北方見聞録 2012-1

今週は遅めの夏期休暇にして帰省してきた。

帰省といっても例によって 2泊しただけだが、それより長居をすると親子喧嘩が勃発するのは火を見るより明らかなので早めに切り上げるのが互いに平和なのである。

帰省の前に札幌に寄って 『お買い物日記』 担当者が定期検診を受けている間は病院の待合室で本を読んだりスマホのゲームをしたりして時間をつぶしていた。

血液検査にCTスキャン、血圧検査と診察が終わったが、想像以上に血圧が高かったので計測器を購入し、毎日でもチェックすべきだということになったらしい。

なんでも、そろそろそういうことに気を使うべき年頃なのだそうである。

昼になったので宿泊するホテルの近くにある店に入り、蕎麦や親子丼を注文。

その日はひどく暑い日だったので丼ものを注文したことを少し後悔したが、後に別の意味で大きな後悔をすることになる。

出てきた親子丼を口にした瞬間、反射的に
「う、うそだっ!」
という思いと
「こ、こんなはずはない」
「何かの間違いだ」
という思いが次々に頭をよぎる。

何とその親子丼が今まで経験したことがなく、ビックリするくらい、そして信じられないくらい甘い。

いや、甘いなどという生易しいものではなく、こめかみがジンジンするほどであり、どんなに砂糖やみりんの分量を間違ってもこの甘さにはならないだろうと思える常識はずれの代物だ。

そこは開店したばかりの歴史の浅い店ではなく、のれんも調度品も歴史を感じる古さであり、すでに午後 1時を回っているというのに数人の客がいるほどなので、その驚きの甘さが店の味であって好きな人にとってはたまらなく美味なのかもしれない。

我が舌を疑ったので 『お買い物日記』 担当者に一口食べてみてもらったが、やはり目を丸くして驚き、泣き笑いのような微妙な表情を浮かべて舌をレロレロしていたので甘さに耐えられなかったのだろう。

貧乏性で普段は出されたものを残さず食べるのだが、その親子丼を完食することはできず、大きな後悔と敗北感を味わいながら店を出ることになった。

店を出て 『お買い物日記』 担当者が病気仲間との再会を果たしている間、自分は札幌駅周辺をウロウロしたり家電量販店で最新デジタル機器などを見て時間を潰していたが、そうそう見るものもないので美容健康に関する売り場に行き、購入しなければならないであろう血圧計を見たり、少し疲れたのでマッサージチェアに座って全身マッサージコースを堪能したりして過ごす。

少し前までマッサージチェア売り場といえば年寄りやオッサンの休憩の場だったが、その場には若いカップルや女子高生までおり、体を揉みほぐしてもらいながらスマホでメールのやりとりをするという不思議な光景が広がっていた。

自分はといえば、気持ち良かったので 15分コースを 3セットもやってしまい、途中で睡魔に襲われて記憶を失ったりしていたが、ホテルのチェックイン時間になったのでその場を後にする。

部屋に入って一息つき、ふとスマホを見ると Wi-Fi利用が可能になっている。

そのホテルではパソコンやスマホにネットワークを開放しており、無料接続が可能になっているようで、ロビーでも部屋でもネットが使い放題だ。

昨年末から自宅でも Wi-Fi接続で利用しており、今回の旅行でも端末を持ってきているので 『お買い物日記』 担当者と自分のスマホ、ネットブック PCの 3台は自由にネット利用できるようにはなっていた。

しかし、『お買い物日記』 担当者と別行動する場合はどれかの機器でネットが使えないという弱点があったのだが、ホテルが Wi-Fiを開放しているのであれば話しは別だ。

来年から別行動する場合に端末を持って出かけるようにして、一人がホテル待機すれば良いのである。

などと一人で感動していると 『お買い物日記』 担当者が戻ってきたので例の居酒屋に向かう。

通常、店では半年しか保管しないボトルを 1年ぶりに開封し、美味い酒を呑みながら料理に舌鼓を打つ。

北海道の食材が良いこともあるが、この店では何を食べても美味い。

しこたま呑んで食べて、また来年になったら開封するであろうボトルを入れて店を後にし、札幌の夜は更けていったのであった。

《 次週につづく 》

順応

北海道に帰ってきて 5度目の夏が終わろうとしている。

ゆっくりではあるが、夏の終わりが近づいてきている気配だ。

まだ紅葉はしていないものの、少しずつ木の葉が落ちてきているし、柿の実もふくらみ始め、栗の樹にも実がつき始めている。

さえずる鳥の声も変わり、ちらほらトンボが姿を見せるようになってきた。

コスモスが風に揺れ、河原ではススキが穂をたれる。

ナスやカボチャ、トマトにトウモロコシなどの夏野菜が収穫期を迎えて地物が店に並ぶ。

サンマ漁も始まり、月末には秋鮭漁も解禁される。

大阪に暮らしていた頃は夏の終わりを待ち遠しく思ったものだが、北海道の短い夏が終わるのは少し寂しい。

その土地の気候風土には 5年もすれば慣れるものだと聞いていたが、確かに少しずつ北海道に順応してきているようで、大阪とは比較にならない程度の気温でも暑く感じるようになってきた。

それでもまだ生粋の道産子よりはマシで、室温が28度や29度だと暑くは感じない。

ただし、それには条件があり、湿度が50%台である必要がある。

29度でも60%を超えるとジメッと暑くて気分がよろしくない。

こちらの夏はカラッとしているので湿度が40%台のことが多く、そうなると30度を超えていても暑さを感じずに済む。

今季、室温が 30度を超えて湿度も 60%を超えることが 何日かあったのだが、その時はジトッと汗が出て実に気持ち悪く思ったものだ。

たしか 1年目も北海道にしては暑い夏だったが、大阪から帰った直後の身にとっては実に爽快で暑さなどそれほど感じなかったように思うし、2年目、3年目も周りの人が暑いと言う中、涼しい顔をして過ごしていたような気がする。

しかし、去年から不快に思う暑さを何度か感じるようになり、記憶が新しいこともあって今季はそれがさらに増えたように思う。

やはり少しずつ体が順応し、北海道のような気候でもそれなりに暑かったり不快に感じるようになってきたのかもしれない。

せっかく大阪で鍛えられ、北海道の暑さなど屁とも思わない体になっていたはずなのに、徐々に感覚も記憶も薄れつつある。

それでもまだ北海道に帰ってきてから汗がタラリと流れたことはない。

ジワッと汗をかくものの流れるように汗するほどの暑さを感じていないし、暑くて眠れなかったこともなく、体に汗もができることも、毎晩アイスノンを枕に寝ることもなくなったし、扇風機をつけたまま寝たのも 3日間くらいなものだ。

テレビやラジオで見聞きしたところでは、暑さで食欲をなくしたり寝不足になったりする人がかなりいるらしいが、我家の場合は食欲旺盛、夜も自分なりのペースで眠れている。

まだ暑さに対する免疫が残っていることと、薄れつつある感覚や記憶を呼び戻し、大阪の夏はこんなものじゃなかったと自分自身に言い聞かせているのが奏功しているのだろう。

今後も自分自身を戒めて大阪の記憶が消えないように努め、北海道に順応し過ぎないようにするつもりでいる。

時代

少し前、何度かJRに乗って30分ほどの町に行く機会があったのだが、帰りの電車は学校帰りの学生たちと同じになる。

ペチャクチャと話に花を咲かせる女の子、イヤホンを耳に目を閉じてジッと音楽に聞き入る男の子、寝不足なのか居眠りをする生徒、真面目に教科書を広げて勉強に勤しむ子など車内の状況は様々だが、圧倒的に多いのは携帯電話を操作している学生たちだ。

信じられないスピードで指が動き、あっという間に文章を完成させてメールを送信するのだが、これがまた信じられないほど短い間隔で返事が返ってくる。

現代っ子にとって携帯電話は必需品、コミニュケーション手段として必要不可欠な物なのだろう。

ざっと見渡した限り、従来からの携帯電話が 8割、スマホが 2割といったところであり、いくらスマホの普及率が高くなってこようと学生には高嶺の花といったところか。

実際、高校入学と同時に携帯電話を持つ子も多いだろうから、卒業までの 3年間は機種変更などしないだろうし、親から許してもらえないものと思われる。

親にしてみれば月額7-8000円ほどの固定費を払わなければならないのだろうから、スマホの購入など論外だと言うに違いない。

そんな状況であるのに隣のマユちゃんはスマホを手に入れている。

伯父である散髪担当のお兄ちゃんの話しでは、
「みんな持っているから」
という理由で親である妹ちゃんを説得したらしい。

みんなが持っているなどという理由は小学生から使う子供の常套手段であり、一番多く使われる交渉手段であるのに、まんまと買わせてしまうあたりはさすがにスーパー女子高生だと思う反面、幼稚な交渉手段を用いるあたり、やっぱり今どきの女子高生だと思えて可笑しい。

それにしても確実に時代は変わった。

昔は携帯端末などなかったのはもちろんだが、仮に存在したとしても本体価格 5-6万もするものをポンと我が子に買ってやり、毎月7-8000円も通信費を負担する親などいなかっただろう。

ポケベルからケータイに変わり、ネット接続が可能になって通信速度が向上し、スマホが登場するまでをリアルに体現してきた世代が親となっている現代だからこその潮流か。

時代が変わったといえば、昨日の昼はマクドナルドで食事をしたのだが、店内は中学生でいっぱいだった。

自分が中学生の頃は町にマクドナルドやその他のファストフード店がなかったこともあるが、店が溜まり場になることなどなかったように思う。

もちろん、不良だった自分は喫茶店にも出入りしていたし買い食いするのも平気だったが、結局マサルなどは学生を卒業するまで学校帰りに喫茶店に寄るとか、暑い日にソフトクリームを買って食べながら帰るとかしなかったのではないだろうか。

そして、少なくとも中学生くらいであればマサルと同じようにしていた学生が多かったような気がする。

しかし、中学生たちを見ながらそんなことを考えていてふと気づいた。

そういえば自分が若かりし頃、ファストフード店で白髪頭のオッサンが食事をしているところなど見たことがない。

もちろん子供連れ、孫連れの家族単位でなら見たことくらいあるが、年配の夫婦だけでハンバーガーやピザ、パスタ専門店で食事する姿はなかったはずだ。

白髪頭のオッサンなど大衆食堂で昼間っから瓶ビールを横に置きながらカツ丼なんか食べていたものであり、小洒落た店になど入ってこない人種だったはずである。

時代の変化、食文化の変化で人の生活様式も変わる。

昔は有り得なかったことをしているのが自分。

若者が集う店に平気で出入りし、若者が好む食べ物を平気で食べる。

そう、実は自分たちも時代を変えている張本人だったりするのである。

腑に落ちないこと

以前に勤めていたコンピュータ周辺機器メーカーで、当時としては画期的な製品を発売することになった。

外付けのハードディスクなのだが、HDD部分がカートリッジ式になっており、付けたり外したりできるのでドライブだけを購入すれば保存するデータや用途によって交換可能という便利なものだ。

その製品の広告やカタログ、取扱説明書で付け外し可能なことを脱着可能と表記していたら、着ていないものを脱ぐことなどできないのだから、脱着(だっちゃく)ではなく着脱(ちゃくだつ)とするのが正しいと年配の社員が言う。

しかし、国語辞典にも脱着は掲載されており、
「付けたり外したり、着たり脱いだりすること。『着脱』(ちゃくだつ)と同義。」
と書かれているのだから間違いではないだろうと腑に落ちない部分を残しつつ先輩の言うことに従ったりしていた。

以前は語呂が良いからか、着脱(ちゃくだつ)よりも脱着(だっちゃく)のほうが主流だったように思うし、圧倒的に耳に馴染んでいたので何だか着脱とは言い難かったのを覚えている。

ところが今、盛んに放送されているテレビ通販などでは製品の特徴を説明する際に、付け外し可能な機能を着脱可能、着脱自由と言い、圧倒的に着脱(ちゃくだつ)派が主流となってしまった。

主流というより、脱着(だっちゃく)と言っているのを聞いたことがないので絶滅危惧種となってしまった感が強い。

そこであらためて調べてみると、
「脱着(だっちゃく)は工業の機械分野の準専門用語(製造現場用語jargon)で、脱着可能とか自在 mountable,removableといった複合語としての使用頻度が高い。」
という説明があった。

つまり、コンピュータ業界にいたから脱着(だっちゃく)が主流であり、それが耳に馴染んでいただけで一般的には当時から着脱(ちゃくだつ)のほうが広く使われていたのだろうか。

しかしながら、国語辞典に掲載されている脱着(だっちゃく)を使うのは正しくないと言い切った先輩社員の発言には今も違和感を覚えたままだったりする。

なぜなら、服を着たり脱いだりすることは 『脱ぎ着(ぬぎき)する』 と言い、決して 『着脱(きぬぎ)ぎする』 などとは言わないではないか。

先輩社員の言葉を借りれば着てもいないものを脱げるはずがないのは事実だが、実際には脱ぎ着するものであるのだ。

また、よく人が訪ねてくる家や施設を指して 『出入り(ではいり)が激しい』 と言い、決して 『入り出(はいりで)』 とは言わない。

入ってもいない人が出てくるはずがないのに、出るのが先にくる。

同じように収納グッズなどは 『出し入れ(だしいれ)簡単』 なのであって 『入れ出し(いれだし)』 と言うのは聞いたことがない。

これも、入れてもいないものを出せるはずがないのに出すという言葉が先だ。

さらに 『抜き差し(ぬきさし)』 だって同様で、差していないものを抜けるはずがないが、『差し抜き(さしぬき)』 という言葉はない。

いや、世の中の多くの言葉がこのように構成されているのだから、むしろ逆順で言うのが正しいのではないかとすら思えてくる。

たまたま脱着←→着脱と並びが逆の同じ意味を持つ言葉が双方とも間違いではなく共存していることがレアケースであり、本当は脱着(だっちゃく)が先で着脱(ちゃくだつ)は後で生まれたのではないだろうか。

こんなことをゴチャゴチャと考えているのは自分くらいなものだろうが、言われて腑に落ちなかった原因はそこにあると今さらながらに思ったりしている。

そして腑に落ちないの腑はどこであって、何が落ちないのかという疑問が急に頭をもたげ、調べてみると。

腑に落ちないの 『腑』 は、『はらわた』『臓腑』のことであって、『考え』 や 『心』 が宿る場所とされ、そこにスッキリと収まらない、ストンと落ちてこない状態、つまり人の意見が心に入ってこないことを言うのだそうだ。

なるほど、この件に関しては腑に落ちた。