2015年の終わりに

今年も一年が終わろうとしている。

北海道への引っ越し義兄の急逝、『お買い物日記』 担当者の大病と続いた2008年以降は平穏な日々を過ごしていたが、今年はちょっと忙しかった。

母親が背骨の圧迫骨折に伴う腰痛がひどいというので、まだ真冬並みに寒い2月の帰省に始まって 4月、6月、9月と 2-3カ月おきに行くことになり、最初は気力で頑張っていた母親も次第に気弱になってしまい、とうとうこれ以上は一人暮らしを続ける自信がないとギブアップする事態に・・・。

それも仕方なかろうと、今はこの街に呼び寄せるため施設探しを始めようとしているところだ。

本心は故郷に戻って一緒に住んでほしいと思っているだろうが、迷惑をかけまいと思っているのか自分から施設を探すようにと口にするあたりが我が母の偉いところである。

そう指示されたら息子としては気が楽なもので、本人にも周りにも遠慮することなく準備を進めることができるからだ。

実は今年、9月に帰省した際に母親が、年賀状の季節が近づいて憂鬱だ、暗くなると見えないので昼間の明るい時間しか宛名を書けない、手が震えるようになったので書くのも大変だ、疲れるから 1日に 5枚くらいしか書けないなどとブツブツ言いまくるのを見かねた 『お買い物日記』 担当者が、パソコンによる宛名の印刷を申し出てくれた。

我が家は共稼ぎだったので父親も母親も人付き合いが多く、子どもころは何百枚という年賀状のやりとりがあったが、すでに父親も他界して 20年以上が過ぎ、母親も年老いたということは必然的に知り合いも高齢化しているため天寿をまっとうする人も多いらしく、住所録作成のためにあずかった年賀状の枚数は驚くほど少ない。

それをパソコンに入力して出来上がったデータベースは、そう遠くはない将来に必ずやって来るであろう、母親の訃報を知らせるべき人たちの住所録でもある。

急にその時が来ても慌てることがないであろうから、宛名印刷を申し出てくれ、住所録を作成してくれた 『お買い物日記』 担当者に感謝しなければなるまい。

例年になくバタバタしていたのは言い訳にならないが、昨年も、その前の年も、その前からも、2011年からずっと年末の雑感に書き続けているホテルでの昼食バイキングは今年も実現しなかった。

そのホテルは徒歩 10分程度のところにあるので、その気になればいつでも行ける。

いつでも行けると思うのが結果的に良くないのか、食べに行ってみようかと話題にのぼってから早くも 5年。

会員になれば割引になるというものにメンバー登録し、週替りのメニューをチェックしていた時期もあったが、今はその Webサイトをチェックすることも、話題にのぼることもなくなってしまった。

そして、週替りだったメニューはいつしか 2周間に一度になっていたことを最近になって知る程度の興味しかなくなってしまっているが、来年こそ一度くらいは行ってみようと思っている。

仕事に関しては大躍進するようなこともなく、相変わらずのペースで続けているが、少なからずスキルは向上しているはずだ。

もう歳なので物覚えは悪くなってしまったが、時代に取り残されないよう必死にもがいている。

Webページを表示するための記述も HTMLから XMLを経て、今は HTML5でスマホにも対応できているし、画面をデザインするのも CSSから CSS2、CSS3という変化に何とかついて行っており、操作性を向上させるため PHPというプログラムや jQueryというプログラムを駆使するようになった。

来年も様々な技術革新があるだろう。

その波に乗り遅れないよう、今より必死について行こうと思いつつ、今年の雑感を終わろうと思う。

想い出の居酒屋 其の拾壱

想い出の居酒屋 おしながき

北海道に帰ってきてからまた通うようになった居酒屋。

今まで一年に一度、実家への帰省の際に札幌に一泊して夜は店で過ごしていたが、今後は店に顔を出す機会が極端に少なくなってしまうものと思われる。

第一に、母親がギブアップしたので実家での一人暮らしではなくなる日も近く、そうなれば帰省することもなくなるので札幌に宿泊する必要性が失われてしまう。

第二に、宿泊する可能性があるのは 『お買い物日記』 担当者の通院に付き合って札幌に行くときくらいなものだが、札幌に限らず外国人観光客が日本に大挙して押しかけている状況下にある昨今、何カ月も前でなければ宿泊先の予約をとるのが難しいため、たまには札幌で一泊して買い物や食事など・・・と、安易にできないようになってしまった。

そんなこんなで店への足は遠のいてしまうだろうが、これからも可能であれば一年に一度くらいは行ってみたいと思っている。

昨年、居酒屋のママがくも膜下出血で倒れ、緊急入院したのは前回の雑感に書いたとおりだが、そんな生きるか死ぬかの状況だったのにも関わらず、退院した帰りの車の中でマスターに向かって
「タバコちょうだい」
と言ったというのだから大したものだ。

しかし、体力はすっかり落ちてしまい、もう店に出るのは辛いということで今は半隠居生活を送っていて、店が極端に忙しい時にのみ手伝っているという。

それでも去年も今年も店に行けば住まいである二階から降りてきて話しをしてくれる。

実はママ、昔からガリガリに痩せており、体は丈夫そうじゃないと思っていたが、『お買い物日記』 担当者が大病をする少し前には大腸がんで生死の境をさまよい、子どものころには骨髄炎で苦しんだのだそうだ。

今でこそ抗生物質が発達しているが、昔は骨髄炎を発症すると死亡リスクも高く、後遺障害が大きな問題でもあったらしいのだが、その時もママは後遺症を残すことなく完治したというのだから運は強いのだろう。

そんな訳で、たとえ店には出ていなくても年に一度くらいはママの様子も見てみたいと思っている。

かなり以前に書いたように、ママとマスターは部屋で猫を飼っていたのだが、その猫は 18年生きて、つい最近まで飼っていたというから驚きだ。

猫の死があまりにも辛かったので、もう飼うまいと思っていたらしいのだが、最近になってまた猫を飼ったという。

以前に飼っていた猫は人見知りが激しく、以前に何人かで交代しながら 3時間以上も猫じゃらしを振り続けたものの、まったく近寄って来なかったという筋金入りだったが、今度の猫は人懐っこくて警戒心も薄く、手に乗せたエサを食べる。

店の近所で建て壊しになったアパートで飼われていたらしいのだが、飼い主が猫をおいて行ってしまったらしく、野良となったその猫に何度かエサを与えていたところ、定時にやってくるようになったという。

猫も賢いもので、何時頃にあの店に行けば食べ物をくれると学習したのだろう。

そして、猫好きな夫婦にもう一押しすれば飼ってもらえると考えたのかもしれない。

とにかく夕方 5時頃、夏に開け放っていた店の入口できちんとお座りをして、食べ物が貰えるまで待つようになったのだそうだ。

前の飼い主のしつけが良かったのか、良い子にしていれば家族の一員にしてもらえると踏んだのか、猫は勝手に店に入るようなことをせず、ただじっと座って待っている。

その姿が可愛かったり健気に思えたりして、ついつい脂ののった刺し身だの季節の魚だのを焼いて食べさせているうちに毛艶が良くなり、どんどん情も移ってきてしまい、とうとう飼うことになってしまったのだそうだ。

今年の 9月に行った時には猫も店に顔をだし、カウンターのお客さんから刺し身をもらって食べていた。

やはり教育が行き届いているのか、決して小上がりの畳の上に上がったりしない。

そんな猫、病気がちのママ、いつも明るくしているマスター。

やはりたまには会って様子を見たいし話もしたい。

母親が故郷を出たあと、何の名目で札幌での夜を過ごすことができるだろうか。

記憶 Memory-17

過去の記憶

ここ数日は妙に暖かい日が続いているが、それが終われば冬本番、北海道内各所でスキー場がオープンすることだろう。

生まれ育った街は四方を山に囲まれた盆地であり、とても雪深い極寒の地だったのでウインタースポーツが盛んだった。

市営のスケートリンクもあれば、各学校では校庭に水をまいてリンクを作っていたので誰もがみなスケート靴を持っており、冬は体育の授業でもスケートの時間があったほどの土地柄だ。

周りが山ばかりなのでスキー場が 3箇所もあり、超々初心者からプロまで誰もが楽しむことができる。

リフトや売店などなく、設備は整っていなくてもスキーを楽しめる斜面は街のあちらこちらにあったので、多くの子どもがスキーやソリ遊びをしたり、ただ斜面を転がって遊んだりしていた。

おまけに豪雪地帯であるため、学校のグラウンドに除雪車が雪を積み上げて巨大なスロープを作り、体育の授業でスキーをしたり授業が終わってから遊んだりしていたものである。

子どもの頃からスキー、スケートに馴染み、体育の授業にまでなっていたのだから、余程の運動音痴でもない限りは誰もがスキーもスケートも滑ることができた。

もちろん自分もそうだったので、今でも頭の中ではスケートも滑ることができるしスキーだって見事に乗りこなせる。

ただし、もう何十年という単位でウィンタースポーツから離れているので筋力、体力がついて行かないであろうし、体型も見事に変わってしまったので頭の中にあるイメージとは大きくかけ離れ、実際には無様な姿をさらすことになってしまうことだろう。

子どもの頃は学校が終わるとそのまま校庭のスケートリンクで遊んだりしたし、家から徒歩20分くらいの山に行ってスキーをしたりして冬を過ごした。

その山は管理された場所ではないのでリフトもなく、10分も20分もかけて斜面を登らなければならないのに、滑り降りるのは一瞬で終わってしまう。

設備の整ったスキー場は車で 10-15分の場所なので一人で行くことはできないし、リフト代もばかにならないので毎日は通えない。

それでも冬になれば 1シーズンに何度もスキー場に行っていた。

親に送り迎えしてもらうこともあったが、多くの場合はバス代とリフト代をもらって一人でスキーをしに行く。

行きはバスに乗るのだが、スキー場に着くと楽しくて仕方なく、帰りのバス代まで使ってリフトに乗ってしまい、泣きながら 2時間近くかけて家に帰ってきたことが何度もある。

まだ体力が残っている時は歩いて帰るが、遊び疲れてヘトヘトになってしまい、重いスキー靴をはいたままスキーをかついで歩くのが面倒な時は、ヒッチハイクをして帰ってきたりもした。

狙い目は自家用車よりも大型トラックで、日も傾いた夕暮れ時に幼い子供がぐったりした様子で手を挙げれば心配して停車してくれる。

運転席から降りてきて
「どうした?」
と声をかけてくれたら
「家に帰りたいけどバスに乗るお金がない」
と情に訴えかける目で答えれば間違いなくトラックに乗せてもらえたものだ。

家のすぐ近くで降ろしてもらい、元気いっぱいに家のドアを開ける。

ヒッチハイクして帰ってきたなどと知らぬ親はいつもの調子で
「おかえり」
と言うだけだ。

スキーであれスケートであれ、何不自由なくできる環境にあったにも関わらず、有名なプロスキーヤーもプロスケーターも排出できず、オリンピック選手も皆無な街も珍しいのではないだろうか。

自分の場合は人より上手になりたいという向上心がなく、ただ楽しく遊んでいただけなので一定以上のレベルに達する訳などないが、同級生の中にはリフト乗り放題のシーズンパスを親に買ってもらって毎日のようにスキー場に通っていたやつも何人かいたし、鬼のように速くスケートを滑るやつも、フィギュアスケートで氷上をクルクル回る女子もいたのに誰もオリンピックを目指さなかった。

きっと人と競い合うことが苦手だったり、たゆまぬ努力をするのが苦手だったりする、ぼんやりした土地柄だったのだろう。

何も思いつかない時は

パソコンの前に座ってキーボードに手をのせるのだが、何もネタが思い浮かばない。

それどころか仕事のことで気になる点を思い出したりして技術的なことをネットで調べたりしてしまうことを繰り返している。

席についてからすでに30分以上が経過しているが、状況は好転しない。

好転しないどころか、今こうしてキーボードを打っている間も他のことが気になっている。

そして、意味もないことをツラツラと書いているうちにネタ的なことを思いついた。

そう、こうやって一つのことに集中できないのは子どもの頃からだったという事実だ。

通信簿にいつも教師が書くのは
「落ち着きがない」
の一言である。

子どもの頃から妙に落ち着き払っているやつなどいないと思うのだが、それでもなお書かざるをえないということは、他の生徒と比較して気になるほど落ち着きがなかったのだろう。

しかし、教師のそのような評価を親としては素直に受け入れられなかったらしい。

なぜなら、粘土細工をしたり、絵を書いたりすると異常なほどの集中力を発揮し、周りが見えなくなったり音すら聞こえなくなるほどだったからだ。

今から考えると、それは好きなことをやっているからであり、面白くもない学校の授業だと集中力のカケラもなかったに違いない。

今でもそれは変わらず、好きなことは時間を忘れてやるくせに気乗りしないことをしていると注意力が極端に散漫になってしまう。

仕事をしていても、デザイン系のことは異様なほど集中して時間も忘れ、いつも流れている音楽すら耳に入らない。

ところがデザインが終わり、Webサイトに表示する文字列の入力とかの作業になると途端に集中力が欠如し、誤字脱字の雨あられになることが常だ。

こんなことではいけないと気を取り直し、イスに座り直して姿勢を正し、画面に向かって集中しようとするのだが、数分もしないうちに意識は他のことに飛び、次に着手するサイトのデザインを考えてみたり、流れているラジオの話しに耳を傾けたりしてしまう。

三つ子の魂百までというが、これはもう治すことのできない習性に違いない。