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雑感何となく感じたこと雑感何となく感じたこと

死という概念 死という概念

  イジメを苦にした自殺が続いている。 今日(11/11)付けの自殺予告もあり、関係各所は緊迫した状態が続いた。 報道番組を見ていると、いわゆる識者と呼ばれる人たちが 「死を選ぶくらいなら勇気をもって問題に立ち向かえ」 とか 「学校に行かないのも一つの選択肢」 などと言っているが、自殺の理由がイジメだけではない場合は説得力を持たない。

  第一、偉そうなオッサンやオバハンが言うほど事は簡単ではないし、若い子の思考が単純でもない。 ある程度の経験を経た大人は、それが自分のことであっても問題の大きさを客観的に見つめることが可能だが、人生経験の少ない若い子にはそれができるはずがない。 たとえ恋愛のことであれ、対人関係のことであれ、彼女、彼たちの現在における心の 100%を占めてしまうことがある。

  大人から見れば時が解決してくれると思われるような小さなことであっても、それが解決しない限り一歩も前に進めず、時間すら止まっている感覚に襲われるものだ。 そして、さらに悪いことに、ある一時期、死というものがとても美しく思えることがある。 普段から死にたいと思っている訳でも死に憧れている訳でもなく、とても抽象的な感覚ではあるが、それが美しく思えてしまう。

  たとえば映画やテレビドラマ、漫画でも何でも主人公や、その周りにいる登場人物が死ぬような場面などを見た場合や、アーティストや芸能人が若くして亡くなってしまった場合、漠然とではあるが自分が死んだ場合のことを思い、それがドラマチックであればあるほど美しく、とても意味があることのように感じてしまう。

  そこにイジメや家族の問題、恋愛問題などの要素が加われば一気に背中を押された気持になってしまうことだろう。 そして、相手に対してどれだけのダメージを与えることになるのかも十分に考慮しており、家族や友達が悲しむことも理解している。 「自殺して悲しむのは親」 とか 「周りの友達も悲しむから」 などと言って自殺を思いとどまらせようとするが、その言葉は抑止力にならない。

  なぜなら死を選ぶ若い人は周りの人に悲しんでもらいたいと思っているはずだ。 自分が不幸のどん底にあるドラマの主人公であるような負の意味でのヒロイズムがあり、その死によって周りが悲しめば悲しむほど、死というものがより美しい意味をなし、最後の自己表現であると錯覚してしまう。

  普段はあまり断定的な書き方をしないのだが、この件に関してはどうして知った風な書き方をするのかと言えば、中学二年くらいから高校一年くらいまでの約三年間、自分も死を美しいものと考えていたからである。 そして、周りにも少なからず同じような考えの持ち主がいた。 したがって、全員ではないにせよ相当数の若い子が、一定の期間は同じような思考を持つものと思われる。

  当時の自分はイジメを受けていた訳でもないので、結局は背中を押されずに済んだが、その一時期に自分にとっての大きな問題が発生すれば、自殺を選択した危険性は十分にあったと想像できる。 不良だった当時は自分が醜い大人になる前にこの世に別れを告げたいと考えていたし、命の大切さを十分には理解していなかった。

  しかし、それは一時期だけのことであり、今は健康を気遣い、適度な運動もして栄養を考えた食事も摂り、長生きを目論む立派なオッサンに ”成長” した。 当時は嫌で仕方のなかった醜い大人となった今でも、少しでも先に進もうともがき苦しんだりもしている。

  若い子を自殺から救う手段は、大人目線からの助言でも励ましの言葉でもなく、逃げ場のない思考の呪縛から開放してあげることだと思う。 つまり、いち早く子供の変化をとらえてイジメなどの問題を抱えているようであれば、学校に相談するとか言葉だけで励ますなどという小手先の手段を選ばす、家族全員が生活を捨てる覚悟で遠い土地に引っ越してしまうなどの荒療治が必要だ。

  そこで 「仕事があるから・・・」 などと親が躊躇しているようでは子供の救える命も救えない。

2006 / 11 / 11 (土) ¦ 固定リンク


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