自分解体新書 - 12 -

自分解体新書 ~目次~

■ 盆の窪(ぼんのくぼ)

それがどこなのか知ったのは20歳を過ぎてからだったと思う。

後頭部で首と頭蓋骨の境目、中央のポコンと出っ張った骨の下にあるへこんだ部分であり、凝りをほぐすツボであって、気功では気の入り口がある所だと考えられ、ここを刺されれば呼吸等の機能を停止させて死に至るという必殺シリーズでもおなじみの急所でもあり、アントニオ猪木が得意とする延髄斬りで狙う場所でもあったりする。

しかし、その重要性も盆の窪という名称も、子どもの時分や若いころには知る必要もないため、肩こりに悩まされるまでは聞くこともなかったか、聞いても記憶する必要がなかった場所だ。

この盆の窪、確かに何らかの重要性を持っているらしく、夏の暑くて仕方がない時に冷やすと全身が涼しく感じるし、寒い時期に温めると全身が温まる。

北海道にしては異常に暑く、数々の気象記録を塗り替えた今年、保冷剤をタオルに巻いて盆の窪を冷やし、涼をとる日がいかに多かったことか。

就寝時にアイスノンを枕に盆の窪を冷やし、快適に眠ることもできた。

これからの寒い時期、マフラー代わりに首に巻いているタオルを厚手のものにして盆の窪を温めて過ごすつもりでいる。

以前の独り言に書いたように、首のタオルは一年中してはいるのだが・・・。

■ 肌 -その 3-

これも以前から何度も書いているが、男のくせに相変わらず肌が弱く、少しの刺激でもかゆみを覚えるため着るものの素材選びは重要だ。

ウール素材などはチクチクして着られたものではなく、高級カシミアか、むしろレーヨンだのポリウレタンとか化学繊維の安物が肌に合う。

そして、それらの素材を選んだとしても襟元に付けられているタグに刺激されて首の後ろが痒くなってしまうので、Tシャツなどのタグは購入と同時に取ってしまうようにしている。

さらに、縫製で使われている糸がチクチクするので、縫い目がある腕とか脇腹なども痒くなってしまうのが困りものだ。

それを回避するため肌に直接触れる下着類などはすべて裏返して着用するようにしたところ、これがかなり具合がよろしい。

俗に言われる敏感肌とまではいかないが、これから寒い時期には余計に痒みが出るのでちょっと憂鬱だったりする。

■ 膝(ひざ)

木曜日の独り言にも書いたが、以前の雑感でも触れた太腿の痛みは完治しつつあるが、痛みが下に移動しているように思う。

今は右足の裏に痛みが集中しているが、足を深く曲げると左膝も痛い。

この家には仏壇があるので毎朝拝んでいるが、その際の正座でダメージを受け、立ち上がると痛みが走るのである。

しかし、それは数秒程度であり、すぐに治まるので重大事とは捉えておらず、病院にも行ってはいない。

これが長引くようだったり痛みがひどくなるようであれば医者に相談しようかと思っているが、結果はどうせ加齢が原因だと言われるに決っているであろう。

太腿の痛みも数カ月という時間の経過とともに軽減され、今は快方に向かっているので膝も足の裏も放っておけば自然治癒するものと期待しているところだ。

ございます

最近になって、また変な日本語を耳にするようになった。

何でもかんでも末尾に 『ございます』 を付けて話す大人が多く、それは大企業の上層部、政治家にまで及び、側近の誰かが注意してもよさそうなものだと思うのだが、ニュースを伝えるアナウンサーもコメンテーターも言及しないところをみると、その使い方に疑問を持たないということであり、そんなことにこだわって耳障りだと思っているのは自分だけなのだろうか。

野田総理が何かの記者会見で配布済みの資料を指して
「お手元にお配りしてございます」
と言っていたが、そんな日本語が本当にあるのだろうか。

まだ資料を配布している最中であれば
「只今お配りしております」
だろうし、配布済みのものであれば
「お手元にお配りしました」
または
「すでにお配りしております」
であって、
「お配りしてございます」
などという言葉、文章などはググってもヒットしない。

大阪維新の会にすり寄り、結果的に日本維新の会への参加を決めた松野頼久衆院議員は、それまで主張してきた政策との違いに関して合意できるのか記者に問われ、
「一致をしてございます」
と応えていたが、それを言うなら
「一致しております」
とか
「一致いたしております」
であり、もう少しなら
「一致を目指しております」
ではないのだろうか。

大企業の社長がリストラに伴う工場閉鎖、組合との折衝に関し、
「鋭意取り組んでございます」
と言っていたが、
「鋭意取り組んでおります」
だと思われる。

株主総会で海外進出の遅れを指摘された経営幹部が、その点に関して
「準備してございます」
・・・それは
「準備しております」
だろう。

着工した道路建設の工事予定を聞かれ、十数年後の日付を答えた上、
「完成を目指してございます」
・・・。
「目指しております」
だ。

政界、経済界などで急激に浸透してきた流行語なのか、最初に言い出した奴はいったい誰なのか、なぜ誰も変だと思わないのか不思議でならない。

この 『ございます』 の使い方があまりにも目立つので、もしかしたらそれが正しく、自分が間違っているのではないかと不安にすらなるが、上述したすべての 『◯◯ございます』 は、どれ一つとして検索結果を得られないので世の中にそのような文章も議事録もないということなのだろう。

ただし、それは同時に、それを指摘する文章も存在しないことを意味する。

では、やはり、そんなことを糾弾する自分が間違っているのだろうか。

慣れ その2

最近になって、やっとメガネに慣れてきた。

いや、視力が低下したという自覚がやっと芽生えたとでも言うべきか。

過去の雑感で何度も触れたように、視力が良いことが唯一の自慢だった。

若い頃からコンピュータ業界に身を置き、朝から晩までディスプレーを見続け、画面の 1ドットを見ながら絵を書いていたにも関わらず中年になっても視力は 2.0を維持しており、揺れる電車の中で本を読み、帰宅してからもテレビゲームで画面を凝視し、布団に入ってからも本を読むという、目に負担のかかることばかりしていたのに視力が衰えないので安心しきっていたのである。

いつの頃からか仕事帰りに外に出ると街灯の明かりや町のネオンがにじんで見えるようになり、疲れ目は意識するようになったが、すぐに回復するので大きな問題だとは捉えていなかった。

しかし、視力の低下は確実かつ、加速度的に襲ってくる。

それでも最初は自分が乱視になりかけているとは思いもせず、少し遠くがぼやけて見えるのは目にゴミが入ったか、目やにのせいか、まつ毛にゴミでも付いているのだろうと思い、頻繁に目をこすっていた。

目の良い期間があまりにも長く続いたために視力低下の自覚が持てず、目をこすらなくなってきたのは最近のことで、頭では分かっているのに、ついつい手が目にいってしまう。

その頻度が徐々に減って、今では視界がぼやけているのは目が悪くなったからだと認められるようになった。

独り言にも何度か書いているように、どうも妙な乱視らしく、一定以上、一定以内の限られた範囲は見づらいが、その範囲外はかなりクリアに見えるのが不思議だ。

4-50センチ離れているパソコン画面は、それ専用のメガネを使って見ているのだが、そのメガネでテレビは見えないし、遠くも見えない。

テレビを見る時に使っているメガネだとパソコン画面は見づらいし、遠くを見るときには必要以上に焦点を合わせようとするらしく目が疲れる。

裸眼ではパソコンが見づらく、テレビは文字がにじんで見えないが、遠くは労せず見ることができるという妙な具合だ。

そんな訳で、パソコンに向かう時、テレビを見る時はそれぞれ違うメガネを使い、爪切りや手元の作業をする時は老眼鏡をかけ、食事をする時、トイレに立つ時、外出するときは裸眼という実に面倒な生活をしている。

そして、常にメガネをしている訳ではないので、装着している自分にもなかなか慣れることができなかった。

ついついメガネをしていることを忘れ、いや、メガネをしている自覚がなく、目が痒かったり少し遠くがぼやけて見える時は目をゴシゴシしようとしてレンズをゴシゴシしてしまったことも一度や二度ではない。

暑さと寒さが微妙な時期は、日に何度も服を着たり脱いだりするが、メガネをしていることを忘れたまま首を通そうとしてズリズリとアゴの下までズレてしまったりすることも日常茶飯事だ。

それが最近になってやっと慣れてきて、目が痒くてレンズをゴシゴシすることもメガネをしたまま着替えることもしなくなってきた。

しかし、まだひとつだけ慣れないことがある。

メガネの位置を直す動作で、レンズとレンズ間の鼻の部分、俗にブリッジと呼ばれる部分に人差し指を当てて位置を補正する方法、簡単に言えば亡くなった横山のやっさんが 「おこるでしかし」 と言いながらメガネをなおす、あの仕草を自然にすることができない。

それをしようとすると左右どちらかのレンズに指紋をつけてしまうのが常で、精神統一してゆっくりと人差し指を眉間に近づけ、慎重にブリッジを捉えなくてはならず、すぐにはズレたメガネの位置を直すことができずにいる。

これも慣れであろうから、いつか無意識に手が勝手に動くようになるだろうとは思っているが、まだすこし時間がかかりそうな気がしないでもない。

慣れ その1

例年よりずっと遅く、北海道にもやっと秋の気配が漂う。

自然界に目をやれば、ナナカマドの実は色づき始め、栗のイガも立派になってきているし、花をつける草木も変わり、空を行く鳥も今までと違う声で鳴いているので確実に秋は近づいているのだろうが、数日前までの異常な暑さで夏の終わりを実感できずにいた。

管理人の独り言に何度も書いているように、今年の北海道は記録的な暑さ、長引く残暑で季節感を失い、いつまで経っても夏が終わらないような感覚に襲われる。

40年ぶり、60年ぶりに気温に関する記録に達したかと思えば、過去 100年の観測史上で類を見ない記録も次々に樹立し、涼を求めて北海道に来た観光客の期待を見事に裏切った今年の夏。

春から夏にかけては 25度を超えると暑く感じるが、夏から秋にかけて 25度台まで気温が下がると肌寒く感じてしまうのが不思議だ。

これは、寒さへの慣れ、暑さへの慣れからくる感覚的なものだろう。

大阪に暮らしていた頃、冷房を使わずにいると室内は 40度に達しようかという程の灼熱地獄になったが、どうしても冷房の空気が好きになれないのでエアコンの除湿運転で乗り切ろうと試みてはみたものの、さすがに 34度を超えると我慢の限界に達して冷房運転に切り替えたりしていた。

そんな生活を続けていると体が順応するらしく、秋になって室温が 30度くらいになると寒く感じ、感覚が麻痺してしまったのではないかと我が身を疑ったものだ。

日本で一番暑い夏、湿気が多くジメジメした夏を十数年ほど味わったのちに北海道に帰ってくると、あまりにも夏が快適すぎて天国のようだと思った。

人からは 5年もすれば慣れて北海道でも夏は暑いと感じるようになると言われたが、あの大阪の記憶があれば決してそんなことはなく、いつまでも快適に過ごせそうな気がしていた。

そして今年が 5度目の夏、確かに記録ずくめの暑い夏ではあったが、確実に暑さに弱くなってしまったような気がする。

連日の暑さもたかが夏日であり、真夏日でも猛暑日でもない。

嫌なジメジメも湿度は 60%前後で、65%になったのは数日のことだ。

大阪では真夏日、猛暑日が日常で 60%以上の湿度は当たり前のことであり、それが約 2カ月ほど続くのだから、たかが数週間程度のことでダメージを受けていては生きていられない。

そんな土地で 10年以上も暮らしていたのに、たった 5年でこの体たらくは何事ぞっ!と、自分を戒めてはみるが、頭では分かっていても皮膚感覚、肌感覚がすっかりこちらの気候に慣れてしまい、自身でのコントロールは不可能だ。

ただし、大阪はもっとひどかったとか、大阪の暑さはこんなものではなかったという記憶は薄れることなく鮮明に残っているので、北海道の夏しか知らない人よりは耐性が強い。

昨日もこの町の最高気温は 27度を超え、北海道内の場所によっては30度を超える真夏日となり、まだまだ残暑厳しいとテレビでは伝えていたが、湿度が 50%以下だったので大阪帰りの身には実に快適で爽快に感じられる。

相変わらずジメジメとした湿気には弱いが、暑さに対してはまだ抵抗力が残っているようだ。

来年、再来年と、月日の経過とともに肌や脳が気候に慣れて耐性が薄れ、いつか北海道の夏ですら暑くて我慢できなくなる日は来るのだろうか。

そうはならないよう、たまに大阪に遊びに行って地獄の夏を経験するのも悪くないかもしれないと、頭のほんの片隅で思わないこともないが、わざわざそんな経験をすることもなかろうという思いのほうが脳の圧倒的部分を支配しているので実行に移すことはないだろう。

北方見聞録 2012-2

先週からの続き

翌日はバス時間に余裕があったので、チェックアウト時間をいっぱいに使って部屋を出て、車内で食べる昼ご飯を調達してから実家への土産物などを物色し、北へ向かうバスに乗り込む。

昼ご飯を食べる以外は本を読んだりスマホのゲームをしたりしていたが、その大半は寝て過ごす車内、それでも故郷までこの身を運んでくれる。

現在住んでいる町よりも、札幌よりも故郷は北に位置し、冬は極寒の地で知られる場所であるにも関わらず、その日は信じられないほど異常な暑さで目がくらむ。

実家に着くと室内も異常な暑さだったので、客間の窓を開放したが普段は使わない部屋なので網戸がなく、夜になれば虫の巣窟となって全身刺されまくるのではないかと思われたので、夜の外食の後に蚊取り線香を購入することにした。

家にいても暑いだけなので早々に外出し、日本食レストランに入る。

ここ数年は食べる量を減らしているので外食で出される量が多くて食べるのに必死であり、母親も 『お買い物日記』 担当者も食べきれずに残す中、何とか完食することができたが、後にそれを後悔することに。

店を出てドラッグストアに寄り、蚊取り線香を購入するが、2泊しかしないので最小数量のものを探すとナショナルブランド品ではなく、プライベートブランド品に 10ロールのものがあったのでそれを選択した。

帰宅すると早々に蚊取り線香に火をつけ、寝室の害虫駆除を開始。

酒を飲み始めると肴が山ほど用意されている。

とても一人では、いや、二人だろうと三人だろうと食べきれるはずのない量だったので胃薬を服用しながら必死に食べたが、晩御飯を一人だけ完食してしまったことが災いし、なかなか腹に入って行かない。

長い時間をかけて食べはしたが、やはり食べきれなかったので翌日に持ち越しすることにした。

就寝しようと客間に行くと、安物の蚊取り線香だからか呼吸困難になるほどの煙と臭いで大変なことになっている。

こんな環境では蚊も生きていられるはずはなかろうと火を消して布団に入ったが、強烈な臭いが気になり、酔っているにもかかわらずなかなか寝付けなかった。

翌日、写真館に行って何の記念でもない写真を撮影してもらう。

何の記念でもないが、目的ははっきりしていて、実は前日の夜に家族で話し合い、遺影にするための写真を撮影しておこうということになったのである。

数年前に義兄が亡くなった際、遺影に使えそうなニッコリと笑っている写真がなくて困った経験があり、結果的に緊張した面持ちの証明写真が遺影となってしまったことを、もう老い先短くなっただの葬儀社はここが良いだの最後は葬式をせず家族だけで見送ってほしいだの言い出した母親に言ったところ、実は父親の遺影も同じで、運転免許証の写真を使ったとのことだったので、この際だから全員で遺影に使える写真をスタジオで撮影してもらおうということになった。

そして、三人揃ってアホみたいにニッカニカと笑った写真撮影に成功し、これでいつ誰が死んでも遺影に困ることはないと安堵しつつ、全国的にもスイーツが有名な喫茶店に入って昼食にする。

喫茶店といえばあっても軽食だろうとたかをくくっていたら、やはりでてくる食事の量が多く、再び腹が割れそうになるくらい食べた後、ネットで超有名になったスイーツを購入して帰宅。

そのままダラダラ過ごし、少し腹に余裕ができたところでスイーツを食べ、またゴロゴロしたりシャワーを浴びたりしているうちに日が沈んだ。

母親はその日の夜も外食するつもりでいたが、これ以上の暴食には胃が耐えられないと思われたので、昨日の夜に残した酒の肴と、今夜の分として用意されていた肴をおかずに米だけ炊いて食べることにした。

それでも食べきれる量ではなかったので相当量を残すことになってしまったこともあって、次回から用意するのは半量で良いと母親に伝える。

その後は酒を呑みながら将来について母親と少し話す。

将来といっても互いに歳なので明るい未来について語った訳ではなく、基本的に生活パターンが違いすぎるので今は一緒に暮らせない、暮らしたくないのでギリギリまで一人で頑張れと励まし、いよいよ体が弱ったり足腰が立たなくなったら同居するから心配するなと伝え、それまでは同じ町に暮らす一歳違いの叔母と助けあって暮らすように言い渡して就寝した。

そして翌日、午前中に高速バスに乗って札幌へ。

札幌では駅周辺をウロウロしたが、物欲がないので買いたいものも見ておきたいものもなく、ただただ徘徊するだけの怪しい二人となってしまった。

夕方に高速バスに乗り込み、ただ惰眠を貪っているうちに今住む町に到着した。

この町も夜だというのに暑く、最初から最後まで暑いことだけが深く記憶に残る旅になってしまったことを思い返しながら近所の店で晩御飯を調達して帰宅。

それから先はドッと疲れが出て、何をしていたのか記憶が定かではない。