生態

いいかげん、オッサンであるからして、たいがいのことは知っている。 いや、知った気になっていたりするのであるが、実際のところは無知であり、何にも知らないことを思い知らされたりする。 自分が無知であることすら知らないのだから、実におめでたい根っからの阿保だったりするのかもしれない。

以前の雑感に書いたように、大人になるまでどれが薬指なのか正確に把握していなかったし、たまに 『独り言』 に書くように日本語の語源を知って感心することも多い。 自分は世の中のどれだけのことを知っているのだろう、実は何も知らないのではないかと不安になることもあるが、だからといって勉強する気になどならないという体たらくぶりだ。

最近になって義姉から 「タンポポは夜や雨天の日は花を閉じる」 と教えてもらった。 タンポポは子供の頃から良く見る花であり、確かに花が開いているのもあれば、たまに花を閉じているのもあるのは知っていた。 ただそれは、まだ開花前のタンポポなのだろうとしか思っておらず、一度咲いたタンポポが花を開いたり閉じたりしているなど考えもしなかった。

日が沈み、暗くなるまで外で遊んでいたのに昼間咲いていたタンポポが花を閉じていることを意識すらしなかったし、雨の日に花が咲いていないことにも気づかなかった。 子供の頃は花をめでることなどしないので、知らなくても気にしなくても当然かもしれないが、この歳になるまで知らなかったのは恥ずかしい。 そんなことは常識であり、知らなかったことを人に言えば笑われるかもしれない。

北海道もやっと本格的な春らしくなってきたので朝の散歩中にも多くのタンポポを見かけるが、見る目は以前と異なり、日陰になっているタンポポが花を閉じていることも雨の日は花を開いているタンポポが極端に少ないことも十分に意識したり確認しながら歩くようになった。

その散歩中、クルミなどの木の実が落ちていることがあるのだが、その中に人間でも困難であろうと思われるほど綺麗な真っ二つに割られたものも落ちている。 クルミ割り人形があるくらいなので、簡単に殻を割ることはできないし、道具を使って割ったとしても、あれほど見事な真っ二つにすることはできないのではないかと思われる。

いったい誰の仕業だろうと不思議に思っていたのだが、先日のテレビで動物の生態を放送しており、その中でリスがクルミを真っ二つにしているシーンがあった。 そう、04/17 の独り言に書いたリスたちが食べたものなのだろう。 テレビでは様々な動物を紹介しており、リスについて詳しく教えてはもらえなかったが、生態についてもっと知りたくなってしまった。

広く大きな公園に生息する鳥や動物、植物などの生態についていろいろ調べてみたいという欲求が頭をもたげてはいるのだが、以前にもスズメの生態を少し調べただけで、季節ごとに渡ってくる鳥などに興味を持ちつつも詳しく調べることなどしていない有様である。

やはり勉強など自分には向かないようなので、生態についてもの凄く気になったときだけネットでチョコチョコっと調べることにしようと思う。

時の流れ

今日は 2月に他界した義兄の納骨がとり行われた。

無理な延命処置はしないと事前に医師と話し合いはしていたが、数時間かけて徐々に低くなる血圧、徐々に弱くなる呼吸、そして徐々に遅くなる心拍数を見ているのは本当に辛かった。

臨終と告げられても実感はなく、ただ呆然とたたずんでいる病室は、狭い空間でしかないはずであり、そこに家族や病院関係者が入っているのだから息切れすら感じてしまうほどの圧迫感があって然るべきなのにやけに広く感じた。

これ以上の悲しみはないのではないかと思われるほど悲しく、ただ辛く、まだ四十代の若さで逝ってしまった義兄を想うと胸が張り裂けそうになった。

家族葬で送ることにしたのが残された者にとって良かったのか、それとも逆だったのか、通夜、告別式とも弔問客がある訳でもなく、慌しさで気がまぎれることもないまま、ただただ深く、底が知れないくらいに深い悲しみに包まれた。

迎えた初七日、お寺さんのお経を聞いている間も元気だった頃の義兄の姿が思い出され、目頭が熱くなる。

七日ごとの御参りで少しずつ悲しみが和らぎ、あれだけ大きかった心の波が小さく小さく、さざ波のように穏やかなものへと変わる。

そして四十九日と納骨。

小さな骨になってしまった義兄が、それでも今日まで一緒に家にいた義兄が墓に入り、この家から居なくなってしまうという寂しさはあるものの、胸を突き上げるような、心の奥底から湧き上がるような悲しみに包まれることはなく、静かに、あくまでも静かに納骨を済ませることができた。

敬虔な仏教徒ではなく、普段はバチ当たりな ”なんちゃって仏教徒” である自分だが、七日ごとの御参りで少しずつ悲しみが和らぎ、四十九日になると人の心は落ち着き、故人が墓に入るのが当然であり、それで故人も落ち着くに違いないなどと思えるようになるのだから、よく考えられた日数だと感心する。

四十九日も経てば・・・というのが統計学的に導き出されたものなのか、お釈迦様の教えであるのかは不勉強であり、なんちゃって仏教徒なので分からないが、時が流れて悲しみが心に染み込み、溢れ出すことがなくなるのに十分な日数であることをつくづく実感した一日である。

マサルノコト scene 19

突然ではあるが、マサルは目が細い。 体型はコロコロしている。 お笑いコンビ 『ホンジャマカ』 の石塚英彦、最近では 「まいう~」 でおなじみの彼を想像すると分かりやすい。 キャラ的に似ていることをマサル本人も嫌がってはいないようで、数年前まで届いていた年賀状にはホンジャマカ石塚の顔がプリントされたりしていたものである。

そのマサルの細い目が、常人と比較してどこまで視野が狭いのか気になって計測したことがある。 それはよくある測定方法で、ある一点を見つめたまま、上下左右どこまでの範囲で他の物体を捕捉できるかというものだ。

まずは左右を試してみたが、180度を越えるところまで見えているようなので一般人と変わりはない。 目が細いといっても小さい訳ではなく、横幅は差がないので見えて当然か。 次に上下を計測してみたところ、明らかに常人より視野が狭い。 普通であれば下はアゴのあたりから上は眉毛のあたりまで見えるはずなのに、その範囲が異常に狭いのである。

そんなマサルを馬鹿にして笑い転げていたが、大人だったマサルは 「うるせー」 などとは言うものの、本気になって怒るわけでもなく、一緒になって笑ったりしていた。 ずいぶんと長い付き合いになるが、今まで一度も喧嘩をしたことがないのはマサルが大人で、自分が勝手なことやワガママなことをしても我慢したり許してくれていたからだろう。

scene 13 に書いたように風紀委員長をしていたマサルは鬼の検査官でもあった。 今の中学校の校則がどのようなものか分からないが、同時は人権蹂躙もはなはだしく、服装から髪型まで事細かに規定されており、規定以上に髪を伸ばそうものならハサミを手に生徒を追いかけ回すような、現在であれば大問題に発展しそうな教師までいたくらいだ。

抜き打ちで持ち物検査をしたり、髪形の検査などもあったが、そんな時に率先して働かなければならないのもマサルの仕事だ。 当時、校則なんかくそ喰らえで髪を伸ばし、良からぬ物を隠し持っていた自分だが、カバンの中からコソコソと見つかってはならぬ物を制服のポケットに忍ばせ、伸びた横髪を耳にかけ、後ろ髪を制服の襟の中に隠して斜め上を見ながら嵐が去るのをじっと待っていた。

誰がどう見ても怪しい雰囲気をプンプンに振りまきながら息を潜めているのだが、髪の長さを計る定規を手にしたマサルは自分のところだけは適当に検査しながら、小声で 「おまえ、ええかんにせーよ」 と言って立ち去っていく。 当然、他の生徒たちからは 「きったねー」 とか 「ずるーい」 などと罵声を浴びせられるが、「うるせー」 などと言って毎回のように見逃してもらっていた。

教師もそれに気づいてはいるものの、「しょうがないなー」 とでも言いたげに苦笑いしながら見てみぬふりをしていてくれる。 もちろん、本格的に悪いことをすると教師に呼び出されて何時間も説教をされたし、時には思いっきり殴られもしたが、少々のことには目をつぶって見逃してくれる度量があり、「あなたのクラスの、あの生徒は・・・」 などと他の教師から言われても意に介さずにいてくれた。

勝手気まま、自由な中学校生活を送れたのは、マサルも含めた周りの大人たちの度量と、優しさによって守られていたからであると今になって思う。

裁判員制度

裁判員制度が来年から始まるが、本当に日本でその制度が成り立つのだろうか。 仕事を持つ人の場合、事件の内容を詳しく記した資料を読む時間があるのか。 小説のように物語になっているのならまだしも、難しい専門用語が入り混じった面白くもなんともない文章を読んで全容を把握することができるのか。 そもそも裁判所に足を運ぶ時間があり、会社がそれに理解を示すのか。

昨今の妙にショーアップされた報道番組で 『犯人許すまじ』 的な偏った内容を見せられ、被害者がどれほどまで苦しんでいるか、被害者の家族がどれほど悲しみ、犯人を憎んでいるかを見せつけられた後で、先入観なしの冷静な判断など可能なものなのか。 ついつい極刑の判断を下してしまいがちにならないものか不安を覚える。

客観的な判断ではなく、報道番組の主観がたっぷりブレンドされた内容に感化され、本当は無罪の人を 「どう考えても怪しい」 という理由だけで有罪にしてしまうことはないだろうか。 逆にどんな状況であれ罪を償わなくてはならない人を 「今まで不幸すぎたから」 とか 「可哀想な人だから」 などという理由で軽微な刑で終わらせてしまう危険性はないのだろうか。

今の世の中で一切の情報を遮断し、裁判所から提示される資料や公判の内容だけで事件を把握するのは困難きわまりないだろう。 あふれる情報の中から本筋をとらえ、偏った意見に左右されずに自らの意思で判断を下すことなど難しいのではないだろうか。

そして、特に日本人の場合は人の意見に左右されやすく、自分は 「無罪かもしれない」 と思っていても大多数の人が 「有罪だ」 と言えば流されてしまう危険がある。 また、複数の人が集まれば自然にリーダー格の人が現れ、自分の意見に近い路線でまとめようとする動きもでるかもしれない。 威勢のいい人が多く発言し、口下手な人、他人とのコミュニケーションが苦手な人が思ったことを言えないことも考えられる。

似たような制度である陪審制や参審制を導入している欧米各国のように個人主義であり、YES か NO かを明示し、「私はこう思う」 と自身の意見を主張できる国民性が必要だと思うが、そんなことが日本人にできるのだろうか。 勝ち馬に乗りやすい日本人が大多数の反論者を前にして 「これこれこういう理由から私は無罪だと思う」 などとは主張できない人が多いのではないだろうか。

あまりにも情け容赦ない判断ばかり続くのもどうかと思うが、大岡裁きばかりになってしまうのも問題で、その辺の加減も難しい。 そして、そのバランス感覚だけで担当している事件に判断を下すことも避けるべきだ。 やはり、ひとつひとつ個別の事案ごとに極めて冷静かつ客観的な判断が求められる。

めぐり合わせによって、誰がどの事件の裁判員に選出されるか分からないが、もし世間の注目を集めるような大事件に関わったとしたらどうだろう。 『光市母子殺害事件』 のように世間の注目度が高く、情報が氾濫し、なおかつ極めて判断が難しい事案の場合、自分だったらどうするか。

被害者遺族である本村氏の話や、各種報道の内容だけを受け入れた場合、「そんな奴は死刑にしてしまえ」 と短絡的に思ってしまう。 しかし、本当にそれで良いのか。 たしかに当時少年だった加害者側の弁護団には変わった人が多く、法廷戦術も納得できない。 それでも、加害者に反省の情が芽生え、少しでも更生の可能性があるのなら極刑に処すのは避けるべきなのか。

本当にこの日本で裁判員制度が成り立つのか多くの疑問が残るが、制度導入に反対していた人が日本弁護士連合会の会長選挙に落選したことでもあるし、流れは 2009年 5月からの開始に向けて強まっていくのだろう。

その時、自分にだけは順番が回ってこないことを強く祈るだけである。