真性雑感 第十七版

真性雑感 ~目次~

■ 世界大戦

中東および周辺国がきな臭い。

ロシア軍機をトルコ軍が撃ち落としたことが大きな話題になっているが、この混乱に乗じてIS(Islamic State(イスラム国))が体制を立て直し、再び行動を活発化させないかが懸念される。

そして、シリアの扱いをめぐって世界が二分し、第三次世界大戦に突入するのではないかという不安も机上の空論ではなく現実問題として囁かれ始めた。

安倍政権が進める安全保障関連法によって日本の立場はどうなるのか。

万が一、事が起これば日本は中東に自衛隊を派遣するのか。

前回の第十六版でも書いたように、イスラム国と敵対関係にある国を金で支援しただけで人質となっていた日本人が殺害されてしまったのだから、中東に自衛隊を送り込んだらどうなるか分からない。

何か行動を起こすには相当な覚悟が必要だ。

■ ユニクロ

その中東の混乱によって多くの人が難民となって周辺国に流入している。

そんな中、ユニクロが国内外の店舗で、難民約100人を雇用する方針を明らかにした。

2011年から日本で難民認定を受けた人とその家族をインターンとして受け入れ、現在国内のユニクロ店舗で計13人を雇用し、うち2人は正社員として働いているとのことだ。

「国や国連に頼って解決を待つだけでなく、民間企業と個人が(支援に)取り組むべきだ」
と偉そうに語るのは社長の柳井社長だが、その外面(そとづら)の良さには嘔吐感すら覚える。

お買い物日記』 担当者の旧友がつい最近までユニクロで働いていたのだが、その話しを聞くと今で言うところのブラック企業だとしか思えない。

3年以内の離職率が50%の上場企業など聞いたこともないし他に類を見ないだろう。

それだけ社員は疲弊し、仕事をやめざるを得ない状況に追い込まれているということだ。

難民救済も結構だが、まずは自社の仕事環境の改善に務めるのが経営者ではないだろうか。

■ エディー・ジョーンズ氏

ラグビーのワールドカップ、イングランド大会で日本代表を南アフリカ戦勝利など3勝に導いたエディー・ジョーンズ前ヘッドコーチが企業から引っ張りだこだ。

個性豊かな選手を束ね、目標をクリアしていく手腕から経営のヒントをつかもうと講演会が各所で開催されている。

彼が一貫して言うのは自主性。

自分で考え行動する力をいかに浸透させるかということである。

その考えを定着させ、選手を育てたからこそ南アフリカ戦での名場面が生まれた。

29-32の後半 40分過ぎに相手ゴール前で反則を獲得した日本。

キックで同点にするか、負け覚悟で攻めるかの判断を迫られた時、エディー・ジョーンズ氏の指示はキックだったが、選手たちは攻めて逆転勝利をおさめた。

選手たちが自分たちで考えて行動した結果だが、大前提となったのは仮にそれが失敗に終わったとしてもエディー・ジョーンズ氏は責めない、選手に責任を負わせないと分かっていたからだろう。

玉塚元一氏に社長の座を譲り、経営を任せたはずだったのに業績に陰りが見えると慌てて社長に復帰したユニクロの柳井氏とは大違いだ。

エディー・ジョーンズ氏の爪の垢でも煎じて237杯ほど飲ませてやりたい気分である。

簡略化

先月末の雑感に書いた結論を先に述べることに加え、情報の簡略化も重要だ。

先の道がAとBの二股に別れ、どちらに進むべきかを問われた場合、
「Aである」
または
「Bである」
と明確に答え、それ以上の補足を加えない方が良い。

たとえば
「正解はAである」
と答えた後で
「もしBに進んだ場合は行き止まりどころか危険な崖っぷちに立たされることになり、命さえ危ぶまれる事になりかねない」
などと言おうものなら、むしろ進路Bの方が強烈に印象付けられてしまうからだ。

いざ問題の二股で立ち止まった場合、正解はAであるにも関わらず、余計な情報をインプットしてしまい、さらに強烈な印象を与えられてしまったなら進路Bを意識から切り捨てることは難しくなってしまう。

家まで、または会社までの道順を訊かれた場合が顕著である。

「コンビニのある交差点を右に曲がって300メートルのところです」
と教えたら済むのところを
「左に曲がると神社がありますが、そちらではありません」
などと余計な情報を加えると、いざコンビニのある交差点に立った際、右に曲がるという情報しかインプットしていなければ何も迷うことなく右に進むが、
「左は神社だっけ?」
などと考えてしまい、結果的に混乱させる要因となる可能性がある。

手短に、かつ的確に情報を伝えるためには余計な部分をそぎ落として最低限の内容だけ伝えるべきだ。

今年から我が母ショウコの年賀状の宛名印刷をしてやることにした。

帰省した際、年賀状書きの季節になると憂鬱だ、曇って暗い日は書けない、最近は手が震えるようになった、年末まで1日5枚と決めて書かなくてはならないなどなどと愚痴を言いまくる母を見かね、『お買い物日記』 担当者がパソコンで印刷すると申し出たのである。

先日、去年受け取った年賀状と、宛名印刷すべき年賀ハガキが送られてきた。

その中に『引っ越しました』の挨拶状があったのだが、その人から送られたはずの年賀状は入っていない。

年賀状がないので 『お買い物日記』 担当者は不思議そうにしていたが、似たDNAを持つ自分はすぐに理解できた。

引っ越しの知らせがあったのだから住所が変わった訳であり、そうであれば旧住所が書かれている年賀状は必要ないと判断したからだろう。

必要のない情報は与えない、必要のないハガキは送るだけ無駄、無駄なことはしないという合理主義はやはり血筋なのか。

たったそれだけの出来事ではあったが、妙に面白かったのでここに記しておく。

そして、10/31の記事と同様、この雑感も文章を結ぶまで紆余曲折し、様々な無駄な情報をばら撒いているので決して偉そうに言えたことではないことも加えておくことにしようと思う。

無鉄砲

最近は何かを始める前に色々と考えたりするようにはなった。

考えるというより、準備や情報収集しておかなければ落ち着かず、何の考えもなしに行動できていた若い頃が懐かしい。

今は明日の天気、数日後の天気も気になるし、外出の際は数時間後の天気すら気になる。

しかし、若い頃は今みたいにスマホでいつでも天気の確認ができる訳でもないのに天気予報など見もせず、傘を持つべきかどうかなども考えもせず外出していた。

それでも大雨に降られて帰宅できなかったことなどなかったように思う。

それは単に運が良かったのか、忘れているだけで雨が止むのを待って帰宅していたのか。

友だちと飲みに行く約束をする際も、明日は海に行こうとか遠出してどこかに行こうと話す際も、天気のことなど一切気にしていなかったように思う。

子どもの頃も、どんなに曇り空だろうと雨が降ることなど考えもしないで遊びに行っていたし、雨に濡れるなどと思いもしないで遠くまで出かけていた。

ところが今は、朝の散歩が日課になっていることがあるにせよ、前の晩は翌日の天気が気になって仕方なく、朝になっても一日の天気が気になって仕方がない。

いつも書いているように徹底したインドア派なので外出する予定などないのだから、天気がどうであろうと関係ないというのにである。

天気に関することだけではない。

今は体力的なことを考慮して、連休であっても最後の一日くらいは家でゆっくりとするリハビリ期間を設けなければならないと意識しているが、若い頃はそんなことは一切お構いなしで、前日どころか当日の早朝に帰宅して仮眠をとって仕事に向かうというようなこともしていた。

かなり以前の雑感にも書いたような気がするが、酒を飲みに行っても次の日のことなどあまり考えずに飲みまくり、朝の 3時とか 4時に帰宅して少し眠って二日酔いどころかまだ酔ったままの状態の良い気分で職場に向かったこともある。

若いエネルギーを持て余し、目的地も決めずに車を走らせ、とにかく目に入った道路標識に書かれている街まで進み、その街に到着したらまた道路標識を探して書かれている街を目指すという目的のない旅をしたことも一度や二度ではないことも過去の雑感に書いた。

当時はレギュラーガソリンが 80円台という安値だったこともあり、とにかく進んで疲れたら車中泊、また進んで車中泊ということを繰り返し、何の目的もなく北海道内をただひたすら走り回って気づいたら明日が仕事という状況に愕然として、泣きながら何百キロも離れた場所から帰ってくるという計画性のかけらもない状態だったのである。

それは今から考えると子どもの頃から変わらぬ行動だった。

まるで神風特攻隊が片道だけの燃料で出撃するように、体力の限界、帰り道、帰宅時間など一切考慮せずに行けるところまで行ってしまう。

車がすれ違えないほどの細い道を自転車で山奥まで入っていったり、家の近くにある川はどこから流れてきているのか気になって上流へ、上流へと進んでみたり、何となく行けるような気がして何十キロも離れた街を目指したりと、計画性も何もあったものではない。

子どもの頃はそれで良くても大人になってまで似たようなことをしていたのだから、三つ子の魂百までというのが本当なのか、自分が単なるアホなのか。

それでも年齢とともに少しは先を考えられるようになるものである。

いつも独り言などに書いているように、連休の外出や帰省などでも仕事が始まる 2日前には帰宅するように心がけているし、朝の 3時 4時まで酒を飲むこともなくなった。

外出や旅行前には天気予報を確認し、出先で雨に降られそうな場合は折りたたみの傘を準備する。

翌日のことを考えて深酒をすることもなくなった。

そして、どこかに行くにしても事前に計画をたて、何を準備すべきかも考える。

昔のように家の鍵と金とタバコさえ持って出れば何とかなるなどという無謀なことはしなくなった。

しかし、色々と計画したり準備したりしていると面倒になってしまい、最終的には 「なんとかなる」 と開き直ったりしてしまうあたり、やっぱり自分は無鉄砲だったりするのかもしれない。

最近の若い者は 6

最近の若い者は ~目次~

平成生まれの社会人が現れたときにも少なからず心がざわついたが、あと4-5年もすれば 21世紀生まれの社会人が登場することになるだろうし、もうすでに芸能界で活躍するアイドルの中に少なからず 21世紀生まれがいるのであろうと想像すると、隔世の感を禁じ得なかったりしてしまう。

もちろん自分にだって若い頃はあり、当時の大人たちからは新人類とか呼ばれたりしたもので、妙に鼻っ柱が強く、先輩を先輩とも、上司を上司とも思わず、必要以上に尖っていて周りの人を傷つけたり先輩や上司に疎ましがられていたものと思われる。

決してそれが良いことだとは思わないが、それにしても最近の若い者は妙に良い子すぎて気持ち悪さを感じないでもない。

古くはゴルフでプロデビューしたてだった石川遼、最近ではフィギュア・スケートの羽生結弦などがそうだが、インタビューの答えが優等生過ぎて若さを感じないほどだ。

今年、就任一年目にして福岡ソフトバンクホークスをプロ野球日本一に導いた工藤公康監督も、新人の頃は当時の若者らしくハチャメチャな言動で諸先輩方を困らせたり呆れさせたりしていたが、最近のプロ野球の新人選手はインタビューにもそつなく答えて波風を立てることもない。

そんな若者たちを見て世のお母様がたは
「なんて良い子なんでしょ」
とか
「んまぁ~、うちの子にしたいくらいだわぁ~」
などと、うっとりした表情で見たりしているが、根ががさつで根性のひん曲がった自分などは
「なんじゃそりゃ」
とか
「判で押したような答えしかできんのか」
などと文句の一つも言ってやりたくなってしまう。

しかし、それは今の時代の子であり、昔とは何かが明らかに異なっているようだ。

高校野球でインタビューを受ける選手も実にしっかりとした受け答えをしている。

自分が同じ年の頃など大人から何を聞かれても反抗していたし、そもそもボキャブラリーが乏しくて自分の思いを正確に言葉で表現することなどできなかった。

今は中学生であっても、小学生であってもテレビでマイクを向けられると驚くほど流暢に話し、敬語を使いこなしたりしている。

自分が小学生の頃など何か聞かれたとしても
「はい」
という返事くらいしか出来なかっただろうし、どう思うか聞かれても何をどう話して良いのか分からず、ただもじもじしていたに違いない。

それほど言葉巧みに自分の意思を伝えることができたり何かを表現したりできるのに、人とのコミュニケーションを図るのが苦手な若者が多いのが不思議だ。

ただし、決して自分の殻にとじこもっている訳でも対人関係が面倒な訳でもないらしい。

昔は会社での人付き合いが面倒で、歓送迎会や忘・新年会などもお断り、上司と飲みに行くなどまっぴら、社内旅行などもってのほかという若者が多かったが、今は逆に社内旅行、社内運動会などに参加したがる子が増えており、先輩や上司とも積極的に飲みに行ったりするらしい。

自分が若いころなど人と関わるのが面倒で、近所付き合い、地域ネットワーク、コミュニティなどに一切の興味はなく、アパートやマンションの隣の部屋に誰が住んでいるのかすら知らなかった。

それは、自分だけがそうだった訳ではなく、社会全体がそういう傾向にあり、コミュニティの崩壊とか地域のつながりの希薄化などと言われていたものである。

ところが今では下宿、寮生活、シェアハウスなどといった共同生活を好む若者が増えているらしい。

初めての一人暮らしをする際、親は下宿を勧めたが、他人との共同生活など考えられず、自由気ままに暮らせるアパート暮らししか頭になかった自分とは大違いだ。

いや、自分だけではなく少なくとも20数年前、バブル期からバブル崩壊後にかけての若者は、みなが一様に他人との深い関わりを嫌う傾向にあった。

それから今までの間に何があったのだろう。

長期的な経済の低迷、デフレ期で子どもにかける費用の減少によって、以前のように車を買ったり身分不相応のファッションに身を包んだりできなくなり、低家賃の借家に住みながら学費の足しに働く学生が増え、それなりに社会との繋がりが多くなって価値観に変化をもたらしたのか。

阪神・淡路大震災、新潟県中越沖地震、そしてまだ記憶に新しい東日本大震災を経験し、家族の絆、地域コミュニティの重要性を思い知り、大切さを身をもって実感した当時の若者達が親となり、当時の子どもが大人になって風潮が大きく変化したのかもしれない。

しかし、中には常識では考えられない罪を犯す輩がいたり、人に注意されると極端に機嫌を損ねる何の価値もない極薄のプライドの持ち主がいたり、外界との交流を一切遮断して引きこもる子も確実に増えていることを考えると、二極化が進んでいるような気がする。

それがなぜなのかも含め、最近の若い者のことは良く分からなかったりするのだが・・・。