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2001年12月

2001年の終わりに 2001年の終わりに

  いよいよ2001年も終わりである。映画「2001年宇宙の旅」にあったように人類が木星に有人飛行することはできなかった。科学技術は実現するのに十分な発展を遂げているのだが、世界同時不況が懸念されている現在では資金的余裕がないようだ。先進国が共同で開発している国際宇宙ステーションも計画が先延ばしに次ぐ先延ばしで、いつ完成するのか確定していない。

  年末ということもあり、今年を振り返って見ると実に暗いニュースが多かった。以下は日経の世論調査による重大ニュースである。

  1. 米国で同時多発テロ発生  84.9%
  2. 狂牛病が社会問題化  60.4%
  3. 小泉内閣誕生  54.1%
  4. 失業率が過去最悪の 5%を突破  46.8%
  5. 日経平均株価 1万円の大台割れ  40.2%
  6. 住宅金融公庫の廃止、道路公団民営化  34.4%
  7. 富士通など電機大手が大規模な人員削減を含むリストラ  29.2%
  8. 中国が世界貿易機関(WTO)に加盟  23.9%
  9. マイカルが民事再生法を申請、負債総額 1兆 7400億円  20.7%
  10. 野衣良治名古屋大学教授がノーベル化学賞受賞  11.7%

  明るい話題は 10位のノーベル賞くらいなもので、3位の小泉内閣に多少の希望を抱けるかな〜 6位を見て構造改革がちょっとは進んだのかな〜と思う程度である。

  9位のマイカルには本当に驚いてしまったし、銀行の査定がいかに大企業に対して甘いのかと感じた。8位の中国に脅威を感じている日本企業は多いはずで、日本から製造業がなくなってしまうのではないかと言われている。「モノ作り日本」の神話は崩壊し、中国が「世界の工場」になってしまった。我々庶民としては品質が同じであれば値段が安い方が嬉しい。しかし、製造業の空洞化が失業率の悪化に繋がっているのも事実である。

  7位のリストラ、5位の低株価、4位の失業率悪化は 3点セットであり、同時進行となっている。これに現在の物価下落が加わってデフレが進行しているのだが、以前の雑感にも書いたとおり、景気対策優先、公共事業の拡大、構造改革の先送りがあってはならないと思う。そんなことをすると国内外投資家の信用を完全に失い、更なる株価下落を招くと思うからだ。今は「痛みに耐える」しかないと覚悟している。

  2位の狂牛病問題に関しても以前に書いているのと、政府の対応には呆れ果てているので深く掘り下げるつもりはない。農水省や厚生労働省の検査体制や発言が信用できないのであるなら、厳格な検査をして責任を持って品質を保証する民間の検査機関を発足すれば良いと思う。そうすれば食肉業者も助かり、検査、保証費用などを徴収すれば、それ自体が新しい産業になるはずだ。しかし、ドロドロとした利害間関係からそんな機関を認めるような規制緩和はされないのであろう。

  1位の同時多発テロには誰しもが大きな衝撃を受けたと思う。まず飛び込んできた映像が衝撃的だった。被害に遭われた方々やその関係者、アメリカ国民に対しては大変失礼だが、あの映像を始めてみた時は「すっげ〜」と思った。現実感がなく、映画の 1シーンのようにしか観ることができなかった。ボ〜っと映像を見つめ、少し時間が経ってから「これは大変なことが起きた」と実感し、恐くなってきた。

  例年と比較してもとくに今年は国内、世界とも激動の一年であった。そんな中かろうじてではあるが、無事に年を越せそうな我々は幸せなのかもしれない。もちろん不安や不満もある。しかし、世に起こった大きな事故や事件に巻き込まれることもなく正月を迎えられるのことは、ささやかな事であるが幸せなことだと感謝しなければいけないのかもしれない。

  そんなこんなで社会情勢は不安定なまま年を越すことになってしまったわけだが、ここで自分の一年を振り返ってみることにする。昨年末の雑感を読み返すと、日本を良い国、夢のある国にすることに貢献すると生意気にも書いてみたりしている。で、結果と言えば当然のことながら国どころか自分自身が何も進歩していない事実がここにある。

  「このままではいかん!」「こんなことじゃいかん!」とは思いつつも去年とさして変わらない生活を送っている。今年は特に健康ブームで、テレビでも「運動せよ」とか「あれを食べよ」とか大量の情報が送られてくる。それを見た時は健康維持のため食事にも気を使おうとか思うのだが、結局は好きなものを食べてしまう。健康のために一日 10分は歩いたほうが良いと聞けば「そうしよう!」と思うのだが、休日ともなると 2日間とも一歩も外に出ないことだってある。

  続いている事といえば肩こり解消の体操と、この雑感くらいのものなのだ。体操をさぼっていると体がビシビシになり、食欲がなくなって吐き気もしてくるので必要に迫られて続けざるを得ない。しかし、この雑感は自分でも「よく続くな〜」と感心している。正確ではないが、2000年の 9月から書きはじめて 1年以上が経過した。いつまでネタが続くのかという不安もあったが、特別な事情があった場合を除いて毎週末に更新し続けることができている。最近は雑感というよりも思い出話やくだらない話を含む雑記になってしまっているのではあるが・・・。

  反省ばかりしていてもしかたない。失敗を繰り返さないという意味においては過去の反省も重要なのだが、過去を反省して将来が良くなるわけではない。そんなことよりも未来を希望して目標に向う方が、はるかに前向きだと思う。来年は国を良くするなどと高飛車な目標ではなく、もっと身近な問題の解決に全力で当ろうと思っている。例えば現在進めている仕事を何が何でも成功させなくてはならない。失敗は許されないのである。

  などと自分自身にプレッシャーをかけながら、来年も全力で前進しようと心に誓うのであった。

2001 / 12 / 29 (土) ¦ 固定リンク

クリスマス2001 クリスマス2001

  師走ということもあり、世の中なにかとバタバタしている一方で、クリスマス関連の飾り付けや売り出しで街が華やいでいる。今年は 21世紀最初のクリスマスでプレゼントもど〜んと豪華に!と販売店も力を入れているようだが不景気が続いているので目論見どおりにいくのやら。なにもキリストの誕生日だけが 21世紀最初なわけでなく、自分の誕生日だって・・・というのは昨年の雑感にも書いたのでやめておこう。

  サンタクロースが実在すると信じていたのは何歳までだったろうか?はっきりとは記憶していないが、小学校の4年生くらいにはサンタ(プレゼンター)=親と認識していたような気がする。親からするとサンタクロースの存在を信じている子供であった方が可愛いのであろうが、思い通りにいかないのが世の常である。

  プレゼントも子供の頃は”オモチャ”が対象になる。子供としても年に一度のクリスマスである訳だから、この時とばかりに一番欲しい物を要求するのであるが、親は「ちょっと高い」とか「すでに同じようなものを持っている」だの「どうせすぐ飽きる」だのと言って難癖をつけるのである。

  そうすると子供も「これはサンタがプレゼントしてくれるのではなく、親が買うんだな」と気付いて幼い夢が、いきなり現実的な問題となってくる。「良い子にしていればサンタさんが・・・」という台詞は「親の機嫌を損ねないようにしていれば・・・」に直訳され、それは「2学期の成績が良ければ・・・」と解釈したのだが、それはもう手遅れである。

  翌年からの作戦として1・3学期は手を抜き、2学期の成績を良く見せかけるというのもあるが、そのような調整がうまくいくはずもない。今の努力が”クリスマス・プレゼント”と、すぐ後に控えている”お年玉”に反映されるわけなので、年末はなるべく問題を起こさないようにズルく振る舞っていたように思う。

  しかし、それもせいぜい小学校までの話で、中学生くらいになると「欲しい物は?」と聞かれても「別に〜」などと答えていた。「つまらない子だね〜」と親は少し寂しそうだったが、実際に欲しい物はあまりなかったのである。親としては子供として見ているのだろうが、巣立つ準備段階に入っている子供側からすると物を買い与えられるより、現金をもらって好きなものを自分で買ったりする方が楽しい。

  第一それくらいの歳になると欲しい物が”オモチャ”などではなく洋服だったりレコード(当時)だったりするので実際に店に出かけ、色々と見定めてから購入したいものである。ところが 以前の雑感から書いているとおりに特定のアーティスト、歌手に入れ込むことがなかったので欲しいレコードもなかった。ファッションにも興味がなかったので欲しい洋服や靴もない。

  毎週や毎月きまったマンガや雑誌を読んでいたわけでもないので毎月いくらと決まった”お小遣い”も貰っていなかったが、なぜか当時は「あれが欲しい」とか「これが欲しい」と思わなかった。それで結果的には「何が欲しい」と聞かれても本当に「別に〜」なにもなかったのである。

  人にもよると思うが、その年齢の頃は親と一緒に買い物に出かけるもの嫌だった。さらに家族揃って食事をしてクリスマス・ケーキを食べるよりも、友達と遊んでいるほうがずっと楽しかったものだから、食事の時間に家にいない。今から考えると親も寂しかったのだろうと思うが、うちの親の性格からして「寂しい」などと言うはずもなく、家に帰ると「遅くまでどこに行っていたぁー!」と怒り狂っているのを無視して「別に〜」などと言い、火に油を注いで大喧嘩したりしていたのである。

  それでも当時一つだけ欲しい物があった。それは自分専用のテレビである。今でこそテレビは一人一台の時代であるが、当時は高価だったこともあり茶の間にテレビがあるだけで自分専用のテレビなど持っている子供はほとんどいなかった。

  しかし「テレビを買ってくれ」と親に要求ても「ふざけるな」と言われるのは目に見えていたので、自分で何か買うと言い、現金を貰って机の中に貯金しておいた。年が明けて親戚などから貰った”お年玉”も貯金した。そうやって次の年のクリスマスも現金、その次の”お年玉”まで貯めてやっと念願のテレビを買う事ができた。

  テレビといってもポータブル・タイプで、5インチの白黒テレビだったが、初めて電源を入れてボワ〜ンと画像が映ったときは感動したものである。あれから何十年もたっているが、そのとき買ったテレビは捨てる事ができずに今でも持っている。昔の製品は作りがしっかりしているのか、今でも問題なくテレビを見ることができるが、さすがに白黒の5インチなので今ではどこか奥深くにしまわれている。

  民間企業の調査によると、今年のクリスマスをどのようにして過ごすかという問いに対しては「家族と自宅で」「彼氏と自宅で」「友達と自宅で」など”自宅派”が多いそうだ。親から子供に対するプレゼントの平均価格は \3,000〜\5,000と例年と変わらないが、異性に対するプレゼントはバブル期と比較して明らかに下落しているらしい。

  来年はどうなるのか分からないが、景気次第でクリスマスの過ごし方も様変わりするのであろう。

2001 / 12 / 23 (日) ¦ 固定リンク

いじめ いじめ

  最近はニュースで取り上げられることも少なくなってきたが、日本のどこかでは今でも”いじめ”が問題になっているのだろう。これに関しては”いじめる側”が悪いとか、”いじめられる側”にも原因があるなど様々な議論があり、なかなか難しい問題である。

  子供の頃は”いじめっ子”として名をはせた自分ではあるが、実際のところは”いじめている”と思っていなかったし、相手も嫌がっているとは思ってもいなかったのである。しかし、こちらの意識と相手の意識には明らかな温度差があり、思わぬところで逆襲にあったりしていた。

  小学校の低学年の頃、同級生の誰かが担任に「いじめられた」と報告したらしく、職員室に呼ばれて叱られたことがある。しかし自分にとっては休み時間に「わーわー」言って遊んでいただけで、いつどこで誰をいじめたのか、まったく心当たりがなかったので「いじめていない!」と言い張っていた。

  「自分にその気がなくても”いじめられた”と思う子もいる」と諭されたが、休み時間に誰かを泣かせたりした記憶もなく、ただ遊んでいただけだった。もちろん喧嘩をすることもあったが、それは喧嘩であり一方的にいじめていた訳ではない。さらにその日は喧嘩もしていなかった。

  「いじめていない」と言い張っていると担任は半ばあきれながら「みんなに聞いてみようか?」と言うではないか。こちらとしてはいじめた記憶がないので「うん」と言って教室に向った。教室でみんなに聞けば事実無根であることが証明されるとふんでいたのである。教室にもどり担任が「いじめられたことのある人は手を上げて」と言ったその時、なんと8割くらいの生徒が手を上げたのを見て驚きのあまりに後ずさりしてしまった。担任は勝ち誇ったように「ね!?分かった?」と言い「これからは人をいじめないように」と言い渡されてしまった。

  自分にその意識がないのに8割もの友達が”いじめられた”と感じている事実に驚き、呆然としたのだが、だからといって心を入れ替えるようなタマではなかったので、それからも同じように接していた。そもそも自分がおこなった行為のどれが”いじめ”になるのかを自覚も理解もしていなかったので直せるはずがないのである。

  その後も「いじめられた」という報告が後を絶たなかったらしく、担任から親に連絡があった。もちろん親からもこっぴどく叱られたが、やはり自覚がなかったり理解していないものを直すことができない。「人をいじめるな」と言われても”いじめた自覚”がないのだから「はぁ?」という感じだし、どうすることが”いじめ”だから”それ”をやめなさいと具体的に言ってもらわないと分からないのである。

  あまりの苦情の多さに怒った担任が、教室にいるみんなに向って「普段いじめられている人は先生が許可するから、みんなでやっつけろ!」と号令をかけた。何十人も束になって自分に襲いかかって来たときはさすがに腰がひけたが、途中からムカムカしてきて次から次ぎに蹴っ飛ばしたり髪を引っ張ったりして応戦した。

  現在であれば、もしそこで自分が怪我でもしたら問題教師として新聞沙汰になるところだが、昔は先生に文句を言う親が極めて少なかったし、大人数を相手に必死に応戦したこともあり、引っかき傷くらいしかできなかったので大きな問題にはならなかった。そして、そんな事があっても友達と接する態度に変化は起こらなかった。

  ある日、下校時間に校門の前で友達の親が立っていたので「こんにちはー」と挨拶したのだが、鬼のような顔でこちらを見ている。不思議に思ったが、その時はすぐに忘れて遊びに興じていた。ところがその親は次の日も、また次の日も校門の前に立っている。あとで聞いた話によると、下校の際に”いじめられる”から親が迎えに来ていたと言うのである。

  確かにその子とはよく遊んだし、下校途中に遊んで帰ることもあった。しかし、遊んだ記憶はあっても”いじめた”記憶などまったくない。「だから自分にその気がなくても・・・」という例の説教を親から再び聞かされたが、それこそ泣かせた記憶もなく、みんなで元気に遊び、大笑いしていた仲間だったのである。

  あまりにも納得できなかったのでその友達に問いただしたところ、泥やホコリで服をドロドロに汚して帰ると親から叱られるので「いじめられた」とか「命令されてしかたなく遊んだ」などと言いわけしていたらしい。「そんな言いわけするから俺が先生や親に叱られるんだぁー!!」と耳から煙が出るくらい腹が立ったので、その時は本気でいじめてやった。

  中学生の頃も遊び仲間と思っていた奴が”いじめられている”と感じていたらしく、逆ギレしていきなり殴りかかってきたことがある。その時は殴られながら頭の中に「なぜ?」という文字がグルグル回っていた。ふと我に返り殴り返そうと思ったところ、そいつは風のように逃げていってしまった。まさにヒット・アンド・アウエイである。

  こちらの意識と相手の受け取り方に温度差や行き違いがあると”いじめ”と感じてしまうことがあるのは事実ようだ。金品を脅し取ったり、毎日殴る蹴るの制裁を加えたり、使い走りとして買い物をさせたりなどという陰湿な”いじめ”ではない限り、嫌だと感じることは正確に相手に伝えるべきだと思う。それでなければ無意識のうちに”いじめ側”になってしまう人も、実際にはそうでないのに”いじめられる側”になってしまう人にとっても不幸な事だと思う。

  ”いじめられる”のが嫌だから”いじめ側”に回ってしまうのは良くないことであるが、本当は違うのに”いじめられている”と陰湿になってしまうのも良くない。嫌なことは嫌とはっきりと意思表示することが大切なことであると思う。

  ・・・なぜならば”いじめ”ていたという認識が”おっさん”になった今でも持てないでいるからなのである。

2001 / 12 / 16 (日) ¦ 固定リンク

風貌 風貌

  今までの雑感の中でも「人を見かけで判断してはいけない」という種の話題に触れたことがあるが、外見が恐そうでも優しい人がいたり、外見は優しそうに見えて実は腹黒い人がいたりするので、やはり外見で判断してはいけないのであるが、性格と外見に差がある場合は少し不幸かもしれない。

  などと書いている自分も実はその一人だったりする。第一印象は決まって「冷たい」とか「気どっている」とか言われてしまうのである。実のところはズボラでだらしなく、気どってなどいないのであるが、そうは見られない。”暖かい人柄”かどうかは自分で判断できないが、少なくとも”冷徹”な人間ではないと思っている。充分に感情に動かされるし、物事を冷静に鋭く見とおすことなどできない。

  その風貌から初対面の人に少し警戒されてしまうので「こまったな〜」と思っている。以前勤めていた会社では数人のアルバイトを雇っていた。当時はその部署を任されていたので、面接とか採用の際に業務内容の説明などをしなければならなかったのだが、みんな緊張した面持ちで話を聞いている。

  それは”初対面””面接”ということもあり、当然といえば当然のことなのだが、採用して何か月たってもこちらから話しかけると緊張しながら返事をしたり、側に行くと警戒したりしている。自分ではそれが何故なのか分からなかったのだが、アルバイトも含めた女性社員には”冷徹”な人間だと思われていたらしいのだ。

  宴会の席で会社の仲間と「わーわー」言いながら酒を飲んだり食事をしたりしていた時、女性社員から「第一印象が恐い」という話を聞いた。業務の説明をする時も、あまりにも事務的に説明し、冷たい目で人の顔を見ていると言うのである。

  そんなこと言われても、仕事内容をおちゃらけて説明する訳にもいかないし、勤務時間が何時だの時給がいくらだの、支給日がいつだのという説明で笑いが取れるはずもない。冷たい目と言われても、それは生まれつきであるし、事務的な話をニコニコしながらできるものでもないと訴えても「いーや。あの目は冷たい」とか「私達も恐かった」などと言われてしまった。

  その時に聞いた話によると、アルバイトの子達は側に来ると「何か言われるのでは」と警戒し、話しかけると「叱られるのでは」と警戒しているらしいのある。「違うんだぁ〜!」と声を大にして言いたかったが、採用した後はアルバイトの面倒を女性社員がみていたため接点も少なく、誤解されたままでも問題はなかったので放っておくことにしていた。

  しかし、身内や社内であれば問題はないのであるが、社外の人にまでそのような印象を持たれるのは仕事をする上で決してプラスではない。仕事の関係で人と会う時は努めて明るく感情豊かに話をしようと思っているのだが、なにせコンピュータ業界であるため、電子機器や部品、ソフトウェアの仕様を聞いたり説明したりするのを明るく感情豊かにできるものではないので、結果的に人に与える印象は変えられずにいる。

  付き合いが長くなってくると、相変わらず「最初に会った時の印象と違いますね」言われたりしているので、どのように見られているのかを聞くと「ウソや偽りがないかを探るような目つきだった」と言うのである。確かに話を聞く時は人の目を”じ〜”っと見ているし、もともと上目使いなのでそう思われてしまうのかもしれない。

  最近はなるべく顔を上げて上目使いをやめようと努力しているが、真剣に話を聞いているとついついアゴを引いて”じ〜”っと相手を見てしまう。「この目が相手を警戒させてしまうんだ」と分かっていても持って生まれたものは簡単には直せそうもないようである。

  そして自らの努力では限界があるものとしては「年齢」がある。いくら若い服装をしていても他人から見ると確実に”おっさん”なのである。別に若く見せようとか思っていないし、客観的に見て現在の自分はどのような印象を持たれているのかなどは考えたこともなかったのであるが、最近あることで少なからずショックを受けてしまった。

  少し前、ちょっとした事情で親戚縁者の集合写真を撮った。最近になってその写真を見たところ、自覚していた以上に”白髪”が多いのである。鏡でまじまじと見るほど”うっとり”できる顔ではないのでヒゲ剃りや洗顔の際、鏡に映った自分の顔の一部分を見ている程度だった。髪をとかす時にも見ることは見るが、「ポツポツ白髪があるな〜」という程度にしか自覚していなかったのである。

  ところが出来上がった写真を見ると、あきらかに白髪の束が「もさっ」と生えている。それも左右メッシュを入れたようになっているのである。「俺の頭ってこんなん?」と聞くと身内は「そうだ」とあっさり言ってのける。「ちがう〜光線の加減で光ってるんだ〜!」と力説しても、「それは白髪」と言われてしまった。あまりにもショックだったので会社の仲間に話していると「でも、あきらかにメッシュ入ってますよ」とトドメをさされる結果に終わってしまった。

  人それぞれの風貌があり、年齢なりの風貌もあるという事実をあらためて思い知らされ、なんとなく横目で自分の写真を睨んだりしている今日このごろである。

2001 / 12 / 09 (日) ¦ 固定リンク

躾(しつけ) 躾(しつけ)

  いよいよ 12月に入ってしまった。何度も書いているが 1年など「あ!」っという間に過ぎてしまう。また一つ歳を重ね、どんどん”おっさん化”していくのであろう。おっさん化が進んでいるせいなのか最近は「なっとらん!」と思うことが多くなってきた。

  先週の雑感で、「子供なぞは基本的な躾(しつけ)や基礎学力が身についていれば良い」と書いたが、その基本的な躾がされていないでのではないかと疑いたくなるような立ち振る舞いをよく見る。というよりも、おっさん化の影響でついつい気になってしまうのかもしれない。

  基本的な躾が身に付いているかが表に出てしまうのは食事の時だと思う。フランス料理などの高級店に行って、フォークとナイフを使う順などのテーブル・マナーは知らなくてもよいし、分からなければ聞けば済む話である。しかし、せめて居酒屋などで箸を使って食べることくらいは、まともにできないものだろうか。

  知り合いではないが、以前見かけた若者は片ヒザを立て、そのヒザにヒジをついて料理を食べていた。酒も進み、すっかりできあがった状態なら「しょうがないな〜」で済むが、店に入ってきてすぐからその姿勢で食べている。きっと家でもそうやっているのだろうが、家族は注意しないのだろうかと不思議に思ってしまった。

  それは極端な例だが、食事の席では細かなことも気になってしまう。最近は TVでも多く見るのだが、箸の持ち方が”変”な人が多い。持ち方が悪く上手につまめないものだから皿の上で料理をこねくりまわし、やっとつまめたと思ったら口に到達する前に落としてしまう。小さなものをつまもうと必死になっているのだが、上手くいかずにイライラして「ふんっ」と食べるのをやめたりもしている。

  そういう人たちの多くは魚が嫌いだと言っている。よくよく話を聞いてみると、小骨などを上手に取ることができないため「食べるのが面倒だ」と言うのである。箸を使ってイライラしたり、美味しいものを食べられないくらいなら持ち方を直せば良いのに、「これでいいの!」と相変わらず箸をバッテンにしたり手首をグルグルしたりして奇妙な食べ方をしている。

  いい歳をして好き嫌いが激しいのもどうかと思う。嫌いなものをあえて食べろとは言わないが、人と食事をする時は少しくらい我慢できないものだろうか。例えば人参が嫌いな場合、ゴロンとしたものは食べなくても良いが、料理の中に入っている細かいものまで丁寧に取り出す人がいる。

  別にそれがメインの料理ではないのだから、他の食材といっしょにガーっと口に入れてしまえばいいようなものを、時間をかけてひとつ、またひとつと取り出している。「そこまでするなら食うなー!」と言いたくなるが家族でもなければ、ましてや自分の子でもないので心の中で「みっともないな〜」と思っている。

  中にはアレルギー反応を起こすものもあるわけだから、そういうものまで食べろとは言わないが、あれもダメ、これもダメと言って好き嫌いが激しい人を見ると甘やかされて育ったんだろうな〜などと思ってしまう。躾とは別に、栄養のバランスなどを考えると子供のうちに好き嫌いを少なくしておくのが本当の愛情だと思うのだが、今の親は「嫌い!」「食べたくない!」と言われると子供が好きなものばかり作ってあげているのだろう。

  個人的に一番嫌いなのは、食べ物の”におい”を嗅ぐ人である。「香い」「匂い」という意味で香りを楽しむのならば良い。松茸を代表とするキノコや香りを楽しむ料理の器から立ち上る”におい”を「あ〜いい香りだね〜」と分かち合い、口に入れて「美味しいね〜」というのは分かるし、当然のことでもある。

  ところが、そういう種の料理ではなくても”におい”を嗅ぐ人がいる。箸でつまみ、口に入れる前に嗅ぐのである。それも出てくる料理すべてそうするのだから「おまえは犬か!」と言いたくなってしまう。そういう嗅ぎかたをすると「香い」や「匂い」ではなく、「臭い」という意味に思えてくる。料理が腐っていないか、悪臭を放っていないか確認しているようだ。

  それは料理を作った人にも失礼だし、周りで見ている人にとっても気分の良いものではない。本人はそういうクセがあることを自覚していないのかもしれないが、あれはかなり”みっともない”ので子供がそうだった場合、早めに直すことをお勧めしたい。

  躾という字のとおり、身のこなしを美しく。美しくないまでも人に不快感を与えない程度の躾は親の責任において子供に教育しておいた方がよろしいですよー。と、少しだけ声を大きめに言ってみたりしたいと思っている。のである。

2001 / 12 / 02 (日) ¦ 固定リンク

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