男と女の間には

男女平等だの雇用機会均等法だのと言われる世の中ではあるが、やはり持って生まれた性、遺伝子、DNAの違いというのは避けようもなく、意識的に振舞わない限り決定的な差を埋められるものではない。

毎朝の散歩で多くの小学生、中学生、高校生に会うが、中学生ともなれば体つきも男女の差は顕著になり、それが高校生ともなれば如実に現れ、平均的には男の子のほうが背が高く、体つきもゴツくなって男性らしくなってくるし、女性はしなやかに丸みを帯びてくる。

小学生のうちは体つきに大きな差はないし、変声期を迎えるまでは声の高低にも差がないので、見かけでは着ているものや髪型だけが男女の差だ。

しかし、男と女の間には目に見えない何かが確実に存在するらしく、それは小さなうちから行動に現れる。

女の子は小さな頃から母性というものを持ち合わせているらしく、下級生の扱いが実にうまいし、見ていて感動すら覚えることも少なくない。

近所の子なのか、妹や弟なのか、下級生と手をつないで登校する女の子をよく見かけるが、小さな子が文法的に理解困難なことをゴニョゴニョと話しているのを優しい笑顔で聞いてあげている。

男の子が下級生と手をつないで登校する姿もたまに見かけるが、多くの場合は親に言われたから渋々手をつないでいるだけといった雰囲気で、二人の間に会話はない。

下級生が何か困って話しかけたのに対し、上級生の女の子がしゃがんで小さな子と目線を合わせて話を聞いてあげる姿を見て感心したこともある。

そんな時も男の子は下級生の顔を見ることもなく、生返事で適当に相づちを打っているだけで、気持ちはかなり先を行く友だちの方に向いているようだ。

数日前、横断歩道で信号待ちをしている下級生と上級生の女の子がいたのだが、下級生が徒競走でスタートを待つように走る準備をしているのを見た上級生が同じようにポーズをとってあげて、信号が変わった途端に走りだす下級生の後ろをわざとゆっくり走り、先に反対側の歩道に着いて両手を挙げて喜ぶ下級生に向かってパチパチと拍手をしてあげていた。

何と感動的な姿だろう。

これが男の子であれば、相手が年下や女の子であろうと容赦なく、わざと負けてあげて相手をほめるなどということは頭の片隅にもなく、全力疾走で駆け抜けて勝ちを狙いに行くに違いない。

下級生が負けてくやしがったり泣いたりして初めて自分の立場に気づくが、その場を取り繕うこともなく先に進むというのがオチだと思われる。

下級生に優しく接することのできる女の子は、母親に優しく愛情いっぱいに育てられ、自分もそうされたからできるのだろうし、親が弟や妹にするのを見て接し方を覚えたのだろうが、それを実践できるのはやはり母性なり何なりがあるからだろう。

多くの男の子の場合、弟や妹を無事に学校まで送り届けるように親に命じられた義務感、使命感のみで行動するだけで、そこに愛情や思いやりが存在することは少ないのではないだろうか。

下級生のうちから女の子は数人が集まってペチャクチャと話しをしながら歩いていることが多いが、男の子は無意味に走る。

何の目的なのか、先に何がある訳でもなく、ゴールが定められている訳でも、時間に遅れそうな訳でもないのに、誰ということなく急に走り出し、数人が後に続くという謎の行動を良く見かけるのだが、走りだした本人に理由を聞いても答えられないだろうし、偉い先生が研究しても謎は解けないのではないだろうか。

理性や知性では推し量ることのできない行動などは、持って生まれた性(さが)、本能による歴然とした差となって表れているに違いない。

それは太古から続く遺伝子の継承による差でもあるので、無理に平等化、平準化を図る必要があるのか疑問だ。

機会の均等、対価の均等はもちろん必要だが、根本部分さえ均等であれば、細かなことまでルール化する必要などないような気がする。