自由とは何だろう。 正義とは何だろう。 いつも小難しいことを考えている訳ではないが、何かある毎に頭の中に小さな疑問が広がる。 以前は 9.11 アメリカ同時多発テロの衝撃を受けたときに考え、
雑感にも書いた。 今回は例の 『村上ファンド』 の件でも自由とか正義とかについて考えてしまった。
村上氏の言う大義名分は、日本市場に馴染むか馴染まないかは別として、大きく間違ってはいないのかもしれないが、「会社は誰のものか」 という問いに対しては
1/21 の雑感にも書いたように、「株主のものだけではない」 と答えたい。
ベトナム戦争やイラク戦争もそうだったが、正義がいつまでも正義のままでいることは難しい。 日本社会で暗躍する暴力団ですら、その発祥は 『弱きを助け、強気を挫く』 庶民のための正義の味方だったはずだ。 いつまでも正義の味方でいられるほど人間の意志や心は強くないのかも知れない。
記者会見の席で村上氏は 「道路を車で走っていて、後から一方通行だと気付いてしまったようなもの」 と言っていたが、それは詭弁でしかないだろう。 今回の問題となっているニッポン放送株に関しては、
6/5 の独り言に書いたように最初から知っていたものと思われる。
つまり、一方通行だと最初から知っていながら走った訳である。 聞かなければ問題なかったのに 「聞いちゃった」 のではなく、最初から知っており、その道に入る前に一方通行の標識を見ていたのと同じことだ。 したがって、それは罪であり、罰せられて当然のことと言える。
さらに許せないのは、村上ファンドが発足した当時、1999年には株主至上主義はすでに崩壊していた。 1980年代、アメリカではモノ言う株主が台頭し、企業買収が盛んだったが、1998年頃からは 「会社は社員のものであり、会社はお客様のために尽くす」 というスローガンが当然の事となり、企業は株主の顔色を見なくなった。 村上氏ほど優秀な人であれば、それを知っていたはずである。
それなのに 「会社は株主の物」、「株主利益を優先せよ」 という古い理論で実態を知らない経営者を恫喝して震え上がらせ、幼い市場参加者が同調して株価が上昇したところで売り抜けて利益を得る。 本人も認めている通り、合法的な総会屋そのものである。 確かに株取引市場が成熟するまでに一度は通らなければならない道だったかもしれないが、その行動は誉められたものではない。
ライブドアの件や今回の件を経て規制が強化されることになった。 「今までが自由すぎた」 という解説者が多いが、日本社会は 「そんな悪人はいないだろう」 という性善説で成り立ってきたし、「お天道様に恥ずかしくないことなのか」 を基準に人は行動していたはずである。
たとえ法律になくても人を殺してはいけないのは当り前のことだ。 自由であれば自由であるほど、こんなことをして良いのか、お天道様に恥ずかしくないのかと不安になるものだと思っていたが、どうやら違う考え方を持ち、「ここまでやっても大丈夫」、「もう少しギリギリのことをやっても大丈夫」 とエスカレートしていく人もいるようだ。
自分に正義感などという大それたものはないが、「せめてお天道様に顔向けできないことだけはしないで生きて行けたら良いな〜」 などと、ボンヤリ思う今日この頃である。