2006年 6月
道 道
日本にとってのワールドカップは大会 14日目にして終わりを告げた。 日本人が代表チームに対して抱いた期待は幻想でしかなく、まだまだ世界で通用するレベルではなかったということだ。 ことブラジル戦に至っては相手に遊ばれているようで、高校サッカーと Jリーグが試合をしているような歴然とした実力の差があったように思う。
試合前日の独り言に書いた通り、徹夜してまでテレビ観戦する体力はなく、早朝に目覚ましをセットしてまで起床する気もなかった。 しかし、潜在意識の奥深くで試合のことが気になっていたようで、4:00 にパッと目が覚める。 頭の中で (どうせ勝てるはずがないのだから) と目を閉じるが、5分置きくらいに目が覚めてしまう。
「そんなに気になるなら」 と自分自身に文句を言いながら起き上がり、テレビのスイッチを入れたのが 4:30。 ボ〜ッとしながら試合を観ていた 4:34、なんと日本が、あのブラジルから、しかも先制のゴールを決めた。 ここで完全に目が覚めて、繰り返されるスロー VTR を何度も観ながら夢でないことを確認し、ジワジワと喜びが湧いてくる。
(もしかしたら)、(いや、そんなはずはない) という思いが頭の中を交互に駆け巡り、奇跡が起こることを願い始めた 4:46、ブラジルに同点ゴールを決められ、床に突っ伏す。 直後に前半を終えてハーフタイムに。 テレビのチャンネルをカチャカチャしてクロアチアが負けていることを確認し、(一点入れることができたのだから、あと三点入れる可能性も 0 ではない) と自身に言い聞かせて後半を待つ。
しかし、後半はブラジルの動きが明らかに変わり、日本が何もできないまま 2点を追加されて 3-1 に。 その時点で溢れ出していたアドレナリンが急速に失われ、(やっぱりダメか) と思った途端に激しい睡魔に襲われる。 たった 1時間の観戦で疲れてしまい、這うようにして布団にたどり着き、泥のように眠ったが、すぐさま起床する時間になってしまった。
寝ている間に奇跡が起こり、(大逆転劇を演じているかもしれない) などという、有り得もしない期待を少しだけ抱きながら、特に意味はないが、できるだけそっとリモコンを持ってテレビの電源を ON にしてみた。 結果は 4-1 という大敗だったので、ON にしたときとは逆に、思いっきりボタンを押して電源を OFF にしてやり、洗面所に向った。
あれだけの実力差があるのだから、日韓共同開催だった 4年前の成績は運と地の利に恵まれただけの結果だったのだろう。 あと何年あれば日本が上位に進出することができるようになるか分からない。個人主義と言うか、利己主義が目立つ国で盛んなスポーツに、調和を重んじる日本人が馴染む日が来るのだろうか。
柔道や剣道、華道、茶道、書道のように、野球ですら野球道、ゴルフですらゴルフ道にしてしまう日本人である。 武士道を DNA に持つ日本人がヨーロッパ型のスポーツを文化として取り入れることが果たして可能なのだろうか。 オッサンとしては、日本人の良い面や文化を捨てずに消化し、吸収することが望ましいが、そんな考えでは上位に進出したり優勝することなどできないのかもしれない。
文化的側面、体力面、技術面のどれをとってもワールドカップへの道はまだまだ遠そうだ。
2006 / 06 / 24 (土) ¦ 固定リンク
デジタルの鉄則 デジタルの鉄則
世間を騒がせているシンドラー社のエレベータだが、反面教師として見るととても役に立つことが多い。 重大な欠陥が発生した場合、何をおいても飛んでいって平謝りに謝るべきだったが、
6/9 の独り言にも書いたように、文化の違いがあるので日本の社員も勝手に謝ることができなかったのだろう。 ただし、最初にマスコミの前に登場したシンドラー社のオッサンは態度が悪すぎた。
現在マスコミの前に姿を現している担当者は、無機質に感情を込めずに話す人なので心象に良いも悪いもないが、あの態度が横柄なオッサンはどこに行ってしまったのだろう。 自分が攻撃されるのが嫌で今の担当者を世間の目に触れさせているのであれば、つくづく呆れた奴である。
今回の事故は制御プログラムにミスがあったことが主たる原因とされており、ドアが閉まって 0.25秒以内に 『開ける』 ボタンを押すとドアが開いたままエレベータが動作してしまうという。 動作検証してみることを業界では debug (デバグ) と言い、それはそれは神経の使う作業だ。 あらゆる可能性を想定して問題が起きないか調べなくてはならない。
想定外の操作などを検証しきれずに世に出てしまい、後になって問題が発覚するのはデジタル機器やソフトウェアでは良くある話だ。 そんな場合は製品を回収するか、無償交換をしたり、修正プログラムを配布するなりして迅速な対応が求められる。 電子部品のカタマリと化している車や、今回のエレベータも例外ではないはずだ。
それらは人命に影響する場合もあるので余計に神経質にならなくてはならないだろう。 その点においてシンドラー社の対応に問題が多かったのも事実である。 第一に、ドアが閉まってから短時間の間に 『開ける』 ボタンを押すことなど容易に想定できる。
ドアが閉まりかけたときに人が来たので開けてあげようとすることなど日常茶飯事で、気を利かせたけど間に合わずにドアが閉まってしまったことなど多くの人が経験しているだろう。 シンドラー社製のエレベータでそういう場面に遭遇した場合、ドアが開いたままエレベータが動き出すという事態になってしまう訳だ。 動作検証で容易に想定される操作のチェックが抜けていたのは問題だ。
自分も身を置いているデジタル業界には鉄則がある。『やってはいけないことは、できてはいけない』 のである。 つまり、特定の操作をすると不具合が発生する場合、「そんな操作はしないでください」 というのは通じない。 そういう操作自体をできなくするか、操作したとしても問題が起こらないようにしなければならないのである。
次に、それらの不具合が確認された後にも修正前の状態で出荷するというズボラな管理体制が問題だ。 どこをどうやったら、そこまで単純なミスが発生するのか逆に聞きたいくらいだ。 そして、やはり初動のミスである、最初の会見が悪かった。 文化として最初に謝らないまでも、問題が起こるはずがないとか、あたかもメンテナンス会社が悪いような言い方をすべきではなかった。
今は客観的、冷静に事態の推移を見ているので偉そうなことを考えたり書いたりできているが、これを反面教師として、自分の仕事で重大な問題が発生したときに役立てるよう心がけなければならい。 そして、その場合は迅速かつ誠意を持って事に当たらなければならないと肝に銘じたりしている。
『
みんなで うさぎ小屋』 のゲームに不具合があるのを知りつつも、なかなか修正しないでいる自分を戒めながら・・・。
2006 / 06 / 17 (土) ¦ 固定リンク
自由と正義 自由と正義
自由とは何だろう。 正義とは何だろう。 いつも小難しいことを考えている訳ではないが、何かある毎に頭の中に小さな疑問が広がる。 以前は 9.11 アメリカ同時多発テロの衝撃を受けたときに考え、
雑感にも書いた。 今回は例の 『村上ファンド』 の件でも自由とか正義とかについて考えてしまった。
村上氏の言う大義名分は、日本市場に馴染むか馴染まないかは別として、大きく間違ってはいないのかもしれないが、「会社は誰のものか」 という問いに対しては
1/21 の雑感にも書いたように、「株主のものだけではない」 と答えたい。
ベトナム戦争やイラク戦争もそうだったが、正義がいつまでも正義のままでいることは難しい。 日本社会で暗躍する暴力団ですら、その発祥は 『弱きを助け、強気を挫く』 庶民のための正義の味方だったはずだ。 いつまでも正義の味方でいられるほど人間の意志や心は強くないのかも知れない。
記者会見の席で村上氏は 「道路を車で走っていて、後から一方通行だと気付いてしまったようなもの」 と言っていたが、それは詭弁でしかないだろう。 今回の問題となっているニッポン放送株に関しては、
6/5 の独り言に書いたように最初から知っていたものと思われる。
つまり、一方通行だと最初から知っていながら走った訳である。 聞かなければ問題なかったのに 「聞いちゃった」 のではなく、最初から知っており、その道に入る前に一方通行の標識を見ていたのと同じことだ。 したがって、それは罪であり、罰せられて当然のことと言える。
さらに許せないのは、村上ファンドが発足した当時、1999年には株主至上主義はすでに崩壊していた。 1980年代、アメリカではモノ言う株主が台頭し、企業買収が盛んだったが、1998年頃からは 「会社は社員のものであり、会社はお客様のために尽くす」 というスローガンが当然の事となり、企業は株主の顔色を見なくなった。 村上氏ほど優秀な人であれば、それを知っていたはずである。
それなのに 「会社は株主の物」、「株主利益を優先せよ」 という古い理論で実態を知らない経営者を恫喝して震え上がらせ、幼い市場参加者が同調して株価が上昇したところで売り抜けて利益を得る。 本人も認めている通り、合法的な総会屋そのものである。 確かに株取引市場が成熟するまでに一度は通らなければならない道だったかもしれないが、その行動は誉められたものではない。
ライブドアの件や今回の件を経て規制が強化されることになった。 「今までが自由すぎた」 という解説者が多いが、日本社会は 「そんな悪人はいないだろう」 という性善説で成り立ってきたし、「お天道様に恥ずかしくないことなのか」 を基準に人は行動していたはずである。
たとえ法律になくても人を殺してはいけないのは当り前のことだ。 自由であれば自由であるほど、こんなことをして良いのか、お天道様に恥ずかしくないのかと不安になるものだと思っていたが、どうやら違う考え方を持ち、「ここまでやっても大丈夫」、「もう少しギリギリのことをやっても大丈夫」 とエスカレートしていく人もいるようだ。
自分に正義感などという大それたものはないが、「せめてお天道様に顔向けできないことだけはしないで生きて行けたら良いな〜」 などと、ボンヤリ思う今日この頃である。
2006 / 06 / 10 (土) ¦ 固定リンク
進化論外 進化論外
ニワトリが先か、卵が先か・・・の命題に結論が出たようだ。 英国の遺伝子専門家と哲学者、養鶏家の 3人が出した結論は・・・卵が先。 「生物が生きている間に遺伝物質が変化することはなく、ニワトリ以外の鳥が途中でニワトリになることはあり得ない。このためニワトリ以外の鳥が産んだ卵が、突然変異でニワトリの特性を備えた卵になった。」 ということらしい。
言われてみれば確かにその通りである。 進化は突然変異で起こるものであるから、飼っている鳥がある日突然ニワトリに変貌を遂げるはずがない。 遺伝子を受け継ぐ過程で DNA の配列に変化が起こる訳だから、受精して細胞分裂を繰り返している途中で何かが起こり、そのままニワトリが生まれる卵となったことになる。 そして孵化したのがニワトリの第一号だ。
そこまで考えると、とても不思議で納得できないことがある。 種の保存をするためには同種のものが沢山なくてはいけない。 つまり、突然変異で生まれたニワトリも一羽だけであれば、その一羽でニワトリという種は滅びてしまう。 その種を維持できたり繁栄させたりできるということは、同時期に複数のニワトリが必要になるが、そんなに都合よくニワトリが誕生するのだろうか。
何もニワトリに限った話しではなく、人間だって同じだ。 いつどこで猿と枝分かれしたのか分からないが、生まれてくる猿が少しずつ人間に近づき、それが同時多発的に生まれたから人間という種が現存している訳である。 何らかの理由で環境が大きく変わり、その環境に適応するために今のような姿になったのだろうか。
子供の頃、進化論の説明を受けるときに 「キリンさんは高いところにある餌を食べるために首が長くなりました」 とか 「象さんは手のように便利に使うために鼻が長くなりました」 などと聞かされ、それは正しいことなのだろうが、あまりにも純粋に話を受け止めていた。 しかし、疑り深いオッサンになると 「本当にそうなのだろうか?」 と思ってしまう。 そんな理由だけで進化などするのだろうか。
キリンは首が長くなったのではなく、最初から首が長いから高いところにある餌を食べるのが楽なのではないだろうか。 象だって、たまたま鼻が長かったから、それを手のように使っているだけではないだろうか。 同じような外見のサイだって鼻が長ければ便利に使いたいはずである。 どんな動物だって猿や人間のように自由に手が使えれば嬉しいはずである。
それなのに何千年、何万年が経過しても大きな変化が見られないのはどうしてだろう。 「まぁいいや」 と現状に満足し、進化を止めてしまったのだろうか。 ここ数万年の間に人間だけが劇的な進化を遂げたのはなぜだろう。 二足歩行し、体毛が減り、言語を操り、火を使い、道具を使い、地球の外にまで飛び出せるようになったのはなぜだろう。 人間と同じくらいに進化する生物がいないのはなぜだろう。
ダーウィンさんの説はきっと正しいのだろうが、心からは賛同できない。 誰か矛盾を感じることがないくらい合理的に説明してくれないだろうか。 このままだと夜も眠れなくなってしまうかもしれない。
2006 / 06 / 03 (土) ¦ 固定リンク