記憶 Memory-15

過去の記憶

度忘れは胴忘れとも書くが、その【 ど 】の意味は、単にど真ん中、ど根性などと同様に意味を強めるための【 ど 】であって、医学的意味も言語的意味ももたないらしい。

度忘れとは、よく知っているはずの事をふと忘れてしまい、どうしても思いだせないことだが、そんなことは今の自分にとって日常茶飯事であって決して珍しいことでもなく、加齢とともに悪化の一途をたどるのを覚悟しなければならないだろう。

以前から 『独り言』 やこの雑感に何度も書いているように、『お買い物日記』 担当者との日常会話もそれはそれはひどいものであり、まるで数学の虫食い算のように穴だらけの中、前後の文脈から何とか穴を埋めつつ予測変換などしながら答えを導き出して会話が成立する。

ある意味、それだけ頭の体操になったりしているのかもしれないが、答えが出ない時は会話そのものが成り立たないので大変だ。

会話に出てくる副題だったり関連する単語だったりするのなら大きな問題はないが、それが主題だったりするので入り口にたったままドアを開けられず、一歩も先に進めないという恐ろしいことになってしまう。

たとえば芸能人の話しをしようとした場合、その人物の名前を思い出すところから始まり、
「あれ誰だっけ?」
というのが会話のスタートとなる。

「ほら、昔何とかいうドラマに出てた目の大きな女優」
・・・こうなると、もう手がかりは目しかない。

そして、目の大きな芸能人は山ほどいるので手がかりとして何の役にもたたない情報であり、結果、名前を特定できず会話をスタートさせることすらできないのだが、それでも諦めきれずに
「いや、最近は見かけないと思ってさ」
などと言ってはみるものの、年間何百という芸能人が排出され、残るのは一握りの数人である現状を鑑みると対象の候補者は数千から数万の単位となり、特定するのは困難を極めるどころか限りなく不可能に近い状況になってしまう。

それでも、長いこと一緒に暮らしていると不思議に意思の疎通が図れるものであり、互いの穴を埋めあってなんとか会話が成立してしまうのは良いことだとは思うが、それに甘んじていると他の人との会話がまともにできなくなってしまうのではないかという不安がなくもない。

度忘れとは別に、どうしても覚えるのが苦手な人名というものがあるらしい。

自分の場合、大阪に暮らしていた時のご近所さんの名前をどうしても覚えられず、何度も 『お買い物日記』 担当者に聞いて呆れられいたが、それは今でも同じで当時の話しをしていて、その苗字を言おうとするとどうしても思い出せないことが多い。

確かにあまりない名字で耳馴染みがないこともあるが、逆に珍しい苗字であればインパクトが強くて覚えられそうなものなのに、どうしても記憶できないのが不思議だ。

芸能人にも記憶できない人がいるのだが、それは女優の米倉涼子だ。

今、この米倉涼子のことを書こうとしていたのに名前を思い出すのに必死だったくらいで、何度聞いても、何度覚えようとしても、どうしても記憶することができない。

いや、前述のご近所さんだった方の苗字にしても、最終的には思い出すので記憶はしているのだろうが、どうしてもその引き出しが錆び付いていてスムーズに開かないのである。

米倉涼子を思い出そうとすると、涼子はすぐ出てくるのに苗字は出てこず、広末涼子を思い出してしまって頭の中が広末でいっぱいになり、余計に米倉の入り込む余地がなくなるのだろう。

サラリーマン時代、年間の出勤日が 200日として 5年で 1,000日、それを考えると何千という単位で繰り返していたことが思い出せず、とてつもない恐怖に襲われることがあった。

数年に一度のことではあったが、ネクタイの結びかたが分からなくなるのである。

出勤前の着替えでワイシャツを着てスーツのパンツを履き、首の後ろにネクタイを回した所でピタリと動作が止まり、それから先、何をしたら良いのか右手を動かすべきか左手を動かすべきか、どちらの手にあるネクタイを上にすべきか何も思い出せない。

そんな自分が怖くなりつつも必死に結ぼうとするのだが、焦れば焦るほど頭のなかは真っ白になり、このまますべての記憶を失ってしまうのではないかという底知れぬ恐怖感に包まれる。

正確に計測したことなどないが、その度忘れしている時間を長く感じていてもきっと数分間、いや、もしかすると数十秒のことかもしれず、結局は思い出して遅れずに家をでることができるのだが、あのなんとも言えない感覚は二度と味わいたくない。

今はネクタイをすることなど稀になってしまったので、度忘れではなく本当に結び方を忘れてしまう危険性が高くなってはいるのだが。