解釈

『二兎追うものは一兎をも得ず』 とは文字通り、二羽のウサギを追ったりしていると結果的にどちらも得ることができないという欲を戒めることわざである。

解釈の違いということではないが、これに関しては 『二兎追う者だけが、二兎を得ることができる』 という、貪欲に可能性に挑戦して大きな成果を期待すべきという反論的な言葉もあってなかなか興味深い。

本当に野山を駆けまわって兎狩りをしていたような牧歌的時代であれば前者が正しいように思うが、資本主義、実力主義、個人主義が台頭する殺伐とした現代社会においては後者の方が的を射ているのかも知れない。

そんなこととは一切の関係がなく、それをウサギのこととは知らずに 『二頭追うものは一頭をも得ず』 と何らかの動物を追う言葉だと思っていたのは 『お買い物日記』 担当者だ。

『船頭多くして船山に登る』 とは意思決定の重要性を説いたことわざで、民主党のように本当のリーダーは菅直人なのか鳩山由紀夫なのか、はたまた小沢一郎なのかハッキリせず、互いの顔色を見たり機嫌を伺ったりしていると国家があらぬ方向に進んでしまう危うさ、本来の進むべき道を見失ったり誤ったりした結果、船だというのに山に登ってしまうようなものだという意味である。

ところが、これを独自解釈した知り合いは、優秀な人材がたくさんいると船に乗ってですら山に登ることができる、つまりは不可能を可能にすることができるという意味だと力説していた。

なるほど本来の意味とは異なるが、文字だけ読むとそのような解釈も成り立たないことはなく、単に本来の持つ意味や解釈と異なるだけで文法的に大きな間違いはないだろう。

したがって、間違いなく相手に理解させるには他のことわざで 『役人多くして事絶えず』 を使うか、海外で使われる 『コックが多すぎるとスープがうまくできない』 を用いたほうが伝わりやすいのかも知れない。

ことわざなどという面倒なことではなくても解釈の違いは生まれる。

先週の雑感にも書いた若いころに勤めていたコンピュータ関連会社は若いエネルギーに満ちあふれていたが、当時は業界の慣例ともなっていた超不規則な勤務時間によって極端に体力を失い、エネルギーを奪われていた。

普段から終電に間に合うかどうかの帰宅時間で、マスターアップと呼ばれる仕事の納期が近づくと連日の泊まり込み、徹夜作業が常態化していたのである。

そんな時、三共製薬(現在の第一三共ヘルスケア)から画期的な風邪薬が発売された。

風邪の症状を抑える薬の多くは眠気をともなうため運転時や仕事中に服用するのをためらう人が多かったが、三共製薬から新発売になった風邪薬は眠気を起こす成分を含んでおらず、そのキャッチコピーは 『眠くならないカコナール』 というものだ。

ところが、そのキャッチコピーだけが強烈なインパクトを与え、風邪薬であると知らなかった若手社員は、徹夜のための準備として皆が薬局でカフェインなどを調達する中、カコナールを 10本ほど指名買いしてくるという暴挙におよび、先輩社員から大爆笑されるという事態に至った。

確かに商品を知らず、『眠くならないカコナール』 というコピーだけ脳にインプットされればカフェインなどと同様に眠気覚ましドリンクの一種だと思ってしまうことだろう。

酒を飲む自分を心配し、『お買い物日記』 担当者は肝臓に作用するゼリア新薬の 『ヘパリーゼ』 を買ってくれている。

テレビ CMでも飲み会などで疲れた肝臓に効くと謳っている、肝臓をいたわり、肝臓の動きをサポートする市販薬だ。

ここのところは酒を飲み始める前に服用するのが習慣になっている。

そして、薬を飲む際には
「酒を無限に飲めるようになる薬を飲まなきゃ」
とか
「酒を何杯飲んでも良くなる薬を飲まなきゃ」
などと、勝手な解釈を披露しているのだが、そのたびに
「ちがうでしょ」
と、『お買い物日記』 担当者の冷たいツッコミを受けている日々である。

記憶 Memory-14

過去の記憶

今回は今までのネタと異なり、子供の頃の記憶ではない。

ましてや自分の記憶にまつわることでもないことを取り上げることになるが、実際、身近に起こった出来事ではある。

若いころに勤めていた会社はいわゆるコンピュータ産業で、世にパソコンというものが広まる時期であったので技術者の平均年齢は 20代前半と若く、エネルギーに満ち溢れた職場だった。

そのエネルギーは休憩時間にも発散され、昼休みともなると外にあるテニスコートで汗を流す者、体育館でバスケットに興じる者など様々だったが、スポーツに興味のない自分は社屋の裏にある未開の地を進み、流れる小川に何か生き物はいないか観察したりしていたのである。

他にも何人か同じように休み時間を過ごす仲間がいたのだが、そのうちの一人が足を滑らせ仰向けに倒れたところ、そこに大きめの石があって頭部を強打してしまった。

幸いに怪我もなく、大事に至らなかったと思った矢先、今自分がどこにいて何をしているのか分からないと言い出す。

今は会社の裏手にある林の中であると、何度も教えているのに 30秒もしないうちに今どこにいるのかと尋ねてくる。

普段から冗談を言ったりする奴だったので、最初はふざけているのだろうと思っていたのだが、あまりにも執拗に場所を聞いてくるので冗談ではなく本気で言っているのか、本当に分からないのか確認したところ、転ぶ寸前までの記憶はあるが、それ以降はまったく覚えておらず、今している会話すら数秒後には記憶から消えるのだと言う。

これは大変なことになったと状況を上司に説明し、打ちどころが悪かったに違いないと脳神経外科に連れて行くことにした。

レントゲンや脳波の検査などが終わって医者が説明するには一過性全健忘(TGA)であり、何かのきっかけに突然発症するが、通常は 24時間位内に自然治癒するのだという。

今回の場合は頭を強打したことによるものだが、外傷も内出血も骨折もないので特に治療の必要もなく、一晩寝て起きれば治っているだろうとのことだった。

医者や本人が言うには記憶できないのは頭を打った瞬間からのことで、それ以前の記憶はあるので一人で帰宅できるとのことだが、やはり心配なので先輩の車で送り届けることにした。

その車の中でも 30秒おきに、それも延々と今日は何月何日なのかと聞かれて閉口したが、しつこいとかうるさいとか叱っても仕方のないことなので、ため息混じりに今日の日付を 30秒おきに、そして延々と答えていたところ、その会話とも言えない虚無な言葉のやりとりが急に止まる。

そして、すでに車内ではケンボーと呼ばれるようになってしまった健忘症の彼が
「今、道路に金髪のネーチャンの本が落ちていた」
などと言い出す。

一過性健忘であり、今は何も記憶できないという症状ではないのか!?

という大きな疑問を抱きつつも、金髪ネーチャンにのみ反応し、そんなことだけは記憶できる彼の性格というか脳のことが可笑しくてたまらない。

自宅に送り届けても、30秒おきに今日の日付を、47秒おきに金髪ネーチャンのことを繰り返す彼を見守っていると同棲中の彼女が知らせを聞き、仕事を早退して帰宅したので後を託して会社に戻った。

翌日、医者の言う通り症状は治まり、見事に社会復帰した彼は言う。

どうしても道路に落ちていた金髪ネーチャンの本が気になったので見に行くと、それは金髪ロン毛のロック歌手の写真が載った 『ヤングギター』 だったと。

それから何カ月もの間、彼は職場でエロケンボーと呼ばれるようになったのであった。

偏頭痛の変遷

一昨日から始まったお買い物日記』 担当者の頭痛はまだ続いている。

そもそも、この偏頭痛が始まったのは知り合って間もないころからであり、それまで定期的な偏頭痛などという症状はなかったらしい。

ひどい時は痛みに耐え切れず床に伏せることもしばしばで、嘔吐感をもともなうので食事もままならず、日常生活に大きな支障をきたすこともあった。

食事ができないので食後の服用を推奨する痛み止めの薬を飲むこともできず、無理に何かを食べて薬を飲んだとしてもすぐに吐いてしまって効果がない。

幸いなことに激しい痛みの中でも眠ることはできたので、頭痛が始まるとただひたすら眠って激痛が治まるのを待つしかないという状況だった。

数年前、『お買い物日記』 担当者は大病を患ったが、術後の化学治療は様々な副作用があり、中には激しい嘔吐感も含まれていたので、それを抑制する薬も処方されていた。

さらに開腹手術の痛みを和らげるために処方されていた痛み止めの薬の効果からか、しばらくの間は頭痛から解放されていた経緯がある。

それらのことから、頭痛が始まると市販薬ではなく処方薬を飲み、嘔吐感を伴った場合は同じく処方された吐き気止めを飲むようにしたところ、症状はかなり軽減されることが判明した。

これはもっけの幸いと、化学治療が終わって 4年が過ぎた今でも痛み止めと吐き気止めは一定間隔で処方してもらっている。

それというのも 『お買い物日記』 担当者の担当医も偏頭痛持ちで、その辛さが分かるので実際には必要のなくなった薬でも処方してくれるのである。

効く人には効くが、試してみなければ分からないという偏頭痛から開放される可能性がある漢方薬を処方してもらって飲んでいたこともあるが、その効果の判断基準である三カ月が経過しても治らなかったので、残念ながら断念せざるを得なかった。

世の中には同じように偏頭痛に苦しんでいる人は多く専門医もいるにはいるが、どんな治療をもってしても劇的な改善を望むことはできないようなので、これからも長く付き合うしかないと話していたところ、新たな情報を耳にする。

担当医が言うには、偏頭痛は加齢とともに症状が軽くなり、いずれ治まるはずだとのことだ。

それから数年、確かに発症回数は減ってきた。

以前は月に一度くらいのペースで痛みに襲われていたが、最近は 2カ月弱に一度くらいになったものと思われる。

そして、その症状は明らかに軽くなっている。

寝こむほどの激痛、嘔吐感を伴う症状は半年に一度くらいしかない。

その多くは軽度で済んでおり、何とか日常生活を送ることができる。

また、嘔吐感がなく食欲不振にもならないので油っこいものや香りのきついもの以外であれば普段と変わらぬ量を食べられることから、痛み止めを労せず飲むことができるのも明るい材料だ。

発症間隔が長くなり、その症状も軽度になっているのは喜ばしいことなのだが・・・。

『お買い物日記』 担当者としては担当医に言われた
「加齢とともに」
という部分がどうしても気になって素直に喜べないらしい。

物持ち

物持ちが良いとか悪いとか言うが、我家の場合は二人揃って物持ちが良いので、ほとんど骨董品のようなものが家の中に溢れている。

人に不快感を与えてはいけないので外出着には多少なりとも気を使うが、家の中で着るものなど寒さを防ぐ程度に身を守れば良く、夏などは最低限の部分だけ隠れていれば良いので、いったい何年前に購入したのか記憶の片隅にも残っていないほど古いものが多い。

また、着心地だったり肌触りが影響するのか、気に入ったものは身に付ける回数が多く、頻繁に着るがゆえに生地の痛みも早く激しくなるというボロのスパイラルに陥るものもあるが、どんなに古くなっても捨てるに捨てられないものも存在する。

大阪から北海道に引っ越す際に泣く泣く捨ててしまったが、何年も着続けたので良い具合に生地が体に馴染み、まるで肌の一部になったかのような着心地で、その肌触り、手触りも実に柔らかくて気持ちの良かった綿100%の部屋着があった。

あまりにも長く着たものだからヒジやヒザ、尻の部分の生地が薄くなって穴が開いたりしていたが、それをどうしても捨てることができず 『お買い物日記』 担当者につぎあてをしてもらったことも一度や二度ではない。

大阪生活は 13年と 5カ月間に及んだが、最初に住んだアパートから引っ越すことはなかったし、故障したので買い換えたテレビとビデオ以外は、ずっと同じ家電を使い続けた。

しかし、大阪に住むことになって購入したのはエアコン、冷蔵庫、電子レンジくらいなもので、それ以外は北海道から運んだものであるため使用期間は 15年とか 20年に達したものも多かったと思われる。

こちらに戻ってから住む家には多くのものが揃っていたので、冷蔵庫や洗濯機に乾燥機、電子レンジなどのいわゆる白物家電や家具は人に譲ったり廃棄したりしたため、そこで使用年数はストップしてしまったが、鍋などの調理器具、食器類は一緒に津軽海峡を渡って北海道に戻った。

それらのものは結婚当初に買ったものも存在するが、それより遥か以前、自分が初めて一人暮らしする際、『お買い物日記』 担当者が初めて一人暮らしする時に買い揃えたものも含まれる。

その時に買い揃えたものどころか、実家ですでに使い込んでいたのを持たされたものも少なからずあり、中には子供の頃の記憶に残っている食器まであるという物持ちの良さだ。

昔の鍋やヤカンは丈夫にできているのか、今でも問題なく使えるし、『お買い物日記』 担当者も自分も数年に一度くらいしか食器を割らないので、驚くほどの保存状態で相当な数が昔のまま残っている。

それには、あの阪神・淡路大震災の揺れでも被害を受けなかった強い作りのアパートに住んだ幸運も大きく関わっているだろうし、『お買い物日記』 担当者がヒステリーで喧嘩のたびに食器が宙を舞うということがないのも一因であろう。

そもそも喧嘩をしたことがないので 『お買い物日記』 担当者が食器を投げつけたりするかも分からなかったりするのではあるが。

食品の保存容器などもそうだが、かなり古いものをしげしげと見つめながら
「これってどっちが持っていたものだっけ?」
と話すことが多い。

そして、それは俺が、それは私が、結婚前から、一人暮らしを始めるときに、いやいや子供の頃から・・・などと記憶の糸をたぐりよせながら出処を確認したりしている。

もしかすると、それはボケ防止にわずかながらの効果があるかも知れない。