マユちゃんの挫折

今年の春、翼を大きく広げて旅立ったマユちゃんの前に大きな試練が立ちはだかった。

美容師になると決め、この春から札幌の専門学校に通っていたマユちゃんは、その実習中に腰の痛みを覚えたらしいのだが我慢して立ち続けていたらしい。

痛みは悪化する一方であり、ついにこらえ切れず病院を訪れたところ疲労骨折していたとのことで、美容師さんの前かがみの姿勢が問題視されてしまったとのことだ。

完治させるためには安静が必要で、負担のかかる姿勢を保たなければならない授業を数カ月間は休まなければならないし、これから先も美容師は無理かもしれないという医師からの宣告を受けてしまった。

労せず入れるはずだった大学への進学をも断ち、祖母の代から続く美容師への道を進むという決断をし、大きな夢や希望をもって歩み始めた矢先の出来事である。

あんなに可愛らしく良くできた娘さんに神は何という試練を与えるのだろう。

母親である隣の妹ちゃんと話し合いをした結果、美容師への道をあきらめ専門学校もやめることにしたのだが、挫折感を味わい、心を痛め、一番つらい思いをしているのは当人であるはずなのに、新生活の準備や学費で大きな出費をさせてしまったのに申し訳ないと親を気遣う優しいマユちゃんだ。

実はゴールデンウイークに帰省し、ニコニコ挨拶してくれていたときも、腰の痛みに耐えて授業を受けていたのかと思うと可哀想で仕方がないが、妹ちゃんも話しを聞いてそれは職業病というか、立ち仕事とはそういうものだと激励していたようなので、よもやこんな事態になろうとは夢にも思っていなかっただろう。

とても切なく、残念なことではあるが、冷静にマユちゃんの将来を考えると、これは運命的に救われた一面もあるのではないかと思われる。

となりの店は絶えずお客さんが来ている繁盛店ではあるものの、将来に一抹の不安を覚えないでもない。

第一には客層が高齢化の一途をたどっている。

北海道に帰ってきてここに住み始めて 6年、来店客の減少は目立つほどではないものの、妹ちゃんと同世代、それより下の客層は伸びず、若い世代のお客さんは皆無に近いものと思われる。

したがって、何年後かにマユちゃんが店に立ったとしても自分と同世代、それ以下の年齢層のお客さんは新規に開拓しなければならないだろう。

これから田舎の町も都会並み、大阪並に美容室が乱立するものと思われ、全国区の低価格チェーン店も続々と進出してきている時代にあっては、技術とかサービス、接客術だけで競争に勝つことは難しいに違いない。

ましてや少子高齢化で若い世代の人口も減る一方であるし、髪型などを気にして自身でお金を使える一番の客候補である 20代はデフレの申し子であり、失われた 20年を生きてきた節約・倹約世代ときては益々低価格化が進んで利益が圧迫されると予想される。

そんな厳しい世界に身を置くより、挫折したのがやり直しのきく若い時で良かったのかも知れず、まだまだ別の可能性を模索できることは幸いだとポジティブに捉えるべきだろう。

現在、マユちゃんは子供の頃から続けてきた英会話の特技を生かし、アルバイトで生計を立てているらしい。

本格的な英語教育が戦後 68年目にしてやっと日本に導入されようとしている今、英語ができる人材は引く手あまただろうし、事実、1-2時間で万の単位の金額になる仕事も多いのだという。

持ち前の明るさとキラキラした笑顔と、しっかりした信念に語学力があれば無敵に違いなく、これからのマユちゃんは前途洋洋であるに違いない。

同じく子供の頃から続け、人に教えられるほどの腕前である習字を外国人相手に教えるという一風変わったビジネスを始めるという手もあるだろう。

大きなビジネスにはならないだろうが、海外は日本、漢字ブームであり、訳の分からない筆文字がプリントされたTシャツも売れているので、一定の需要はあるのではないだろうか。

そんなことは頭の硬くなったオッサンが心配したり考えたりすることではなく、未来はマユちゃんが自らの足で進み、自らの手で切り開いて行くのだろうが。

残念ながら決めた進路を断たれてしまったマユちゃんではあるが、彼女の持っているポテンシャルは人並み以上であるし、彼女の持つ可能性は無限大である。

焦らずゆっくり考えて、また新たな道を歩み始めてほしいと心から願っている。

記憶 Memory-15

過去の記憶

度忘れは胴忘れとも書くが、その【 ど 】の意味は、単にど真ん中、ど根性などと同様に意味を強めるための【 ど 】であって、医学的意味も言語的意味ももたないらしい。

度忘れとは、よく知っているはずの事をふと忘れてしまい、どうしても思いだせないことだが、そんなことは今の自分にとって日常茶飯事であって決して珍しいことでもなく、加齢とともに悪化の一途をたどるのを覚悟しなければならないだろう。

以前から 『独り言』 やこの雑感に何度も書いているように、『お買い物日記』 担当者との日常会話もそれはそれはひどいものであり、まるで数学の虫食い算のように穴だらけの中、前後の文脈から何とか穴を埋めつつ予測変換などしながら答えを導き出して会話が成立する。

ある意味、それだけ頭の体操になったりしているのかもしれないが、答えが出ない時は会話そのものが成り立たないので大変だ。

会話に出てくる副題だったり関連する単語だったりするのなら大きな問題はないが、それが主題だったりするので入り口にたったままドアを開けられず、一歩も先に進めないという恐ろしいことになってしまう。

たとえば芸能人の話しをしようとした場合、その人物の名前を思い出すところから始まり、
「あれ誰だっけ?」
というのが会話のスタートとなる。

「ほら、昔何とかいうドラマに出てた目の大きな女優」
・・・こうなると、もう手がかりは目しかない。

そして、目の大きな芸能人は山ほどいるので手がかりとして何の役にもたたない情報であり、結果、名前を特定できず会話をスタートさせることすらできないのだが、それでも諦めきれずに
「いや、最近は見かけないと思ってさ」
などと言ってはみるものの、年間何百という芸能人が排出され、残るのは一握りの数人である現状を鑑みると対象の候補者は数千から数万の単位となり、特定するのは困難を極めるどころか限りなく不可能に近い状況になってしまう。

それでも、長いこと一緒に暮らしていると不思議に意思の疎通が図れるものであり、互いの穴を埋めあってなんとか会話が成立してしまうのは良いことだとは思うが、それに甘んじていると他の人との会話がまともにできなくなってしまうのではないかという不安がなくもない。

度忘れとは別に、どうしても覚えるのが苦手な人名というものがあるらしい。

自分の場合、大阪に暮らしていた時のご近所さんの名前をどうしても覚えられず、何度も 『お買い物日記』 担当者に聞いて呆れられいたが、それは今でも同じで当時の話しをしていて、その苗字を言おうとするとどうしても思い出せないことが多い。

確かにあまりない名字で耳馴染みがないこともあるが、逆に珍しい苗字であればインパクトが強くて覚えられそうなものなのに、どうしても記憶できないのが不思議だ。

芸能人にも記憶できない人がいるのだが、それは女優の米倉涼子だ。

今、この米倉涼子のことを書こうとしていたのに名前を思い出すのに必死だったくらいで、何度聞いても、何度覚えようとしても、どうしても記憶することができない。

いや、前述のご近所さんだった方の苗字にしても、最終的には思い出すので記憶はしているのだろうが、どうしてもその引き出しが錆び付いていてスムーズに開かないのである。

米倉涼子を思い出そうとすると、涼子はすぐ出てくるのに苗字は出てこず、広末涼子を思い出してしまって頭の中が広末でいっぱいになり、余計に米倉の入り込む余地がなくなるのだろう。

サラリーマン時代、年間の出勤日が 200日として 5年で 1,000日、それを考えると何千という単位で繰り返していたことが思い出せず、とてつもない恐怖に襲われることがあった。

数年に一度のことではあったが、ネクタイの結びかたが分からなくなるのである。

出勤前の着替えでワイシャツを着てスーツのパンツを履き、首の後ろにネクタイを回した所でピタリと動作が止まり、それから先、何をしたら良いのか右手を動かすべきか左手を動かすべきか、どちらの手にあるネクタイを上にすべきか何も思い出せない。

そんな自分が怖くなりつつも必死に結ぼうとするのだが、焦れば焦るほど頭のなかは真っ白になり、このまますべての記憶を失ってしまうのではないかという底知れぬ恐怖感に包まれる。

正確に計測したことなどないが、その度忘れしている時間を長く感じていてもきっと数分間、いや、もしかすると数十秒のことかもしれず、結局は思い出して遅れずに家をでることができるのだが、あのなんとも言えない感覚は二度と味わいたくない。

今はネクタイをすることなど稀になってしまったので、度忘れではなく本当に結び方を忘れてしまう危険性が高くなってはいるのだが。

真性雑感 第五版

真性雑感 ~目次~

■ プロ野球ペナントレース

セ・リーグで応援している阪神タイガースはジャイアンツと首位争いをしているので実に楽しく、以前の雑感に書いた巨人はスタートダッシュの効果は持続しているものの、じわじわと追い上げられ、日替わりで阪神と首位争いをするなど夢にも思わなかったことだろう。

3位以下を 8.5ゲーム差で引き離している(06/15現在)2強状態なので他球団のファンは面白くないだろうが、関西はきっと盛り上がっているものと予想され、シーズン開幕前の 3/27時点で優勝マジック 144を点灯させた尼崎中央商店街は大盛り上がりになっていることだろう。

北海道に帰ってきてからというもの、すっかり阪神タイガースの情報量が減ってしまい、久しぶりに試合を見ると顔を見ただけでは誰なのか分からない選手も多くなってきた。

逆に情報量が半端ではなく、これでもかというくらい溢れているため、とっても詳しくなってパ・リーグで応援する球団となった日本ハムはダントツの最下位だ。

上にはオリックスの姿が見えるものの、ゲーム差は 3と大きく、神風でも吹かない限りクライマックス・シリーズに進むことすら危ぶまれる。

あるテレビ番組で、応援している球団が弱い年でもプロ野球を楽しむ方法を阪神ファンに教わるという企画をやっていた。

すっかり常勝集団となった阪神タイガースのファンにそんなことを聞くのも失礼というものだが、以前まではファンですら自嘲気味にダメ虎だの何だのと言いつつも、どんなに負けが込もうが連敗しようが熱狂的に応援し続けていた、そんな姿勢に学ぼうと企画されたものだと思われる。

たぶん、それほど危機感が強いのだろう。

4/20の雑感に書いたように、道産子は選手を野次ったり怒鳴ったりすることは稀だが飽きやすいという欠点があり、ペナントレースや試合、球団への興味が薄れてくると何も言わずに去っていく危険性が高い。

そんな北海道民を日本ハムファイターズのファンに留めておくためにも必要な企画で、日ハム離れ、プロ野球離れが進むとテレビ局も高視聴率番組を失いかねず、ひいてはテレビ広告費の減少につながってしまうのでつなぎ止めに必死なのだろう。

交流戦の場合、阪神 vs. 日ハムというカードが実現してしまい、そんな時はどちらを応援したら良いものか困ってしまうが、セ、パ両リーグに好きな球団があるというのはなかなか良いもので、どちらかが低迷していても一方の調子が良ければシーズンを楽しむことができる。

今季は日本シリーズで阪神 vs. 日ハムは実現しないだろうが、いつかその日が来るのを楽しみにプロ野球を楽しもうと思う。

■ アベノリスク

その経済効果がすっかり薄れてアベノミクスはアベノリスクになりつつある的な論調が増え、株価下落と円高基調を憂うマスコミばかりだが、株価の下落は日本株が安いうちに買い越していた海外の投資家が高値で売り抜けたのが要因だと思うし、外国人投資家が日本株を売って資金を比較的安全な資産である円買いに回すのだから円安も当然だろう。

安倍政権が発足してまだ半年である。

もう半年と言えなくもないが、この半年間で示したリーダーシップ、行動力は民主党など足元にも及ばないほど力強く迅速であり、過去の自民党政権にも類を見ない。

他国のリーダーがやっているような、経済界の要人を引き連れての外交、製品や技術を紹介し、それらを売り込むトップセールスなど今まで見たことがなく、とても歯がゆい思いをしていたのだが、安倍首相は精力的に訪問団を構成して外交に努めている。

本当にできるのかは別問題として、聖域なき構造改革、規制改革も次々に実行しようとしており、この規制緩和ではなく規制改革という呼称には今までにない意気込み、信念が感じられ、できるところまでやってみなはれというサントリー的精神で見守りたくなろうというものだ。

それらの内容が盛り込まれた政策、いわゆるアベノミクスは株主のご機嫌取りでやっている訳ではない。

即効性があれば文句はないのだろうが、そんなに良く効くカンフル剤、劇薬など存在するはずもなく、基礎体力を回復させた上で手術するなり治療するのが王道であり、それ以外の近道など存在しないのではないだろうか。

したがって、本当にアベノミクスの効果が出始めるのに最低でも数カ月単位、年単位の時間がかかるだろう。

前回の衆議院選挙で自民党を選んだのが正しかったのかは、数年後にならなければ答えが出ないだろうし、短期に利益を得ようとする投資家と呼べないようなトレーダーの行動で上下する株価や為替が、アベノミクスの成否を決定づけるものでは決してないのだけは確かだと思う。

男と女の間には

男女平等だの雇用機会均等法だのと言われる世の中ではあるが、やはり持って生まれた性、遺伝子、DNAの違いというのは避けようもなく、意識的に振舞わない限り決定的な差を埋められるものではない。

毎朝の散歩で多くの小学生、中学生、高校生に会うが、中学生ともなれば体つきも男女の差は顕著になり、それが高校生ともなれば如実に現れ、平均的には男の子のほうが背が高く、体つきもゴツくなって男性らしくなってくるし、女性はしなやかに丸みを帯びてくる。

小学生のうちは体つきに大きな差はないし、変声期を迎えるまでは声の高低にも差がないので、見かけでは着ているものや髪型だけが男女の差だ。

しかし、男と女の間には目に見えない何かが確実に存在するらしく、それは小さなうちから行動に現れる。

女の子は小さな頃から母性というものを持ち合わせているらしく、下級生の扱いが実にうまいし、見ていて感動すら覚えることも少なくない。

近所の子なのか、妹や弟なのか、下級生と手をつないで登校する女の子をよく見かけるが、小さな子が文法的に理解困難なことをゴニョゴニョと話しているのを優しい笑顔で聞いてあげている。

男の子が下級生と手をつないで登校する姿もたまに見かけるが、多くの場合は親に言われたから渋々手をつないでいるだけといった雰囲気で、二人の間に会話はない。

下級生が何か困って話しかけたのに対し、上級生の女の子がしゃがんで小さな子と目線を合わせて話を聞いてあげる姿を見て感心したこともある。

そんな時も男の子は下級生の顔を見ることもなく、生返事で適当に相づちを打っているだけで、気持ちはかなり先を行く友だちの方に向いているようだ。

数日前、横断歩道で信号待ちをしている下級生と上級生の女の子がいたのだが、下級生が徒競走でスタートを待つように走る準備をしているのを見た上級生が同じようにポーズをとってあげて、信号が変わった途端に走りだす下級生の後ろをわざとゆっくり走り、先に反対側の歩道に着いて両手を挙げて喜ぶ下級生に向かってパチパチと拍手をしてあげていた。

何と感動的な姿だろう。

これが男の子であれば、相手が年下や女の子であろうと容赦なく、わざと負けてあげて相手をほめるなどということは頭の片隅にもなく、全力疾走で駆け抜けて勝ちを狙いに行くに違いない。

下級生が負けてくやしがったり泣いたりして初めて自分の立場に気づくが、その場を取り繕うこともなく先に進むというのがオチだと思われる。

下級生に優しく接することのできる女の子は、母親に優しく愛情いっぱいに育てられ、自分もそうされたからできるのだろうし、親が弟や妹にするのを見て接し方を覚えたのだろうが、それを実践できるのはやはり母性なり何なりがあるからだろう。

多くの男の子の場合、弟や妹を無事に学校まで送り届けるように親に命じられた義務感、使命感のみで行動するだけで、そこに愛情や思いやりが存在することは少ないのではないだろうか。

下級生のうちから女の子は数人が集まってペチャクチャと話しをしながら歩いていることが多いが、男の子は無意味に走る。

何の目的なのか、先に何がある訳でもなく、ゴールが定められている訳でも、時間に遅れそうな訳でもないのに、誰ということなく急に走り出し、数人が後に続くという謎の行動を良く見かけるのだが、走りだした本人に理由を聞いても答えられないだろうし、偉い先生が研究しても謎は解けないのではないだろうか。

理性や知性では推し量ることのできない行動などは、持って生まれた性(さが)、本能による歴然とした差となって表れているに違いない。

それは太古から続く遺伝子の継承による差でもあるので、無理に平等化、平準化を図る必要があるのか疑問だ。

機会の均等、対価の均等はもちろん必要だが、根本部分さえ均等であれば、細かなことまでルール化する必要などないような気がする。

表現力

もちろん、受け手の解釈力、読解力などの違いによって大きく左右されるが、情報の発信はとても難しいものであり、その深くて険しい谷底に転落してしまった典型が橋下徹大阪市長だろう。

その発言内容の信ぴょう性、的を射てるかどうか、正論か異論か暴論かは別としても、これほどの極論を発する人物に国政は任せられないだろうし、外交なんかもってほのかというのが一般的な意見だと思われる。

海外から見て日本人ははっきりと物を言わず主張性に欠けるとは言われているが、何でも考えなしにポンポンと発言して良い訳でもない。

特に外交などは相手のあることであるし、周辺各国の理解を得て味方してもらえるような戦略も必要となる。

日本が北朝鮮による拉致にこだわるあまり、アメリカ、中国、韓国、ロシアと歩調が合わず六カ国協議の足手まといになっている的な論調が一部の国際世論にあるが、韓国だって数百人単位で拉致されているのだから草の根で世論を動かし、拉致被害者の救出という点において共同歩調をとるべきだろう。

その韓国とは竹島問題でトラブっているので共同戦線を呼びかけることはできないが、尖閣諸島問題で対峙する中国の横暴を阻止するためにも、同じように領土問題を抱える国々と一致協力することが重要だと思われる。

中国と領土問題で争う国は実に多く、同国民でありながら争う台湾、モンゴル、ロシア、タジキスタン、アフガニスタン、パキスタン、インド、ミャンマー、ブータン、ベトナム、フィリピン、マレーシア、ブルネイなど、国境や海域が接するすべての国と紛争ネタを抱えていると言っても過言ではなく、海域が接していながら争いがないのは韓国くらいのものだ。

争いがないものだから韓国と一緒になって日本が悪いと責め立てているが、実は唯一無二の仲間が肩を組んでギャーギャー言っているだけの話しであり、周辺国では孤立状態にあるはずなのだが、そこは外交力でカバーし、日本と北方領土問題を抱えるロシアに接近を図っているし、犬猿の仲と言われるインド、パキスタン両国に対しても経済関係を強化している。

そういう微妙なパワーバランスを保ちつつ、自国の主張を通す繊細な作業が必要な外交で、いきなり日本が何もしないなら東京が尖閣諸島を買うとか言い出し、中国、台湾のみならずアメリカまで腰を抜かさんばかりに驚かせた石原閣下と、何を思ったのか、急に従軍慰安婦は必要な制度とか沖縄米軍は風俗店を活用せよとか言い出す橋下氏が共同代表を務める日本維新の会に、日本の未来を預けられるかと問われれば大きな疑問符が頭の10センチほど上に大きく表示されるだろう。

両者に情報や意見の発信力があるのは認めるが、表現力、説得力が伴っているかは疑問であり、周りとの軋轢が多いことからも、その能力は決して高くないものと思われる。

その点、表現力が不足していることが逆に魅力的で、少ない語句が勝手に肉付けされたり想像力で解釈するのが楽しかったのが小泉純一郎氏であり、その異才を見事なまでに継承しているのが息子であって政治家である小泉進次郎氏だろう。

本人は意識しているのか、いないのか、知ってか知らずか、その短く発する言葉に世間の注目が集まり、それが実に些細なことであっても深く思慮された言葉として解釈される。

なんと得な人柄なのだろう。

どんなに必死に説明しても人に伝わらないこともあるし、どんなに正論を吐いても軽々しい人物に見られてしまう人も多い中、短くボソッと言った言葉を周りが勝手に拡大解釈し、それが重みをもって伝えられるとは。

ただし、それは日本人同士だからこそ成り立つことであって、それが海外に通用するとは限らいとは思うが。

短くて分かりやすく、なおかつ表現力豊かな言葉。

それが身についたら元サッカーの日本代表監督で数々の語録を残したイビチャ・オシムのような名指導者か、アイドルが歌うポップスから大御所の歌う演歌まで手がける秋元康のような名作詞家になれるかもしれない。