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2005年 4月

ちょっと非常事態に備えて考えてみる 1日目 ちょっと非常事態に備えて考えてみる 1日目

  今回の JR の事故のように、外出時に突発的な事故に巻き込まれてしまった場合は仕方がないが、大きな地震が続けざまに起こっている昨今であるし、ここは非常事態に備えて少し冷静に我家の現状を考えてみることにしようと思う。

  大阪に引っ越してきた直後に阪神・淡路大震災が発生した。 それ以前に住んでいたところは地震が多かったので、ある程度は慣れていたつもりだったが、あの時の地震は経験したことのない縦揺れだった。まだ夢の中にいた早朝、ドッカ〜ン!という轟音と下から突き上げられるような衝撃で現実の世界に引き戻された。 しかし脳は眠っていたのか、身を起こしたものの事態が把握できない。

  あの衝撃から横揺れが始まるまで、実際に何秒ほどの時間があったのか定かではないが、短い間に半分は眠った脳でも様々なことを考えられるものである。「大型車が建物に激突したのか?」 とか 「近くに飛行機でも墜落したのか?」 などと想像しているうちに激しい横揺れが始まった。 最初は地震に慣れていたこともあり、ぼわわ〜んとあくびなどをしていたのだが揺れは激しくなるばかりだ。

  「これは尋常な揺れではない」 と思い始めたころには身動きできない状態で、ベッドから落ちないように体を硬くしているので精一杯だった。 揺れも収まり、恐る恐る居間に入ると、たまたま家具の配置が良かったのか、倒れたり落下している物もなく、地震などなかったように静まり返っていた。

  それでも辺りがどうなっているのか心配になり、外に出てみたが誰も外には出ておらず、街はいたって平穏に見えた。 もう一度布団に入って寝る気にもならなかったので、そのまま起床し、一応はテレビで地震の規模を見ようとスイッチを入れると、そこには緊張した面持ちで地震発生を伝えているアナウンサーの姿があった。 画面には震度 6だの 7だのと表示されている。

  電話回線などが寸断されていて東京のスタジオに情報が集まらないという話を聞いて、とりあえずは何ごともなく無事でいることを親兄弟や親類に電話で伝え、これから先は回線がパンクするから電話が繋がらなくなるが、心配ないということを付け加えておいた。 それから間もなくして予想通りに電話回線が込み合い、外部との連絡が途絶えることになった。

  ニュース番組を観ていると、時間の経過とともに被害の大きさが明らかになってきたが、その日は平常日だったので、とりあえずは着替えを済ませて出勤することにした。 JR 千里丘駅に着くと、駅は立ち入り禁止になっており、もちろん電車もストップしていたので自宅に引き返して会社と連絡がとれるようになるのを待つことにした。

  テレビを観ていても情報が混乱し、正確な状況が把握できない。 正午近くになって会社に電話が繋がったが、出勤の必要はないこと、とりあえずの数日間は公共の交通が回復するのを待つことだけを確認して電話を切った。 実際に何日後に出勤したのか正確な記憶はないが、翌日には JR が動いていたようにも思うので会社に行ったのかもしれない。

  会社には兵庫県から通勤している人もいたが、一週間以上も連絡がつかない人もいたし、犠牲者こそ出なかったもののライフラインが全滅で生活に支障をきたしている人もいた。 あの震災直後は非常持ち出し用の荷物をまとめたり、就寝前に水を確保したりしていたが、今は防災の意識が薄れてきてしまった。 非常事態に対する備えを何もしていないのである。

  こんなことではいけないので備えについて考えなければ・・・。という雑感にするつもりだったのだが、長文になってしまったので次週までにまとめることにしようと思う。

2005 / 04 / 30 (土) ¦ 固定リンク

豪傑列伝 その 3 豪傑列伝 その 3

  豪傑なオッサン達の話ばかり書いてきたが、同世代にも豪傑な奴はいる。 ただし、こちらの場合は 『細事にこだわらない人』 という意味より 『一風変わった人』 という意味の方が近い。

  以前の雑感にも何度か書いたが、若い頃は同じコンピュータ業界でもゲーム製作を手がける会社で働いていた。 今では待遇も改善されているのかもしれないが、当時の業界は締め切り間際になると何日も会社に泊まりこみ、24時間体制で働く割には給料が安く、家に帰らないから着替えもできずに風呂にも入れないという状況だった。

  現在と違って街の中心部にはコンビニもなく、宅配のピザ屋さんもなかったので夜食には買い置きのカップ麺を食べる。 いつ泊り込みになるか分からないので買い置きが底を突いていたりする場合もあるのだが、そんな時に便利なのが 『ナカジマ屋』 だった。 れっきとした店ではなく、社員の一人が多くの種類のカップ麺を仕入れ、机の下に在庫していたのである。

  最初は 「売ってくれ」 と言って本人に金を払っていたのだが、”店主” であるナカジマが面倒になり、ダンボールで手製の料金箱を作って設置していた。 金を入れずにカップ麺を持っていくような不届き者はおらず、逆につり銭を取らずに金を入れるものだから月に \1,000以上の利益を得ていた。 そのうちに朝はパンなどを仕入れてくるなどサービスも充実し、ナカジマ屋は繁栄を極めていた。

  ところが本人は金遣いが荒いのか、いつも金がなく昼食にも事を欠くようになり、会社に米と炊飯器を持ち込んで ”自炊” するようになった。 昼近くになると米を炊く匂いがあたりに漂い、ナカジマの席から湯気が立ち昇るという誠に不思議な光景が展開されていたのである。 さすがに見かねた上司から注意を受けたので長くは続かなかったが、今から考えても彼は変わり者だったと思う。

  24時間体制で仕事をしていると、昼間のポカポカした環境では睡魔に襲われることが多い。 締め切りの時間は容赦なく迫ってくるので、それぞれが眠くならない工夫をしていた。 ある者は眠くなるとウロウロと歩き回り、ある者はコーヒーをガブ飲みし、ある者は 『眠くならないカコナール』 を風邪薬だとも知らずに購入して大笑いされたりしていた。

  カフェイン系のドリンク剤も新製品が出るたびに試し、全員が 「効く」 と認めた ”会社公認ドリンク剤” があった。 ことごとく睡魔に負けていた先輩社員も 「これで大丈夫!」 とドリンク剤を一気飲みして高らかに宣言していたが、3分後には自席で爆睡し、声をかけようがイスを揺すろうが蹴りを入れようが目を覚まさなかった。 あれだけ深く眠れるのも一種の才能であろう。

  暖かい季節は会社に泊まりこんでも問題はないのだが、冬場の泊り込みは寒さとの戦いだった。 当時の職場は暖房をビルが集中管理しており、勝手に暖房の ON / OFF ができなかったのである。 社員が勝手に持ち込んだ仮眠用の布団が一組だけあり、それに 5-6人が足だけを突っ込んで寝るという悲惨極まりない状況だった。 それでも人数には限度があり、布団に足すらも入れられない社員もいる。

  ある朝、つかの間の惰眠を貪り、眠い目をこすりながら起きてきた我々の目に飛び込んできたのは、荷物を梱包するときに使うエアパッキン、通称プチプチに巻かれて寝ている後輩社員の姿だった。 業務用にロール単位で売られているプチプチをぐるぐると体に巻きつけ、机の横に転がっている。

  気配に目覚めてシャワシャワと音を立てながら体を起こし、「おはようございまふ」 と寝ぼけた声で挨拶する後輩に、みんなで 「ミノムシかお前は」 と呆れつつも、「布団に足だけ突っ込んで寝るよりも暖かいかもしれない」 と、そのアイデアに感心したりしていた。

  細事にこだわらない人だったり、変わり者だったりと、いろんな豪傑を見てきたが、実は自分の父親も、どんなに辛いことや嫌なことがあっても表には出さずに飄々(ひょうひょう) としている人だった。 きっと周りからは変わり者という意味で豪傑な人だと思われていたに違いないが、そんな話は家族である自分の耳には入ってこなかった。

  若い頃にはどのような生き方をし、何を考えていたのか、もう少し長生きして聞かせてもらいたかったと少しだけ残念に感じながら、亡き父親のことをたまに思い出したりしている今日この頃である。

2005 / 04 / 23 (土) ¦ 固定リンク

豪傑列伝 その 2 豪傑列伝 その 2

  若い頃に知り合ったオッサンも豪傑な人だった。 車に乗ってビュンビュン飛ばしているときにスピード違反の測定をしているのに気づき、途中で道を曲がったらパトカーが追いかけてくるのは分かっていたので車を止めて寝ていたという。 当然、警察官がやってきてスピード違反だと言われたが、知らぬ存ぜぬと言い張ったらしい。 さすがに見逃してくれはしなかったらしいが、えらい神経の持ち主である。

  そのオッサンが駐車禁止の道路に車を止めて喫茶店でコーヒーを飲んでいると外から 「車を移動しなさい」 という声が響いてきた。 普通であれば慌てて車を移動するところだが、そのオッサンは悠々とタバコを吸っている。 婦警さんが店にやってきて 「車の持ち主はいませんか?」 と聞いたところ、オッサンは素直に手を上げた。

  「駐車違反だから移動してください」 と言われたオッサンは、あろうことか 「免許証を持っていない」 と言う。 婦警さんの目が鋭く光ったのは言うまでもなく、「無免許ですか!?」 とオッサンを問い詰める。 オッサンは 「違う。無免許じゃなくて免許不携帯」 と答え、途中で気が付いたから車を止めて喫茶店に入り、家族に電話して免許を届けさせているところなのだと説明した。

  それを聞いた婦警さんは一応は納得したが、車を止めている場所は駐車禁止だから移動するようにと言う。 オッサンが 「免許不携帯で運転しても良いのか?」 と聞くと 「う〜む」 と考え込んでいる。 それならばと、オッサンから車のキーを預かり、婦警さんが運転して車を喫茶店の駐車場に入れてくれたのだが、彼女が帰った後でオッサンは舌を出しながら免許証を見せてくれた。

  忘れたというのは大嘘で、実はちゃんと持っていたのである。 周りの人たちから 「どうして嘘をつくのか」 とか 「どうして素直に車を移動しないのか」 と非難を浴びせられていたが、オッサンは一言 「面倒だから」 と言い放った。 普通であれば警察官を相手に押し問答をする方が面倒だと思うのだが、オッサンに言わせると 「若い姉ちゃんをからかうのは面白い」 のだそうだ。

  友人 C の父上も豪傑な人だった。 ある日、酒に酔って階段を踏み外し、顔面を階段の角に直撃してしまい、右目を失明してしまった。 普通であれば相当なショックを受けると思うのだが、父上はあまり気にせず、すぐに仕事に復帰して周囲を驚かせた。 片方の目しか見えないと慣れるまで距離感がつかめず、車酔いのように気分が悪くなるのだそうだが、ご本人は 「酒を飲まなくても酔える」 と言っていた。

  その父上が 「ノドに魚の骨が刺さっているようだ」 と何日もご飯を丸呑みしたりしていたのだが、いつまでたっても違和感があるので病院に行って検査したところ、なんと食道ガンと診断されてしまった。 さすがにこのときばかりは父上もショックを受けたらしいが、摘出可能と聞くと、すぐに入院して 「さっさと切ってくれ」 と言ったらしい。

  手術は無事に成功したが、食道を摘出してしまったため右目の光に続いて声も失ってしまった父上だったが、それにも動じることなく筆談で息子である友人 C に 『タバコが吸いたい』 と書いて見せた。 術後は口から栄養を摂取するのではなく、胸から出た管を通していたのでタバコなど吸えるはずもなく、ましてやノドの手術をしたのだからタバコなど許可される訳がない。

  それでも 『どうしても吸いたい』 と書いて見せるので友人は自分でタバコを吸い、胸の管に煙を入れてやった。 父上はしばらく目を閉じていたが、『美味しくない』 と書いて見せたという。 その後、退院してからも骨折したりと、怪我などが絶えなかった人だが、今もご存命で細かいことを気にせず悠々とした人生を送られている。

  たまたま知り合いに豪傑な人が多いだけなのか、類は友を呼ぶの典型であるのかは定かではないが、豪傑列伝はさらに続く。

2005 / 04 / 16 (土) ¦ 固定リンク

豪傑列伝 その 1 豪傑列伝 その 1

  男に生まれたからには豪傑 (ごうけつ) でありたいものだが、自分はと言えば細かいことを気にする性質 (たち) なので、豪傑という言葉には程遠かったりする。 寝ていても少しの物音で目が覚めたり、雷を恐がったりしているような男が豪傑である訳がない。

  友人 A の父上はなかなかの豪傑ぶりだったが、「家を引っ張って動かした」 という話を聞いたとき、にわかには信じることができなかった。 なんでも道路が拡張されることになり、建てたばかりの家が道路計画を邪魔していたのだという。 現代人であれば国や市から立退き料をせしめて今よりも立派な家を新築するところだが、A の父上は 「家を移動する費用と人の力さえあれば良い」 と言ったらしい。

  そこで派遣された人と父上の友人などが集まり、基礎部分の柱を切断して道路計画の邪魔にならない場所まで家にロープをかけて引っ張ったと言うのである。 その男気には感心したが、家を引っ張ったと言う話はどうも信じられず、その話を大笑いして聞いていたところ、友人は憮然として 「証拠の写真を持ってきてやる」 と言い放った。

  「持ってこれるものなら持ってきてみろ」 と半分は冗談で言っていたところ、数日後に写真を持って現われた。 その中に写し出されている光景は、まさしく家にロープを回し、数十人の男達が力を込めて家を引っ張っている姿だった。 少し色あせた白黒の写真ではあったが、家を予定の場所まで移動した後で満足した雰囲気でニカニカ笑っている父上の顔が印象的だった。

  友人 B の父上もなかなかの豪傑ぶりだった。 バスの運転手をされていたのだが、観光バスの運転をする際に同乗してくれるバスガイドさんが見つからないのが悩みだったようだ。 別に父上がセクハラ運転手だった訳ではなく、乗客に対する態度が悪いとか、もっと上手にガイドすべきだとか厳しく叱ってガイドさんを泣かせてしまうことが多く、誰も一緒に乗りたがらないのだそうだ。

  最近は部下に嫌われたくないからと、叱らない上司や先輩が多くなったと聞くが、やはり注意すべきところは注意しなければならないだろう。 その点、たとえ嫌われようと乗客のことを思ってガイドさんを叱る父上は立派だと思う。 そういう人なのだから人間的にも厳格で立派な人なのだろうと思っていたのだが、実際には人を叱るくせに自分はメチャメチャなこともしていたらしい。

  ある日、友人 B が車の助手席に彼女を乗せてドライブをしていて邪魔なバスを追い越したところ、その巡回バスを運転していたのは父上だった。 「あちゃ〜」 と思った友人が車のスピードを上げて逃げようとしたところ、バックミラーに映ったのは必死の形相で追いかけてくる父上の姿だった。 追いつかれてたまるかと、さらにスピードを上げても凄い勢いでバスが追いかけてくる。

  巡回バスであるから停留所で停まるはずなのに、それも無視してゴゴゴーとバスが迫ってくる。 いくつ目かの信号でやっとの思いでバスを振り切って逃げることができたらしいのだが、その後に家に帰ると父上が平然とした顔をして新聞なんぞを読まれていたらしい。 「どうして追いかけてきた!?」 と聞くと、「どんな女の子か顔を見たかっただけだ」 と言ってのけたそうだ。

  今であれば 『市バス運転手 白昼の暴走!』 などと、マスコミに取り上げられそうな話だが、昔は乗客も心が豊かだったのか、彼女の顔が見たくて停留所を無視しても笑って済ませる ”ゆとり” のようなものがあったのかもしれない。

  見習って良いものやら悪いものやら微妙なところではあるが、豪傑な人たちの話は次回に続く・・・。

2005 / 04 / 09 (土) ¦ 固定リンク

依存症 依存症

  やっと暖かくなってきたが、この冬は寒さが身にしみて辛かった。 肉類や油を摂取しない生活を続けており、体脂肪が減ったのが原因だと推測している。 別にダイエットに興味がある訳ではないのだが、医者から食事制限を言い渡されてしまったので仕方なく続けているのだが、とんだ副作用である。 どうしても寒さや手足の冷たさに耐えられないときに登場するのが ”酒” だ。

  アルコール度数の強い酒を体内に流し込んで体を温めるというロシア人のような越冬手段を採用していたが、毎日のように酒を浴びていたわけではない。 神経が高ぶって眠れない夜も酒の力を借りて眠ることはあるが、そんな日は年に何度もあるわけではない。 耐えられないほど寒い夜、眠れない夜は酒に依存することはあっても、完全なる依存症、俗に言われるアル中にはなっていない。

  若い頃は毎晩のように酒を飲んでいたが、今は原則的に金曜の夜から日曜の夜までの三日間だけにしている。 父親が酒で体を壊しているので、「ああはなりたくない」 という自主規制もあるが、毎日のように 「酒が飲みたい〜酒をくれ〜」 と言うほどは飲みたいと思わないので、基本的に 『大好き』 と言うほどは酒が好きではないのかもしれない。

  ニコチンにはかなり依存している。 以前の雑感にも書いたように、禁煙をしたいとも思わないし、むしろ 「やめてたまるか!」 とすら思っている。 健康被害の訴えが多く、禁煙が一種のブームのようになっているが、喫煙者の 100%が肺ガンになる訳でもないだろうし、自己責任で喫煙しているのだから、そうなったらそうなったときである。

  他人に迷惑をかけるのは本望ではないので、禁煙の場所で吸ったりはしないが、自宅では今でもバカスカ吸っている。 それでも明らかに本数は減ってきた。 以前は一日に 30本くらい吸っていたのだが、最近は 15本くらいと半分になっている。 体調が悪くなったので減らしたのもあるが、今はそんなに吸いたいと思わなくなったのが大きな要因だ。

  パソコンにもかなり依存している。 最近は手書きの文字を書くことはなく、どんな時もパソコンを使う。 起床から就寝まで電源を入れっ放しにしているので余計かもしれない。 文章を作成するために起動するのは面倒だが、すぐに使える状態にあると、ついつい頼ってしまう。 今となっては漢字が読めるが書けないという悲惨な状態になってしまっているが、ついつい楽な方を選択してしまう。

  ネットには 100%依存している。 ネットがなければ生きていけない状態だ。 ちょっとでも分からないことがあると、すぐにネットで検索するし、情報収集もネット頼りになっている。 何よりも昨年の 11月から在宅で仕事をしているのでネットがなければ生活すらできない。 仕事用の電話もあるが、ベルが鳴ることは滅多になく、ほとんどが E-mail でのやり取りだ。

  インターネットさえあれば仕事ができる世の中になったのも凄いことだと感心しつつも、大災害への恐怖は大きくなるばかりだ。 回線が切断され、ネットの使用が不可能になったり、電気の供給がストップして PC が使えなくなったら・・・。 (仕事ができない) = (生活ができない) ということになってしまう。

  しかし、現代では銀行のオンラインでも何でもネットに乗っているし、どんな産業にも PC は導入されている。 社会全体がネットに依存しているので、仕事ができなくなるのは自分だけではない。 したがって、この件に関してはいつもの調子で 「まぁいいか」 とお気楽に考えていても良いのかもしれない。

2005 / 04 / 02 (土) ¦ 固定リンク

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