生活の再認識

北海道に帰ってきて約一カ月、辛いことや悲しいこと、慣れないことや疲れることなど色々あったが、ようやく生活のリズムを取り戻しつつある。 朝は散歩がてらに近所を散策し、どうにか土地勘もついてきた。 もともと知らない街ではなく、法事が主ではあるが何度も訪れていたので最初から違和感はないのだが、生活するとなれば細かな道も知っておいたほうが良い。

もともとが道産子なので最初から知っていたことではあるが、長い大阪暮らしですっかり忘れており、あらためて思い出したり実感したりすることも多い。 最初に実感したのは信号無視する人がいないということだ。 大阪であれば、車も来ない道を信号が赤だからといって待っている人など学校でしつけられている小さな子供くらいなもので、大人では皆無に等しい。

ところがこちらの人は子供であれ大人であれ老人であれ、信号が青に変わるのを待っている。 当然といえば当然なのだが、そのあまりにも当然過ぎることが新鮮だったりする。 そういえばこういうものだった。 最初は大阪の人たちの信号無視に驚く自分がいたが、いつの間にかそれに慣れてしまい、当然のように道路を横断していた。 その感覚は改めねばなるまい。

散歩をしていて妙な感じがするのは風景がスカスカしていることも一因だ。 そのスカスカ感は高い建物がないこともあり、空がやたらと広く見えることもあるが、道幅が広いことも大きい。 北海道は雪対策のため道幅を広くする必要がある。 大雪が降って除雪する際、雪は道路の端に積み上げられるので、あらかじめそれを想定した広さが求められるのである。

そして、歩道も広い。 大阪であれば狭い歩道を人が行き交い、ジリンジリンとベルを鳴らした自転車が人の間を縫うようにして走るというのが日常の光景であるが、こちらではベルを使う必要がないくらいに余裕を持って通行できる。 それほどの人が歩いていないのが現実であったりするのではあるが。

そして、もうひとつのスカスカ感は家と家の間隔が広いことにある。 大阪は家が密集し、その間隔が 30cm くらいしかないところもあり、「いったいどうやってペンキを塗ったのだろう」 と不思議に思えるくらいだったが、こちらは家と家との間が最低でも 3m 以上は離れている。 これも理由は雪にあり、屋根から滑り落ちた雪が隣家の壁を直撃しないようにという配慮だ。

北海道の家には雨どいがない。 そんなものがあったところで、雪が降れば崩壊してしまう。 したがって雨は屋根を伝い、そのまま落下するのでダダ漏れ状態となってしまうが、そんなことは気にしてなどいられない。 雪から家を守るほうが重要なのである。

さらに北海道の家には雨戸がない。 そんなものを閉めていて凍り付いてしまったら、朝から晩まで暗い部屋で過ごさなくてはならなくなる。 そういう事態を避けるためには、最初から雨戸などないほうが良いのである。 ガラス窓であれば、たとえ凍って開かなくなっても日の光は入るので、暗く不便な思いをすることがない。

それ以外にも生活様式の違い、文化の違いなど関西とは様々な違いがあるが、とりあえずは散歩をしながら辺りを見渡し、北海道のことを身近なレベルから再認識している毎日だ。

再認識

今回の引越しに関わる一連のことで、携帯電話の利便性と実力を改めて見直すことになった。 コンピュータ業界に携わり、パソコンの利便性に関しては熟知しているつもりだが、あまりにもそれに浸かり過ぎていたため、携帯電話を過小評価していたのである。

今までも携帯電話は所有していたが、それは携帯などと呼べるものではなかった。 第一、在宅勤務になってからは外出の回数がめっきり減ったので携帯する必要がない。 家に置いてあっても用件は固定電話にかかってくるので電源を入れておく必要すらない。 たまに外出する際も 『お買い物日記』 担当者が携帯電話を持っていれば、自分まで持つ必要がない。

むしろ休日や時間外に仕事の電話を受けるのは面倒だったので、あえて携帯しなかったというべきかもしれないが、とにかく携帯されない電話でしかなく、単に基本料金を払っているだけ馬鹿馬鹿しい無用の長物と化した文明の利器だった訳であり、たまに使うとしても音声通話が主で、E-mail の送受信など年に数通しかない状況だった。

それは主にパソコンを使っていたため、「何も親指だけで文章を作成することなどあるまい」 と思っていたのでり、実際に携帯で文字入力をしようとするとイライラして床に投げつけたくなったりしていた。 おまけにパソコンと比較して処理能力が劣り、「Web ページなんぞ見られたものではない」 と思っていたので使用頻度はますます低下する。

「使い物にならない機器」 という偏見から、機種変更もしなくなる。 いつまでも古い機種を持っているから輪をかけて使用頻度が低くなるという悪循環に陥り、結果的に通話もメールもしなければ、携帯もせず電源も入れない単なる電子部品の塊となってしまっていたのである。

今回は義兄の件があったので、いつどんな時でも連絡の送受信が可能なようにする必要があった。 それまで使っていた携帯端末は機種が古いこともあり、電池の寿命が極端に短くなっていたことと、一世代前の規格だったので通信速度が遅いことなどを理由に新しい機種に変更することにした。

そこで目の当たりにしたのは技術革新が恐ろしいほどの速度で進んでいる事実である。 搭載しているカメラは 500万画素を超え、通信速度はカタログスペックで下り 3.1M 上り 1.8M にも達している。 実際に手にしてみると、それまで使っていたものとは明らかな差があり、E-mail の送受信、ブログへの書き込み速度もストレスを感じないほどになっていた。

ただし、文字入力だけは相変わらずのストレスで、自分の指が思い通りに動かないことがもどかしい。 頭の中で文章を組み立てている速度で文字入力ができない。 しかし、これは機器のせいではなく自分側の問題なので克服するしかない。

機種変更してから新居に電話回線が引かれるまでの数週間、携帯電話は本当に活躍した。 長兄夫妻との密な連絡、各種事務手続きの連絡先としての登録、仕事関連の E-mail 送受信、交通機関の予約や運行時間の調査、そして 『管理人の独り言』 をはじめとするブログの更新。 これだけ使いまくると文字入力にも慣れて、ギャルばりの速さではないにせよ、ある程度の速度で入力できるようにもなった。

ずっと小ばかにしていたが、携帯電話の持つ利便性、その性能、その将来性に今更ながら感服し、今までの偏見を改め、その重要性を再認識しなければならないと心に誓ったりしたところではあったのだが、自宅に光回線が通り、最新のパソコンを導入した今、やっぱりパソコンの利便性や能力、文字入力のし易さはすばらしいと再認識したりしているところだったりするのである。

惜別の後

先週の雑感に書いたように、義兄が他界してから 『お買い物日記』 担当者と二人で遺骨を守っている。 そして、ここは 『お買い物日記』 担当者を含むきょうだいが生まれ育った街だ。 しかし、暮らしているのは 『お買い物日記』 担当者の実家のようで、微妙に違う少し表現が難しい家だ。 本当に実家と呼べる家は別の場所にあったのだが、今は解体されて公園になっている。

この家は、高齢で少し体が不自由だったご尊父が暮らしやすいよう、限りなく段差の少ないバリアフリー、失火のリスクを低減させるオール電化を実現しているが、建築当時はまだまだ世の中にその概念は浸透しておらず、建築業者も注文どおりに施工してくれないため、何度も何度もやり直しをお願いしてクタクタになりながら長兄が建築会社と丁々発止とやりあい、すったもんだの挙句に苦労して完成にこぎつけたものだ。

しかし、残念ながらご尊父が暮らすことができたのはわずか半年、その後に体調を崩され還らぬ人となってしまった。 その惜別の後、人からは借りたいとか売ってほしいとかの話があったようだが。 和室に大きな仏壇もあり、転勤族である長兄が持っては移動できないこと、この街できょうだいが集まる場所がなくなってしまうことなどを理由に人手に渡さずにいた。

わずかな期間でも親が住み、仏壇もあるので 『お買い物日記』 担当者の実家であると定義できるが、本人に思い入れがないのでイマイチ実家とは呼びづらく、単に ”地元にある家” 的な感覚だ。 まあ、自分としては実家らしいところに住むのでは ”マスオさん状態” みたいになってしまうし、あまり実家という実感のないところに住む方が気が楽だ。

ここに住むことを決めたのは、きょうだいが生まれ育った街であること、最期は義兄と一緒に暮らしたいという 『お買い物日記』 担当者の希望があったこと、そして長兄が人手に渡さず空家のまま管理してくれていたからだ。 余命は告げられていたものの、三カ月と言わず、半年と言わず、一年でも二年でも義兄と一緒に暮らせることができればと思っていた。

医者からは入院の必要がなく、好きなものを食べ、安静にしてゆっくり生活するように言われていた。 肝臓は沈黙の臓器とも言われるように、まったくと言っていいほど痛みを伴わない。 他の臓器へガン細胞が転移しないかぎり、苦しむことはないだろうとも言われていた。 ゆっくりと、おだやかに最期を過ごせるのだろうと、長くはなくとも一緒に暮らせると思っていた。 しかし、残念ながらその想いはかなわず、それどころか我々が北海道に帰って三日後に義兄は逝ってしまった。

長期入院を覚悟し、病院から徒歩 5分の場所にマンスリーマンションを半年契約で借りたのに、そこに荷物すら運び入れる前に、そこに二晩しか寝ていないのに。 その日の夜から交代で泊り込むつもりで、病院に許可をもらう書類を提出したのに。 何かあった場合の緊急連絡先を病院に伝えたところなのに。 病室で履くスリッパも準備したのに・・・。

義兄が他界してしまった今、この街にそしてこの家に住む意味を失ってしまった。 むしろ合理的、積極的な理由などないと言って良いくらいだ。 しかし、義兄がこの街に呼んでくれたのだろう。 法的には別の家系に属するが、『お買い物日記』 担当者の実兄であることに変わりはないので四十九日までは遺骨を守り、納骨後も仏壇を守っていこう。

きっと義兄が導いてくれたのであろう流れに身を任せ、この街に根付いてみることにする。 生活の拠点、仕事の拠点を移し、この街で義兄の想い出とともに静かに暮らしていこうと思う。

惜別の日

2月21日の 16時 33分、この 『雑感』 や 『独り言』 に何度か書いたことがあるアメリカに住んでいた義兄が他界した。 そう、『お買い物日記』 担当者の実兄である。 その三日間は本当に悲しく、心がつぶされそうだった。 最善を尽くしたつもりではいるが、後悔がないと言えば嘘になる。 事実を受け入れなければならないのは分かっていても、認めたくない自分がいる。

義兄が体の不調を訴えたのが昨年のクリスマス。 それから、たった 2カ月後のことである。 今年に入り、1月 10日にアメリカで診察、翌日には結果が出て、初期の肝硬変であろうと知らされた。 ところが、すでに腹水が出るほど病状は悪化しており、14日には腹水を抜き、さらに詳細な検査をすることに。 結果は 18日に知らされ、一刻も早く日本に帰るべきだという結論になった。

「一刻も早く・・・」 この一言が重く心にのしかかる。 正確なことを知らされてはいないが、一刻を争うとなれば重大なことである。 気は焦るものの、アメリカでの仕事、生活を清算して帰国するには、それ相応の時間が必要だ。 それでもアメリカで多くの人達の助けを借りて、何とか日本時間の 01/30(水) に成田空港に到着することができた。

実はアメリカでの検査結果を FAX で受信し、日本の医者と相談したところ肝硬変だけではなく、かなりガンが進行しているらしいことは分かっていた。 それでも何とか治療の見込みがないかを調べてもらうために日本で最先端だと言われる 『国立がんセンター』 で検査を受けることになった。 皆がそろって結果を聞きたいということになり、01/31(木)に東京行きを決める。

そして 02/01(金)、義兄の余命が 3カ月と告げられる。 久しぶりに会った義兄はすっかり痩せてしまっており、これが年末まで元気に仕事をしていた人だとは信じられないほどだ。 医者の言葉を借りると、手術をするのも不可能、放射線治療、投薬治療も不可能、このまま静かに余命を過ごすしか方法はないという、論理的かつ合理的でもあり、冷徹、非情でもある宣告だ。

そして、その宣告を本人である義兄も一緒に聞かされた。 これが自分なら泣き叫ぶか、やぶれかぶれに暴れだしそうなものだが、義兄はあくまでも冷静に聞き入れ、これからの過ごし方に関して質問までしている。 その宣告はあまりにも突然で、自分は感情をコントロールできず、ただショックを受けて悲しみすらわいてこない。

その日の夜から翌日、その次の日も 『お買い物日記』 担当者と話し合った。 義兄は長兄夫妻と北海道で過ごす。 何かあった時に飛んで行ける距離ではない。 そして、残された少ない日々、そばにいて、できることなら一緒に暮らしたいと 『お買い物日記』 担当者は言う。 自分はと言えばネット回線さえあれば、どこにいても仕事はできる。 02/03(日) の夜遅く、大阪を離れることを決めた。

それからのドタバタは二月の 『管理人の独り言』 に書いている通りで、普段の何倍も忙しい時間を過ごす中、義兄の具合が悪くなったとの知らせを受ける。 今暮らしているのは長兄、次兄、そして 『お買い物日記』 担当者が生まれ育った地元だが、転勤族である長兄の家で義兄である次兄は過ごしていた。 そのままそちらで過ごすか、地元に帰って過ごすかは義兄の判断に任せるつもりだった。

ところが病状の急変で、そのどちらでもない街の病院に入院することが決まった。 そこで急遽、病院近くのマンスリーマンションへの入居を契約し、そこを前線基地として生活することを決断。 大阪で出した引っ越し荷物は 21日に ”本拠” に届く手はずになっている。 その中から最低限、必要なものをマンスリーマンションに運び、病院での寝泊りをも覚悟して 02/19(火) に北海道に帰ってきた。

病院に着くと義兄はまた痩せてしまっており、東京で会ったときより一段と体力が落ちているようだ。 それでも笑顔を交えて会話し、我々が大阪から北海道に戻ったことを喜んでくれていた。 そして翌日、昨日の元気はなく、少し話はするものの、一日の多くを眠って過ごしている。 前日は少し調子が良かったので、その疲れが出ているのだろうと思っていた。

そして 21日、”本拠” に引っ越し荷物が到着する日だ。 マンスリーマンションから徒歩 5分の病院に行き、長兄夫妻と合流して荷受作業に向かう予定だった。 病室に入ると義兄はこちらに背を向けてベッドに横になっている。 回り込んで様子をうかがうと、吐血しているではないか。 慌てて看護士さんを呼び、処置をしてもらう。 その時はまだ、こちらの呼びかけに対して返事がある状態だった。

長兄夫妻が到着し、今日は引っ越し荷物を受け入れることができるか話し合う。 担当医とも相談した結果、延期した方が良いということになり、引っ越し屋さんにお願いして荷物をストップする。 病室では義兄が一時間おきくらいに吐血している。 呼びかけにも反応がなくなり、いわゆる昏睡状態になってしまった。 しかし、その際にもまだ、義兄は持ち直して一時的にではあっても退院できると信じていた。

ところが時間の経過とともに血圧が低下し、心拍数も低くなり、ついに 16時 33分、医師から臨終を告げられる。 体の不調を知らされたのも、余命を告げられたのも、そして他界してしまうのも、あまりにも突然すぎる。 今日、マンスリーマンションで生活環境を整え、今夜から泊り込みで看病するはずだった。 これから何日も一緒にいるはずだった。 いろんな話をするはずだった。

余命を告げられていた義兄は 「葬儀の必要はなし」 と言い残していた。 30年弱もアメリカで暮らしていた義兄が日本で葬儀をすると、様々な人が遠方から駆けつけることになり、迷惑をかけることになるので 「すべてが終わってから、一部の人だけに連絡してほしい」 と。 そして、長兄夫妻と 『お買い物日記』 担当者、義弟である自分の 4人だけで送ってくれたらそれで良いと。

本人の意思に従い、密葬よりも小さい 『家族葬』 ができる斎場で義兄を送った。 親戚縁者からの申し出も断り、本当に限られた身内だけで義兄に別れを告げた。

そして今、義兄は生まれ育った街に戻り、『お買い物日記』 担当者と自分と三人で静かに暮らしている。

限界

先週は引っ越しの荷物も到着しておらず、あまりにも辛い出来事も重なったため、雑感の更新をすることができなかった。

今日もまだネット環境が整っていないので携帯からの投稿である。

もう二週間も操作しまくっているので、かなり慣れてきたが長文は辛い。

この辺がオッサンの限界である。

体力も限界、気力も限界、携帯操作も限界。

それでも生活するため、荷物整理だけは続けなければならない。

限界を超えて動き続けなければいけないのである。