ビーズクッション

先週の続きになってしまうが、家でリラックスするのに欠かせないのがビーズクッションである。 これはもう、10年以上も使っているので体の一部のようになっており、普段の生活に欠くことのできない重要なアイテムだ。 その重要かつ便利なアイテムを引越しの際に廃棄してしまった。

大阪で使っていたものは、それこそ 10年以上も前のものであり、側は薄汚れているわ、タバコ臭くなっているわ、中のビーズもしぼんで小さくなっているわの惨憺たる状況だったので、北海道までの大移動を断念せざるを得なかったのである。

引っ越してきてからはテーブルとソファがあったので、それほどの必要性を感じていなかったのだが、04/27 の独り言に書いたように家具がなくなると、どうにも落ち着かない。 ここはやっぱりビーズクッションしかないと思い、早々に買いに出かけた。

ところが、どの店を探しても見つからない。 お気に入りのものが見つからないのではなく、ビーズクッションそのものが売られていないのである。 大阪では生活雑貨を扱っているイズミヤでも目にしたし、苦労せずに手に入れることができたはずなのに何かがおかしい。

北海道人はビーズクッションを使う習慣がないのだろうか。 それとも北海道まで流通していないのか。 いや、そんなはずはない。 廃棄したのは北海道で購入したものだ。 ん? ということは、13年以上も使い続けたということなのか? いや、今はそんなことを考えている場合ではない。 何とか愛しのビーズクッションを入手しなければ。

という訳で、店で売っていないのであれば仕方がない。 ネット通販で購入だ。 あちらこちらの有名な通販サイトを探してみたが見つからない。 おかしい。 もしかしたらビーズクッションなど超時代遅れで、今はどこにも売っていないかもしれないという不安が胸をよぎる。

それでも必死になって検索しまくり、やっとの思いで見つけたものの、種類は極端に少なく、デザイン的にも選択肢が限られる。 もしかしたら時代錯誤もはなはだしく、今時は誰もビーズクッションを欲しがらないのに必死になって探していたのだろうか。 何せ廃棄してきたものは 10年以上前に購入したものと思われる。 時は流れ、今や存在価値すら失ってしまったのだろうか。

少ない種類の中からではあったが、それでも何とか妥協できるものを探し出して注文した。 現在は届いたビーズクッションを時にはソファ代わりに、時には座椅子のように、時にはマクラ代わりにと十二分に活用して充実した生活を送っている。

どんなに時代が変わろうと、これだからビーズクッションはやめられない。

動線

二月下旬にこの家に住むようになってから三カ月、やっと体が馴染んできたような気がする。 大阪で暮らした十三年間、一度も引越しをしなかったので、その家の構造に体が馴染んでしまっており、頭で考えなくても行動することができたが、この家ではそうはいかず、何をするにも頭を使う必要があったので感じない程度のストレスが蓄積されていたのではないかと思う。

当たり前のことではあるが、玄関を入ってからリビングまで、キッチンの位置、トイレ、風呂、寝室の配置が違う。 そこまで異なれば意識して動くので問題はないが、小さなことで多くの戸惑いを覚えてしまうのである。 たとえばトイレのドア。 大阪で暮らしていた家とは開け方が左右逆だ。 大阪では右手でドアノブを回していたが、ここでは左手で開けることになる。

最初はどうしても右手でドアノブを回してしまい、トイレに入るには左手に持ち替えるか体を一回転させなければならない。 毎回トイレの前でクルクル回っているわけにもいかないので 「左手で開けなくちゃ」 と、トイレの前で一瞬考える。 風呂の入り口も左右逆だ。 こちらの場合も裸でクルクルしている場合ではないので浴室に入る前に 「左手で開けなくちゃ」 と立ち止まって考える。

洗顔のコツも最近になってやっとつかめてきたところである。 十三年間も使い続けてきた洗面台とは、その高さ、大きさ、奥行き、蛇口の長さまで違うので、顔面の泡を洗い流すために身をかがめて蛇口にデコをぶつけたりしていた。 最近では目を閉じたままでもスムーズに洗顔できるようになったが、ここまでの道のりは決して平坦なものではなかったのである。

こうなるまでに何度蛇口に頭をぶつけたり、手をぶつけたり、洗面台にヒジをぶつけたりして顔を洗うのも大騒ぎだったことか。 泡を洗い流す際の体の角度はどの程度が適切であり、ヒジを伝って水が床に落ちないようになるのか。 そのあたりの細かいことがやっと頭にインプットされたようで、最近になって無意識に動くことができるようになった訳だ。

起床してからトイレ、洗面所を使って散歩のために家を出るまでの一連の動作も、いちいち頭で考えずに行動できるようになった。 最初は 『お買い物日記』 担当者と正面衝突しそうになったりするので、右に避けるべきか、それとも左か、はたまた順番を変えるべきかなどと考えたりしていたが、今ではスムーズに行動して家を出ることができる。

就寝の際もトイレを経由して寝室と洗面所が直結している右のドアから入るべきか、リビングと続いている左のドアから入るべきか。 読み終えた本は枕元に置くべきか体の横に置くべきか。 ことほど左様に、ちょっとしたことではあるものの、いちいち頭で考えなくてはならないというのは思いのほか疲れ、小さなストレスとなっていたのではないかと思う。

小さなことが積み重さなり、今では頭で考える必要がなくなって自身の動作や二人の家の中での動線が決まってきた。 とってもささいなことではあるが、これが生活の慣れであり、微妙なストレスが解消され、この家が最も落ち着ける場所になってきたように思う今日このごろである。

犬や猫のいる風景 2008年春

こちらに引っ越してきてから最終的な散歩ルートが確定するまで様々な道を歩き、近所に飼い犬が多いことに初めて気が付いた。 どの犬も性格がおとなしいのか、しつけが行き届いているのか、普段の生活では 「ワン」 とも吠えず、これほど多くの犬がいるなんて気づきもしなかった。

あまりにも吠えまくる犬は近所迷惑になってしまうが、こんなに静かだと果たして番犬の役目を全うできているのかいささか疑問である。 飼い主としては普段はおとなしくても知らない人が近づいてきたり、不審者が家に入ろうとしたときくらいは激しく吠え立てて知らせてほしいだろう。

散歩中に自分たちに向かって吠えてきた犬は一匹だけであり、それ以外の犬は興味深そうにこちらを眺めていたり、吠えずに近づいてきたりするだけだ。 なかには遊んでほしそうにモソモソと近寄ってくるやつまでおり、ますます番犬が務まっているのか心配になってしまう。

毎朝の散歩コースにしている公園にも多くの犬がいる。 以前の独り言にも書いたように遠くから車に乗って散歩に来る犬もいるくらいだ。 その中に、片方の前足を失ってしまった犬がいる。 最初は気づかず、遠くから見ていて 「ずいぶんノロノロと動く犬だな~」 などと思っていたのだが、近づいてみると右前足がなく、三本の足で必死に歩いていたのだった。

しかし、その犬の顔は穏やかであり、毛艶も良く、愛情たっぷりに飼われていることが分かる。 飼い主である男性は無理にリードを引くこともなく、犬の歩行速度にあわせて歩き、犬が何かに興味を持って立ち止まったら、満足して犬が再び歩き出すまで待ってあげている。 足を失った原因は病気なのか事故なのか分からないが、いつまでも長生きしてもらいたいものである。

近所に小学生の住む家が続けて二軒あり、毎朝さそいあって登校している。 その向かいにある家には犬が飼われており、小学生が楽しそうにしているのを毎朝のように羨ましそうに見ている。 一緒に遊びたいのか、尻尾をふって必死に愛想をふりまいている姿が可笑しい。 子供たちが学校に向かってしまった後、うつむいてしょんぼりしている姿を見たときには声を出して笑ってしまった。

散歩帰りに通る薬屋さんで飼われてる犬はとても寝坊で、起きている姿など 10日に一度くらいしか見ることができない。 昼間でも寝ていることが多く、犬小屋から離れた庭の木陰で丸くなっていたり、犬小屋から後頭部だけを見せて寝ているのが常だ。 先日、珍しく起きているときに家の横を通ったら、のそのそと近づいてきてこちらを見ていた。 やっぱり番犬には向かないらしい。

タイトルには 『犬や猫の・・・』 と書いたが、実は猫の姿を見かけることは極端に少ない。 千里丘周辺は特に猫が多く、野良猫が問題にすらなっていたので近所をウロウロすれば必ず何匹かの猫の姿を見ることができた。 しかし、この街に住んでから猫を見たのは一度くらいしかないのではないだろうか。

猫は犬と違って勝手に家を出入りする。 夜中に遊びに出かけて近所を走り回ったり集会を開いたりするものであるが、ここは北国。 万が一でも冬季に家から閉め出されたならば、生命の危機に直面することになるだろう。 それ故に外出する猫が少ないのか、そもそも飼い猫自体が少ないのか。

その辺は深い謎であるが、もし飼い猫がいるのであれば暖かくなったこの季節、散歩中に猫に会えることもあるかもしれないと、すこし期待している。

想い出の居酒屋 其の伍

想い出の居酒屋 おしながき

其の肆を書いてから実に一年半ぶりの続編になるが、これだけ間隔が長いと言うことは実はたいした想い出などないのではないかという疑問も出たり引っ込んだりしており、実のところはいかがなものかと自問自答してみれば、溢れる想い出は確実にあるのだが、いつも同じようなメンバーで同じような料理を食べ、同じ酒を飲んで同じような時間を過ごしていたので大きな場面展開がないのである。

毎週とまではいかないが、二週間に一回、いや、それ以上のペースで飲んで騒いでいたのは、それが楽しく、自ら進んで店に通っていたのも勿論だが、仕事が忙しくて何週間か行けない日が続くと 「最近どうした?」 などと会社にまで電話がかかってきたり、中元だの歳暮だのを持ってきては 「よろしくね」 と言われてしまうので仕方なしに通っていた部分も大きい。

いつも代わり映えしない時間を過ごしていたが、たまには小さなイベントもある。 メンバーが 十数人もいれば月に一度や二度は誰かしらの誕生日だったりするもので、当時は大多数が独身であり、なおかつ彼女も彼氏もいないという誠に若者らしからぬ悲しい集団であったため、その居酒屋で祝ってやったりしたものである。

そんな時に気を利かせて何かサービスするとか料金を安くするとかいうことをすれば、感謝の言葉のひとつもかけて、また来ようという気にもなろうかというものであるが、単に 「おめでとう」 の一言で終わらせるという憎々しさ滲み出る店であり、「二度と来るか!」 という捨てぜりふを投げつけてやりたくはなるものの、とても居心地が良くて安い店だったのでついつい通ってしまう。

書いていて急に思い出した。 「朝早く市場で仕入れたイカで自家製の塩辛を造ったから食べさせてやる」 とか 「上物のクジラのベーコンが入ったから食べるか?」 などと言いながら店のメニューにない物を出してくれたり、さんざん飲んだ後に 「締めにソウメンでも食べるか?」 などと言っては次から次に自分たちが喜ぶ物を出してくれるのは良いが、きっちり料金をとりやがったのである。

大半が独身族のこちらも無茶を言って、「普段から野菜不足だからキャベツの千切りが食べたい」 などとメニューにないものを注文し、「えっ!?」 と固まる大将に 「いいから黙ってキャベツの千切り山盛りにマヨネーズをくれ!」 と言い、大皿に溢れんばかりに盛られたキャベツの千切りに、一緒に出された大きな業務用マヨネーズのチューブを思いっきり絞ってワシャワシャと食べたりしていた。

「お前らはキリギリスか」 などと呆れ顔で見ていた大将だったが、何度も注文するうちに、そのキャベツの千切りにまで値段を付けるようになった。 負けてはならじと、飲み放題の日に注文した冷奴などは 「噛まずに飲むからタダにしろ!」 と無茶な交渉をしては 「ふざけるな」 と一言で玉砕させられていた。

それでも今から思うと若さと強靭な胃袋を持つ大食漢ばかりのメンバーに気を使い、一品一品の量が多かったのではないだろうか。 それほどの品数は注文していないのに、いつも腹一杯になって店を出た。 何本もの焼酎ビンを空にして、腹も十分に満たされたのに割り勘にすると一人 3千数百円程度で済んでいた。 食道楽の街、大阪の居酒屋の料理が少ないとさえ思った。

今となっては定かではないが、もし料理を大盛にしていてくれたのであれば、若い胃袋を満たしてくれたことに感謝せねばなるまい。

報道の光と影

4月 27日、福田政権発足後初の国政選挙となった衆院山口2区補欠選挙で民主党が勝利した。 自民党の敗因は 『ガソリン税』 の暫定税率復活と 『後期高齢者(長寿)医療制度』 が 『うば捨て山』 制度と批判されていることだとされているが、どちらもマスコミのミスリードがあったのではないかと思わざるを得ない。

『ガソリン税』 に関しては、確かに道路族議員の暗躍やら何やらで良い印象はなく、必要もない道路を造っているという批判はあるし、もの凄い田舎にもの凄い立派な道路ができて、ろくに車も走らない光景がテレビに映し出される。 たしかにそういう道路は存在するだろう。 しかし、北海道に帰ってきて思ったり話を聞いたりすると、やはり本当に必要な道路はあるようだ。

地方には国道が一本しか通っておらず、天災などがあって道路が寸断されると陸の孤島になってしまい、救援も救助もままならない町や村、集落などが五万とある。 1リットル当たり約 25円の税金が必要か否かは議論の余地があるだろうが、本当にガソリン税によって道路が造られているのだとすれば、必要としている人達は確実にいる。

これは北海道に限らず、大都市以外の地域、地方では同じ問題を抱えているのではないだろうか。 マスコミは畑のど真ん中を立派な舗装道路が貫き、一台の車も走っていない光景を映し伝えるだけではなく、本当に必要としている人の意見も放送しただろうか。 そして、自民党も 「すでに予算が組んであるから」 という理由だけでなく、困っている地域のことを説明しただろうか。

仮に自民党が説明しているにもかかわらず、それが報道されないのだとすれば大きな問題だ。 政策や自民党のやり方を批判するだけではなく、国交省が管轄しているファミリー企業の無駄や箱物にまで道路特定財源が使われている無駄を省き、それでも必要とされている道路を造るのにどれだけの予算が必要で、そのためには何円のガソリン税が適当なのかを伝えてほしい。

『長寿医療制度』 に関しても、やれ 「うば捨て山」 だとか 「年寄りは死ねと言っているのか」 などという話ばかりがクローズアップされ、テレビには困っているお年寄りの姿が映し出される。 しかし、その制度を良く見れば一定以上の収入がある高齢者の負担は増えるが、基礎年金や平均的な厚生年金だけで暮らしておられる方の負担は軽減されることになっている。

それで負担が軽減され、喜んでおられるお年寄りの姿は伝えずに腹を立てて文句を言っているお年寄りや、悲しそうな表情で困惑しているお年寄りの姿ばかりをテレビ画面に映し出すことが公平、公正なことなのだろうか。 マスコミは自民党が負けることを望み、そうなるような報道をしたのではないかと疑いたくもなってしまうし、それに対して愚痴を言う自民党のことも理解できる。

確かに次の衆議院選挙でも民主党が躍進して政権交代が起こったら 1993年の細川内閣の時のように歴史的なことであり、マスコミもお祭り騒ぎになるだろう。 テレビの報道番組の視聴率も上がり、新聞や週刊誌も売れるかもしれない。 何よりもマスコミ自身が楽しくて仕方ないだろう。 しかし、そんなものに付き合うために国民は生活しているのではなく、そんなものに付き合っているヒマもない。

どんなことであれ、すべてにおいて完璧なことなどない。 必ずと言って良いほど光の部分と影の部分は存在する。 それの双方を伝えず、影の部分にのみ焦点を合わせるのはいかがなものかと思う。 自民党が良いとは言わないし、民主党が悪いとも言わないが、マスコミに踊らされることなく冷静に判断する大人の目線が一般市民に求められているのだろうと強く思う。