2005年12月
2005年の終わりに 2005年の終わりに
いよいよ今日で今年も終わりである。 加齢と共に時間の流れが早く感じるというのは本当で一年などあっと言う間だ。
かなり以前の雑感にも書いたが、時間の感覚などというのは相対的なものであり、年齢とともに短く感じるのは当然のことである。
一歳児にとっての一年は人生における 100%だが、10歳になると一年は人生の 1/10 だから 10%、50歳になると 2%、100歳の人にとって一年は人生の 1%にしか過ぎない。それまで生きてきた年数を考えると一年などというのは、わずかな時間でしかない。 それゆえに短く感じても当然のことだろう。 これだけは若さを保つ化粧品を使おうと、必死にアンチエイジングしようと変わるものではない。
すでにオッサンであり、人生における一年が、すっかり 3%を下回っている自分にとって一年などというのは本当にわずかな時間でしかない。 今ごろになって 「一日、一日を大切に・・・」 という言葉が身にしみて理解できるようになってきた。 子供の頃は先生や親に言われても、一日の時間がたっぷりあったので理解することができなかったが、今は目が覚めてから寝るまでが一瞬にすら感じてしまう。
で、今年は時間を無駄にせず一日を大切にしてきたのかと言うと、決してそんなことはない。 ただ漫然と日を送り、気が付いたら大晦日になっていたという感じである。 いつも年の最後の雑感には 「来年は良い年に」 とか 「来年こそは良い年に」 「きっと来年こそは」 などと書き続けているが、それに見合った努力をしているわけでもないので相変わらずの一年だ。
それでも自分は能天気であるため、「あの時にこうしておけば良かった」 などと後悔することがなく、「まぁなんとかなるさ」 と気楽に考えてしまうことが多いので例年と同じく漫然と過ごしてしまった今年を悔やんでいるわけでもない。 少しばかり残念だったのは 『
みんなでうさぎ小屋』 のゲームを完成させることができずに年を越してしまうことくらいか。
先日の忘年会で仕事仲間と来年の展望について話をしたが、お互いに前向きな性格であるがゆえに悲観的な話は一切なく、「楽しい年になりそうだ」 という結論に至った。 どんな小さな仕事の積み重ねでもコツコツとこなしていけば、決して大きくはなくても、それなりの果実は得られることだろう。 そういう意味からも激流の中に身を置くのではなく、ゆるやかな流れに身を任せて過ごしたいものである。 なまけて過ごすという意味ではなく、なすべき事を日々淡々と処理していけば結果は後から付いてくるだろう。
今年も悲惨な事故や聞くだけで腹立たしい事件が多かった。 一瞬にして自分や家族の命が奪われてしまう絶望感や悲壮感を味わいたくはない。 明日から始まる新たな一年も、死なない程度に生かしておいて頂ければそれで良い。 劇的に楽しいことなどなくても良いから劇的な不幸も来てほしくはない。
少なくとも、そのための努力は惜しみなく続け、日々を笑って過ごせるようにしたいと思う。
2005 / 12 / 31 (土) ¦ 固定リンク
クリスマスプレゼント クリスマスプレゼント
今日はクリスマスイブである。 今夜は大勢の即席サンタが登場し、子供たちの笑顔があふれることだろう。 この歳になればクリスマスなどと言っても歳の瀬で慌ただしく、いまひとつ気分が盛り上がらない。 いや、クリスマスだからと言って喜ばないのは子供の頃からだったような気がする。
子供と言えばサンタからのプレゼントを楽しみにするものであるが、自分の父親は夢を語る性質ではなかったので、小学校低学年くらいからサンタなどは存在せず、親がプレゼントを買うものだと知らされており、自分は夢見る子供でもなかった訳だ。
記憶している限りでは小学校の二年生くらいまでは貰っていたが、それ以降はプレゼントなど要求したことも貰ったこともない。 「何がほしい?」 と聞かれても 「別に」 と応え、母親などは 「つまらない子供だ」 と憎々しげに言い放っていた。 別に生活に困るほど貧しい家庭で気を遣っていた訳ではない。 本当にほしいと思うものがなかったのである。
親の話によると、それは小学校前から同様で、おもちゃ売場やお菓子売場で 「買って〜!」 とゴネまくったことがないのだそうだ。 一応は欲しそうな顔をするらしいのだが、「また今度ね」 と言うと素直に言うことを聞いたらしい。それから数年後に不良となって苦労させられることなど知らぬ両親は、親バカ丸出しで 「なんて偉い子なのだ」 と褒め称えたという。
物欲がないので毎月決まった小遣いも貰ったことがない。 たまに欲しいものがあれば、その金額を受け取るだけだ。 それも一年に一度あるかないかくらいの極めて限られた回数だ。
過去の雑感に何度か書いているように、アイドルのファンになる訳ではないのでレコード (当時) が欲しいわけではない。 ドタバタと外で遊ぶ野生児だったのでオモチャが欲しいわけでもない。
中学生以降もファッションに気を遣う性質ではなかったので服などもほしくない。 確かに親にとっては張り合いのない、つまらない子供だったのかもしれない。 そんな自分も小学四年生のとき、自分用のテレビがほしくて 「買って」 と言ったことがあるが、当時としては子供専用のテレビなど常識外れだったので 「バカもの!」 の一言で片付けられてしまった。
しかし、テレビだけはどうしてもほしく、お年玉を二年分ためこんで 5インチの小さな白黒テレビを五年生になって購入した。 どうしてもほしいと親の言うことを聞かずに購入した唯一の品物である。 それから長い時を経たが、今でもテレビは映像がくっきりと映る。 押入れの奥深くにしまってあって、使うことなどなくなってしまったテレビだが、今も捨てられずにいたりする。
2010年に放送が完全デジタル化になると、二度と映像を映し出すことができなくなるテレビだが、その時も捨てられずにいるような気がする。 それほど想い出深い子供のときからの宝物なのである。
2005 / 12 / 24 (土) ¦ 固定リンク
機転 機転
『機転 (きてん) が利 (き) く』 とは物事に応じて、とっさにその場にふさわしい行動をすることであるが、他人のことは冷静に判断できても自分のこととなると、なかなか冷静かつ的確に行動したりするのは難しい。 囲碁や将棋、マージャンなどをしていてもそうだが、自分が参加していると冷静さを失ってしまったり、一つの考えにとらわれたりしてしまって判断力を失うことは多くある。
仕事仲間の車の助手席に座っていたとき、運転手である仕事仲間が 「そこのドリンクホルダーを押さえて」 と言う。 ドリンクホルダーにも色々あるが、その車にはドアの窓に差し込むタイプのものだった。 「はいはい」 と素直に押さえてやったが、その理由を聞くと 「車の振動で音がうるさい」 のだと言う。 手を離してみると確かに振動でビリビリと小さな音を立てている。
今は自分がいるから手で押さえてあげることができるが、一人で車に乗っているときはどうするのか不思議に思って尋ねてみると、「仕方ないから我慢する」 という回答。 「助手席と運転席のを交換すれば一人でも対処できるだろう」 と言うと、仕事仲間は 「あっ・・・」 と言ったまましばし絶句し、おもむろにこちらを見て 「賢い!」 と言う。
そんなに誉めてもらうほどの名案ではなく、ちょっと考えれば誰にでも思いつきそうなことではあるが、当事者は一つの考えにとらわれて思いつかなかったのだろう。 誉められて悪い気はしないので 「むふふ〜ん」 と笑い、鼻が少しだけ高くなった。
古くからの友人と買物をしていると電動歯ブラシが安く売られていた。 すでに使用していた自分は電動がいかに楽であるかを説明し、友人はそれを購入することになった。 それから何カ月か経って話をしていると 「電動歯ブラシは不便だ」 と言い出す。 何が不便なのか理解できなかったので理由を聞くと、「スイッチを入れると歯磨き用洗剤が飛び散る」 という回答。
何を訴えかけているのか理解に苦しんだが、とりあえずは 「口に入れてからスイッチを入れたらどうだ?」 と言ってやると、友人は 「あっ・・・」 と言ったまましばし絶句し、急にこちらを指差して 「賢い!」 と言う。 そんなに誉めてもらうほどの名案ではなく、誰がどう考えても常識的なことだとは思うのだが、誉められて悪い気はしないので 「むふふ〜ん」 と、また少しだけ鼻が高くなった。
先週の独り言にも書いたとおり、自分はお湯でウガイをするのが嫌いだ。 タバコが原因なのか、胃が弱いのが原因なのか、歯磨きには嘔吐感を伴なってしまう。 ただでさえゲロゲロいいながら歯を磨いているのに、お湯でウガイするとそれに拍車がかかる。 そんな訳で、この時期は水の冷たさと格闘しながら洗顔や歯磨きをするのである。
そのことを 『
お買物日記』 担当者に言うと、「お湯を使ってウガイだけ水ですれば?」 とのお答え。 「あっ・・・」 と言ったまましばし絶句し、「賢い!」 と誉め称えることになってしまった。 やはり人のことは冷静に判断できても自分のこととなると一つの考えに固執してしまうらしい。
少しずつ高くなった鼻が、一気に低くなるような出来事だった。
2005 / 12 / 17 (土) ¦ 固定リンク
歌唱力 歌唱力
年末の 『NHK 紅白歌合戦』 の出場者が発表され、やれ誰が出るだの誰が落選しただのと騒いでいるが、近年の紅白など視聴率は低迷しているわ辞退者が後を絶たないわで過去の威厳など見る影もないのだから、それほど大騒ぎをする必要があるのか疑問を感じてしまう。 自分は過去数年に渡って紅白を最初から最後まで観たことがないので、誰が出場しても誰が出られなくても関係がない。
それでもテレビで多く取り上げられるのは、やはり国民的行事 (番組) というのが根強く残っているのかもしれない。 最近はどれだけ楽しそうかを伝えるのではなく、どれだけ視聴率を稼げるのかに話題が集中しているような気もするが・・・。
広く言われていることではあるが、子供からお年寄りまで知っている歌が皆無に近い状態になってしまったので、家族で楽しんでみる番組ではなくなってしまったのが視聴率低迷の大きな要因であることは事実だろう。 20年前であれば一曲のヒットで一年以上も稼げたのが、今は数週間という早さだ。 ぱっと出て、すぐにすたれてしまう。 日本人が飽きっぽくなったのか、魅力のある歌が減ったのか。
バリバリの昭和の男である自分は確実に現代の歌について行けていない。 ある理由から、次々にリリースされる曲も知っているし、最新の曲も毎日のように耳にしているが記憶に残るような名曲に出会ったことがない。 なんとなく個性がなく、同じような曲調で同じような歌い方をする人やグループばかりである。 可能性を感じるものはあるが、群を抜いて素晴らしいものがない。
それに最近の人の歌には歌唱力というものを感じることが少なくなってしまった。 最近はあまり見なくなった MISIA(ミーシャ) だが、一時期は 『歌姫』 などと祭り上げられていた。 たしかにメロディーを追うのは正確で、そういう意味では ”上手” なのかもしれないが、何か電子楽器が正確な音を発しているだけのような感じで、あまり感情と言うものが伝わってこなかった。
そういう点では現在 CD がバカ売れしている平井堅(ひらいけん) も同様で、悲しい曲でも明るい曲でも歌い方が同じなので悲しさも楽しさも伝わってこない。 いや、むしろ楽しい曲ですら悲しく聞こえてしまう。 よって、これから何年も第一線で活躍するとは思えない。
第一、最近は歌の詞が良くない。 傾向としてメロディー重視であるにせよ、やはり詩がともなっての歌である。 何でもストレートに 「愛してる」 だの 「恋してる」 だの表現すれば良いというものではない。 以前の歌では愛だの恋だのをどうやって詩で表現するか。 悲しさをどうやって描写するかで多彩な表現力を競っていた。 そしてそれが深い味わいとなっていた。
それをいきなり 「愛してる」 だの 「悲しい」 だのとダイレクトに書かれても、それは日記とか作文とか感想文の世界であって決して詩ではないような気がする。 そんなことだから心に突き刺さったり、心の奥から力が溢れるような詩にならず、”共感” だけが頼りになってしまう。 幼い詩に共感できるのは同世代だけなので、おのずから支持層も狭くなってしまう。
幼い詩をボイス・トレーニングも受けずにノドからギャーギャー声を出して怒鳴るように歌っていても広い年代に支持されるはずがない。 したがって、子供から御爺ちゃん御婆ちゃんまで、みんなで楽しめる歌番組など成立するはずがないと思う。 作り手の NHK にも多少の問題はあるにせよ、今は演じ手の側の責任が重いような気がする。 過去に何度か書いた CD の売り上げ減少とて原因に大きな違いはないのではないだろうか。
過ぎ去った過去のアーティストに素晴らしい言葉を残した人がいるので、現在のアーティストは神妙に自分を見つめ直すべきだと思う。
〜 すべての歌はラブソングである。 そして選ばれたものだけが愛について歌い語る資格がある 〜
by BOB MARLEY (ボブ・マーレー)
2005 / 12 / 10 (土) ¦ 固定リンク
在宅勤務一年を経て 在宅勤務一年を経て
少し前になってしまったが、11月 15日をもって在宅勤務一周年を迎えた。 最初は生活に大きな変化をもたらすであろうと身構えたりしていたが、取り立てて大きな変化もなく、淡々とした日々を過ごしたりしている。 最初は仕事を始める時間も、休憩する時間も、仕事を終える時間も自由になると喜んだりもしていたが、結局は通勤している頃と変わらない時間割で行動する生活だ。
通勤の往復で費やしていた約 2時間がなくなったので、その分だけ時間に余裕ができたはずだが時間の使い方が下手なのか、あまり余裕を持った生活ができていない。 平常日の起床は 6:30 で通勤していた頃より早起きだ。 すぐに身支度を整えて 7:00 前には散歩に出かける。 7:30 くらいに帰宅して朝食。 8:00 を過ぎると 『
管理人の独り言』 を書いたりチラシ入力の補佐をする。
9:00 くらいには終わるのでネットサーフィンしたりチョコチョコッとゲームをしたりして 9:30。 それから 30分間ほど読書をして 10:00 に仕事を始める。 少し遅いと思われるかもしれないが、通勤していた頃も業務開始時間が 10:00 だったので、その流れで同じ時間に仕事を始めているのである。
12:00 になると昼食。 食後に再び読書をして 13:00 から仕事を再開。 15:00 〜 16:00 の間に 30分間ほど日本茶なんぞをすすりながら休憩して読書。 定時は一応 18:00 だが、終業時間は定まらず。 19:30 〜20:00 くらいから晩御飯を食べ、しばしダラダラと過ごす。 22:00 を過ぎると 『管理人の独り言』 を書いたり翌日のページ更新準備。 00:00 を過ぎると就寝。
これが平日の基本パターンだが、この他にも入浴やら洗顔、歯磨きやら定期的な体操やら 『
みんなでうさぎ小屋』 のゲームを作成したりしており、いつ来るか分からない仕事の E-mail に対応したりしなければならないので何だかんだと忙しい。 今となっては通勤していた頃にどうやって時間を使っていたのか思い出せないくらいである。
生活の中で大きく変わったのは朝の散歩を始めたことと、以前より寝つきが良くなったことくらいか。 昨年の雑感にも書いたが、寝つきは本当に良くなったと思う。 以前は眠れずに 2時や 3時まで布団の中でジタバタしていることが多かったが、今は 30分くらいで眠りに落ちる。 たまに眠れない日もあるが、2時まで起きていることはなくなったのではないだろうか。
今ではすっかり生活のリズムができあがってしまったので、二度と通勤生活には戻れないような気がする。 込み合った電車に揺られ、人込みの中を歩き、気に入らない奴や腹立たしい奴が近くにいても我慢しなければいけない。 そんな状況に身を置くのは嫌なことだが、仕事の事情で再び通勤しなければならない時がくれば諦めざるを得ないことなのか。
これだけデジタル技術や通信網が発達しているのだから在宅勤務の人が増えても良さそうなものだが、世間を騒がせているライブドアや楽天のような IT 企業でさえ大きな事務所を構えて社員が通勤しているのだから不思議なものである。 通勤者が減れば車の排気ガスも減り、都心部で膨大に使われている電気などのエネルギー消費量も減ると思われるので地球にやさしいと思うのだが。
これから 10年、20年、いや、100年経っても ”職場” というのはなくならないのかもしれない。
2005 / 12 / 03 (土) ¦ 固定リンク