慣れ その2

最近になって、やっとメガネに慣れてきた。

いや、視力が低下したという自覚がやっと芽生えたとでも言うべきか。

過去の雑感で何度も触れたように、視力が良いことが唯一の自慢だった。

若い頃からコンピュータ業界に身を置き、朝から晩までディスプレーを見続け、画面の 1ドットを見ながら絵を書いていたにも関わらず中年になっても視力は 2.0を維持しており、揺れる電車の中で本を読み、帰宅してからもテレビゲームで画面を凝視し、布団に入ってからも本を読むという、目に負担のかかることばかりしていたのに視力が衰えないので安心しきっていたのである。

いつの頃からか仕事帰りに外に出ると街灯の明かりや町のネオンがにじんで見えるようになり、疲れ目は意識するようになったが、すぐに回復するので大きな問題だとは捉えていなかった。

しかし、視力の低下は確実かつ、加速度的に襲ってくる。

それでも最初は自分が乱視になりかけているとは思いもせず、少し遠くがぼやけて見えるのは目にゴミが入ったか、目やにのせいか、まつ毛にゴミでも付いているのだろうと思い、頻繁に目をこすっていた。

目の良い期間があまりにも長く続いたために視力低下の自覚が持てず、目をこすらなくなってきたのは最近のことで、頭では分かっているのに、ついつい手が目にいってしまう。

その頻度が徐々に減って、今では視界がぼやけているのは目が悪くなったからだと認められるようになった。

独り言にも何度か書いているように、どうも妙な乱視らしく、一定以上、一定以内の限られた範囲は見づらいが、その範囲外はかなりクリアに見えるのが不思議だ。

4-50センチ離れているパソコン画面は、それ専用のメガネを使って見ているのだが、そのメガネでテレビは見えないし、遠くも見えない。

テレビを見る時に使っているメガネだとパソコン画面は見づらいし、遠くを見るときには必要以上に焦点を合わせようとするらしく目が疲れる。

裸眼ではパソコンが見づらく、テレビは文字がにじんで見えないが、遠くは労せず見ることができるという妙な具合だ。

そんな訳で、パソコンに向かう時、テレビを見る時はそれぞれ違うメガネを使い、爪切りや手元の作業をする時は老眼鏡をかけ、食事をする時、トイレに立つ時、外出するときは裸眼という実に面倒な生活をしている。

そして、常にメガネをしている訳ではないので、装着している自分にもなかなか慣れることができなかった。

ついついメガネをしていることを忘れ、いや、メガネをしている自覚がなく、目が痒かったり少し遠くがぼやけて見える時は目をゴシゴシしようとしてレンズをゴシゴシしてしまったことも一度や二度ではない。

暑さと寒さが微妙な時期は、日に何度も服を着たり脱いだりするが、メガネをしていることを忘れたまま首を通そうとしてズリズリとアゴの下までズレてしまったりすることも日常茶飯事だ。

それが最近になってやっと慣れてきて、目が痒くてレンズをゴシゴシすることもメガネをしたまま着替えることもしなくなってきた。

しかし、まだひとつだけ慣れないことがある。

メガネの位置を直す動作で、レンズとレンズ間の鼻の部分、俗にブリッジと呼ばれる部分に人差し指を当てて位置を補正する方法、簡単に言えば亡くなった横山のやっさんが 「おこるでしかし」 と言いながらメガネをなおす、あの仕草を自然にすることができない。

それをしようとすると左右どちらかのレンズに指紋をつけてしまうのが常で、精神統一してゆっくりと人差し指を眉間に近づけ、慎重にブリッジを捉えなくてはならず、すぐにはズレたメガネの位置を直すことができずにいる。

これも慣れであろうから、いつか無意識に手が勝手に動くようになるだろうとは思っているが、まだすこし時間がかかりそうな気がしないでもない。