにも年寄りで色々なところにガタが来ているようだと、いつまでも一人暮らしをさせている訳にもいかないが、本人に自覚がなく周りの人を爺さん、婆さんあつかいし、独居老人と言われることを嫌うくらい元気でいてくれるおかげで、長男という責任も強く感じず、責務を果たすのはまだ先のことと安心していられるので助かるというものだ。

可能であれば、これからも元気に一人で暮らすスーパー婆さんでいてほしいと切に願う。

廃棄処理 二回目

前回の地獄のような廃棄処理から 10日後の 9月10日、母親がまた新たなものを購入して冷蔵が一杯になっているのではないだろうかという一抹の不安を抱きつつ 2度目の帰省。

挨拶もそこそこに冷蔵庫を確認すると、前回 9月1日に食べていた漬物が残ってはいたものの、それ以外に増えたものはチューブの生わさびと牛乳くらいなもので、冷凍庫に至っては空の状態が維持されていた。

とりあえずは言いつけを守って余計なものは買わず、貰い物も食べきれなければ捨てるということを実践しているようだ。

翌日から再び入院する母親に今回は食器棚を片付けることを宣言し、使わないものは別の場所に移動するから不要な食器はどれか示すように言ったところ、普段使いの 10種類くらいを除いてすべて不要だとの答え・・・。

日が明けた午前中に母親を入院させ、午後からは棚の食器の片付け作業だ。

そこそこ大きな食器棚に入れられているグラス、皿の数は尋常ではなく、いったい何人の客を招いてホームパーティを開催するのかと問いただしたくなるほどであり、
「欧米かっ!」
と超懐かしのツッコミの一つも入れたくなる。

棚の仕切りの下から上までぎっしり詰め込まれた食器は、出しても出しても奥から出てくるため何度も腕を上げ下げせねばならず、おまけに昔のものは瀬戸物にしてもガラスにしても分厚くてしっかり作られているのでズッシリと重く、腕が疲れてプルプルしてくるほどだ。

湯のみ茶碗も一度に 50人の来客に耐えられそうな数に及び、茶を入れる急須もそれに匹敵するだけ棚に詰め込まれている。

今は誰も使わなくなったと思われるコカ・コーラ社の景品でもらったコカ・コーラやファンタのロゴ入りグラス、結婚式の引出物で貰ったと思われる夫婦茶碗もどれだけの夫婦が共同生活しているのかと言いたくなるほど何組も出てきた。

それら不要となった食器は前回の片付けで見事に余裕のできた別の棚に移動し、母親が普段の食事で使うのに必要なものだけ残す。

また、来客用の湯飲み茶碗も急須と揃いのものを 5個程度、それを二組だけ残してすべて片付け、コーヒーカップも 2-3組を残して他はすべて移動した。

これで懸案となっていた食器棚も片付き、ひと安心していると 『お買い物日記』 担当者が
「実は冷蔵庫の野菜室とかも気になってて・・・」
と言い出した。

確かに前回は通常の冷蔵部分と冷凍庫を整理したが、その下段と最下部の野菜室は手付かずのままにしていたのである。

中を確かめると賞味期限切れのものはあったが前回ほどではなく、捨てるものは少ないのは良いのだが、何らかの液や汁がこぼれて固まってしまっているではないか。

白内障で目の前に霧がかかったように見えていた母親は細かい部分まで見えず、冷蔵庫内がどうなっているのか分かっていなかったものと思われる。

このままにしておく訳にもいかないので冷蔵庫の引き出しを外して綺麗にしたところで力尽き、本日の作業はここまでとした。

翌日はこれも前回から気になっていた洗面所の一角を占める部分だ。

二階へと上がる階段の裏側を利用して物を置けるようにしてあるのだが、そこは母親自身も何を置いてあるのか把握できていないという。

『お買い物日記』 担当者がゴソゴソと置いてあるものを引っ張りだしてみると、
「クリーニング屋かっ!」
とツッコミたくなるほどの洗剤が姿を現す。

箱や缶の中からは
「コンビニかっ!」
とツッコミたくなるほどのレジ袋や包装紙も出てきた。

それらを要不要に分け、不要だと思われるものはゴミ袋に入れて廃棄処理。

ある程度早い時間に作業を終え、一息ついていると 『お買い物日記』 担当者が上を見上げ、
「あの棚には何が入っているの?」
と聞く。

キッチンの天井近くに作られ、扉が閉じられたままの棚には何が入っているのか、恐る恐る開けてみると
「厨房かっ!」
とツッコミたくなるほど大量の食器洗い用のスポンジが出てきた。

その他にも前回も多く出てきたポリ袋やらラップ、アルミホイルなども同じような数だけ出てくる。

おまけに謎の袋が何個もあったので開けてみると
「料亭かっ!」
とツッコミたくなるほどの出汁昆布が大量に見つかった。

その他にも塩や砂糖、ザラメや小麦粉、片栗粉にパン粉と、いつから保存されているのか分からないものも次から次へと発掘される。

それらを前回と同様に中身とパッケージを分けて分類し、すべてゴミ袋に入れていく。

それでも今回は生ゴミが小さめの袋で 4つ、燃えるゴミや燃えないゴミを合わせても通常のゴミ収集に出せる量だったので業者を呼ぶ必要はなかった。

ちなみに前回のゴミの処理費用は消費税込みで4,760円。

一万や二万の金が軽く飛んで行くと覚悟していたので驚いたが、しっかりと分別してあったので安く済むと業者が言っていたらしい。

ひどく疲れた分別作業ではあったが、それを聞いて報われた気がした。

前回ほどではなかったが、今回の作業もかなり疲れる作業ではあったものの、これも滅多にすることのない親孝行だと思えば自分自身に納得がゆく。

棚も冷蔵庫も整理されて使いやすくなったのだから、母親には生活するのが不自由になるまで一人で頑張っていただきたいものである。

田舎にて

今年二度目の帰省、それも前回からあまり日をおかずのことなので延々と実家で過ごしているような錯覚におちいる。

ここ、北国の豪雪地帯は冬の雪対策のため道幅が広い。

大阪の道路は車がすれ違うのがやっとという狭い道もあるが、そんな幅だと除雪をしたら道路沿いの家が埋まるか、脇によけた雪で人も歩けなくなってしまう。

こちらの道路は最低でも車が余裕ですれ違える程度の幅があり、ごく普通の道路でさえ 4車線くらいの広さで、交通量の多い道や国道は軽く 6車線、その両側には人が横 6列で楽に歩ける歩道、そしてさらに余裕を持たせて家が建っている。

その建物も高いビルなど存在せず、通常は 2-3階、高くても 5階程度だ。

だだっ広い道に低い家、視界を遮るものがないので空がやけに広く見える。

空気も澄んでいるので夜になれば広い広い空に無数の星が煌めく。

今は分からないが、子供の頃は肉眼で天の川が見られたほどだ。

暗くなると、今の時期は夏の虫と秋の虫が共演し、にぎやかな音を奏でる。

時間がゆっくりと流れているようで、身も心ものんびりしてしまう。

普段の生活ではテレビや音楽など何かしらの音がないと寂しいが、ここではテレビを見る時間も少ない。

食事中も無音のまま、なんやかんやと会話しながら箸を進める。

実に穏やかで優しい時間の中で意識がたゆとう。

•••••。

などと言っている場合ではない!

まだまだ実家の片付け中であり、今こうしている間も 『お買いもの日記』 担当者はドタバタと動き回り、ゴシゴシとあちらこちらを拭いている。

前回も今回も田舎の良さなど実感することなく、バタバタと忙しい毎日を過ごしたりしているところだ。

廃棄処理

これは母親の
「ここにお菓子があるから良かったら食べてね」
という一言に端を発する長い長い戦いの記録である。

8月27日からの帰省では、母親が白内障の手術を受けるため数日間の入院が必要だったので、実家で 『お買い物日記』 担当者と二人で過ごすという、初めての経験が待っていた。

冒頭のセリフは、病院に向かう直前に母親がキッチンにある戸棚を指さして言ったものだ。

病院に行って入院手続きを済ませ、叔母の家で昼を御馳走になってからブラブラと買い物をしたり懐かしい風景を見ながら長い時間をかけて歩いて帰宅し、その疲労感と多少の空腹感から先に聞いていたお菓子でも食べようかと 『お買い物日記』 担当者が戸棚を開けて中を物色すると、とんでもないものが次から次へと姿を現した。

それは、とうの昔に賞味期限の切れたお菓子の数々である。

確かにまだ切れていない物もあるので食べろと言った母親に悪気はないのだろうが、そのまま見なかったことにすることができないほど古いものまで混在しているではないか。

そこで 『お買い物日記』 担当者がはたと気づいた。
「そういえば冷蔵庫でもかなり古いものを見た」

そして、自分もはたと気がついた。
「そういえば冷凍庫で毎年同じものを見かける」

恐る恐る冷蔵庫、冷凍庫を確認すると、驚くほど古い物が奥の奥に押し込められていた。

翌日、病室で賞味期限の切れたものは捨てると母親に伝えたところ、
「うん、いいよ」
と軽く言ってくれる。

捨てられて困るものはないかと尋ねても
「ない」
とキッパリ言い切る始末だ。

それならばと、病院を早目に出て棚の菓子類、冷蔵庫、冷凍庫の食品、キッチン下に収納されている調味料類を徹底的に調べ、賞味期限が過ぎているものの廃棄作業を開始した。

どうやったらこんなに詰め込めるのかと思うほど冷蔵庫の中は食品であふれかえっており、古いものを選別しているとあっという間に大きなゴミ袋 5個にもなってしまったことに戸惑う。

足腰も弱り、体力もなくなった母親が、ずっしりと重いゴミを 5個も 6個も集積所まで持っていけるはずがない。

自分たちが帰るのは月曜日、ゴミ収集日は火曜なのである。

このゴミを捨てるために実家への滞在を一日長くしようかと思わないでもなかったが、これから先を考えるとまだまだ数は増えそうであるし、一般家庭から排出されるゴミの量をはるかに超えるものと予想されるため、家庭ごみを回収してくれる業者はないものかと調べてみると、電話帳には数件の業者が名を連ねていた。

問い合わせてみると一般家庭のゴミも収集可能だが、分別されていることが条件とのことで、分別されていない場合は業者側で作業するので別途料金が発生するということだ。

それならばと、すでに 5袋になったゴミを最初から分別し直し、以降のゴミもプラスチック、ビン、カン、可燃ゴミ、布や金属の埋め立てゴミ、そして生ゴミと細かく分別することにした。

冷蔵庫からは 20世紀に賞味期限が切れ、それから十数年が経過した骨董品に近いものや、得体の知れないドロドロした物体が保存された容器、原型が何だったのか判別不能なほど干からびたものが次々に現れては我々の度肝を抜いてくれる。

別の戸棚からは 136人が虫歯になりそうなほど大量の砂糖、68人の口から火が吹き出しそうな量の唐辛子、74人分はありそうなインスタントのお吸い物、茶碗 186杯分は赤飯が作れそうなアズキの缶詰、723人前以上の煮物が作れそうなだしの素、1019丁の冷奴に使えそうな花かつお、一生使えそうなだけの化学調味料など、老人の一人暮らしとは思えない量が出てきた。

まだ缶切りを必要する時代に作られ、中が膨張して天地が膨らんで開けるのに危険をともなうフルーツの缶詰も大量に見つかって途方に暮れる。

それらを一つ一つ開封し、中は生ゴミ、容器もそれぞれ分別するものだから時間の経過とともに握力を失い、疲労もピークに達してしまった。

作業を中断し、晩御飯を食べて酒を飲み、ドロのように眠る。

翌日も廃棄処理は続く。

53人くらいの子供が喜びそうなあめ玉、41人前はありそうな素麺、29人前くらいのうどん、すでに固形化しているインスタントコーヒーやクリープ、553人分くらいのお茶漬けのもと、325人くらいの年寄りが喜びそうな日本茶、油焼けしてしまって食べることのできない冷凍された肉や魚など、まだまだ出てくるが日が落ち始めたので二日目も終了。

三日目、退院してきた母親に必要か否かを尋ねつつ作業は続く。

何かに使うだろうと保管されていた空きビンやお菓子のカン、もやは何人前になるのか想像もつかないくらい大量な乾燥わかめ、干し椎茸、再び登場したかつお節やだしの素などを開封しては中を生ゴミ、容器を分別という作業を延々と続ける。

途中、前日の作業で捨てるか迷ったラッキョウを母親に見せると
「ああ、それササキさんからもらったの」
と言う。

「ササキさん?・・・」
「あのササキさん?」
「斜め向かいに住んでいたササキさん?」
「むかし良くしてくれたササキさん?」

・・・そのササキさんが娘に引き取られて引っ越し、遠く離れた町で病に伏せ、それがもとで亡くなってしまってからすでに何年も経っている。

「どうしてそんな古いもんを取っておくんだぁ!」
と言うと、
「あることすら忘れてた」
などと平然と言ってのける母親だ。

これでもかというくらい徹底的に棚の中を調べ、怪しい食べ物はすべて廃棄処理したところで少し休憩し、最後に古くなって色が変わってしまった保存容器なども少量だけ残してすべて廃棄処分にした。

最後は力尽きて 5袋ほど分別作業を諦めたが、それを含めると実に総数 26袋、軽トラだと荷台が一杯になってしまうほどのゴミが実家から排出されたのである。

これが、帰宅した翌日になっても疲れがとれず、ボロボロになっていた要因であり、全容だ。

もう二度と残り物を冷凍してはいけない、食べないものは捨てる、おすそ分けをいただいても食べられなかったら捨てる、大袋のものは買わず割高でも小袋のものを買うようにと母親に言い渡して来たが、果たして守っているだろうか。

白内障は両目の手術が必要だが、今回の手術は右目だけだ。

実は来週、12日の金曜日に左目の手術がある。

それに付き添うため 10日から 15日まで再び実家に帰ることにしているのだが、その際に冷蔵庫や戸棚をチェックし、もし食べもしないものが保管されていたらどうしようかと、一抹の不安を抱いたりしているところだ。

更新不能

帰省中であることと、朝から色々と大変な作業をしていたため、すでに体力の限界間近であり、握力も失われて指先がプルプルと細かく震えている状態なので雑感を書くことが困難だ。

この雑感をいつから書き始めただろう。

そして、いつまで書き続けるのだろう。

何があっても休まずに更新し続けてきたが、ついに今週は休むことになるのか。

そもそも、こうやって疲れ果てる原因となったのは母親であり、どうしてこんなことになってしまったのかを考えると腹立たしさすら覚えてしまう。

いや、もっとさかのぼって考えれば老いた母を一人にしている自分が悪いので怒っても文句を言っても仕方ないことではあるのだが・・・。

今回のことに関しては、ゆっくりと来週の雑感にでも記すとするか。

とにかく、今まで更新し続けてきた雑感が途絶えてしまうのが問題・・・。

いや、こうやって書き綴っているのがすでに雑感なのかもしれない。

そうだ、そういうことにしてしまえば良いのである。

虚栄

ここ数日の話題になっている 『アイス・バケツ・チャレンジ(氷水バケツ)』 は、自然発生的にネットの世界で広まった、難病の筋委縮性側索硬化症(ALS)の患者支援と認知度向上のため、ソーシャル・メディア(SNS)上で指名された人が 『寄付をするか頭から氷水をかぶるか』 を選んで実行するキャンペーンだ。

フェイスブックCEOのマーク・ザッカーバーグ氏、マイクロソフト元会長のビル・ゲイツ氏、ケネディ一族 20名以上やブッシュ元大統領など、そうそうたる面々が次々に動画を公開し、同時に寄付も行っている。

その映像から他意を感じることはないが、日本の経営者や著名人、政治家の映像は見ていて腹立たしいものが多いのはなぜなのか。

素直に見ることができるのは歌手の浜崎あゆみ氏、サッカー選手の香川真司氏、野球選手の田中将大氏くらいなもので、みんなの党代表の浅尾慶一郎氏、楽天の三木谷氏とその面々、ソフトバンクの孫正義氏らが報道陣のカメラに囲まれて氷水をかぶっているのを見ると虫酸が走る。

こういうものは少数のスタッフ、または友人などに撮影をたのみ、こっそり動画をアップするのがオシャレなのであって、
「今から話題になっている氷水バケツやっちゃいま~す」
的なノリでテレビ局や報道陣を集め、ニコニコしながらカメラ目線でやるものではないだろうし、そんなことをされても心には一切響いてこない。

3年前に発生した東日本大震災の時もそうだった。

台湾からの義援金が 200億円を超えたことが伝えられた時、同じ中国系でありながら反日感情をあらわにする本土とは異なり、親日家が多いお国柄とその善意に心から感謝したものだが、なんとその直後にソフトバンクの孫正義氏は個人のポケットマネーで100億円寄付すると発表したのである。

台湾の人たちがみんなでお金を出し合い、200億円を送ってくれた直後に発表することだろうか。

まして、孫氏の発表は 『寄付した』 ではなく、これから 『寄付する』 という内容であり、実際には 10億とか数億単位に分割されたものが翌2012年までに寄付された。

もちろん寄付したことに変わりはないし、その行為自体は褒められることであろうが、なぜあの時期に、まだ寄付してもいないのに、金額だけをマスコミに大々的に発表する必要があったのかという疑問が浮かぶ。

東日本大震災では多くの芸能人、著名人が寄付をしたが、大物になればなるほど大々的な公表は避け、後になって判明するケースが多かった。

その名前や支援方法などについては、こちらのブログに詳しくまとめられているが、ここに名はなくとも匿名で寄付した人も多いはずだ。

事実、黒柳徹子氏の名前が挙げられていないが、何かの番組で寄付したことを本人が認めていたし、ビートたけし氏も記されているように所ジョージ氏と 2人で 1000万ではなく、匿名でもっと寄付していると何かで聞いたことがある。

きっと高倉健氏だって吉永小百合氏だって歌舞伎界の大物や落語会の大物、大相撲の力士だって寄付しているに違いないし、中堅や若手のお笑い芸人にもひそかに寄付したり支援活動をしている人はいるだろう。

それを偉そうに公表しないのがオシャレなのである。

それを人の注目を集めてでしか実行できない人は虚栄心のかたまりであり、自己の虚栄心を満足させるための行為であるように思え、心から尊敬することができない。

もし自分にアイス・バケツ・チャレンジの指名が来たなら、心臓に難があるので氷水をかぶることはできないが、心ばかりの寄付を、こっそりとさせていただこうかと思う。

有名人から指名されるはずも、記者会見など開かれるはずもないのは分かっているが・・・。

タイミング

今年の夏はタイミング悪く、まだ 2回しか海でランチができていない。

狙いはカーっと暑く、それでいて空気がカラッと乾燥している日なのだが、それがなかなか難しく、今年はジメッとした日が多いのが困りものだ。

夏の初めの頃、少し寒い日に着られる薄手の長袖シャツがあったら良いということになって探してみたが、すでにどこも店内は夏物一色になっており、長袖など店の片隅で何枚かの売れ残りが寂しそうに吊るされているだけで、デザインの好みも違えばサイズも合わないものばかりだった。

それを教訓にすれば良いものを、学習能力に欠ける自分はそんなことをすっかり忘れており、今週になってから夏の部屋着にしている短パンを買おうと売り場を物色してみたが、店内はすでに秋一色になっていて、短パンなど店の片隅で何枚かの売れ残りが寂しそうに・・・・(以下同文) という間抜け具合全開の有り様だ。

こうなるとタイミングがどうしたということではなく、単に季節感も常識もないのが原因なのかもしれない。

それでも昨日の午後、大型スーパーの衣料品売り場とか全国チェーンの衣料品店ではなく、昔ながらの商店街にある町の洋服屋さんに行ってみたところ、まだまだ夏物の処分セールは続いていた。

その店はベビー服からスポーツ衣料、下着からパジャマ、雨具や腹巻きまでなんでも売っているが、客の年齢層が高いのでベビー服や子供服は祖父母が孫のために購入することが多いのだと思われる。

しかし、そんな庶民的で地域に密着した店であるからこそ、まだ気温が高くて暑い日が続けば夏物の服だって水着だって売っているのだろう。

夜になっても暑い日は発泡酒を飲んでノドを潤し、ぷは~っ!と一日の疲れを吹き飛ばそうと思って 6缶セットを夏の初めに 2つ購入しておいたのだが、なかなかそれを飲む機会がない。

平日は酒を飲まないので狙うは暑い週末や休日だが、ずっと暑い日が続いているのに週末になると涼しくなる確率が高く、発泡酒の在庫をなかなか減らせずにいる。

数日前から 9月上旬並という涼しい日が続いており、すっかり夏の終わりを思わせる雰囲気を醸しているが、まだ夏が終わってくれては困るのであり、発泡酒を飲んでぷは~っ!とやりたいと切に願う。

先月の雑感に書いたブルーレイ・レコーダーの買い替えは良いタイミングだったのではないか。

今は 4K対応の機種への切り替わり時期でもあるため、旧型のものは型落ちとなって安く売られていることと、消費増税前の駆け込み需要の反動で販売が落ち込んでいるのに加えて当時の在庫がダブついている可能性が高いので、安売り傾向が続くものと思われる。

本来であれば年末商戦が始まる前、学芸会や学校祭でビデオカメラ需要の高まりに合わせた秋の商戦で一段と値下がりする可能性が高いが、我家の場合は 8月と 9月に長く家をあける事情があるため、外出先からでもネット経由で録画予約できる新しい機種を必要としたのが購入の決断となった。

それでも満足度の高い買い物ができたので、これは我が家にとってベスト・タイミングだったものと思われ、そのきっかけを与えてくれた母親に感謝しなければなるまい。

実は今月と来月の 2回、母親が手術を受けるので家を開けることになった。

手術といっても老人特有の目の病気の治療であり、命に関わるような大病ではないので本来であれば付き添いの必要もないくらいなのだが、普段の親不孝が帳消しにならないまでも、せめて少しでも埋め合わせできるのではないかと思い、2度の手術の際には実家に帰ることにしたのである。

タイミング、手術のキーワードで思うのは 2008年に 『お買い物日記』 担当者が患った大病にまつわる様々なできごとだ。

あの日あの時、アメリカに住む次兄が余命の宣告を受けなければ、北海道に帰るという決断をしなければ、何ごともなく大阪に暮らしていたなら・・・、きっと 『お買い物日記』 担当者は命を落としていたのではないかと思う。

次兄にあんなことがあり、自分が持病の通院先を変える必要があり、その病院が家の近くであったこともあって、嫌がる 『お買い物日記』 担当者を無理にでも病院に行かせることができ、それが早期発見につながった。

あのまま大阪で過ごしていたなら、自分も強硬に病院行きを勧めず本人の意志に任せていただろうし、日々何かに追われているような切羽詰まった感覚の生活の中では体調を気遣う心の余裕もなかったことだろう。

そういう意味においては、北海道に帰ってくるのはあのタイミングしかなかっただろうし、そのきっかけは次兄を端緒とする様々な事情からだ。

今があるのはすべて次兄が与えてくれたタイミングによる結果だと心から感謝しつつ時は過ぎ、今年で 7度目の夏が、お盆が終わろうとしている。

血筋

血は争えないものである。

そう、子どもが父母から気質・性向を受け継いでいることは否定しようがない。

それはとなりの店の一家を見ていても良く分かる。

お父さんは片付けが得意ではないらしく、外出から帰ってきて家の前に自転車を置いたまま放ったらかしにし、雨ざらしになったり放置したまま次の日の朝を迎えることも珍しくなかった。

その自転車を新しくしてからは少し気を使うようになったようだが、それでも鍵をかけずに放置しておき、それに気づいたお兄ちゃんが鍵をしている姿も度々目に入る。

そのお兄ちゃんはお母さんの血を引いたのか、定期的に洗車をするし、物置から出したものは使い終わるとすぐに片付けるようだ。

たまに裏庭で一家揃ってバーベキューなどしているが、食べ終わって後片付けをするのもお兄ちゃんが率先してやっている。

お父さんの血をモロに引いているのは妹ちゃんだ。

自室の窓に洗濯物を下げることがあるのだが、それはどう考えても乾いているはずなのに取り込まれることはない。

何日でも、ともすれば一週間でも二週間でも窓際にかかりっぱなしで、なくなる時は妹ちゃんがそれを着た時だと思われる。

そして、残念なことに、父 → 娘の血は、確実にマユちゃんも受け継いでいるようだ。

部屋の窓に洗濯物を干したりはしていないし、あんなにしっかりしているマユちゃんではあるものの、帰省していて札幌に帰る際、自室の窓を開けたまま行ってしまったことがあり、その後に降りだした雨で我が家が窓を閉めようとしたところ、強風に揺れるマユちゃんの部屋のカーテンに気づき、慌てて妹ちゃんに教えに走ったことがある。

それ以外の細かなことでも、しっかりしているようで、どこか抜けているようで、それを見ていると 「ああ親子なんだなぁ」 とつくづく思う。

また、自動車運転に関しても見事に血筋が出るようで、お父さん、お兄ちゃんの場合はドアを閉めてからニ、三拍おいて発車するが、妹ちゃんとマユちゃんだと一拍もおかずに発車する。

そして、アクセルの踏み込み具合までそっくりなので、エンジン音を聞いただけでは誰が出かけたのか区別できない。

運転免許を取得した直後は運転の練習のため、毎晩のように母娘が二人揃ってドライブに行っていたので運転の仕方が似るのは当然のことかも知れないが、それにしても完コピしたかのように同じなのは運転のクセがそっくりなのであり、それは血のなせる技なのではないかと思う。

以前の雑感にも書いたように、マユちゃんの天性の明るさや人懐っこさ、愛想の良さは客商売をしてきた親子の血であろうし、本人は気にしてダイエットしているようだが、そんなことを気にする必要などないくらい体の線が細いのも祖母 → 母 → 娘と継いだ血筋だと思われる。

お買い物日記』 担当者の血筋に関しては以前の雑感に何度も書いたが、二人の兄と誰がどう見てもきょうだいに間違いないと言うほど顔が似ているし、ちょっとした仕草や表情もそっくりだ。

そして極めつけは寝姿で、暖かい時は三人とも手を上げて、バンザイ姿勢で寝る。

残念ながら次兄は若くして亡くなってしまったが、生きていて、そして近くに住んでいたならまだまだ似ているところが見つかったことだろう。

自分は父の血を確実に継承しているという自覚がある。

母は下戸で父は大酒飲み。

その酒がたたって命を落としたようなものだから、それを反面教師として深酒も毎日の飲酒もしないように心がけてはいるが、その気になれば自分でもビックリするほど飲むことができる。

かなり飲んでも、どれだけ飲んでも記憶をなくしたことはないし、酔いつぶれて他人に迷惑をかけたこともなく、吐くまで飲んだことも数えるほどしかないと思う。

相当量を飲めば酔いもまわり、声が大きくなったり陽気になったりするが、それすらも滅多になく、最初から最後まで変わることなく淡々と飲んでいる。

同じ飲むならポリフェノールを摂取できる赤ワインが良いのではないかと 『お買い物日記』 担当者が言うので試してみたところ、いくら飲んでも酔わないのでボトル一本を空けてしまい、仕方がないのでその後で焼酎を飲み直したこともあったくらいだ。

アルコールに強いのはまさに父親の血であろう。

そしてもうひとつ自覚しているのは骨格だ。

とくに足などはそっくりだと思っており、自分の足のすねを見ると父親を思い出すほどである。

父が亡くなって間もない頃、冬に帰省して家の周りを除雪したことがあるのだが、父が使っていた防寒着を身にまとっていたこともあってか、近所に住む人は父が生き返ったのか、幽霊でも見ているのかと腰を抜かさんばかりに驚いたと聞く。

身長もほぼ同じ、骨格もそっくりなので幽霊と勘違いされても仕方がないくらい周りから見ると似ていたものと思われる。

そんなこんなで、心からつくづく思う。

本当に血は争えないものである。