2006 年の終わりに 2006 年の終わりに
いよいよ明日で今年も終わりである。
過去の雑感から、指にタコができるほど何度も何度もキーを打ち続けている文章ではあるが、加齢とともに時間の経過が早く感じられ、一年など 「あっ!」 と言う間に過ぎてしまう。 それはもう加速度的であり、「誰か助けてー!!」 と富士山の頂上から日本中に届く声で叫びたい気分だ。
不思議なもので、一年が短く感じる割には世の中で起こったことが遠い昔に感じることがある。 あれだけ世間を騒がせたライブドアの元社長である堀江氏が逮捕されたのは今年 1月 23日のことだが、すでに数年が経過しているような錯覚に陥る。
民主党、永田議員が端緒となった偽メール問題で国会が騒然となったり、トリノオリンピックで荒川静香選手が金メダルを獲得し、日本中が 「イナバウワー!」 と叫んだのは 2月のことだ。 イナバウワーは、まだ新しい感じがするが、偽メール問題など遠い過去のような気がしてならない。
一般の人は興味が薄いだろうが、3月 31日でニフティのパソコン通信サービスが終了した件に関しては感慨深いものがある。 すでに知らない人の方が多いと思うが、ニフティと言う狭い世界の中に様々な会議室と呼ばれる場所があり、会員が議題に対して 「あーでもない、こーでもない」 と意見を書き込む内容であり、利用者の絶対数は違えど現代における掲示板の集積場所である 『
2ちゃんねる』 のような世界だった。
当時から、その仮想空間内でやり玉にあげられる人がいたり、訳の分からない意見を書き込んで周りから総攻撃を受けたりする人がいたが、現在の掲示板より一定の秩序が保たれていた。 それは匿名であっても会員制であったため、「死ね」 だとか 「ウザイ」 だのという過激な書き込みが抑制されていたからだろう。
そういう意味では今年流行した
mixi(ミクシィ) に近いかもしれない。 しかし、mixi も最近は 2ちゃんねる化が進み、かなり荒んだ世界になりつつあるようだ。 会員数が少ないうちは秩序が保たれているだろうが、それが膨大な数になると様々な人が入り込み、暗黙の了解も含めた秩序というものが乱されるのも当然だ。
久々に注目された IT 企業の株式公開で、投資家が mixi 株をこぞって購入したが、個人的には決して明るい未来だと思えない。 すでに脱会者が増え始め、会員登録しているものの利用していないユーザも数多くいる。 そして、SNS (ソーシャルネットワーキングサービス) の本家であるアメリカが続々と日本でサービスを開始しようとしている。
さらには SNS より爆発的な人気になりつつある 『
セカンドライフ』 の日本上陸も近い。 常に進化を続け、多様化するネットの世界で高業績をあげ続けることは困難だと思われる。 絶対的優位を保っていたニフティも時代の変化でその役目を終えたように、mixi のサービスが必要なくなる日は遠からず来るだろう。
コンピュータ業界に身を置く者としては、時代の先端を走ることを夢見ないではないが、やはり
昨年末の雑感に書いたように地道にコツコツと、なすべき事を処理していきたいと考えている。 そして、劇的に楽しいことなどなくても良いから劇的な不幸も来てほしくはないというのも変わらぬ考えだ。
来年も平凡な日常で構わないから、年末には 「良い年だった」 と言える一年であってほしいと願いつつ、今年の雑感を終わろうと思う。
2006 / 12 / 30 (土) ¦ 固定リンク
拒否反応 拒否反応
以前の雑感に嫌いな芸能人を並べ立てたが、『嫌い』 というのではなく、何となく体が受け付けずに拒否反応を示す芸能人も何人かいる。 良く女の人が 「生理的に受け付けない」 と言うが、もしかしたら同じような感覚なのかもしれない。
最近になって拒否反応を示すようになったのは木村拓哉 (きむらたくや) である。 もちろん男の自分から見ても男前であることは重々に承知しているのだが、あまりにも CM 本数が多いので見飽きたのかも知れない。 顔を見飽きたのではなく、彼の演技に飽きたというのが正確なところか。 彼が登場すると、体がムズムズして見ていられなくなる。
同じく男前なのだがオダギリジョーも苦手だ。 一言で言ってしまえば 「汚い!」 という感じなのだが、髪を伸ばしてヒゲを蓄えている芸能人は数あれど、彼だけは似合うどころか完全にマイナス作用しか働いていないような気がする。 それでも多くの CM に出演しているのだから自分の感覚がおかしく、世間的には人気があるのだろう。
山口 智充 (やまぐち ともみつ (DonDokoDon)) もかなり苦手。 こちらも CM 本数が多いが、どれを見てもテンションの高い過剰演技、過剰演出である。 彼が悪いのではなく、そういうイメージで CM を製作したり、テンションの高い演技が必要だから彼が起用されたりするのだろうが、どうも体が受け付けない。 来年は CM が減ってくれるのを願うばかりだ。
絶大な人気を誇る長澤まさみ (ながさわ まさみ) も相当な度合いで苦手だ。 人気があるだけに可愛いのは確かなのだが、どうしても体が受け付けない。 自分に理由を尋ねてみても明確な答えは見つからないのだが、どうしてもダメなのである。 彼女が出演する CM が始まるとチャンネルを変えてしまうほどの拒否反応が現れ、その理由が自分でも分からないので困っている。
世のおじ様達の圧倒的な支持を集めている黒木瞳 (くろき ひとみ) も大の苦手。 こちらも理由が定かではないが、見ていると体がムズムズしてきて正視できなくなってくる。 短い CM でさえそうなのだから、ドラマなど見続けることはできないだろう。 もともとドラマは見ないので生きていく上で支障はないのだが、なぜ綺麗な人を体が受け付けないのか不思議だ。
その他にも吹石一恵 (ふきいし かづえ) という女の子も苦手だったり、天海祐希(あまみゆうき) がダメだったりと、綺麗な女の人が苦手な場合が多いようである。 ブサイクを売り物にしている女性のお笑い芸人には何の抵抗感もなく、むしろ時折見せる表情が可愛らしく思えたりすることすらあるため、もしかしたら自分は 『ブス専』 なのではないかと疑いたくもなる。
少し心配になって 『
お買物日記』 担当者に相談したところ、「一緒にいる私って・・・」 と深く悩ませる結果になってしまったので、これは失敗だったようである。
2006 / 12 / 23 (土) ¦ 固定リンク
教師十色 教師十色
イジメ問題に背を向け、ことなかれ主義に徹する教師やイジメに荷担する教師、生徒を性の対象とする教師に登校拒否になる教師と、何かと問題の多い昨今ではあるが、確かに可哀想な面もないではない。 少しきつめに子供を叱ると鬼のような形相の親が学校に乗り込んでくるし、教育委員会に訴えるなどと脅される。 これでは登校拒否になってしまうのも仕方ないかもしれない。
子供のころ、躾(しつけ)に厳しく手も足も出る教師がいたが、決して嫌いではなかったし今から思えば良い先生だったと思う。 変にやさしくて授業中に笑いをとる教師もいたが、だからと言って教え方が上手な訳でもなく、生徒から信頼がある訳でもなかった。 教師も人間であるから色々な人がいるものである。 それぞれの教育があっても良いのではないだろうか。
中学で国語を教えていた女教師は、まともに授業を受けていないのに良い評価をしてくれた。 かと言って特別に自分が好かれていた訳でもなく、女教師と言っても定年が近そうな、中学生から見ると婆ちゃん先生だったので自分と特別な関係にあった訳でもない。
過去の雑感に何度か書いたように、当時は不良をしていたので授業などまともに受けたことがない。 席に座っていても寝ていることが多く、「眠いなら後ろで寝てなさい!」 と言われ、そんな時だけは ”素直” に 「はーい」 と良いお返事をしてカバンをマクラに横になり、休憩時間になるまでグーグー寝ていたことも一度や二度ではない。
おまけにテストなど白紙で提出するものだから、成績と呼べるような評価なんかもらえるはずがないのは自分でも分かっていた。 もちろん通信簿は最低評価である 1 のオンパレードで、中には手書きで 0 をつける教師までいた。 「なんだこれは」 と文句を言うと、「授業はまともに受けない、テストは白紙、そんな奴を評価できるか!」 と、ついでにゲンコツまで貰ってしまった。
ところが国語の教師だけは、そんな授業態度の自分にも 4 とかを付けてくれる。 不思議に思って理由を聞くと、「理由なんかないけど、本当はやればできるんでしょ?」 と言われた。 すると不思議なもので、授業をしっかり受けなければ申し訳ない気分になり、国語だけは寝るのをやめた。 今から思えば女教師の術中に陥ってしまった感があるが、それも更生させる手段だったのだろう。
後に知ったことだが、高校の校長が実家の斜め前に住んでいた。 そんなこととは知らず、タバコを吸いながらボーッと窓から外を眺めたり、悪友と遊んだりしていたのだが、ある日のこと校内放送で校長室まで来るようにと呼び出された。 友達は 「校長に呼ばれるなんて何をしたんだ?」 と聞いてくるが自分にも心当たりがない。 いや、ありすぎて何の件なのか予想もつかなかった。
校長室に入ると 「昨日お前の部屋から煙が出てたな」 と言う。 何を言っているのか分からず黙っていると、「いや、先生はお前の家の斜め前に住んでいるんだけどな」 などと、とんでもないことをさらっと言いのけるではないか。 それを聞いて慌てふためいた。 前日は悪友数人と遊んでおり、全員がタバコを吸っていたものだから窓からモウモウと煙が出ていたに違いない。
「いえ、あの〜蚊取り線香が、そ、その〜異常に燃えて〜あの〜」 と、しどろもどろに訳の分からないことを言っていると、「まぁ火事には気をつけろよ」 と言って、タバコを吸っているのがバレバレなのに、おとがめなしで開放されたのである。 そのことを悪友に伝えたところ、以降は誰も家に遊びに来なくなってしまった。
それからも、校長と顔を合わせるたびに 「蚊取り線香はどうだ?」 と嫌味を言われ、「いや、あの〜」 と言っていると、すれ違う瞬間に 「体に悪いぞ」 と小さな声で言われたりしていた。 それで改心してタバコを止めるまでには至らなかったが、いつも声をかけてもらったことは今でも心に残っている。
どんな教育が正しいのか分からないが、自分が悪いくせに教師に殴られたことを親に報告する子供も子供なら、学校に文句を言う親も親だ。 自分なんぞは、いったい何発殴られたか分からないほどだが、悪いことをしたという自覚を持っていたので、それは仕方のないことだと思っていたし、そんなことをいちいち親に報告などしなかった。
現代は子供も親に甘えすぎるし、親も子供を甘やかしすぎると思えてならない。
2006 / 12 / 16 (土) ¦ 固定リンク
上下関係 上下関係
最近は年上の人を敬うなどという観念はこの日本から消えつつあり、注意を受けた若者がお年よりに暴行を加えたり、親に危害を加えたりする事件が多い。 一時期は 『オヤジ狩り』 などというのもあったが、それも典型的な風潮であろう。
それ以外にも終身雇用制や年功序列という日本らしい文化も消失し、年齢に関係なく実力のある者が出世する人事制度や、成果主義による報酬制度が主流となりつつある現在、会社の先輩、後輩という序列や年齢など何の意味ももたなくなってきている。 スポーツの世界は未だ先輩、後輩の序列が厳しいのかも知れないが、特定の環境以外に社会勉強する場がないというのも寂しいような気がしないでもない。
悪友が通う大学は見事なほど序列に厳しい学校だった。 先輩の言うことは絶対であり、後輩は異論を唱える権限を一切持たない。 たとえ理不尽なことであろうとも、先輩の指示には絶対服従なのである。
かなり以前のことになるが、四年となり、その大学における序列の頂点に君臨していた悪友に誘われて学祭に遊びにいったことがある。 様々な学部が企画する催し物を一通り見て周ったあと、悪友が所属する学部が開いている模擬店に腰を落ち着けることになった。
そこはショーパブとも居酒屋とも言えない不思議な空間で、焼き鳥やらフライドポテトやらの臭いがたち込める中、ステージでは女装した男子学生がクネクネしながら歌っている。 そのステージに向って罵声やら喝采が入り乱れるという一種独特の雰囲気だ。 物珍しさもあって最初はキョロキョロしていたが、酒が進むにつれて異空間にも自然に馴染めるものである。
しばし酒を飲み、ステージ上で展開される体を張った芸に大笑いしていたのだが、悪友が 「羊羹 (ようかん) が食べたい」 と言い出した。 後輩たちは 「酒に羊羹ですか?」 とか 「それはちょっと準備していないんですけど」 と困惑していたが、悪友の 「なんとかせいや」 という一言に顔を引きつらせつつも 「分かりました」 と大学を飛び出していった。
少しして近所のコンビニから羊羹を買ってきたのだが、それを切り分けるところを見ていた悪友は 「栗が入ってない」 と言う。 「やっぱり栗羊羹じゃなきゃ」 という一言に後輩たちは 「分かりました」 と大学を飛び出し、栗が入っている羊羹を調達してきた。
それを食べながら酒を飲んでいると、悪友が 「コーラが飲みたい」 と言ったので、後輩たちは 「どうぞ」 と缶入りのコーラを持ってきた。 すると悪友は 「コーラはビン入りに限る。しかもレギュラーサイズの」 などという。 喫茶店で出されるような小さなビン入りのコーラなど市販品で売っているはずもない。 戸惑う後輩たちに向って 「なんとかせいや」 という悪魔の一言。
数時間して戻った後輩たちは見事にレギュラーサイズのビン入りコーラを調達してきた。 数十キロも離れた街にあるボーリング場で買ってきたのだという。 無理難題を言う悪友を呆然としながら見ていたのだが、
以前の雑感にも書いたとおり歯がボロボロだった自分は 「爪楊枝 (つまようじ) がほしい」 と言った。
決して無理難題を言ったつもりはない。 飲食関係の模擬店をするのであれば、爪楊枝くらいあって当然だと思ったのである。 ところが後輩たちは 「すみません。用意していませんでした」 と言う。 「じゃあいいよ」 と答えたのだが、横から悪友の 「なんとかせいや」 という魔の声がした。
慌てふためく後輩たちの姿に申し訳なく思いつつも、爪楊枝程度であれば近くのコンビニに売っているであろうから、それほどの負担ではないだろうと少し安心していたのだが、後輩たちがなかなか帰ってこない。 どうしたのか少し心配になりかけたころ、「で、できました!」 と一本の爪楊枝を持って後輩が姿を現した。
「買ってきました」 ではなく、「できました」 とはどういう意味なのか疑問に思っていると、届けられた爪楊枝は割り箸を包丁で削って作成されたものであり、持つところにある彫刻のような部分まで見事に再現されている。 とっても有りがたく思った反面、彫刻するのに手で触りまくったのだろうと想像すると、なかなか使う気になれず、「記念に持って帰るね」 と胸ポケットに納める自分なのであった。
そんな後輩たちも翌年には新入生がきて先輩へと昇格する。 そして、自分たちがされてきたように後輩たちに無理難題を押し付けては 「なんとかせいや」 と言うのだろう。 その絶対的な上下関係は現在においても見事に継承されているに違いない。
2006 / 12 / 09 (土) ¦ 固定リンク
致死量 致死量
これから忘年会やら新年会で酒を飲むことが多くなる時期だ。 自分も酒を飲むが、急性アルコール中毒になったことはない。 毎年のように救急車で運ばれる人がおり、中には命を落とす人まで出てしまうことがあるが、どの程度が酒の致死量なのか気になって調べてみた。
普通にアルコールを摂取すると徐々に血中アルコール濃度が上がるので、『ほろ酔い期』 『めいてい期』 『泥酔期』 と酔いの段階が進むが、大量のアルコールを急激に摂取すると、血中アルコール濃度が急激に高くなり、各段階を飛ばして一気に 『こん睡期』 まで進んでしまうのが急性アルコール中毒で、時には呼吸困難など危険な状態にもなったりするらしい。
血中アルコール濃度が 0.4%以上になると、飲酒後 1、2時間でその半数が死亡するといわれてるので怖い中毒だ。 量にするとアルコール (エタノール) の致死量は、378〜456ml ということだからビール大瓶だと 20本、ウィスキーのダブルだと 20杯、日本酒であれば 20合といったところか。飲み過ぎ注意である。 『駆けつけ 30杯』 だの 『30本一気飲み』 などするべきではないということだ。
在宅勤務になってタバコの量が減ったとはいえ、今でも 1日に 10本くらいは吸うので気になってタバコの致死量も調べてみた。 普通にタバコを吸って死に至ることはないようだが、乳幼児が誤って口に入れてしまったり、成人でも灰皿代わりに使ったジュースやビールの空き缶に残っていた液を飲んでしまう事故が多いのだそうだ。
水に浸っていたタバコやその液にはニコチンが溶け出していて、吸収されやすく、少量でも非常に危険だという、その致死量は乳幼児ではタバコ 1本に含まれるニコチンが致死量、成人の致死量はタバコ 2本分らしい。 過去にタバコを捨てたビールを口にして慌てて吐き出した経験があるので気をつけなければならない。 大人数で飲んでいた場合など、誰かが空き缶を灰皿代わりにしている可能性もあるので要注意である。
ますます致死量のことが気になったので色々と調べてみた。 カフェインの致死量は 3〜10g。 これは、コーヒーだと 75杯、紅茶であれば 125杯、コーラは 200本に相当する。 いくらコーヒー好きでも 75杯を一気飲みすることはないだろうし、コーラ 200本を一気飲みするバカもいないだろうから、これに関しては心配の必要がなさそうだ。
塩の致死量は30〜300g。 ずいぶん幅があり、30g 程度であれば塩辛い料理を罰ゲーム的に食べたら摂取してしまいそうで恐い。 やはり塩分は控え目にしなければいけないのかとも思うが、一気に 30g 以上の塩を使う料理なんて存在しないのかもしれない。
醤油の致死量は 168〜1500ml。 これも意外に少なく、ちょっと頑張れば飲めそうな量だ。 別に頑張る必要はないのだが、何らかの罰ゲームで醤油を飲ませるのは止めておいた方が良さそうだ。 罰ゲームと言えば、テレビなどで激辛の料理を食べさせたりしている。 それも気になって調べてみると、唐辛子に含まれるカプサイシンの致死量は体重 1キロあたり 60〜75mg だった。
体重 60kg の人であれば 3,600mg ということになり、唐辛子 1,200g ということになる。 いくら過酷な罰ゲームでも 1kg 以上の唐辛子を食べることはないと思われるので、余計な心配だったかもしれない。 もうひとつ、ワサビの致死量も調べたのだが、残念ながら答えにたどり着くことはできなかった。
こうして調べてみると、人が口にするもので死の危険性が高いのは酒とタバコということになる。 これからのシーズン、一気飲みしてベロベロに酔い、誰かが灰皿代わりにした空き缶の中の液体を飲んで死んでしまうことがないよう、十分に気を付けていただきたいものである。
2006 / 12 / 02 (土) ¦ 固定リンク
マサルノコト scene 9 マサルノコト scene 9
scene
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以前に務めていた会社で仕事をしていると、受付の女性がとっても嫌そうな顔をして 「変なものが送られてきました」 と荷物を持ってきた。 まるで汚いものでも持つかのように、親指と人差し指でつままれた物体を受け取ると、それは血まみれのレスラーが表紙を飾るプロレス雑誌の束だった。
ページが開かないように、背表紙以外はガムテープで固定されている。 そして、その雑誌に直接送り状が貼り付けられ、宅配便によって自分のところまで運ばれてきた訳だ。 送り主を見ると、そこにはマサルの名が記されている。 奴のことだから古雑誌を処分するついでに 「嫌がらせのつもりで送ってきたのだろうか」 などと真意を測りかねながら開封すると、そこには 1本のビデオテープが入っていた。
まるでスパイ映画のように雑誌の中をビデオテープの大きさにくり抜き、ピッタリと収まるかたちでテープが入っている。 底の部分に手紙が入っており、そこには 「○月○日放送の映画を録画してくれ」 と書かれていた。 当時マサルの住んでいたアパートでは衛星放送が受信できなかったのである。 単にそれだけのことなのに、普通に荷物を送るのはつまらなかったらしく、わざわざ手の込んだやりかたで発送してきたらしい。
もちろん帰宅後すぐに電話して 「くだらないことをするなー!」 と文句を言い、女性社員がどれだけ嫌な顔をしており、それによって自分まで変な目で見られることを伝えたのだが、「会社でのお前の立場をなくしてやる」 なんてことを言う。 「それだけはやめてくれ」 とすがってみたが、「むふふふ」 という不敵な笑いを残して電話が切れた。
数週間後、受付の女性が 「また何か届きました」 と手に洗濯用の洗剤の箱を持ってやってきた。 前回の荷物の件が周りに知れ渡っていたため、今度は何事かと人がワラワラと寄ってくる。 今度は 『酵素パワーのトップ』 の箱に直接送り状が貼られており、その送り主には見るもおぞましいマサル名が記されていた。
恐る恐る開封すると、中には普通に洗剤が入っている。 何のために洗剤を送ってきたのか、またまた真意を測りかねていたのだが、その箱が妙に軽いことに気が付いた。 嫌〜な予感がして調べてみると、箱の中に仕切りをつくり、中にビデオテープが収められていた。 わざわざ工作までして箱にテープを入れ、その上に仕切りを作って上の部分にだけ洗剤を入れて送ってきたのだ。
もちろん帰宅後すぐに電話して 「二度とこんなことはしないように」 と言い渡したのだが、前回と同様に 「むふふふ」 という不敵な笑いを残して電話が切れた。 それからも手を変え品を変えて次々に変な荷物が送られてくるが、用と言えば 「○月○日放送の映画を録画してくれ」 というものばかりである。 会社でも、すっかり変な荷物が届けられることが有名になってしまい、次はどんな手口で送られてくるのか楽しみにする奴まで現れる始末だ。
そしてある日、会社に会議用の机を梱包する 180cm x 120cm ほどの巨大な段ボール箱が送られてきた。 ちょうど会議用の机を手配していたこともあり、みんなのいる前で開封しようと思って運ぼうとすると、箱のサイズに見合わず鬼のように軽い。 もの凄〜く嫌〜な予感がして送り主を確認すると、そこにはマサルの名。
なんと、巨大な箱の片隅に小さな仕切りを作ってビデオテープを収め、箱が変形しないように、所々に支柱まで作成してある手の込んだもので送ってきたのである。 周りの奴らはゲラゲラ笑うし、受付の女性からは冷たい目で見られる散々な思いをすることになってしまった。
もちろん帰宅後すぐに電話して 「いい加減にしろー!」 と怒鳴ってやると、「あほー!規格外の荷物を送るのにどれだけ送料を払ったと思ってるんだー!」 と完全に逆ギレ状態である。 それからも荷物が送られてくるたびにマサルからではないかと怯え、マサルが衛星放送を受信できるようになるまで心安らぐことがない日々が続いたのであった。
2006 / 11 / 25 (土) ¦ 固定リンク
コストパフォーマンス コストパフォーマンス
ダイエーの経営再建は遅々として進まない印象を覚えるが、「商品の値段は生産者が決めるのではなく消費者が決める」 と言い、価格破壊を進めて圧倒的な支持を受けた創業者である中内氏の功績は大きい。
事実、この十数年の間にメーカーが勝手に決める 『定価』 という概念がなくなり、オープンプライスが広まった。 残っているのは 『希望小売価格』 という、「できれば、この価格で買ってほしいな〜」 という消極的な価格表示だけだ。
我々消費者にとって嬉しい限りだが、一部の小売店からは 「一応は定価を決めてほしい」 という声が根強く残っているという。 なぜならば、定価がなければ 「2割引」 とか 「半額」 と宣伝できないからからだ。 店によっては 「通常価格から 2割引」 などとチラシに掲載して工夫しているが、その通常価格が嘘だったりして問題になる場合もある。 普段から 200円で売っているくせに、チラシには 「通常価格 250円の 2割引」 と書いて、結局 200円で売るという、低レベルの詐欺みたいな手口だ。
それはさておき、リンゴの消費量が低下の一途をたどっているらしい。 リンゴ農園の人は 「売れない」 「安くしか出荷できない」 と嘆いているが、それは消費者がリンゴに価値を見いださないからだろう。 栄養価など高いのだろうが、残念ながら魅力を感じることができないのは自分だけだろうか。
同じような形状をしたものであっても、梨であれば秋を感じることができて食べてみる気にもなるが、リンゴは年中売っているので季節感などあったものではない。 栗も秋を感じることができるし、ミカンと言えば冬にコタツでミカンである。 スイカは夏だし、イチゴは春と冬。 やっぱり季節ごとの味わいというものがある。
同じく一年を通じて売っているものにバナナがあるが、これはコストパフォーマンスに優れる。 栄養価ももちろんだが、簡単に皮がむけ、片手で持ってモグモグと食べられるし、一本が腹に入れるちょうど良い量である。 そして 200〜300円も出せば鬼のような量が買える。 それと比較してリンゴは 1個で 150円もするではないか。 生産者は 「安くしか売れない」 と言うが、グラム当たりでは高すぎるように思う。
高い果物であっても何らかの付加価値があれば良い。 たとえばメロンなどは安いものもあるが、数千円も一万円もする品種だってある。 それでも売れるのは、その価値を消費者が認めているからだろう。 葡萄 (ぶどう) だって高くたって売れるし、やはり季節になると食べておきたい果物だ。
残念ながらリンゴに対しては、そこまでの価値を見いだすことができない。 どれだけ育てるのが大変なのかという苦労も分からないではないが、やはりリンゴの価格がもっと安くならなければ消費が増えることはないように思う。
2006 / 11 / 18 (土) ¦ 固定リンク
死という概念 死という概念
イジメを苦にした自殺が続いている。 今日(11/11)付けの自殺予告もあり、関係各所は緊迫した状態が続いた。 報道番組を見ていると、いわゆる識者と呼ばれる人たちが 「死を選ぶくらいなら勇気をもって問題に立ち向かえ」 とか 「学校に行かないのも一つの選択肢」 などと言っているが、自殺の理由がイジメだけではない場合は説得力を持たない。
第一、偉そうなオッサンやオバハンが言うほど事は簡単ではないし、若い子の思考が単純でもない。 ある程度の経験を経た大人は、それが自分のことであっても問題の大きさを客観的に見つめることが可能だが、人生経験の少ない若い子にはそれができるはずがない。 たとえ恋愛のことであれ、対人関係のことであれ、彼女、彼たちの現在における心の 100%を占めてしまうことがある。
大人から見れば時が解決してくれると思われるような小さなことであっても、それが解決しない限り一歩も前に進めず、時間すら止まっている感覚に襲われるものだ。 そして、さらに悪いことに、ある一時期、死というものがとても美しく思えることがある。 普段から死にたいと思っている訳でも死に憧れている訳でもなく、とても抽象的な感覚ではあるが、それが美しく思えてしまう。
たとえば映画やテレビドラマ、漫画でも何でも主人公や、その周りにいる登場人物が死ぬような場面などを見た場合や、アーティストや芸能人が若くして亡くなってしまった場合、漠然とではあるが自分が死んだ場合のことを思い、それがドラマチックであればあるほど美しく、とても意味があることのように感じてしまう。
そこにイジメや家族の問題、恋愛問題などの要素が加われば一気に背中を押された気持になってしまうことだろう。 そして、相手に対してどれだけのダメージを与えることになるのかも十分に考慮しており、家族や友達が悲しむことも理解している。 「自殺して悲しむのは親」 とか 「周りの友達も悲しむから」 などと言って自殺を思いとどまらせようとするが、その言葉は抑止力にならない。
なぜなら死を選ぶ若い人は周りの人に悲しんでもらいたいと思っているはずだ。 自分が不幸のどん底にあるドラマの主人公であるような負の意味でのヒロイズムがあり、その死によって周りが悲しめば悲しむほど、死というものがより美しい意味をなし、最後の自己表現であると錯覚してしまう。
普段はあまり断定的な書き方をしないのだが、この件に関してはどうして知った風な書き方をするのかと言えば、中学二年くらいから高校一年くらいまでの約三年間、自分も死を美しいものと考えていたからである。 そして、周りにも少なからず同じような考えの持ち主がいた。 したがって、全員ではないにせよ相当数の若い子が、一定の期間は同じような思考を持つものと思われる。
当時の自分はイジメを受けていた訳でもないので、結局は背中を押されずに済んだが、その一時期に自分にとっての大きな問題が発生すれば、自殺を選択した危険性は十分にあったと想像できる。 不良だった当時は自分が醜い大人になる前にこの世に別れを告げたいと考えていたし、命の大切さを十分には理解していなかった。
しかし、それは一時期だけのことであり、今は健康を気遣い、適度な運動もして栄養を考えた食事も摂り、長生きを目論む立派なオッサンに ”成長” した。 当時は嫌で仕方のなかった醜い大人となった今でも、少しでも先に進もうともがき苦しんだりもしている。
若い子を自殺から救う手段は、大人目線からの助言でも励ましの言葉でもなく、逃げ場のない思考の呪縛から開放してあげることだと思う。 つまり、いち早く子供の変化をとらえてイジメなどの問題を抱えているようであれば、学校に相談するとか言葉だけで励ますなどという小手先の手段を選ばす、家族全員が生活を捨てる覚悟で遠い土地に引っ越してしまうなどの荒療治が必要だ。
そこで 「仕事があるから・・・」 などと親が躊躇しているようでは子供の救える命も救えない。
2006 / 11 / 11 (土) ¦ 固定リンク
オバチャン・パワー オバチャン・パワー
最近になって英語教育が盛んになってきたので将来的には解消されることだろうが、日本人は役に立たない英語を教えられてきたこともあり、どうしても英語圏の人とのコミュニケーションが苦手だ。 外国人に話し掛けられると極度の緊張状態に陥るし、海外旅行前など必要最低限の会話だけでも身に付けようと必死になって本などを読み漁る。
それでも、そんな努力をする日本人は偉いと思うし、可愛いものである。 よそ様の国にお邪魔するのだから、相手の国に少しでも合わせようとする奥ゆかしさが感じられるではないか。 その点、アメリカ人は日本に来ても堂々と英語で話し掛けてくる。 英語が苦手なこちらが、しどろもどろになっていると、さも英語が話せないことが信じられないという素振りである。
日本人が外国に行った場合は、客分としての立場をわきまえているというのに、他国におじゃましているという立場を理解してない。 確かにヨーロッパ圏はもちろん、同じアジアであるホンコンやシンガポールなど英会話に支障のない国はあるが、日本の場合は母国語すら満足に話せない人が多いのだから英語までペラペラと話すことはできないのである。
それでも客分という立場に関わらず、堂々と日本語で通そうとする人たちも日本人の中には存在する。 それが恐れるかな関西のオバチャンたちだ。
以前ラスベガスに行ったとき、夜のカジノで一人優雅にスロットマシーンで遊んでいると、ドヤドヤと日本人の団体が現れたと思ったら、ワーワーギャーギャー言いながらポーカーやら何やらを始めた。 大声で機関銃のように喋りまくるオバチャンたちの言語は、あきらかに関西弁だ。 不思議なもので、そんな喧騒の中に身を置くと華麗で優雅なカジノではなく、『賭博場』 という表現がピッタリに思えてくる。
周りのアメリカ人たちも何事かと少し驚いていたが、声の主がオバチャンたちだと分かると 「プッ」 と吹き出し、オバチャンたちを指差してニヤニヤしている。 何だかとっても恥ずかしくなり、「私は彼女たちと同じ民族ではありません」 という態度でスロットマシーンを回し続けていた。
すると、遠くにあるスロットマシーンから 「ギャー!」 という絶叫が場内に響き渡る。 何事かとそちらを見ると、25セント用のマシーンで ”良い目” が揃い、チャラチャラとコインが出ている程度のことだった。 周りから失笑されているとも知らず、怖いもの知らずのオバチャンたちのボルテージは高まるばかりだ。
コインがなくなったので両替に向うと、そこにはオバチャン軍団がひしめいていた。 両替をしてくれるカウンターに 「バン!」 と 100ドル札を置き、鼻息も荒く 「これ 1ドル硬貨に換えてください!」 というバリバリの日本語。 カウンターに座るお兄ちゃんが青い目を ”白黒” させながら困った顔をしている。
英語で何かを伝えていたが、オバチャンたちは聞く耳を持たず、「そこにあるやんか」 「その 1ドルに換えてくれたらいいんや!」 と攻撃の手を緩めない。 スッタモンダの挙句、1ドル硬貨を手にしたオバチャンたちは 「これから本番の大勝負や!」 と言いながらドスドスと立ち去って行ったが、残されたお兄ちゃんは疲れ果てて魂の抜け殻みたいになっていた。
そのカウンターに向うと、お兄ちゃんは 「また日本人が来た!」 と体をビクッとさせて緊張する。 気の弱い日本人である自分は、「Please exchange it for one dollar.」 と小声でお願いする。 お兄ちゃんは少しほっとした顔になり、へたくそな発音なのにも関わらず、こちらの意図を汲み取って 1ドル硬貨を渡してくれた。 そしてニッコリ笑いながら 「Good luck」 と言ってくれる。
とりあえずは 「thank you」 と言い残して ”戦場” に戻ったが、あちらこちらから聞こえるオバチャンたちの大声にパワーを吸い取られ、散々な結果だけを残してスゴスゴと部屋に退散することになってしまったラスベガスの夜なのであった。
2006 / 11 / 04 (土) ¦ 固定リンク
嫌いな理由 嫌いな理由
野球シーズンが終わってしまい、何だか力が抜けた毎日だ。 ちょっとヒマな時、テレビで見たい番組がない時、例え興味のある球団の試合じゃなくても、ぼんやりと画面を眺めていることができたが、今はテレビのスイッチを OFF にするしかない。 ケーブルテレビや CS 放送でも受信していればスポーツ専用チャンネルを楽しめるのだろうが、そこまでするほどスポーツに興味はない。
そんな訳で少し寂しい季節になってしまったが、今年の日本シリーズでは、
10/26 の独り言に書いたように、陰ながら応援している日ハムが、心底嫌いな中日を倒してくれたので実に気分が良い。 過去の独り言から何度も中日が嫌いだと書いているが、あのチームが嫌いなことに確たる理由がある訳ではなく、最初は何となく好きになれないという程度だった。
そこに現役時代から嫌いだった落合氏が監督として就任したため、嫌いな度合いが倍増し、心底いやになった訳である。 落合氏が嫌いな理由はいくつかあるが、現役時代の言動に腹が立ったり呆れたりしたのが一番の原因だ。 一流選手で、素晴らしい成績をおさめたことは知っている。 その実績は尊敬すべきものかも知れないが人間として尊敬できない。
彼がバッティング練習しているところにテレビの取材があったとき、カメラマンに向って 「そこは危ないよ」 と言っていた。 それは彼の姿を真正面というか真横というか、ピッチャーから見た角度ではなく、それとは直角の位置、つまり落合氏の体の正面で首は横を向いている状態だ。 普通に打てば球は前方に飛ぶのだから、真横のカメラが危ないはずがない。
ところが、落合氏はボールをカットして真横に飛ばし、カメラを直撃した。 そして 「だから危ないって言っただろ」 的なことを言いながらニヤニヤしている。 テレビ局の人は 「わざと狙ったに違いない。 すごい技術だ」 と誉めていたが、そんなはずはなかろう。 確かに方向的にはカメラマン側を狙ったのだろうが、カメラのレンズをピンポイントで狙えるはずがない。
そんな技術があれば三冠王や首位打者などという次元ではなく、年間打率 8割以上だって可能なはずだ。 カメラマンを驚かせてやろうと方向的には狙ったのだろうが、カメラのレンズに当たったのは偶然に過ぎないはずだ。 それなのにアホみたいに称えるレポーターに対して否定もせず、さも最初から狙ってました的な受け答えをして自慢気な顔をしている。
何年のことだったか忘れてしまったが、オールスター戦に出場した落合氏。 確かに難しい球をホームランにした。 それ自体は素晴らしいプレーだが、その後のインタビューがいけない。 レポーターが 「難しい球を素晴らしいホームランでした」 と水を向けると、彼は 「あれは俺だから打てるのであって、若い選手は真似をしてはいけない。 あの打ち方をすると体がバラバラになってしまう」 などとぬかす。
漫画 『巨人の星』 で大リーグボール 1号を打った後の花形満じゃあるまいし、どんな打ち方をすれば体がバラバラになるのか教えてもらいたいものだ。 そして、どうして彼なら体がバラバラにならないのか納得のいくように合理的な説明をしていただきたい。 そんな打法が世の中に存在するはずがなかろう。 口から出任せに適当な話を付け加えてまで自慢してほしくない。
大きくは、これらの二点で彼の言動に信憑性などなく、結果に対して適当な肉付けをしてまで自慢する嫌な性格の持ち主であると思い、大嫌いな選手となった。 そうなれば容姿から何からすべて気持悪く見えてくる。 それらに関しては 『管理人の独り言』 に書き散らかしたので割愛するが、本当に彼の姿を見るのもおぞましい。
もともと好きではなかった中日に、そんな彼が監督として就任したのが、あのチームを蛇蠍のように忌み嫌うことになった最大の理由なのである。
2006 / 10 / 28 (土) ¦ 固定リンク